2日目(7)
夕方になっても、それを知らせてくれるのは壁の時計だけ。一人きりの部屋で、自分の存在すらあやふやになっていた。
ヤマケンが殺され、腕を切断された。それでも麻郎は姿を見せないし、このイベントの目的も伏せられたままだ。セバタがキレてしまうのは当然で、ナベのように脱出しようと意地になる気持ちもわかる。でも、ボクはそのどちらでもない。彼らのようになってはいけない。ようやく麻耶子に近付いている。ここにしかチャンスがないこともわかっている。彼女に謝るために、全てを投げうる覚悟でここへ来たんだ。
部屋を出て、誰もいない廊下を歩く。本来であればそろそろ夕食の時間なのに、下のフロアには誰もいなかった。昼食のときにあんな雰囲気になってしまい、今更平和に食事をしている場合ではないというのもわかる。階段を下り、特に目的もなく歩いてみる。一階の風呂場やトイレは利用したことがない。なんとなく、中を覗いてみることにした。
建物の入り口からこのホールへ入り、すぐ右手の位置にトイレがある。広めの洗面所と個室がひとつだけ。大きな駅のトイレのような広さがあった。一度外に出て、トイレの隣の扉を開ける。隣とはいえ、距離は五メートルほど離れていた。そこが風呂場へと続いている。
扉を開けるとまず脱衣所があり、ロッカーが十二個設置されていた。そんなに利用する者はいないだろうと思いながら、ガラス扉を開ける。中にはシャワースペースが五つ、左手の壁に並んでいた。浴槽は右手にあり、ライオンの顔をした蛇口が見える。ホテルの天然温泉だったらこんなものかなと思う。別段、おかしなところもなかった。
再びフロアに戻る。やはり誰もいないままだ。一階には倉庫があり、その中は見たことがある。家具や備品が置かれているだけだった。人が隠れるには十分な広さがあるものの、誰かが入ってきたらすぐに見つかるだろう。
腹が減っているわけではなかったのに、自然と足がキッチンへ向かっていた。シェフの金子が切り盛りしてくれているはずだ。これまで直接中へ入ったことはなかった。松本いわく、キッチンを散らかすと金子が怒るらしい。自分の管理している職場に入られたくないという気持ちは理解できる。
スライド式の扉を開け、中の様子を伺う。扉を開けた瞬間にいいニオイがして、柔らかな空気が全身を包んだ。電気が点いていて、奥で金子がオーブンを覗き込んでいるのが見えた。
「・・うわ! びっくりした」
振り向いた金子がボクに気付き、酷く慌てた様子で後ずさる。敵意があったわけでもないのにそんな態度をされると、さすがにちょっとショックだった。
「勝手に入ってすみません。フロアに誰もいなくて」
「あぁ、やっぱりそうですか。一応夕食の準備はしているのですが」
「全員分作ってるんですね」
「仕事ですから」
話しながらも金子は手を止めない。見ているだけで質の高さがわかるような手つきに、しばらく見とれていた。
「KJ様は食べられますか?」
「そう・・ですね。せっかく美味しそうだし」
空腹だったわけでもないのに、キッチンへ入った瞬間に食欲が復活した。できたての豪華な食事を目の当たりにすれば、殺人事件のことなんて頭から吹き飛ぶみたいだ。
「テーブルまで運びますから、お待ち下さい」
「そこで食べたらマズいですか?」
部屋の隅にも小さなテーブルがある。ちょっとした物置のためのものだろうけれど、二人で食事するにも十分な広さだった。
「構いませんけど・・」
「じゃあ、そっちでいただきます」
金子が頷くのを見て、邪魔をしないように座っていることにした。
それから十分もしないうちにテーブルに食器が並び、金子渾身の夕食が用意された。
「よかったら、金子さんも一緒にいかがですか?」
別の作業に取りかかるつもりだったのか、金子は一瞬立ち止まった。
「たぶん、他の人きませんよ。くるとしても後だと思うし」
「・・そうですね。今のうちに食べておいた方がいいかも」
小さく二度頷き、金子が自分の分を用意し始める。冷えた水を飲みながらそれを待つことにした。
手際のよい金子は、すぐに自分の分をテーブルに並べ終えた。
「いただきます」
ボクたちの間にはスペースがあり、それがちょうどいい距離だった。この建物へくるまで会ったこともなかったのだ。しかも相手は殺人犯かもしれない。こんなときに仲良く並んでいるのはリスクが高い。
「美味しいです。いつもですが」
「どうも」
そっけない返事が返ってくる。怒っているわけではなく、これが彼女の基本なのだと思う。もう少しにこやかにしていれば人気が出そうなのに。
「いつから料理の勉強しているんですか?」
「・・ちゃんと始めたのは高校を卒業してからです。それまでも、見よう見まねでやってましたけど」
