4・白い薔薇
朝日は夜の物語を漂白する。
それはもう、あっさりと。
金色の鏡の結界は、夜明けとともに見事なまでの悪趣味空間に戻った。
ほの暗い破滅の夢はさめ、蓮の目の前には今、味気ない白いコーヒーカップがある。
異界じみたヴェルサイユ鏡の間で、一糸まとわぬ姿で甘くけだるく過ごした夜よりも。
陽光差し込むファミレスで、恋人と向かい合ってコーヒーを飲む早朝のほうが、きのうまでの日常から遠く離れた気がするのが不思議だった。
日常に対する非日常より、日常を上書きする新しい日常のほうが強力ということか。
寝不足の体に、熱いコーヒーが染みる。
スーツ姿のサラリーマンやOLが多い店内で、高校の制服を着ているのは蓮だけだった。涼子は水色のブラウスを着ていた。よく似合う。
蓮が家族でよく行くファミレスと同一チェーン店。おなじようなインテリアなのに、住宅地ではなく大きな街中にあるので、印象がまるで違った。窓から見えるのは、朝日を反射するガラスの高層ビルだ。
「あんなビル、昔はなかった」
涼子のつぶやく何気ないひとことが重くて、蓮には返す言葉が思いつかなかった。
近場の繁華街なので小さい頃からよく来ているが、蓮はあのビルがないこの街を知らない。ものごころついたとき、あのビルは建設中だった。地上数十階のてっぺんから伸びるクレーンが、ビルが自分で触手を伸ばして自分自身を高くしているみたいに見えた。
高層ビルの建設現場を見ると、どうやってつくるんだろう?というありきたりの疑問が湧くのだけれど、蓮にはつくりかたの想像がつかない。
自分にはつくりかたの想像がつかないものを社会はあっさりつくってしまう。とても敵わないという気分になる。個人は人間社会が蓄積した知識と技術に敵わない。
通勤時間帯なので、窓の外には職場に向けてきびきびと歩く大人たちが行き交っていた。
初夏の陽光を照り返すサラリーマンの白いワイシャツがまぶしい。
「眠い……」
あくびをこらえるように、涼子が言った。
「ごめん……。あまり寝かせてあげなくて」
「うわ、朝からすごい艶っぽいこと言うね」
「う」
昨晩の心中じみたやりとりは、なかったものになっていた。朝になったら、二人の間に前向きな空気が戻ってきたのである。
ヴェルサイユのPVが終わったら次の曲に変わった。
なんというか、そんなかんじだ。
自分の中からあんな耽美退廃ムードが出てくるとは思わなかった。蓮ははずかしくなって心の中で激しく身悶えた。ぎゃー!とか、わー!とか、叫びたい。
しかし人目があるので、目を伏せてアンニュイな吐息をつくに留める。
「セクシ~」
涼子はからかうような笑い声で言うと、蓮の乱れた前髪に触れた。隣の席の若いサラリーマンが、ちらりとこちらを見る。
こんな早朝から高校生がなにイチャコラしてんだと思われてるだろうなと考えつつ、若干の誇らしさを感じなくもない。
大人の階段のぼってみました、みたいな。
はじめてのときはお互い初々しかったけれど、昨晩はちょっとなんというかまあ、いろいろと濃厚だった。
いつもてんこ盛りミルクを入れるコーヒーも、今日はブラックの気分だ。
「学校行きたくない」
苦いコーヒーを飲み下し、ブラックも悪くないと感じつつ蓮は言った。
「行かなきゃだめ」
「だって――学校行ってる間に涼子さんが消えたらって考えると」
「まだ持ちこたえられそうだから、大丈夫」
「わかるものなの?」
「なんとなく。わたし、タイムスリップ慣れてきたみたい。もしかしたら――そのうち、調節できるようになるかもしれない」
蓮はコーヒーカップをソーサーに置いた。まっすぐに涼子を見つめる。
「……帰らなくて済む?」
「それはわからない。でも」
涼子もオレンジシュースのグラスから手を放し、蓮を見た。
「帰っても、絶対また来る。だから、待ってて」
「待ってる」
蓮は涼子に向けて右手を伸ばした。蓮の手を迎えるように、涼子も手を伸ばす。
テーブルの上で、蓮と涼子の指と指がしっかりと絡まり合った。
隣の席のサラリーマンが、見ちゃおれんなとばかりに咳払いする。でもそんなこと気にならない。
