6・ソーダブルーは六月の色
玄関に出された中学指定の白いスニーカーを見て、論も足がでかくなったなと蓮は思った。
弟の足はもう、水色の長靴に入らない。
(たった一年ででかくなるよなあ……。犬と中学生は)
蓮が一年前の六月に思いを馳せていると、母親がやってきた。
「あっ。ロンちゃん、また指定の靴じゃないほう履いてった!」
母親が、白いスニーカーを見て眉をしかめる。
「指定の靴じゃないほう?」
「コンバース履いてった。まったくもう、先生に怒られちゃう。あの子最近色気づいちゃってさ!」
「色気づいてるのか、論は」
「どっか抜けてたあんたとは別の心配があるよね、あの子は」
「どっか抜けてたのか、俺は」
「いまも抜けてたよ。魂が。靴見てじーっと固まってて不気味だった」
不気味。失礼な。
ドアを開ける。梅雨の湿気がむわっと顔に押し寄せる。今日も雨らしい。
玄関ポーチで傘を開きながら庭を見る。
もう子犬ではない柴犬のルンが、しっぽをふりながら犬小屋から出てきた。犬は生後一年経てば成犬だ。青春真っ盛りのルン。
「あー、ルン、ごめん。散歩じゃなくて学校」
蓮はしゃがみこんでルンの頭をなでた。
恋の季節、ルンはときにクーンクーンと物狂わしい声で鳴いた。俺だって泣きたいと蓮は思った。蓮はルンに同情して、よく長い散歩に連れて行った。
そんなわけで、ルンは蓮が出てくると散歩を期待して小屋から出てくるのだ。
「俺の気持ちをわかってくれるのは、おまえだけだよ」
新築二世帯住宅に越してきた秘密の息子は、相変わらず藤本とよろしくやってるし。近所だから、しょっちゅうふたりに出会ってしまうのだ。
色気づいてきた弟は、大学生になっても彼女がいないと兄をバカにするし。
(彼女ならいるわ。別の時代に)
などと本当のことを言ったら憐れみを通り越して狂人を見る目で見られるのは明白なので、兄は日々さみしさと屈辱に耐えているのだ。
蓮は庭のあじさいを見た。道沿いに植えた大株のあじさいは、今が盛りと水色の花をたくさん咲かせていた。
六月の色だと、蓮は思った。
長靴。
玉ゼリー。
梅雨の切れ間の初々しい夏空。
(それから――涼子がよく着てた、水色のブラウス)
ルンが大きくひと声、ワン!と鳴いた。
水色のあじさいが動いた気がした。
あじさいのむこうに、水滴ににじんだビニール傘がある。
動いたのはあじさいではなく、水色のスカーフだった。
ソーダアイスのような、明るい水色の――。
「ルンちゃん、大きくなったね」
スカーフの主がしゃべった。
すこしハスキーな、落ちついた声。
「りょ……」
せりあがる喜びに、蓮は声がかすれてちゃんと出なかった。
白いカットソーにグレーのスカート。水色地に白い水玉のスカーフ、長靴も水色。
――あの日の長靴。
蓮が涼子にはじめて会った日の。
「ロンくんは男っぽくなったし、ワンちゃんは……ああ、こっちでははじめくんって言わなくちゃね。大学生のワンちゃんなんて、びっくりだなあ。あっちじゃまだ寝返りもうてないのに……」
涼子は傘をあげた。頬がすこし、細くなった。髪がすこし、短くなった。
まつげの多い垂れ気味の目は、去年のまま。
「蓮くんは、今年もゴム長なのね」
「涼子おおお!」
蓮は傘を放りだした。あじさいのむこうの涼子に駆け寄り、両肩をつかむ。たしかな感触があった。あたたかな体温が、蓮の手のひらに伝わる。
なつかしい瞳が、ひとつ歳をとった蓮を映し出す。
涼子。涼子。涼子。
「あら? よく見るとゴム長のデザイン、前と変わってる? エンジニアブーツみたい。この時代にはそんなゴム長あるんだねえ。かっこいい」
「わああ涼子おおお!」
「そのゴム長なら、街でのデートも難なくいけるね」
「涼子おおお!」
「蓮くん、濡れるよ? これから大学でしょ?」
「わああ涼子おお……ふんがっふっふ」
「目立つから黙って」
傘を持ってないほうの涼子の手が、蓮の口をふさぐ。
彼女の手のやわらかさがうれしくて、彼女が触れてくれるのがうれしくて、蓮は口を塞がれた状態のままぽろぽろ泣いた。
そこまでやりとりしてからやっと、涼子は蓮の口を押さえたまま、「おひさしぶり、蓮くん」と言って、白い薔薇が咲くようににっこり笑った。
END