プロの料理人になるというのは、ボクの想像以上に厳しい道なのだと思う。しかも麻郎の専属になるくらいだから、コンクールなんかで賞をとっているのかもしれない。
「麻郎氏の元で働いているのはいつからですか?」
確かプラーベートな質問には答えられないと言っていたけれど、尋ねずにはいられなかった。
「プロになってからずっとですよ。それに、小さい頃から麻郎様にはお世話になっていましたし」
「あ、そんな昔からのお知り合いですか」
「知り合いというか、私の母が麻郎様のお世話になっていて、流れで私も」
食事の手を休めず、金子がぶっきらぼうに言う。その口調から、これ以上追求して欲しくないという気持ちが伝わってきた。
「麻郎さんにご家族はいらっしゃるんですか?」
「えぇ。奥様とお嬢様が。奥様は亡くなられて、お嬢様とはずいぶん前に離れて暮らすことになったそうですが」
「お孫さんも?」
「いらっしゃいますよ。女性です」
金子は決してこちらを見ない。業務で会話をしている、という意地が見えた。でも、ボクにとっては重要な話が聞けた。麻郎には娘も孫もいる。格内麻郎には孫がいる。
「麻耶子に会ったことはありますか?」
それを口にした途端、初めて金子が手を止めた。必死に平静を装っているのか、どこか目が泳いでいるように感じた。
「・・麻耶子お嬢様をご存知なのですか?」
ごまかすことを諦めたように金子が口を開いた。彼女には申し訳ないと思いつつ、こちらの作戦が上手くいったことに胸を撫で下ろす。
「麻耶子とは学生時代から知り合いで、最近もよく会っていました」
「麻耶子様はお元気ですか?」
「いえ、ちょっと前から会えてなくて」
金子の視線を感じ、彼女の方に顔を向ける。感情の読み取れない顔で、金子が真直ぐこっちを見ていた。
「麻耶子様に何かあったんですか?」
「どうなんでしょうね」
適当にごまかすことしかできなかった。三ヶ月前から失踪しているなどと言えば、彼女が何をしでかすかわからない。それくらいの雰囲気だった。
それでもわかったことがある。金子は麻耶子を知っているものの、最近は彼女と会っていない。少なくとも、金子は知らないという態度を取っている。一方で、麻耶子は『おじいさんに会いに行ってくるね』と言っていた。それが正しければ、麻耶子は麻郎に会いに行っているはずで、そのときに金子と出くわしていても不思議ではない。
「KJ様は、どうしてここへきたのですか?」
「招待状が届いて、願いが叶うって書いてあったので」
急に話が変わり、慌てて頭を現実へと戻す。
「ミステリーが好きになったのも麻耶子の影響なんですけれど、楽しそうだし、解決すれば願いが叶うなんて一石二鳥だなって」
「麻耶子様も一緒にこられたらよかったですね」
「一緒でもよかったのかな。たしか、一人でくるようにって書いてありました」
金子の反応はなく、元通り食事を再開している。どうも、金子という女性はつかみ所がない。というより、理解できずに苦戦している。
「金子さんも、今の状況がわからないんですか?」
「えぇ。私は食事を用意することしか指示されておりませんから」
「小さい頃、麻耶子とも会っていたんですよね。一緒に料理したりとか?」
金子はゆっくりと頷き、一瞬だけ油断した表情を見せた。
「麻耶子様はとてもお元気で素直な方でした。年齢は私の方がひとつ上なのですが、まるで姉のように慕って下さって」
「いつ頃会っていたんですか?」
「麻耶子様が五歳になるまでのことです。それからはお会いしておりません」
つまり、その頃まで麻耶子は麻郎とも顔を合わせていたのか。全く何も教えてくれなかった。もしかすると、彼女も自分の祖父がこれだけ巨大な力を持っている人物だとは知らないのかもしれない。―――いや、あの出来事の後で祖父に会いに行くのだから、そうとも言い切れないか。
「KJ様は、麻耶子様と交際されているのですか?」
突然の問いに、完全に虚を突かれた。咳払いをしながら、ごまかすことを諦めた。
「そうです。他の人には言わないで下さい」
「何か影響ありますか?」
金子が不思議そうな目を向ける。
「いや、個人的な話はできるだけ知られたくないので。どこで不利になるかわからないし」
「―――そうかもしれませんね。失礼致しました」
「いえいえ」
それから、二人で黙って食事を続けた。金子の作ってくれた料理は確かに美味しい。美味しいけれど、心の動揺のせいで、素直に味わうことはできなかった。麻耶子は幼い頃に金子や麻郎と関わっていた。そして、この建物には彼らがいて、麻耶子は失踪している。麻郎と接触したことが原因なのか、それすらもわからない。
金子と二人きりの食事をしながら、いなくなった麻耶子を思い出そうと必死だった。