後日 (9)
日本庭園とも少し違う。なんというジャンルになるのかわからないのに、周囲に広がる庭は心を落ち着かせてくれた。池では包丁くらいの大きさの鯉が優雅に泳いでいて、その周囲を囲む松はきっちりと切り揃えられている。ボクみたいなちっぽけな存在にはふさわしくない場所だ。
「わしのことを恨んでいるかね」
「どう―――でしょう。オモチャみたいに使われちゃいましたが、恨むっていうのとは違います」
「そうか」
麻郎の乗った台を押しながら歩く。自分で動かすこともできるのに、麻郎はボクに押すようにと指示をした。それが何を意味するのか想像がつく。でも、ボクはもう麻郎の思い通りになんてならない。この人を池に突き落とすことはしない。
「麻耶子は優しい子だった」
ポツリと漏らすように麻郎が口を開いた。
「幼い頃のあの子しか知らなかったが、素直で無邪気に走り回っていた。あの子の両親がわしの元を離れると言ったときも、麻耶子だけが嫌だと泣いてくれたのだ」
麻郎の表情は見えない。それでも、今だけは普通の老人と変わらないのではないかと思えた。
「大人になった麻耶子が現れたときも、すぐにあの子だとわかった。別人だなんて疑う余地すらなかった。あの子と過ごした二日間は、これまでの人生なんて全て投げ出してかまわないと思えるほどに幸せだった」
「麻耶子に聞かせてやりたいですね」
並木道を進む。夏の暑さも、木陰に入ればいくらか落ち着いた。
「それを壊したのはあの男だった。浅原明、エーツーと名乗る男だ」
「あの人は麻耶子に何をしたんですか?」
「わからない。何もしていないのかもしれない。だが、わからないからこそ、わしは許せなかった」
足元の枝が舞うほどの風が吹いた。思わず目を細めてしまう。麻郎の感情がこの場に影響しているようだった。
「麻耶子は両親について何か話していたかね?」
「いや、あんまり。幼い頃に亡くなったそうですし、ボクからも訊かないようにしていました」
「そうか・・。あの子が本当のことを知っていたのかどうか気になるが」
「どういうことですか?」
麻郎の返事はない。台を押しながら、彼の気持ちが落ち着くのを待った。
「浅原はどこで調べたのかわからないが、わしの居場所を突き止め、周囲を嗅ぎ回っていた。親族や極秘の関係についても調べが進んでいるようだった。もっとも、わしは人様に隠すような悪事はしていないつもりだ。別に構わないと思っていた」
ようやく覚悟が決まったのか、言葉が溢れるように話し出した。彼の中に押え込んでいた感情が爆発するかの如く。
「浅原は麻耶子にそれらを伝えたようなのだ。あの子にとっては知らない方がよいことまでな」
「麻耶子が傷つくような内容もあった、ということですか?」
「それもあっただろう。それが原因で麻耶子はわしの前から姿を消したのだ。そして――」
麻郎が言葉を飲み込んだ。怒りや悲しみといった気持ちも一緒だったと思う。
「最後に電話を寄越し、麻耶子は亡くなった。生憎、誰も出ることができなかったがな」
心が無になるというのは、こういうことか。
耳に入った言葉は理解した。その意味だってわかってしまうのに、不思議とショックは少なかった。たぶん、心が死んでしまっているからだ。
「あの子は自宅で自殺していた。松本が発見し、今では証拠も残ってはいないだろう」
知らぬ間に空を見上げていた。
悔しいくらいに晴れ渡った青空が、ボクをバカにしているように見えた。『あの部屋でお前は何をしていたんだ』そんな言葉が聞こえる。
「このことはわしと松本、金子しか知らない。浅原にだって隠していた。きみで四人目だ」
「どうして、ボクに?」
「迷子になっているからな。ここまで推理できた男をみすみすダメにするのは忍びなかった」
そんなことを言わないで欲しい。ボクは麻耶子のために何もしてやることができなかった。死を覚悟した彼女は、ボクに何も伝えてはくれなかった。その程度の信頼だったのだと思い知らされる。
「麻耶子を責めないでやってくれ。きみに言うことはできなかったのだろう。その気持ちは理解できる」
「でも・・」
大切なことは、どうしていつも間に合わないのか。目の前にあったのに、気付かないまま通り過ぎてしまう。
「―――麻耶子が自殺した原因は何ですか」
「わしにもわからない。他人の感情なんて、どれだけ考えても知れるものではないからな。だが」
もう歩くことすら厳しかった。それでも麻郎の言葉を待たなければならない。こうして現実を受け止めることだけが、ボクに架せられた使命だった。
「おそらくだが、あの子は色々と知ってしまったんだ。わしと娘の血が繋がっていないことを含めて。その話を浅原から聞かされたとき、麻耶子の様子がおかしかった」
麻郎と娘夫婦―――つまりは麻耶子の両親の血が繋がっていない。それが何を意味するのか考えるのが怖かった。無意識な意地の悪いボクは理解している。でも、その蓋を開けることは容易ではなかった。
