3日目 (8)
ようやく、落ち着いて休むことができそうだ。ベッドで横になり、柔らかな布団に包まれる。それがどれだけ幸せなことなのか、この数日間でよくわかった。
浴室で発見した空洞。その中に満たされていたガス。それを仕掛けたのはおそらくエーツーだ。不思議なのは、彼がなぜそれを用意していたのかということ。空気よりも比重が軽く、人体に悪影響を及ぼす気体となると、探せばいくつか用意できると思う。問題なのは、彼が最初からそれを用意していたのかどうかだ。そんなものを用意してこのイベントに参加していたとなると、最初から全てを計画していたことになる。刃物ならわかるけれど、そんな特殊な気体をわざわざ持ってくるだろうか。
「あまり考えすぎない方がいいですよ」
金子がベッドの側の椅子に腰掛けている。文庫本を持ち、顔は伏せたままで。
「・・さっきボクたちが中に入っている間、何もありませんでしたか?」
「えぇ。松本さんと二人で待っていただけです」
「エーツーさんを見てないんですよね」
返事がなかったのは、その通りだということか。先程、三人で風呂場から出てきた後、倒れかけているボクとナベを見て二人は驚いていた。すぐに介護してもらい、ボクは温かなお茶を飲んで復活できた。ナベは自分で歩くことも難しそうで、一階のソファーに寝かされた。
「でもよかった。こうして二人で話せる時間ができた。偶然ですが」
「麻耶子様が聞いたら怒りそうな言葉ですね」
金子が本を閉じ、姿勢をこちらに向けた。
倒れたナベの世話をするために、松本が一階に残った。一人だけ脱衣所で待機していたことに罪悪感を抱いたのか、セバタも一階に残ると言い出した。ソファーをナベに占領されてしまったせいでボクは自分の部屋で休まざるをえなかったわけだけれど、うまいこと金子がついてきてくれた。メンバーの割り振りとしても自然だったはずだ。幸運なことに、麻耶子に関する話を誰にも聞かれることなくできる。
「麻耶子様がここへいらしたとき、麻郎様はとても喜ばれていました」
静かな口調で金子が話し出した。子守唄をきくような気分でそれに耳を傾ける。
「麻耶子様はどこか元気がなかったのですが、久しぶりに麻郎様と会えて喜ばれていました。お二人でずっとお話をされて、端から見ていても美しい光景でした」
「麻耶子がどうしてここにきたのか、それは話さなかったんですか?」
「聞いていません。きっと何かきっかけがあるんだろうとは思いましたが、わざわざ尋ねるのも野暮ですし」
ボクが彼女の立場でも同じことをしたと思う。
「あの、麻耶子はこの屋敷から出ていったんですよね?」
「はい。二日ほどここにいらして、仕事があるからと言って帰られました」
「行き先も聞いていないんですか」
「特には・・。職場が愛知県にあるということはお聞きしましたから、てっきりそこだろうと」
でも、麻耶子は愛知県に戻ってくることはなかった。少なくとも、職場である中学校に顔は出さず、ボクの前にも姿を現していない。事故に遭ったか、一人旅に出たのか。それくらいしか思い当たらない。
「麻耶子がここにいる間、特に問題は起きていないんですか?」
「問題―――というのをどう捉えるかによりますが」
そんな前置きをしてから、金子は静かに語り始めた。
「麻耶子様がいらっしゃった直後のことでした。黒田という男がこの屋敷を訪ねてきまして。フリージャーナリストだとか言って、麻郎様について取材をしたいと申し出てきたのです」
「これまでにも関わってきた人なんですか?」
「いえ、初対面でした。たぶん、松本さんも麻耶子様も。麻郎様は人前に出るようなことは少ないので、黒田と顔を合わせることはありませんでしたが、代わりに麻耶子様の周囲を嗅ぎ回り始めたのです」
「追い返さなかったんですか?」
麻郎の力を持ってすれば、それくらい簡単なはずだ。
「あいにく天気が酷く荒れていたのと、この屋敷にいたのが私と松本さん、麻郎様と麻耶子様だけでした。麻耶子様が相手をしてしまったので、邪険に扱うこともできず。―――ですが、それが失敗でした」
「麻耶子が何かされたんですか?」
会ったこともない黒田という男に対し、勝手に殺意すら覚えた。
「わかりません。ただ、翌日黒田が帰った直後に麻耶子様も帰られました。その様子がいらしたときとかなり違っていたので、何か被害を受けた可能性はあります・・」
自分の責任だといわんばかりに金子が顔を伏せる。どうしようもなかったとはいえ、麻耶子の身に何があったのか知る必要がある。
「今、その黒田って人がどこにいるかわかりますか?」
「いえ、麻郎様に会うこともできず、どこかに記事が載ったという話も聞いていません」
とりあえずは安心できた。ただ、麻耶子が失踪しているのはその男が関係しているようだ。となれば、一刻も早くここから脱出し、黒田という男を見つけ出すことが最優先すべきことだ。
「あの、私からも質問していいですか?」
「どうぞ」
椅子に腰掛けたまま、金子がボクに顔を向けた。何を質問されるのか、少しだけ怖くなった。
「KJ様の叶えたい願いというのは、何ですか?」
「―――話してはいけないと言われているので」
「麻耶子様に関係することですよね?」
自分の素直さが顔に出ていないことを願う。金子の核心を突いた質問には、必死の笑顔で返事をしておいた。
「だとしても、やっぱり言えませんよ」
「そうですか」
金子が残念そうに笑い、その儚さにグッとくるものがあった。
「もし麻耶子様のためだったら、何でもできますか?」
「何でも―――となると安易に答えられないですが、大抵のことはできますよ」
「例えば犯罪でも?」
金子の質問の意味を考えるのが怖くなった。彼女が冗談で言っているわけではないことはわかる。それにしても、雰囲気がただ事ではない。
「麻耶子のためになるなら、法を犯せると思います」
「人を殺すことも?」
「できる―――と思います」
金子と目が合う。無表情でジッと見つめられ、試されているようにも感じた。
「安心しました。麻耶子様がどんな人を選んだのか、正直不安でした」
「ここにきてから、そんなに怪しいことはしなかったはずですよ」
吐いたり倒れたりしたけれど。
「麻耶子様を信じてよかった・・。私も麻耶子様のためなら何でもしますから、協力できることがあったら言ってください」
「ここから出られたら、お世話になると思います」
「そうですね。まずは無事に出なくては」
初めてとも思えるくらいの、金子の柔らかな表情を見た。一瞬だけ麻耶子と影が重なり、鼻の奥がツンとした。必死に感情を押し殺し、どうにか涙は流さずに済んだ。
「もうしばらく休んでいて下さい。一度、下の様子を見てきます」
金子が立ち上がり、文庫本をベッドの枕元に置いた。それが何を意味するのかわかり、一人きりにならずに済むことにホッとした。
「金子さん」
「はい」
歩きかけた金子が振り返る。
「あなただったら、どんな願いを叶えてもらいたいですか?」
「イベントには参加しないので、考えたこともありませんよ」
「もし叶うならどうしますか?」
ボクの質問の意味を考えているのかもしれない。別に深い意味はないものの、彼女の人となりを知りたくなった。
「もし、の話ですか。・・もう一度、麻郎様と一緒にお食事をしたいです。私の作った料理を食べて、麻郎様に美味しいとおっしゃって頂きたい。それくらいです」
金子は小さく微笑み、すぐに背を向けた。
扉に近付いていく金子の背中を見ながら、彼女がこれまでに背負ってきたものの重みがどれほどなのか、とても計り知れないことを実感した。




