3日目 (11)
セバタが部屋にひきこもってから、すでに二時間が経過している。時計の針は夜の十時十二分を指している。誰かがトイレに行くことはあっても、ボクたちは全員で集まっていた。四人でセバタの部屋を監視し、一時として油断することのないよう注意していた。
ボクは昼間眠ったせいで眠気はあまりなかったし、緊張しているというのもある。シャワーを浴びたかったけれど、一人になるのは危険だとナベから忠告された。それに最も不満そうだったのは金子で、彼女の気持ちはよくわかる。とはいえ、緊急事態だからリスクを負ってまでシャワーを浴びようとする者はいなかった。麻郎がシャワーを浴びている途中で殺されてしまったというのも関係していると思う。
「このまま朝になるかもしれないし、交代で仮眠しませんか?」
「そうですね。ボクは昼間寝たんで、先に休んで下さい。お二人のどちらかも」
金子と松本に言う。できれば金子に起きていて欲しいと思いながら。
「私もまだ眠くないので、松本さんどうぞ」
「よろしいのでしょうか・・。眠っている間に何かが起きていたら」
「すぐに起こしますから安心して下さい」
松本は渋々といった様子で頷いた。金子がボクの気持ちを察してくれたことがありがたかった。
「ソファーを借りていいですかね」
ナベが椅子から立ち上がる。ボクが頷くのを見てから歩き出した。
「松本さんも」
「では」
申し訳なさそうな顔を見せられる。そんなに気を遣うことはないのに、と思う。L字のソファーに二人が腰掛け、それぞれ楽な姿勢を探していた。
「KJさん、何か飲まれますか?」
「あぁ、それじゃあコーヒーを」
「少々お待ち下さい」
「もうそんな堅苦しい喋り方しなくても」
彼女がまだ仕事モードでいることが可笑しかった。そんなことを気にする者は誰一人いないと思う。苦笑いで頷き、金子がキッチンへ向かった。ソファーの二人は目を瞑り、眠る準備を始めたようだ。
すぐに金子が戻ってきて、ボクの隣に腰掛けた。目の前には湯気のあがるコーヒーカップが置かれている。
「少し怖いので、近くにいさせて下さい」
「どうぞどうぞ」
「麻耶子様には内緒でお願いします」
耳元でそんなことを言う。どこまでが冗談なのかよくわからない。
しばらく、二人で隣り合ってセバタの部屋を眺めていた。こうして静かな空間にいると、色んなことが頭に浮かぶ。麻耶子との楽しかった思い出も、些細なことでケンカしたことも。隣にいるのは麻耶子ではないけれど、なぜだか落ち着いてしまった。きっと、心が弱っているせいだと思う。
「麻耶子様がいなかったら―――」
「え?」
「あ、いえ。麻耶子様がいなかったら、私は何をしていただろうって、ちょっと考えちゃって」
金子が小声で言う。ソファーの二人に聞こえないかどうか、少しだけ心配になった。
「今とは違う生活をしていましたか?」
「はい。たぶんですけど、麻郎様は私のことを麻耶子様の代わりに可愛がって下さっていたんだと思います。孫の麻耶子様が自分とは遠いところへ行ってしまって寂しかったんでしょう。だから、年齢の近い私を近くに置いて下さった」
「でも、こうして働いているのはあなたの意志でしょう?」
「えぇ」
金子は即答し、ジッと考え込むように一点を見つめていた。
「幼い頃、麻耶子様が私の料理を美味しいと言ってくれたんです。料理といっても、簡単なみそ汁みたいなものですよ。母から教わっていたものを、初めて自分一人で作ったんです。それを美味しいと言ってくれて」
話しながら、金子の目に涙が溜まっていくような気がした。彼女自身、それを必死に押え込むような声だった。
「あのとき、本当に嬉しかったんです。こんな自分でも、誰かを喜ばせることができるって思えて」
堪え切れなかったのか、金子の頬を涙が伝った。それを美しいと思うのは罪だろうか。優しく手を添えることはできないのに、金子のことを守りたいと思ってしまった。
「だから、私は料理人になったし、麻郎様にも喜んでもらえることが幸せでした」
彼女に掛けてやる言葉がなかった。今では麻郎が亡くなり、麻耶子も姿を消している。孤独に戦ってきた金子を支えてやれる者はこの世にいるのだろうか。
「麻郎様のためにも、必ず犯人を捕まえてみせます」
「・・そうですね。まずは無事にここを出て、エーツーに罪を償わせましょう」
金子がカップを両手で持ち、静かに口をつけた。ボクもカップに手を伸ばした―――そのときだった。
セバタの部屋の扉がゆっくりと開いた。
カップに伸ばした手を止め、全身の神経が活性化するのを感じた。
〈金子さん、見て下さい〉
「え?」
〈あそこ。気付かれないように〉
小声で言うと、金子も二階を見上げた。セバタの部屋の扉が少しずつ開いていく。まるで誰かが外の様子を伺うように、少しずつ慎重に。
(誰かいる!)