涼子が指先にさらに力を入れた。なにか言いたいことがあるのかと思い、蓮は軽く首をかしげた。
「蓮くん」
「なに?」
「わたし、お父さんに会ってみようと思う」
唐突な涼子の決意。
蓮はおどろいて目を見開いた。
「マスターに? 会ってどうするんだ?」
「わたしが成仏してないと思ってたらかわいそうだから、本当のことを言いに行く。わたしが浮遊霊になって漂ってると思い込んでるかもしれないじゃない。お父さんを安心させてあげたいの」
「……逆に心配になるんじゃないのか。娘が時間を彷徨ってるだなんて」
「ずっと彷徨う気はないから、だいじょうぶ。あ、死んじゃうからって意味じゃなくて――なんて顔してるのよ?」
涼子はつないだ手と反対の手で、蓮のおでこを軽くつついた。
「マスターに会うことが、いいことかどうか判断できない」
「……確かに、残酷かもね。でも、会いたいの。それに――お父さんに会って訊きたいこともあるし」
「訊きたいことって、なに?」
「内緒」
「なんだよ」
「内緒だってば」
「言えよ」
「蓮くん、敬語なくなったと思ったら、たまに命令してきて生意気」
涼子が今度は蓮のおでこをグーでぐりぐりと小突く。
蓮は二の句がつげなくなった。
「うそうそ。蓮くんがたまぁに見せる強引なとこ、きらいじゃないよ~?」
涼子は小首を傾けて、下からのぞきこむように蓮を見た。
「……からかわないで」
蓮は口元を押さえて赤くなった。
昨晩、「蓮くんってけっこう強引ね……」と甘い声で評されたことを思い出したからである。
「赤くなっちゃって、かわいい」
目を細めて涼子は言った。
「うー。学校行きたくない。涼子さんと離れたくない」
「行かなきゃ駄目だってば」
「やだやだ」
「行きなさい。わたしは蓮くんをふぬけにするために過去に来たんじゃない」
「……涼子さんが命令形だ」
「いいから行きなさいね、受験生」
「はい~……。俺が学校言ってる間、涼子さんはなにしてるの?」
「きのう蓮くんがリストアップしてくれた、ウイークリーマンションを当たってみる。この時代の携帯電話ってすごいね……。なんでも調べられちゃう」
「なんでも、は無理だよ。検索は万能じゃない」
「そう?」
だって、タイムスリップの対処法なんて、いくら調べても出てこなかったよ。
口には出さずに言葉を飲み込む。
ネットで検索するくらいしか手段を思いつかない自分が情けなかった。
無力感とはこういうもののことを言うのだろうか。
ビルのつくりかたもわからない自分は、きっと心の奥底で耽美退廃の夢に逃げたいと思っているのだ。現実から目をそむけ、ねっとり甘い閉じた時間に、ふたりで閉じこもってしまいたいのだ。メンヘラ上等だ。
涼子は、泣き叫ぶこともなく、残酷な未来を覚悟しているというのに。
俺をふぬけにしたくないと言ってくれているというのに。
(強いなあ……)
蓮はあらためて、目の前の涼子を見た。
自分には、この女性に愛される資格などないような気がしてきた。
もし涼子が、知識も稼ぎも人脈もある、大人の男を選んでいたら――。彼女は助かる方法を得られたかもしれないのに。
窓の外にサラリーマンが行き交う。夏だというのにきちんとネクタイを締め、引き締まった表情で交差点を渡る若い男性に目が吸い寄せられる。仕事できそう――と蓮は思った。ドリンク剤のCMに出てきそうな男前だ。
(ごめん。俺なんかで)
蓮はコーヒーの最後のひとくちを飲んだ。冷えてしまったブラックコーヒーは、ただ苦いだけだった。
「どうしたの?」
蓮が黙りこんだせいか、涼子が心配そうに訊いてくる。
「涼子さんを助けてあげられない。逆に学業の心配してもらって、自分が不甲斐ない」
「いいのに、そんなの」
「せめて社会人だったらよかった。そうしたら一緒に住む部屋借りて――」
「いいんだってば」
「涼子さん、なんで俺なんか選んだの――ふがふがふが」
いきなり涼子が両手を伸ばしてきて、蓮の両頬を左右からひっぱった。
痛くて涙目になりながら涼子を見ると、彼女は怒っているように見えた。
「――恋したの」
「こひ?」
「わたしが、蓮くんに、恋したの。文句ある?」
「……なひでふ」
