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5・あかさたなはまやらわ


 涼子が大好きなまま、梅雨が明ける。

 涼子が大好きなまま、夏が来る。

 もうすぐ夏休み。

 蓮は涼子のことをたくさん知った。


 インテリアデザインを学ぶために専門学校へ行っていたこと。学校へ通いながら花屋でバイトしていたこと。植物を扱うのが楽しくなって、ガーデニング科に入り直そうかと悩んだこと。自宅の庭に苗や球根を植えまくったこと。

 すみれとクリスマスローズと昼咲き月見草が好きなこと。

 蔓薔薇とクレマチスと青いあじさいも好きなこと。

 自分が死んでも植物たちは、いつまでも家族の目を楽しませてくれると思ったこと。


 高校生くらいまでは、華やかで明るい桜子にコンプレックスを持っていたこと。はやく自分も桜子のように、素敵な恋がしたいと思っていたこと。なのに専門学校は女子ばかりで、出会いがまったくなかったこと。

 友達に「男の好みがうるさい」と言われたこと。

「それ本当?」

 じわじわくる喜びを噛みしめながら、蓮は涼子に訊いた。

「本当、本当。だから蓮くんを逃したらダメ!って、自分を鼓舞したの」

 

 雨の日はふたりっきりの空き家で毛布にくるまり、古いミュージシャンのCDを一緒に聴いた。イヤホンは片耳ずつだ。涼子が持っていたのはポータブルのCDプレイヤーで、「昔はこんなでかいの持ち運んでたの?」と蓮が言ったら、半ば本気で涼子はむくれた。

 涼子が好きなアルバム。日本人の若い男が歌う、下手な発音の英語の歌詞。

 彼女はにっこり笑って「ハロー!」なんて言うような女の子じゃない、というような意味の……。

 たぶん涼子は、この歌詞に自分を重ねた。

(わかる。わかります。泣きぬれて『さよなら』なんて言うような女の子でもないんだ)

 だから涼子を好きになった。

 彼女が我を忘れて、恋に夢中になってくれるとドキドキした。蓮も蓮で箍がはずれた。そんな蓮にも、涼子は甘やかに応えてくれた。

 けれど朝が来るとリセットされて、無我夢中の涼子は元に戻る。

 重くしめやかな夜などなかったかのように、涼子はさらりと朝を迎える。

 朝は必ず来るし、自分たちに「将来」はある。

 きっとある。

 だから、時間の狭間に閉じこもるわけにはいかない。


 三丁目公園のベンチで蝉の声を聞きながら、蓮と涼子は母親たちが子供を遊ばせるところを見ていた。

 小さな子供たちは流れる水路で、水鉄砲を手に黄色いアヒルのおもちゃを追いかけながら、歓声をあげてはしゃいでいた。

 夏の日差しに、きらきらと飛沫が輝く。

 男の子が、飛んできたアゲハ蝶に水鉄砲を向ける。

 発射された水流は、蝶をそれて焼けたコンクリートに散った。じゅわっと音がしたかと思った。直射日光を真っ白く反射する、熱そうなコンクリート。

「タイムスリップ何回目かで、よちよち歩きのはじめくんを見たことあるよ。おねえちゃんが遊ばせてたから、ずっとおねえちゃんの子供だと思ってたの」

「……ふうん」

「わたしも、ちっちゃいはじめくんと遊びたかったな……」

 水色の長靴。

 水色のブラウス。

 水色の玉ゼリー。

 涼子の好きな、水色のもの。

 妊娠検査薬の陽性反応を、涼子はどんな気持ちで見つめただろう。

 検査薬スティックの反応窓から見える、くっきりとした水色の線。

 あのときの涼子の泣き笑いの顔は、蓮の心に刻まれたままだ。

「二ヶ月目かあ……。元の時間は、秋なんだよね。三ヶ月になる前に帰らなきゃ、誕生日が狂っちゃう。だから、もうすぐだろうね。お別れ」

「……」

「帰るのさみしいけど、産むのはこわくないよ。いい子になるってわかってる子だから」

 涼子は笑った。

 見ていて苦しくなるくらい、朗らかに笑った。大人びた目元が笑いに溶ける。

 蓮は思う。

 俺はまだそんな笑顔を見せられるほど納得できてない。未来のために――自分たちの子供のために、別れのつらさを覚悟しなければならないなんて。

(離れたくない――)