音を出さずに叫ぶ。金子もカップをそっとテーブルに置き、緊張した面持ちで扉を見つめている。
やがて扉が停止した。中から人が出てくることはない。
その直後、扉がゆっくりと閉まり始めた。
「金子さん、二人を起こして下さい。・・先に行ってます!」
金子の返事を待たずに立ち上がる。
もう音を気にする余裕もなかった。全力で駆け出し、無我夢中で階段を上がった。セバタの部屋の扉はすでに閉まっている。扉を開けたのがセバタであれば、隠れるように引っ込むはずがない。つまり、この奥にいるのは―――。
「セバタさん!」
部屋の中へ飛び込んだ。そこでエーツーが待ち受けているとか、襲われるといった心配はなかった。完全に頭から抜けていた。通路には誰もおらず、考える前に奥の部屋へ向かった。明かりが点いている。人影は見えない。
扉を開けた瞬間、動けなくなった。
部屋には誰もいなかった。生きている者は誰も。
「セバタさん・・?」
床で仰向けに倒れているセバタを見下ろし、愕然とする。胸の辺りが黒く染まり、目は見開いている。顔は左を向き、力なく停止していた。そして―――右脚が胴体から切り離されていた。
彼が亡くなっていることは一目瞭然だった。となれば、エーツーはどこにいるのか。部屋全体を見渡しても人影はない。隠れられる場所といったらクローゼットの中か、ベッドの下か。両方を確認しても、どこにもエーツーの姿はなかった。そういえば、ベッドの位置が変わっている。でも、その下に隠れている者はいなかった。
急いで部屋を出て、洗面所とトイレを覗く。そこにも誰もいない。完全に、エーツーはこの部屋から消えてしまった。
「どうかしたんですか!?」
ナベが勢いよく入ってきた。金子に起こされたばかりで、目がうまく開いていない。
「セバタさんが殺されています」
「・・・!」
息を呑む声が聞こえる。ナベはゆっくりと歩き出し、奥の部屋にいるセバタの姿に固まっていた。
「KJさん! 大丈夫ですか?」
怯えた顔で金子が姿を現した。ボクの側で立ち止まり、震える手でボクの左手を包んだ。
「セバタさんが・・」
「どうして、どうしてこんなことに?」
今にも泣き出しそうな声を漏らし、金子が項垂れた。彼女の後ろには松本が控え、中の様子を不安げに伺っている。ボクが首を振ると、彼は短く息を飲んだ。悲しげに目を伏せ、全てを理解した様子だった。
全員で見張っていたのに、セバタは殺された。エーツーはこの部屋の外から入ったわけではない。全員の目で見張っていたのだから、見落としたということはないだろう。つまり、何らかの方法でこの部屋へ侵入し、セバタを殺した。―――ご丁寧に右脚を切断して。
「何がどうなってるんだ!」
ナベの叫びは、エーツーの耳に届いているのだろうか。