「今度そんなこと言ったら怒るから」
「はひ」
両頬が解放される。よほど強くひっぱられていたのか、つかまれた跡がひりひりする。
中腰になっていた涼子が、すとんと席に座り直した。ストローに口をつけたものの、彼女のグラスにも中味がないようだった。
蓮は時計を見た。まだ時間はある。
「お代わりいれてくる?」
「うん」
お代わり自由のドリンクバー。次はミルクと砂糖も取ってこよう――。
まだまだ俺はガキだと、蓮は思った。
「よう、ヴェルサイユ帰り」
「ぶっ」
教室で蓮が参考書に目を落としていると、はじめが後頭部を押さえつけてきた。顔面がおもいきり参考書にくっつく。
本当に、小学生みたいなやつだ。
「あれからちょっと考えてみて、ヴェルサイユの意味がわかったぞ」
はじめは蓮の耳元に口を寄せ、小声で「やらしっ」と言った。
「ええ、やらしいですとも」
昨晩の自分は、あんなことをこんなふうにこんなことをあんなふうにして、やらしい以外の何者でもなかった。
ああもう、勉強に集中できなくなるから思い出させないでほしい。
「口止め料として、今度手伝ってもらいたいことがある」
「なにを」
「鉢植え運ぶの、手伝ってくんない?」
「鉢植え?」
「古い店にあるんだ。小さい鉢は運んだんだけど、大物がまだいくつかあって」
ああ、きのう旧店舗の花壇から植え替えたやつか。
藤本と一緒にスコップで花を鉢に移すはじめを想像して、蓮の気持ちがなごむ。
いいやつだ、こいつは。
「よかろう」
「重いのもあるけど」
「まあよかろう。でも今日は駄目だろ」
金曜だから、はじめは塾だ。蓮はクローバーで働く日だ。
「急ぎはしないんだけどね。旧店舗の取り壊し、七月の末からだから」
「取り壊しか……」
「さみしいね。生まれ育った家だし」
はじめは軽く肩をすくめた。
蓮は彼にちょっと訊いてみたいことがあった。
「はじめ、おまえの部屋どこだったんだ?」
「二階の一番端っこ。東側」
(……やっぱりね)
涼子の部屋だ。蓮がはじめて涼子を抱いた部屋。
はじめも、まさか自分が去った後の自室でそんなことがあったとは思うまい。
「新しい家が建ったら泊りにこいよ。来年になるだろうけど」
「ああ」
(新しい家か……)
――あの出窓のあるペパーミントグリーンの家は、この世から消えるのだ。
朝の出席をとりに、担任教師が教室に入ってくる。
はじめは自分の席に戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、蓮は心の中で日に日に大きくなってゆく、ある可能性について思いをめぐらす。
涼子は今日、閉店後のクローバーを訪ねる決心をした。
涼子が父親に尋ねたいと言っていたこと。
「内緒」と言って蓮には教えてくれなかったこと。
それは、蓮の心を占めるこの「可能性」とおなじことかもしれない。
もし――もしもこの想像が当たっていたとしたら。
蓮は背筋がぞくっと寒くなるのを感じた。
自分は――自分と涼子は、ある大きな選択を突きつけられるのかもしれない。
六月の夕刻は、まだ日が高い。
商店街のクローバー新店舗の前には、植木鉢が並んでいた。店に入る前にしばし足を止め、蓮は植えられた植物を眺めた。
植木鉢はどれも真新しかった。植物の種類はバラバラだ。艶やかな花もあれば、葉物やサボテンもある。けれどバラバラの植物群は、バランスよく寄せ植えされていて、店の入り口をなかなかいい雰囲気に彩っていた。
はじめのセンスだろうか。それとも藤本だろうか。
出来栄えから、植え替えが楽しい仕事だったことがうかがえる。
蓮は小さくほほえんだ。
はじめと藤本に対して、うらやましさとは別の感情が芽生える。
もっと大きな感情、彼らを包み込んでやりたいような。
この感情は、なんと言ったらいいのだろう――。
蓮は空を見上げた。
電柱にくくりつけられた、商店街らしいビニールの飾り花。その派手派手しい色合いのはるか上空に、西日にやわらいだ青空がある。
六月の空はいつまでも青いような気がした。暮れることのない初夏の夕方。
(祝福――)
祝福という言葉が、それこそ祝福のように蓮に舞い降りる。