 降り注ぐ蝉の声に混じって、子供たちがひときわ高らかに笑う。母親たちは木陰に寄り集まり、子供たちに目をやりながら平和に談笑している。

 自分たちのいるベンチから十数メートルしか離れていないのに、その風景は自分たちとは次元が切り離された場所のように思えた。

「いまはいい子でも、この先どうだか。ちゃらんぽらんだからなー、あいつ」

「そこはパパの出番だよ。しっかり導いてあげて」

「パパ……」

 パパ。同い年なのにパパ。まるで実感がない。

 親の気持ちになるなんて無理だと思う。

 親の気持ちにはなれないけれど――もし、涼子を引き止めてはじめがこの世から消えたら。

 マスターの記憶からもおばちゃんの記憶からも桜子の記憶からも藤本杏奈の記憶からも、きれいさっぱり消えたら。この世になんのつながりも残さずに消えてなくなったら。

 それも嫌だ。悲しすぎる。

 はじめの人なつっこい笑顔が目に浮かぶ。

 柴犬のルンに似た、子犬みたいに無防備な表情。

 ラン・リン・ルン・レン・ロン――ワン。

 ワン。one。一。

 (はじめ)

(らりるれろの次はわいうえを。ふざけた名付けだ)

 この場合、名前は誰が考えたことになるのだろう……。

 実際命名するのは涼子になるのだとしても、自分たちは最初からはじめの名前を知っていたのだし。

 これこそ神様の悪ふざけだ。

 わ行は最後なのに「はじめ」というあたりも、運命めいてしゃらくさい。

 おわりなのにはじまり。はじまりなのにおわり。

 自分と涼子は、もう終わってしまうのだろうか。

「パパと言えば、蓮くんはおやじって呼ばれてたんだっけ。あのゴム長だもんねー」

「みっともないやつですみませんでした……」

「かわいかったよ」

「ほんとかよ」

「ほんとだよ。インパクトのある長靴男子にひとめぼれだったの」

「またさらっとそういうことを」

「何度でも言う。ひとめぼれだったの」

 涼子は足を伸ばして、ベンチの背に寄り掛かった。そのままの姿勢で空を見上げる。

 蓮も一緒に、空を見上げる。

 まぶしい。

 夏が完全に本気出してきた。

「神様って、そんなに意地悪だとは思わなくなったよ」

 本気の夏空を見ながら涼子は言った。

「待ってるから、はやく戻ってこい」

「命令形だー」

「はやく戻ってきてください。さみしくて死んでしまうから」

「息子がいるじゃないの」

「息子のしあわせを見せつけられるのがつらい」

「勉強みてあげてね。杏奈ちゃんと一緒に大学生になれるように」

「めんどくさ」

「蓮くんもがんばってね」

「俺はだいじょうぶだよ」

「わたしもがんばって、過去に息子を産み落としてくるね」

「産み落と……」

 あの涼子そっくりの中年女性に、涼子は旧クローバーの前で会ったのだそうだ。彼女は涼子と話をするため、涼子の帰りを待っていたらしい。

 彼女は驚きで立ちつくす涼子に言った。

『あなたは蓮くんとしあわせになれる。本人が言うんだから間違いないわよ』

 そう言って彼女は、白薔薇の花を切って行ったそうだ。

 事故の日、涼子が家を出てから死に至るまでの数時間。

 その数時間の間に、彼女は何年のときを過ごすのだろう。

 何年のときをどこで過ごすのだろう。

(どこでどのくらいかはわからないけど、俺と過ごすんだって信じていいよな)

