第02話「悪魔に見送られる朝」
トイレに行き、歯を磨いて、どうでもいいワイドショーを見ながらパンをはみ、そのあと、まだ起きてこない妹を起こそうとする母のやかましい声をBGMに、いつもの制服へ着替えた。
鍵、スマホ、財布、全部持った。
あとは空っぽの通学鞄を持って家を出るだけ。
玄関で靴を履いている最中に、
「いや。学校に行ってる場合じゃねえだろ」
と独り言を言い、もう一度二階へ上がった。
落ち着け。クールになれ浅倉純一。
俺は冷静沈着な男。もう一度現実へ向き合ってみようじゃあないか。
朝起きたら、俺の部屋がダンジョンになっていた。
何を言ってるか分からないと思うが自分でもよく分からなかった。
あれは夢や催眠術なんかでは断じてねぇ。もっと恐ろしいものだ。
世界各地に無数に存在する悪魔のダンジョン。
その中には人知を超えたお宝がたくさん眠っているという。
人は日夜お宝をゲットする為、悪魔のダンジョンへ挑んでいる。
そのダンジョンが、何故俺の部屋に?
扉を開ける。
その扉の開く音が広い空間に吸い込まれた。
やっぱり俺の部屋じゃない。
タッタッタ、と軽快な足音が聞こえてきた。
そちらを見ると、セーラー服を着た女の子がこちらにやってきたのが見えた。
少女は俺の前に立つと、丸い瞳をこちらに向けた。グリーンの瞳だ。
中学生くらいの女の子だ。この子もまた幼さの残る端整な顔だちをしていた。
「姉がご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」
ペコっと頭を下げる。
茶色い髪の隙間からヤギの角のようなものが飛び出ていた。
「姉?」
少女は頭を上げた。
うるうるとした瞳で見つめられる。
「許してくれますか」
「……う、うん」
と思わず答えた時、少女は口元をにいっと歪め
「許してくれましたよ、お姉ちゃん」と言った。
「ほんと? よかったー」
次に本棚の影から露出女が顔を出した。
それからこちらにやってきて、俺の正面に立った。
呆気に取られていると
「わたしがダンジョンマスターのマモンだ。以後よろしく」
と凛々しい顔で言った。
「ダンジョンマスター?」
「うん。すごいでしょ」
いや、よく分からんけど。
「じゃあお前は悪魔?」
「うん」
「君も?」
「はい。わたしはアヴィといいます。よろしくお願いします」
マモンとアヴィ。悪魔か。
不思議と怖いという気持ちはない。
二人ともコスプレをしている可愛い女の子にしか見えないからだ。
「で、なんで俺の部屋がダンジョンになっちゃったわけ?」
「せっかくなので紅茶でも飲みながらお話しましょう」
アヴィと名乗った少女がくるっと向こうを見た。
俺の部屋展示ブースの近くに、よく見ると生活空間的なものができていた。
彼女たちについていきそっちへ行くと、ベッドやテーブル、ソファ、棚やタンスが並んでいるのが分かった。それからテレビ、電子レンジ、炊飯器、電気ポット、空気清浄機、ドライヤーなどやたら生活臭のする家電がいくつか置いてある。
朝起きた時は、こんなのなかったから、俺が下に行っている間に現れたことになる。
さすが悪魔だ。
「なにこれ」
「わたしたちの部屋だけど?」
「いや、俺の部屋だし」
いや違うか。と内なる自分が突っ込んだ。
「あ、名前まだ聞いてなかった。君の名前は?」
「浅倉純一」
そう答えるとニコニコした顔で
「そうかそうか。ジュンイチ、座りなさい」
と続けた。
まあいいか、と心の中でため息をつきつつ、俺は椅子へ座る。
マモンは俺の正面に座った。
アヴィは食器棚からティーカップを取り出しているところだった。
「んで、これってどういうこと?」
「だから、ダンジョン作ってたらジュンイチの部屋に繋がっちゃったの。何度も言ってるでしょうが」
「元に戻せよ」
「無理だってば。そんなの」
「なんでだよ」
「欲望ポイントがないもん」
欲望ポイント?
「なにそれ」
「悪魔が人間の欲望を食べて生きているって、知ってるでしょ?」
「うん」
「そのパワーがないのっ」
アヴィがこちらにやってきた。
お盆の上にティーカップが三つ載っている。
静かにテーブルへ置いたあと、マモンの隣に座った。
「ありがと、アヴィ」
「はい」
マモンはそれを口につけ「あちっ」と舌を出した。
妙に人間くさい気がした。その隣でアヴィは静かに紅茶を飲んでいた。
「いい朝ですねぇ」
「うん。そうだなぁ。なんだか眠くなってきちゃった」
俺の気も知らず呑気な会話をしていた。
「いや眠くなるなよ。で、どうやったら欲望ポイントが溜まるの?」
「人間がいっぱいダンジョンに来てくれたらすぐ溜まるんだけどねー。でも、わたしのダンジョン自慢じゃないけどね、全然人が来ないのよ、本当に」
「本当に自慢じゃありません。お姉ちゃん」
「あぅ。まあそういうわけだから、しばらくこのままになっちゃうけどいいよね、ジュンイチ」
「まじかよ」
その時、扉を叩く音がした。
「お兄ちゃん、学校行かないの? ママ怒ってるよ」
妹の茜の声がした。
そうだった。遅刻してしまう。
「茜、ちょっとこっちに来てくれ。面白いことになってるから」
「えぇ? 忙しいから無理。ばいばい」
かすかに廊下を歩いていく音が聞こえた。
どうやら行ってしまったようだ。
「なんだよ、あいつ。いつもならすぐ入ってくるくせに」
「ジュンイチ、アカネはこのお部屋に入ってくることはできません」
「なんで?」
「ジュンイチ以外の人間はここへは入って来れないようにしてあるのです」
「じゃあ無理やり連れてきたら?」
代わりにマモンが口を開いた。
「不思議パワーでそうならないようになってるから、絶対無理。それにジュンイチが他の人に言えないようにもしてあるよ」
「なんだよ不思議パワーって……」
「ジュンイチ、学校行かなくていいの?」
「そうだった」
俺は立ち上がる。
しかし、こいつらをこのままにしていいのだろうか。
ふいにマモンと目が合った。
ぱちぱちと綺麗な瞳で瞬きをしてから
「どうしたの?」と長い髪をかきあげた。
美人、だよな。
にしてもやっぱすごい格好だ。なんでこんな水着みたいな服を。
今思ったけど、胸もおっきい。肌もすげえ綺麗だし。
その瞬間、マモンがぶるっと震えた。
「あ……なんか今、ちょっと欲望パワーが来た。なんだろ、これ」
はぁはぁ言いながら胸元を抑えた。
顔も紅潮している。
「この感じ、色欲かな。なんかエッチなパワーが――」
「お、俺! 学校行ってくるから!」
慌ててテーブルを離れ扉へ向かう。
「車に気を付けてくださいね。ジュンイチ」
アヴィの声を背負い、俺はちょっぴり罪悪感を感じつつ、自室兼ダンジョンを出たのだった。