彼らを祝福しよう。
はじめと藤本を祝福しよう。
夕方の風が、頬を心地よくなでていく。
もう一度並んだ鉢植えを眺め、蓮は目を細めた。
これから仕事だ。
仕事を終えて自分が帰ったら、ここへ涼子が来る。
涼子は、父親との会合について、自分になんと言うだろう。
「内緒」と言って黙るだろうか。
(もし、俺の想像通りなら――それはないな。涼子は絶対に俺に言う)
ドアベルのある扉を押して、店内に歩を進める。
マスターが「やあ」と言って、いつもの笑顔で迎えてくれた。
閉店後、蓮はいつにも増して落ちつかない気持ちでモップを動かしていた。床板の継ぎ目に合わせて隙間なく拭かなければならないのに、どのあたりを拭いたのか三秒前のことを忘れる始末だった。
客の注文は根性で記憶したけれど、相手が床となると激しく集中力が減退する。
受験生としては、まったくもって危ういテンションだ。
さっさと店を出て、そろそろ来る予定の涼子に後を託さなければならない……のだが、この後マスターにとって死んだ次女との運命の再会が訪れるのかと思うと、ハートがぎゅんぎゅんと締め付けられてしまう。
「マ、マスター」
「なんだい?」
調理器具を拭きながら、のんきな調子ではじめ父は答える。店内には、彼の好きなボサノヴァが流れていた。
「い、いい曲ですね」
「アントニオ・カルロス・ジョビンだよ。ポルトガル語は響きがいいね」
「マ、マスター」
「なんだい?」
「マスターは、心臓とか、脳の血管とか、患ってませんよね?」
「とくにない。なんだい、いきなり?」
「いえ……」
死んだはずの娘が現れて、ショックで血流に異変が生じ、倒れると困るので。
なんて言えない――。
「死んだはずの娘がやってきて、ショックで心臓麻痺や脳溢血を起こしたら大変とでも思ったのかい?」
「……!」
蓮は思わず、モップの柄を手放してしまった。
クラシックギターのやさしい音色が流れる店内に、モップの柄が床を打つ不粋な音が響き渡る。
「いえ、あの、その」
「蓮くん」
マスターがカウンターのむこうから、蓮になにか投げてよこす。
蓮は飛んでくるそれを反射的つかんだ。
ちゃりんと小さく鈴の音がする。
――鍵。
「……なんですか、この鍵」
「旧店舗の、裏口の鍵さ」
蓮は思わずマスターの顔を凝視した。
マスターはいつもとおなじ、大人の余裕を漂わせた微笑を浮かべていた。
手の中の、鈴のついた鍵を見る。
古いクローバーの、裏口の鍵?
「今日、休憩時間に娘が来た」
マスターの声はおだやかだった。
「え」
「次女のほう」
まるでなんでもないことのように、彼は言った。
微細な発音の混じるポルトガル語の歌が、静かなギターの調べに乗って流れ続ける。
蓮は言うべき言葉が見つからなかった。
ただただ、マスターの――涼子の父親の顔を、呆けたように見つめ続けた。
涼子は蓮が来る前にもう、父親に会っていた。
そして、鍵。
この鍵の、意味するところはなんだ?
ふたりの間に流れた沈黙が、何秒間だったか蓮にはよくわからない。
沈黙を破ったのはマスターだった。
「それから、夜のパートさんが見つかってね。来週から来てもらえることになった。蓮くんには本当に助けられたよ。アルバイト代なんかじゃ追いつかないくらい、世話になった。ありがとう」
マスターはそう言って、レジ横に置かれた封筒を手に取り、カウンターを回って蓮のそばへやって来た。
「これは、アルバイト代」
蓮は差し出された封筒を受け取った。
「さっきの鍵は、俺の気持ちだ」
マスターはそう言って、蓮の二の腕を軽くポンポンと叩いた。
鍵についた鈴が、蓮の手の中でちりんちりんと鳴る。
「まだ、あまり整理のついてない気持ちだが……。あの家を好きに使ってくれ。娘のために」
蓮は鍵をぎゅっと握りしめた。
そして封筒と鍵をポケットに入れると――唐突に、がばっとその場に膝をついた。
手のひらも床につけ、頭を下げる。
土下座の姿勢。
「ちょ、蓮くんなにやって……」
「遠野さん!」
蓮は出来得る限りの張りのある声で、愛しい女の父親を呼んだ。
「おいおい、頭あげなさいよ」
「遠野さん。お嬢さんを僕にください!」