「何があの子を動揺させたのか、今でもわからない。わしとあの子の血が繋がっていないのは事実だが、些細な問題ではないのか? あの子にとっては、血の繋がりというのがそこまで重要なことだったのか?」
何も、言えなかった。
歯を食いしばりながら、麻郎の言葉を受け止めることしかできない。
「なんにせよ、浅原が原因であることには間違いない。わしらの知らないところで、やつがあの子を物理的に傷付けた可能性だってある。だからわしらは、あの屋敷での事件を組み立てた。やつを犯人に仕立て上げ、社会から抹殺することにしたのだ」
もう、全てが繋がった。麻郎たちの想いも、事件の動機も。
精神的なのか肉体的なのかはわからないが、浅原が麻耶子を傷付けたことは間違いない。でも、彼が罪に問われることはないはずだ。麻郎の家族の秘密を明かしただけだし、被害者である麻耶子はもういない。だからこそ厄介だった。浅原に復讐したくても、社会はそれを認めない。
その結果、麻郎は彼を犯罪者に仕立て上げることにした。理の館での事件は、全てそのためのものだった。五人を殺害し、今も逃走する殺人犯。すでに死んでいる浅原に、その烙印を押すために。そしてボクは、それを世間に伝える証人として選ばれた。全ての歯車が、今ここで噛み合った。
でも―――それが何になるというのだろう。
麻耶子はもう帰ってこない。ボクの前に姿を見せてくれることもない。そして、彼女が死を選んだ原因はボクにある。
「きみはどうしたい。わしの計画を警察に言うもよし。このまま黙って浅原を犯罪者にするもよし。全て、きみの選択次第だ」
ボクは、そのどちらも望んではいない。麻耶子に会えないのなら、浅原がどうなろうと興味はなかった。どちらにしろ、浅原は既に死んでいるのだから。
「ボクは・・」
膝が崩れ、麻郎を乗せた台から手を離してしまう。熱のこもったコンクリートに両手をつきながら、溢れ出る涙をこらえることもできなかった。後悔だけがボクを包む。
「―――今でもまだ、願いを叶えてもらうことはできますか?」
「あの事件の真相を暴いたのだから、きみにはその権利がある」
「・・お願いしたいことがあります」
ほとんど声にならなかった。うずくまり、どれだけ我慢しようとしても、子供のような泣き声が溢れてくる。
許してくれなんて言えない。あんなことを言ったボクは、恨まれて当然なのだ。
「麻耶子に、会わせて下さい・・」
この想いは麻郎に届いただろうか。彼からの返事はなかった。
ボクがあんなことを言わなければ、麻耶子は死なずに済んだはずだ。浅原から、自分と麻郎の関係を伝えられても、ショックだったとしてもそれだけだったはずだ。
でも―――。
ボクの一言が、彼女の背中を押してしまった。
『親族だけでってのも無理だしね。結婚式を挙げられないのも嫌だなぁ』
麻郎と血が繋がっていない。その事実が、麻耶子にとってどれほど衝撃的なことだったのか。唯一の肉親だと思っていた麻郎が赤の他人だった。どれほど大切に想い合い、信頼していても、血縁上は無関係。他の者なら、そんなことを気にもしなかっただろう。でも、ボクにあんなことを言われた麻耶子にとっては、笑い飛ばせる事実ではなかった。そのせいで、彼女が一線を越えるきっかけとなってしまった。
そんなことで、と笑うだろうか。そんな理由で死を選んだ麻耶子のことを、世間は理解しないはずだ。浅原から何かをされたに違いない、そう考えて自分を納得させるのが正解なのか。でも、ボクには無理だった。自分の言葉が麻耶子を傷付けた。それだけは、この心が知っている。
「きみは、その言葉の意味を理解しているのか?」
返事もできない。ただただ、頷くだけだった。
肉親だとか、血の繋がりだとか。本来はそんなことどうだっていいはずだ。夫婦だって、元は赤の他人同士じゃないか。心が繋がっていればうまくいくのだ。それなのに、ボクが安易に口にした言葉が、麻耶子の人生を狂わせた。これは紛れもない事実だった。
「残念ながら、わしには引き金を引く指がない」
「それでも―――それでも、お願いします」
「どうしてきみが・・」
麻耶子に会って、自分の口で謝りたい。たとえ許されなくても、ボクにできることはそれだけだ。自分の罪を自分で償う。そんなことすら、麻耶子を失ったボクにはできない。
「どうか、麻耶子に会わせて下さい・・!」
振り絞るように叫んでみても、静かな世界にかき消されてしまう。
ボクを見下ろす麻郎は、どんな顔をしているのだろう。突然おかしなことを言い出したボクを不気味に感じているかもしれない。
麻耶子を失ったことを悲しむ男が二人いる。世界はこんなにも無関心で、穏やかなのに、ボクたちには居場所なんてなかった。心を焼き尽くすほどの熱気に包まれながら、ボクは、引き金を引いてくれる誰かを待っていた。
(終)




