3日目 (1)
夢を見ていた。大学の構内を麻耶子と二人で歩いていた。見覚えのある建物と、黄色が鮮やかなイチョウ並木の間。麻耶子は寒そうに上着を羽織り、ボクは彼女に何かを話し掛けていた。
数年前には当たり前のように過ごしていた状況だ。麻耶子と付き合い始め、互いの就職先が決まってからも関係は順調に続いていた。言葉にはせずとも、互いに結婚を意識していたはずだ。少なくとも、ボクはそれを望んでいた。
あの日々が終わりを迎えたのは三ヶ月前のことだ。その原因は漠然とわかっているし、彼女が祖父に会いに行くのも理解できる。だからといって、こんなにも長い間麻耶子に会えなくなるとは思わなかった。
ベッドから起き上がり、時間を確認する。午前八時過ぎ。こんな非日常の生活でも、普段に近い時間に目が覚めるから不思議だ。これまでだったら、毎朝携帯電話を確認していた。麻耶子から連絡が入っていることがあったし、そうでない日もある。でも、それも三ヶ月前までのこと。最近では、麻耶子からの連絡はパッタリと途絶えていた。
彼女の居場所を突き止めるためにも、今日という日を足掻いてやろう。
一階にナベの姿があった。挨拶しながら階段を下り、中央テーブルの席に着く。ナベの前にはコーヒーカップが置かれていた。金子も起床しているということか。
「ナベさんだけですか?」
「えぇ。金子さんはキッチンにいますけどね」
キッチンへと続く扉を指差し、ナベが僅かに微笑んだ。目の下にクマができているような気がしたけれど、彼は元々顔色が悪い。眠れなかったと決め付けるのは早いかもしれない。
「KJさんと無事に会えてよかったです。昨日はあんなことになったから、全員の顔を早く確認したくて」
「あぁ・・」
彼の気持ちはわからなくもない。椅子に背中を預けながら、二階の部屋を見上げた。
「松本さんは見てませんか?」
「ですね。さすがに起きているとは思いますが。麻郎さんの部屋で世話をしているのかも。―――金子さん、呼んできましょうか?」
「コーヒーなら自分で取りにいきます」
右手で制し、ナベの優しさを断った。
「もし誰も出てこなかったら、こちらから起こしに行った方がいいかもしれませんね」
「先手必勝ですか」
ボクの言葉にナベが満足げに微笑む。遺体の発見を含め、後手に回らないようにということだ。
「あとは、麻郎氏の姿をこの目で見ないと」
「麻郎さんが姿を消しているってセンを推すんですね」
昨日、セバタがそんなことを言っていた。ナベもその考えに同感らしい。自信満々な表情の彼を見ていると、どうせなら本当にいなくなっていて欲しいとさえ思う。
「麻郎氏ならこの館からの脱出方法は知っているし、私たちを罠に嵌めることだって簡単です。彼自身には人殺しができなくても、それは何とでもなりますからね」
ナベがカップのコーヒーを飲み干すのを見て、キッチンへ向かうことにした。寝起きで頭が働いていない。まともな会話すらできない状況に嫌気がさしてきた。
キッチンで金子にコーヒーを淹れてもらい、カップを持ちながらフロアへ戻ると、ナベがソファーに寝転んでいた。
「KJさん、それ飲み終わったらみんなを起こしに行きませんか?」
「怒られるかもしれませんよ」
「下手したら誰かが殺されているし、多少の不満は覚悟しましょう」
ナベが本気で行動するつもりなのだと伝わってくる。あまり気は乗らないけれど、彼に付き合ってやることにしよう。ナベがテレビを見ている間、一人でブラックコーヒーと格闘していた。猫舌のせいで、熱い飲み物を飲むのに時間が掛かってしまう。湯気に顔を近付け、「起きろ起きろ」と祈りを込める。
テレビでは報道番組が流れ、芸能ニュースが連続している。大物芸能人の不倫だとか、政治家のガンの状況が深刻だとか。遠い世界の人がどうなろうとボクには関係ないけれど、この建物の中で殺人事件が起きているとなると別だ。現実味がなくても、自分の身が危険に晒されているのは事実なのだ。すぐにでも、ここへ取材が来たっておかしくないくらいに。
「日本は不思議ですね。戦争もないし、テロも起きていない。それなのに誰も知らないところでは殺人事件が起きている」
「日本中で起きているんですよね、きっと。みんな考えないようにして目を背けているだけで」
「ヤマケン氏の事件も、世間からしたらちっぽけなのか」
呟くようなナベを横目に、残っているコーヒーを一気に飲み込む。喉の奥が少しだけ焼けるように熱かったものの、我慢できないほどではなかった。
「お待たせしました。起こしに行きましょうか」
「よしっ」
勢いよくソファーから起き上がり、ナベが右腕をグルグルと回す。まるでこれからケンカをするみたいに見えた。
二人で階段を上がり、相談の結果、まずはセバタの部屋へ向かうことにした。テルテルは起きているような気がしたからだ。階段を上がりきった正面が金子の部屋。その右隣がセバタの部屋である八号室だ。ナベが扉をノックし、中の様子を伺っている。
「寝てますかね」
「セバタさーん! 起きてますか?」
ナベがドアを軽く叩き続ける。
「セバタさん! ナベです! 大丈夫ですかー?」
ナベがドアノブを掴もうとした瞬間、扉に動きがあった。
「・・なんだよ、うるせえなぁ」
隙間からセバタが顔を出し、眩しそうにこちらを睨んだ。