「おいおい! 突然過ぎるよ」
「一生大切にします!」
「……それはちょっと、いろいろ無理だろう。いろいろ……」
「大切にします!」
「いいから顔あげて」
言われて蓮は、今にも泣きそうな顔をあげた。
マスターが片膝をついてしゃがみ、土下座の蓮に視線の高さを合わせてくれた。
「蓮くん」
「はい」
「どうか娘に、いい思い出をつくってあげてほしい」
「……」
「素敵な恋の思い出を」
「思い出……」
思い出をつくるの。最初に会った日、涼子はそう言っていた。
けれど。
「思い出だけなんて嫌です」
蓮はきっぱり言った。
マスターが驚いた顔をする。
「思い出だけなんて嫌です。僕は涼子さんと未来をつくりたい」
「じゃあ未来、つくろうか」
バイト後の商店街。
涼子はバッグから小ぶりの紙袋を取り出すと、コンビニのゴミ箱に捨てた。袋の中に入っていた箱の大きさから、お菓子のパッケージでも捨てたのかなと蓮は思った。
最後のバイトを終え夜の商店街に出たら、すこし先の閉まったシャッターの前に、涼子がいた。
蓮が興奮気味にマスターとの会話を話したら、彼女は土下座のくだりで絶句したのちに、そう言ったのだ。
「そう、未来」
「前途多難かもだけど」
「立ち向かいます。今日は……俺、旧店舗に行ってもいいのかな」
蓮はポケットから鍵を取り出して彼女に見せた。
空き家の所有者から、中に入ることを許されてしまった。
涼子は涼子で鍵を持っている。ふたりで空き家を好きに使えということか。
なんという父親であろう。
粋な気づかいにただただ感謝である。
「疲れてないの?」
「もっと疲れたい。だめ?」
「だめじゃないよ……」
蓮ははにかむ涼子の肩に腕を回し、いったん彼女を抱き寄せたものの、ふと思い直して手を放した。
「どうしたの?」
「だってまだクローバーからあまり離れてないし。それに学区内だし」
「学区内?」
「弟の小学校の学区内。弟の友達に目撃されたらしくて、弟が学区内でいちゃつくの、やめろって言うんだ」
「ああ、ラリルレロのロン君が」
「そう、ラリルレロン君が」
蓮は涼子の体に腕を回す代わりに、彼女の手をにぎった。
「手をつなぐくらいは許してもらおう」
六月の夜の街を、涼子と手をつないで歩く。
古くからある商店街は、懐かしい雰囲気の店が多く、店じまいが早い。
シャッターの閉まった、手芸店、焼き鳥屋、文具店、金物屋。居酒屋だけはまだ営業中だ。
涼子は、涼子本来の時間より十九年未来の街を、好きな映画を観るような顔で、丹念に眺めていた。繰り返し、繰り返し観ても飽きない、お気に入りの映像を見るように。
蓮は十九年前のこの街をしらない。けれど涼子とともに、これからもこの街の景色を何度も何度も眺めたい。そう思った。
駅前を離れるにしたがい、徐々に通行人が減っていく。
数件の学習塾がぽつぽつ見え始めると、商店街は終わりに近づく。
商店街の終わりには、線路と踏切。
踏切のむこうには、棕櫚の木に囲まれたチョコレート工場。
涼子が通ったというレトロな建物の歯科医院は、院長が息子に代替わりして続いている。
変わらない小学校。フェンス越しに見える裏庭に、一年生が育てている朝顔が並んでいる。「一年生はあさがおを育てるんだね。何十年も前から」と言って、涼子は笑った。
小学校の角を曲がる。しばらく行くと、いつもの路地に出る。
ちまちまと立ち並ぶ住宅。隅にヤマユリの咲く家庭菜園。小さな児童公園と、桑の木がある墓場――。
「ここに遠野家代々のお墓があるの」
墓地を指して涼子が言った。
「遠野家の……」
「わたしも入ってる、はず。お母さん、あの日お墓参りに来てくれたの。せっかく来てくれたのに、骨折なんて申し訳ないなあ」
「おばさん、順調に回復してるみたいじゃないか」
蓮は、涼子の墓の話題にはふれたくなかった。
「おかげさまで」
「おばさんには、会わないの? お見舞いに――」
「退院まで待つよ。人目がある病院ではまずい気がするの。はやく会いたいけど――会ってお礼を言いたいけど――。お母さんには、きっとすごい苦労かけちゃったから」
