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誰が為に  作者: 島山 平
36/42

後日 (3)

「智博くん、ゴールデンウィークどこか行かない?」

「いいよ、行きたいとこあるの?」

 キッチンに立つ麻耶子は手を止めない。泡立ったスポンジで食器を洗いながら、振り返ることなく言う。

「もう一回ミステリーワールド行かない? 新しいエリアができたらしいし」

 そういえば、最近ニュースで何度も取り上げられている。今朝のワイドショーでも特集が組まれていて、ミステリーワールドの入場者数がぐんぐん増加しているらしい。まぁ、そんなことはどうでもいい。

「部活とか大丈夫なのかな」

「うん。どこかで休みは必ずあるから。智博くんは何も用ないでしょ?」

「決め付けてるね」

 なにひとつ言い返せず、自分で笑ってしまった。

「オッケイ。ホテルも予約しとこうか」

「せっかくだから豪華なとこにしようよ。割引券もらえそうだから」

「そんなツテあるんだ。瀬尾?」

「まさかまさか」

 ありえないと言いたげな笑い声で、麻耶子が洗い終わった食器を上の網に並べる。確かに、あの瀬尾に限ってそれはないな。せいぜい抽選で当たったというくらいだろう。―――いや、瀬尾なら抽選会にすら参加しないか。

「教頭先生が割引券を下さるらしいの。なんか会員になっているらしくて、そういうのが送られてくるんだって」

「へぇ。使えるならありがたいね」

「じゃあほんとに頂いとくね。予約しちゃおう」

 洗い物を終えた麻耶子が上機嫌でやってきた。ロングスカートの裾を気にしながらソファーに腰掛けた。

「ねぇ、智博くんは転勤とかないんだよね?」

「なに急に。そうだけどさ」

 麻耶子の表情に緊張の色が浮かんでいる気がして、こっちまで影響されてしまう。

「わたしもたぶん大丈夫なのね、私立だし」

「知ってるよ」

 私立中学の英語教師になれたことを一緒に喜んだのだ。二人とも私立の中高一貫校を卒業しただけに、環境のよさは実感している。

「私も異動とかないし、一緒に暮らすのどうかなって。もう少し広い部屋に引越して、お互いの職場の中間くらいにさ」

「あぁ―――なるほどね」

 そういうことか、とすぐに納得できた。別に驚くような提案ではないし、これまでだって何度か話題に出た。頻繁に会うのだから、わざわざどちらかの家を訪ねるのは面倒だったというのもある。

「いいんじゃない? 駅の近くだと嬉しいかな」

「本当? 嫌じゃない?」

 喜びを抑えた様子で言われると、なんだかこちらも照れくさくなる。ごまかすために伸びをしながら二度頷いておいた。

「嫌じゃないさ。今後を考えたら一緒に住んでおいた方がいいし」

「ほーう・・」

 おかしな反応をされ、どうしたらいいのかわからなくなった。麻耶子は唇を尖らせ、何度も頷いている。彼女の頭に浮かんだであろう内容を、あまり考えないようにしていた。

「意外と考えてくれてるんですねぇ」

「ですねぇって何?」

 微妙な雰囲気に笑ってしまった。麻耶子の機嫌がよさそうだから、それだけで満足だ。

「朝子もね、今度お見合いするんだって」

「え!」

「そんなに驚く?」

 麻耶子が口元で両手を合わせて笑う。

 あの瀬尾がお見合いをするだなんて言われたら、誰だって驚くに決まっている。彼女が何を考えているのか、ボクにはさっぱりわからない。結婚が瀬尾にとって有益に働くとは思えないからだ。