「おはようございます。無事でなにより」
「・・そりゃ無事だっつーの。ぐっすり寝てたくらいだしな。誰かさんに起こされなきゃね」
あからさまに不満げな表情を見せ、セバタは大きくあくびをした。
「全員の無事を確認する必要があるかと思いまして。申し訳ないですが、準備ができたら下りてきて下さい」
「わかったよ。ちょっと待ってな」
セバタの顔が引っ込み、ゆっくりと扉が閉まった。起こされたことに怒りながらも、セバタはこちらの言うことをきいてくれるらしい。
「次はテルテルさんですかね」
「行きましょうか」
ナベが気合いのこもった表情で言う。再び金子の部屋の前を通り、その左隣の部屋へ向かう。
「テルテルさーん!」
先程と同じやり取りが始まった。ナベの後ろで扉が開くのを待つ。でも、しばらく待っても何も反応はなかった。一分ほどが経過したとき、さすがにナベの動きが止まった。
「なんか、嫌な感じですね」
「爆睡しているだけならいいんですが・・」
ボクまで不安になってきた。ナベがドアノブをガチャガチャ押しても扉は開かない。カギが掛かっている状態だった。
「ボク、松本さん呼んできます」
「お願いします」
ナベの真剣な表情に頷き、半時計回りに廊下を進む。二部屋を越えたところに松本の部屋はあった。
「おはようございます。KJです」
扉をノックしてみる。ナベのように思い切り叩くことはできず、遠慮がちに三回だけ。
「松本さーん」
「―――はい。お待ち下さいませ」
扉の向こうから返事が聞こえ、正直かなりほっとした。これで松本まで反応がなかったら、いよいよ焦り出していたと思う。
「どうされましたか?」
きちんとした正装を身に纏った松本が現れた。落ち着いた様子で、身支度は完璧に終えていた。
「テルテルさんを起こそうとしているんですが、反応がなくて」
「眠っているのでは?」
「ナベさんがかなりでっかい声で呼んでるんですが・・」
松本と話している間にも、ナベの声は響いていた。二人でナベの様子を眺め、松本も小さく頷いた。
「あれで起きてこないのは不思議ですね。行きましょうか」
扉を閉め、松本が廊下を歩き出す。彼の後ろを続きながら、一階の様子を見下ろした。そこに金子の姿はなく、飲み終わったコーヒーカップだけが残されていた。
「おはようございます」
「テルテル氏が出てこなくて」
「もしかすると、出てきたくないのかもしれませんね」
松本の言葉に、ボクとナベは手を止めた。
「居留守というか、ナベ様のことを疑って無視をしているとか」
「ああ、部屋へ入られることを恐れて、ってことですね」
それはあり得るかもしれない。ヤマケンが部屋で殺害された以上、訪問者を疑う気持ちは至極当然だ。
「テルテル様、松本でございます。問題がなければ、扉を開けて下さいませんか」
松本の言葉にも反応はない。ナベの表情が陰り、どこか焦っているようにも見えた。
「―――どうしたんだよ、三人も集まって」
部屋から出てきたセバタがこちらを怪しむような視線を向けてくる。顔を洗ったのか、前髪が少し濡れていた。
「テルテルさんが出てこないんです」
「寝てるんじゃない?」
「なんていうか・・」
うまく言葉にできないものの、これはマズい気がする。昨日のヤマケンのこともあったし、熟睡しているだなんて簡単に信じられなかった。
「―――突き破りますか」
ナベがあっさりと口にする。声音から、決してヤケになっているわけではないことは伝わってきた。
「いいんですかね」
「松本さん、この部屋のカギは本当にないんですよね?」
「はい。全てのカギは箱に仕舞ってしまいましたから」
「じゃあ、諦めるしかないか」
ナベが扉から距離をとり、いまにもぶつかろうとしている。
「ナベ様、少々お待ち下さい。本当に・・やるおつもりですか?」
「仕方ないでしょう。中でテルテルさんが倒れていたらどうするんですか」
「ですが・・」
「ナベさん、いけそう?」
セバタが扉の厚みを確かめるように叩く。部屋の扉を思い出してみると、いくら体格がいいとはいえ、人間がぶつかっただけで壊せるとは思えなくなってきた。
「厳しいかな。何か道具があればいいんですが」
「一階の倉庫に工具があった気がする。KJさん、持ってきてくれない?」
セバタがボクを見て言う。自分で取ってこればいいのにと思いつつ、逆らわずにいた。ボクたちの間で争っていても仕方がない。
「皆様、あまりはやらずに・・」
「カギは本当にないんですもんね?」
念を押すようにナベが訊く。松本は混乱した表情のまま、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、すぐに取ってきます!」
急いで駆け出し、飛び跳ねるように階段を駆け下りる。自分の体が軽快に動くことが嬉しかった。犯人と対面したとき、いざとなったら頼れるのは自分だけだ。
そういえば、松本は判断に迷っているのか、麻郎の部屋へ何度も視線を送っていた。その様子を踏まえると、麻郎は本当に部屋にいるのだと思えた。動揺したときこそ、人間の本心が出てしまうものだな。
テルテルの無事を確認したら、さすがにもう麻郎にも出てきてもらおう。ナベと協力して、こちらから攻めることも大切に思えた。