苦労とは事故のことだろうかと、蓮は思った。涼子がせつなげに目を伏せるので、つないだ手に力をこめる。
それっきり、黙って静かな路地を歩く。
異界への入り口のような、ほの暗い路地を歩く。
街燈が欅の木の陰を落とす場所まで、不思議と浮遊した気分で歩く。
三角屋根の旧クローバーの前には、いくつかの植木鉢があった。
出窓の前の白薔薇も、ひとりで動かすのは大変そうな大きな植木鉢に移されていた。
「この薔薇、植え替えて持ってってくれるんだあ」
咲きかけたいくつかの新しい蕾を見て、うれしそうに涼子がつぶやく。
「昔からずっとあった薔薇なの?」
「碧山大池の植木市で、わたしが苗を買ったの」
「涼子さんの薔薇だったのか」
「この薔薇、お母さんが、お墓に供えてくれてた……」
そう言えば。涼子のお母さんに墓場で会った日、朝咲いていた薔薇の花が切りとられていたことを蓮は思い出した。
忍び足で裏庭にまわり、あじさいの繁みに隠れた裏口のドアに、もらった鍵を差す。あじさいは植え替えをあきらめたようだ。大きすぎて置く場所がないのかもしれない。
扉のむこうは、暗い屋内。
中に入ってドアを閉めた途端、蓮はたまらなくなって涼子を抱きしめた。
涼子の唇を唇で探し当て、塞ぐ。
靴を脱ぐのももどかしく、闇の中で涼子を廊下に横たえた。
「蓮くん、二階、いこ」
キスの間に間に、あえぐように涼子は言った。
「もう一時だって離したくないよ……」
涼子の首筋に唇をすべらせ、蓮はささやく。
「蓮くんに、話がある」
蓮の熱っぽい行為を受け止めながらも、涼子は落ちついた口調で言った。
蓮は涼子の首筋から唇を離した。
暗闇で、彼女の表情は見えない。
けれど蓮にはわかった。涼子は今、真剣な顔をしている。
「話?」
「わたしさっき、避妊具捨てた。コンビニのゴミ箱に」
「――なんで」
「はじめくんだよ」
「はじめ……」
「わたし、お父さんに訊いたの。はじめくんを産んだのは誰?って」
涼子が好きな水色のもの。
長靴。
ブラウス。
玉ゼリー。
梅雨の合間の、六月の青空。
「そろそろ梅雨明けかなあ」
制服のズボンのポケットに両手をつっこみ、晴れた空を見上げながらはじめが言う。
「梅雨明け宣言あったか?」
初夏の陽を透かして金色に見える茶色い髪を、蓮はまぶしげに見つめた。
はじめは明るい色の髪がよく似合う。髪色を変えてから三週間も経っていないのに、黒髪だったころを思い出せないくらい、しっくりきている。
三週間。
そう、三週間しか経っていないのだ。
合わせ鏡で、自分たちの後ろ姿を確認したあの日から。
自分たちのそっくりな後ろ姿を。
「まだないけど。でも今日で六月も終わりじゃん。梅雨って言ったら六月だろ」
「そうカレンダー通りに行くか」
「あー、今年も半分終わんのね。来年のいまごろ、俺無事に大学生になれてるかなあ」
「藤本さんに置いて行かれないよう、まあがんばれよ」
「杏だけ大学生で俺予備校生だったら最悪だなあ」
「大学で新しい彼氏ができてふられないよう、まあがんばれよ」
「杏はそんなやつじゃないやい」
「ほー」
「おれにほれてるし」
「へー」
「むこうから告ってきたんだぞ。バレンタインに」
「それはそれは」
「そういうおまえはどっちから?」
蓮は三丁目公園で、涼子にはじめてキスしたときのことを思い出した。ソーダ味のキスだ。あれからまだ二十日も経っていないとは。
「――俺だな。うん、俺だ」
「おお~。おれんちでバイトしはじめのときはまだ微妙なかんじだったじゃん? それから急展開じゃん? ヴェルサイユだし!」
「ヴェルサイユは忘れてくれないか……」
「一生忘れねえ!」
「忘れてくれ」
「ヴェルサイユって名前のラブホなの?」
「いや、部屋の名前で――って、なに言わす!」
「名前からして鏡張りだな。鏡の間」
「……」
「やっぱ鏡張りなんだ! うわっ。やらしー!」
「忘れろよ!」
「で、宿泊いくらで休憩いくら?」
「知るか! 忘れろ!」
「忘れねえっつうのー」
はじめは快活に笑った。
学校帰り、一緒にはじめ母の入院先へお見舞いに行くところだった。中央病院の近所には私立高校があるので、制服で連れ立って歩く同年代とたくさんすれ違った。