 涼子が戻ってくるときのために、自分もがんばらなければ。二度と大人の男に嫉妬しなくて済むよう、涼子に見合う男になっておかなくては。

 はしゃぐ子供たちと見守る母親たちに、もう一度顔を向ける。

 木陰で談笑する母親たちの顔が、涼子と杏奈に見えてくる。

 そう考えたら公園の風景がとてもしあわせなものに思えてきて、蓮は今見えた未来の夏の風景を、強く強く心に残しておこうと思った。


 涼子が消えたのは、夏休み三日目の晴れた朝だった。

 泊りこんだペパーミントグリーンの空き家で、蓮はひとりで目を覚ました。

 がらんとした部屋。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が、床板にくっきりと明るい筋を引く。

 涼子のボストンバッグがなかった。ふたりでくるまっていた毛布には、シャンプーの香りが残っていた。それだけが、涼子がここにいた証だった。

 冷房のない部屋はひどく暑いはずだった。暑いはずなのに、蓮は体がひたひたと冷える思いがした。

 涼子がさよならを言わずに消えることは、なんとなく予感していた。

 行ってしまった。

 俺を置いて行ってしまった。

 声の届かない場所へ、顔が見えない場所へ、体に触れられない場所へ、行ってしまった。

 覚悟なんかできていなかった。

 涼子がいないなんて信じたくなかった。

 夢だと思ってきつく目を閉じた。

 涼子がいた日々が夢なんじゃなくて、涼子がいなくなったことが夢なのだ。そう信じたくて目を開くと、同時に容赦なく蝉の声が轟いた。蝉は窓のすぐ近くにとまっているようだ。

「うるせぇぞ、蝉……」

 つぶやくと同時に目に涙が盛り上がる。

 ――やはり、連れて行ってはくれなかった。

 さよならを告げたら、蓮が一緒に行くと言い出すかもしれないと考えたのかもしれない。面と向かってさよならを言われたら、きっと自分はダダをこねただろうと、蓮自身も思った。

 だって、きちんと納得できていないのだから。

 さよならなんて、納得できていないのだから。

 涼子が帰ってくる保証なんてどこにあるというんだ。四十代の涼子は、十九歳の涼子をもとの時間に帰すためだけに、ああ言ったのかもしれないじゃないか。

「ひとりにしないでくれよ……」

 蓮は涼子の匂いがする毛布に顔をうずめた。涙がだばだばあふれだした。

 この先ひとりで、帰ってくるかこないかわからない涼子を待つなんて耐えられない。一体何年待てばいいんだ? 本当に帰ってくるのなら、四十代の涼子は予定を教えてくれてもよかったじゃないか。

 きっと帰ってこないんだ。涼子は俺を忘れるんだ。

 俺は涼子を忘れることなんか無理なのに、涼子は俺を忘れるんだ。

 今でも過去でもないどこかで、俺の知らない時を過ごすんだ――。

 何十分、そうして悲嘆に暮れていたかわからない。

 鳴く蝉の数が増え、声が一層大きくなる。

 空気読め蝉野郎! 大声で泣きたいのはこっちだ!

 鳴る携帯の電源を切るみたいに、蝉のコーラスをぶつっと黙らせてやりたかった。

 ――と思ったら、いきなり黒電話のレトロな音がした。蓮が設定しているスマートフォンの呼び出し音だ。蓮は床に置いてあったそれに飛びついた。涼子がどこかの公衆電話からかけてきてくれているのではないかという、かすかな希望。

 「はじめ」と表示されていて脱力した。

 それでも涼子つながりだと思い、淡い期待を抱いて電話に出る。

「もしもし」

〈もしもし。蓮? 今週か来週プール行かね?〉

 はじめの能天気な声が、蓮の脳みそをへらへらと通り抜けて行った。

「……」

〈なあ、プール行かね? 彼女も誘っていいぜ〉

「おまえ、勉強しろよ……」

〈お客さんからサマーランドのタダ券いっぱいもらってさー。杏も誘うから、蓮の彼女も〉

「やかましい! 俺の彼女は実家帰ったんだよ! また会えるかわかんないんだよ! 俺は今、打ちのめされてるところなんだよ! さみしいんだよ! またへらへら電話かけてきやがったら殺す!」

 電話のむこうで、はじめが息を飲む気配がした。

 蓮は肩で息をしながら、今自分が言ったことを反芻した。

 この言い方だと完全に、捨てられたことになるな……。不覚。

〈蓮、元気出せ。おれがいるぜ。この夏はおれがいっぱい遊んでやるから〉

 電話の向こうから、憐れみに満ちた息子の声がする。

「おまえ、勉強しろよ……」

 もう一度、脱力しながら蓮は言った。

 通話を切ったのちもしばらくの間、蓮は脱力したままだった。蓮のふぬけっぷりを嘲笑うかのように、蝉は大音量でジージー鳴き続け、短い恋の季節のために奮闘している。

(ああそうだ、はじめがいるんだった……)