「この間教えてもらったの。お医者さんらしいよ。三十二歳だって」

「いやぁ、喜んでやるべきなんだろうけれど、相手のこと考えるとお気の毒にって感じ」

「朝子に失礼だって」

 言葉とは裏腹に、麻耶子も同感しているように表情が緩んだ。

「でもさ、仕事に忙しい人の方が合ってそうじゃない? 朝子も研究やめないだろうし、お互いの仕事に口を出さないみたいな」

「わからんでもないね」

 瀬尾が男と二人でいる場面を見たことがないから、上手くいくのかそうでないのか、実際のところは想像もつかない。

「結婚式とかやらなさそう。籍だけ入れてお終いみたいな」

「やるにしても、相手と同じだけ人集めるの無理だろ。研究室の人と、俺たちくらいか」

「確かにね。朝子はそんなこと気にしないんだろうけど」

 バカにしているような言葉だ。でも、ボクも麻耶子も、瀬尾のことを尊敬している。ハッキリ言って好きにはなれないけれど、彼女の能力も生き方も羨ましいとさえ思う。あれだけ自分というものをしっかり持っていられる者は少ないだろう。

「ボクたちが式を挙げるならどうしようか。親族だけってのも無理だし、結婚式を挙げられないのも嫌だなぁ」

「あぁ―――ごめんね」

 麻耶子の悲しげな笑顔を見ていると、今の言葉は失敗だったと気付いた。何も考えなしに口にしてしまった。きっと、麻耶子にとっては相当厳しい言葉になってしまったはず。慌てて話題を変えることにした。

「まぁ、瀬尾の結婚はまだ先だし、そのときに考えればいいか」

「そうだね」

 麻耶子はテーブルのカップに手を伸ばした。中のお茶をジッと見つめたまま、それに口をつけることはなかった。麻耶子は何でもないように装ってくれているものの、この雰囲気はどうにかしたかった。

 結局、その日は麻耶子を家まで送り届け、夜は一人で眠った。ベッドの中で先程の言葉を思い返し、麻耶子を酷く傷付けてしまったのではないかと反省した。いまさら、じわじわと自分の言葉の重みを理解した。


 その一週間後の金曜日に、麻耶子から最後の連絡が届いた。『おじいさんに会いに行ってくるね』という内容で、今考えると、それは麻郎のことを指していた。あの理の館で麻郎や松本と再会し、黒田という男にも出会った。そして建物を離れ、ボクの元に帰ってくることはなかった。

 あの日、麻耶子はどうして麻郎の元を訪ねたのか。今のボクにはその理由がわかる。手に取るようにわかってしまうのだ。

 彼女はあのとき、家族を探していた。ボクが何気なく口にしてしまった、『親族だけってのも無理だし―――』という言葉を受けて。麻耶子には両親も兄弟もいない。肉親となると、幼い頃に世話になった祖父、つまりは麻郎だけだ。麻耶子は麻郎に会うことで、自らに親族がいることを確かめたかったのだろう。もしボクと結婚式を挙げることになったとき、麻郎にも出席してもらえるように。

 ボクの一言は、彼女をそれだけ追い詰めてしまっていたのだ。『結婚式を挙げられないのも嫌だなぁ』というのもよくなかったのだろう。やはり麻耶子も結婚式に憧れを持っている。自分に親族がいないことでボクとの結婚式を挙げられなくなる、それを恐れたのかもしれない。彼女の気持ちを考えると、ボクはあのときの自分を殴り飛ばしたくなる。恋人のデリケートな問題を平気な顔で踏みつけてしまったのだから。

 麻耶子は麻郎に会うことはできた。その際、あの場所を訪れた理由については、おそらく口にしていない。彼女の性格を考えればペラペラと話すとは思えない。大切な気持ちは自分の中にしまっておくタイプだからだ。そして―――あの場所で黒田という男と出会ってしまったがために、彼女は何かに傷ついた。ボクの元へと帰ってくることもなく、今でも姿を消してしまっている。

 瀬尾の言っていた言葉を思い出す。

 麻耶子が死んでしまっている可能性を考えていない、というものだった。その通りなのだ。ボクは、自分の言葉が彼女を傷付けてしまったのだと知っている。その後の麻耶子の行動も推測できるからこそ、彼女が死んでいるだなんて思えない。

 麻耶子に会うことができたら、真っ先に謝りたい。軽々しく言ってしまったボクを、遠慮することなくに怒って欲しいのだ。そのときがくるまで、ボクの罪は決して消えない。どれだけ他人が傷付こうとも、麻耶子に会うまで、ボクは血反吐を吐いてでも前に進まなければならない。


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