蓮とはじめは誰がどう見ても、仲の良い友達どうしに思えるだろう。
髪の色が違ってから、うしろから間違われることもなくなった。
はじめとは一生、友達でいよう。
一生、友達で。
蓮の誓いは、ふつうの仲のよい友達に対する、友情の誓いとは意味合いが違う。
友達でいよう。
自分とはじめのつながりは、自分と涼子とマスターの胸のうちに留めよう。
はじめ母に知らせるかどうかは、マスターに任せよう。
でも、はじめ本人には、一生言わない。
はじめの母親は、クローバーのおばちゃんだ。
はじめの父親は、クローバーのマスターだ。
実ははじめが、本当の母親を知っているとしても、知らないとしても。
そういうことにして流れてきた遠野家の時間を乱してはならない。
「こんどおまえの彼女に会わせてよ」
なにも知らないはじめは無邪気だった。
「却下」
蓮は即座に退けた。
「ケチ。じゃあ、写真とかないの?」
はじめは蓮の尻ポケットをちらちら見ている。尻ポケットにはスマートフォンが入っているのだ。
蓮は反射的に尻ポケットを押さえた。ロックをかけていなかった。小学生のようなはじめのことだ。抜き取って写真を勝手に見るくらいのことはするかもしれない。
はじめは写真で死んだ姉の顔を知っている。万が一見られたら大変まずい。
データをよそに保存して、さっさと消してしまわなければ。
「ない!」
「ないならなんで押さえるんだよ。えろい写真撮ったんだろー」
「撮るか!」
「そのうろたえっぷり。撮ってるね?」
「撮ってない!」
「なら見せろー」
「見せない!」
そうこうするうちに中央病院に着いた。
受付と薬局を備えた広いホールを抜け、エレベーターに乗る。
整形外科の入院患者は四階だ。
エレベーターの中で、はじめが「おれ、この病院で生まれたんだよ」などと言うから、蓮の平常心はもろくも崩れ、おもいっきりむせた。我に返ったらお見舞いの品であるどら焼きをきつく抱きしめていたので、箱入りをえらんでよかったと思った。
ナースステーション前ではじめが面会人名簿に名前を書いている間、蓮はぼんやり周囲を眺めていた。
大病院の長い廊下は、作図のようにきっちりした人工空間で、どこか現実感がない。
ナースステーション向かいにベンチと自動販売機のある休憩スペースがあり、腕にギプスをはめた若い女性が、見舞いに来たらしい友人と話していた。会話の中にときおり「交通事故」という言葉が混じる。
骨折患者が多いこの階では、おそらく毎日のように「交通事故」という言葉が飛び交っているだろう。娘を交通事故で亡くしたはじめ母にとって、この場所はつらくはないだろうか。
「かわいい看護師さん多いねぇ」
はじめはのんきなものだ。すれちがったピンクのナース服をふりかえっている。
「いまの人超かわいかった」
「藤本さんに言いつけるぞ」
「杏に似てたんだ」
「はあ左様で」
涼子がいなくなった遠野家を、はじめの明るさが救ったかもしれない。
そうであればいい。
そうであってほしい。
「奥から二番目だよ」
はじめが廊下の奥を指さした。
「行く前に、ちょっとトイレ寄らして」
ちょうどトイレの目の前だった。はじめが用を済ますのを待ちながら、蓮は指し示された病室の入り口をぼんやり眺めていた。ドアは開け放ったままだった。大部屋なので、面会人や看護師の出入りが多い。
数人が出たり入ったりする中で、蓮はふと、ひとりの女性に目を止めた。
見たところ、四十歳前後。蓮の母親よりやや若いくらいの歳だ。長い黒髪をアップにしている。
――涼子?
蓮は思わず声をあげそうになった。二十年後の涼子が、すぐそこに現れたと思った。蓮がよく知る顔立ちより、頬が細かった。けれど、睫毛の多い下がり目の印象が涼子そのものだ。着ているブラウスも涼子が気に入っている水色のブラウスとよく似たデザインだった。
蓮は思わずトイレに駆け込んだ。頭が混乱した。
どくどくと心臓が打つ。
あれは、涼子じゃないだろうか。
自分が知らない間に過去が変わり、死なずに生きながらえている涼子じゃないだろうか。
彼女は過去に帰り、事故を逃れることが出来た――?