 はじめだっているんだから、涼子は絶対帰ってくる。帰ってきたとき失望させないよう、自分もはじめもちゃんとした男になっていないと。

 ああ、責任重大だ。悲しんでるひまはなさそうだ。

 蓮はのろのろ立ち上がり、毛布を畳んだ。

 畳んだ毛布を手に、部屋を見回す。ななめ天井の、古びた板張りの部屋。

 涼子の部屋で、はじめの部屋。

 もうすぐこの世から消える部屋。

 もうここには来ない。

 鍵はマスターに返そう。

 そう思ったら、また涙がにじんできた。

 さようなら、愛の巣よ。

 ありがとう、愛の巣よ。

 愛する涼子とはじめを育んでくれてありがとう。この部屋最後の日々は、ずいぶんとロマンチックな日々だったと思うよ。

 さようなら、旧クローバー。

 美しい初夏をどうもありがとう。


 七月の末、ペパーミントグリーンの建物は、立ち入り禁止と書かれた黄色いテープで囲まれた。ここはもうすぐ取り壊され、遠野家の新しい家が建つ。

 蓮が涼子と何度も抱き合った三角屋根の古い家は、もうすぐなくなる。

(けやき)はどうするんだ?」

 裏庭のあじさいを大型シャベルで掘りかえしているはじめに、蓮は尋ねた。

 白薔薇の大鉢は遠野家の仮住まいに運んだけれど、あじさいは処分される予定だった。そこを蓮が母親にかけあって、蓮の家の庭に移されることになったのだ。涼子の好きな水色のあじさいだ。

「欅は残すよ。母ちゃんが好きだから。残したまま家建てる」

 蓮は建物を見上げた。二階の一番端の窓に視線が行く。

 涼子の部屋。

 蓮が言葉を続けなかったので、はじめはこちらに背を向けてあじさいの大株を掘ることに専念しはじめた。蓮はしみじみと、自分に似ているはじめの後ろ姿を眺めた。

 似ていて当然だったのだ。

 俺の遺伝子の産物め。

 蓮の心中も知らず、鼻歌をうたうはじめはのんきで楽しそうで、まあいいや、しあわせになれよと蓮は思った。

 しあわせになるように、いつも願っててやるよ。見守っててやるよ。

 涼子をこの手に取り返すまでは、彼女のぶんまで見守っててやるよ。

「つかれた~」

 はじめは大きく腕を伸ばし、のびをした。蓮ははじめが掘りだしたあじさいの根元を土ごとポリ袋で包んだ。あじさいは花がなくとも、つやつやした葉をたくさん繁らせていてきれいだった。

 シャベルで土を足し、こぼれないよう袋の口を縛る。

 作業完了後、蓮が自分の腰をいたわってトントン叩いていると、「そういう動作がなるほどおやじだな……」とはじめがあきれた顔を向けてきた。

「……軽々しくおやじとか言うな」

 複雑な心境になるから。

「おまえ、中学のときあだ名がおやじだったんだろ?」

「だからっておやじ言うな」

「おやじー」

「言うな!」

「いいじゃん。つか、これおまえんちまで持ってくの重っ!」

「ついでに寄ってアイスコーヒーでも飲んでけ」

「スイーツもお願いします」

「それはうちの母親の気分次第だな」

「凛さんは俺のこと好きだから大丈夫だな。この前店に来てくれたときカワイイって言ってくれたもん」

「ああそりゃよかったな……」

 孫だしなーと心の中で言って、蓮ははじめと一緒にあじさいを持った。幹を持つはじめの指先が目に映る。

 涼子とおなじ、まんまるい爪がそこにある。

 じっと見ていたら涙が出てしまいそうになったから、蓮はもうすぐ取り壊されるペパーミントグリーンの空き家を見上げた。夏空を背景に、家は思い出を飲み込みそこにある。

 さよならは言わない。言わないぞ涼子。

 息子と待ってるぞ。いつまでも来なかったら探し出すぞ。

 いつかまた会うし、今度こそ離さない。

 四、五十代で死なせもしない。

 一緒におじいさんおばあさんになるんだ。

 今度会うときはまた六月だったりするのかな。薔薇やあじさいが咲いているのかなと、予感めいたものを感じつつ。

 あじさいを抱えた蓮とはじめは歩調をあわせ、いつもの路地をふたりで歩いた。

                           

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