「あれ、おまえもトイレ?」
洗った手をぱたぱた降って水気を乾かしていたはじめが、蓮に気付いた。
「――今、おばさんの病室から女の人が出てきて……。四十歳くらいの……」
「あ? 桜子かな? 会ったの?」
「桜子……?」
「姉ちゃんだよ。姉ちゃんって歳じゃねぇけどよ」
蓮は膝からへなへなと力が抜けるような気がした。
そうだった。涼子にはひとつ違いの姉がいるのだ。クローバーで見た写真の姉妹は、よく似ていた。
「いや、見かけただけだけど……」
「来てんのかな桜子。蓮、トイレするんなら、どら焼き持っとくぜ」
「いや、いい……」
蓮は脱力したまま、はじめのあとについて病室に向かった。
「桜子でよかった」と思う自分が嫌だった。涼子が死ななければいいと思うのに、生きている涼子の時間に自分が関係していないのが嫌だった。
もしも涼子が事故で死なずに済んで、そのまま過去から戻れないなら、いくつになっていてもいい。会いに来てほしい。
俺はここにいるんだから。
けれどそう願うのは、涼子に結婚もせず若い日々を犠牲にして、自分の成長を待てと言うようなものだ。でも、待っててほしい。待っててくれないなんて嘘だ。裏切りだ。
もしも、涼子が過去に戻ったまま無事生きて、自分ではない誰かと恋に落ちたら――。
(絶対許さん)
そんなふうに考える身勝手な自分に、愛想が尽きる。
病室は六人部屋だった。
はじめ母は、カーテンも引かずにうたた寝中だった。サイドテーブルの上には切り花が飾られていた。白い薔薇だ。はじめも蓮も、桜子が持って来たのだと思った。
おだやかなひとときがひっくり返ったのは、はじめ母が短いうたた寝から覚め、三人で談笑しながらどら焼きを頬張っているときだった。
「おかーさんやっほー!」とハイテンションで、桜子が病室に来たのである。
中央病院受付ホール。
病院の顔であるこの場所は、天井が高くふかふかのソファーや観葉植物も置かれ、病院特有の味気なさを感じさせない快適な空間だった。
「相部屋の人たちが言うには、母ちゃんが寝てる間に薔薇の花持って来たのは、蓮が見た水色のブラウスの中年女性で間違いないみたいなんだけど」
ふかふかしたソファーで、自販機のコーラを飲みながらはじめは言った。
蓮は飲み物など口にするどころではなかった。
桜子でないとすれば、涼子によく似たあの中年女性は、やはり涼子なのではないか。
「誰かわからなきゃ花のお礼もできないって、母ちゃん困ってたなー。アップにした黒髪ロング、水色のブラウス、そのほかの特徴は?」
「……すこし垂れ目でまつげが多い」
「うーん。ほかは?」
「おまえの二番目の姉さんに似てる」
蓮はそう言ってから「写真に」とつけ加えた。
「げげげげげ。まじかよ! 怖いこと言うなよ!」
「なんとなくだけどな」
嘘である。なんとなく似てるどころではなかった。
「おいおいおいおい。死んだ姉さん、オカルトふりまいていく人だなあ~」
「オカルトふりまく?」
「オカルトじみてんだよ。涼子姉さんの死に方はさ」
「……詳しくきかせてくれ」
「んー。涼子姉さんを轢いて壁に激突したトラック、灯油積んでたせいで炎上して、姉さんの遺体も巻きこまれてひどい状態だったらしいんだけど……。なかなか遺体確認できなくてね。最終的には遺伝子鑑定で涼子姉さんって確認されたんだけど、最初四十から五十歳くらいの中年女性じゃないかって言われてたらしくて。かろうじて焼けなかった部分の肌の状態から、そう判断されたらしくて」
「四十から五十歳の中年女性……」
「家を出てから事故までの数時間に、二、三十年歳とったとでもいうのかねえ。このオカルトがあったから、母ちゃんなんていまだに姉さんの死をどこか疑ってるところがあるよ。死んだのは別人だったんじゃないかって。遺伝子鑑定なんて当てにならないんじゃないかって」
「数時間に、二、三十年……」
「だから母ちゃんには、二番目の姉さんに似てたとか言わないでくれよ。へんに希望持ったらかわいそうだし」
「俺の口からは言わない。約束する。――悪い、先に帰る」
「へ? どこ行くんだ?」
「急用を思い出した」
蓮はソファーから立ち上がり、出入り口にむかって走り出した。
「おい――――」
あっけにとられたはじめの声が、背後に遠のく。
涼子は、母親に会いたいと言っていた。
会ってお礼を言いたいと。
涼子の思い出の中に、母親の手で墓に供えられた白い薔薇が、強く印象にあったのは間違いないと思う。
涼子が苗から育てた白い薔薇。
母が供えてくれた白い薔薇。
はじめが植え替えて守ってくれた白い薔薇。
そして、はじめ母の病室に生けられていた花は、数輪の白い薔薇だった。しかも花屋にあるような人工的に整った薔薇ではなく、庭から切ってきたような自然な形の薔薇だった。
病院前にちょうど着いたバスに飛び乗り、蓮は旧クローバーに向かった。
はじめが植え替えた白薔薇の鉢は、まだ出窓の下にある。
蓮が息を切らしてペパーミントグリーンの家にたどりついたとき、白薔薇の鉢から朝まであった花がすべて消えていた。
鉢を見下ろしながら、蓮の頭にはじめの言った言葉が渦巻いていた。
――家を出てから事故までの数時間に、二、三十年歳とったとでもいうのかねえ。