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3・名前を呼んで

「お疲れ様でした。お先に失礼しまーす」

 意識的に――かなり意識的にはきはきと感じのよい挨拶を残して、蓮はクローバーを出た。

 表情は至って冷静。震えもない。

 自動ではないドアを静かに閉める。ドアベルがチリリンと鳴る。

 一歩、二歩、三歩四歩五歩六歩七八九十――。

 十歩歩いたところで走り出す。

 夜の街を走り出す。

 駅前商店街を全速力で抜け、西萩坂二丁目の住宅地を目指す。

 三角屋根で出窓のある、ペパーミントグリーンの古い家を目指して。

 街燈の明かりが涙でにじむ。

 住宅街を駆け抜ける蓮の顔には、店を出るまで完璧に保っていた冷静さは、もう欠片も残っていなかった。


 幽霊だと? ふざけるな!


 ペパーミントグリーンの建物は暗がりに沈み、街燈の明かりが欅の影を外壁に映し出していた。風にざわめく葉ずれの音と、生き物のようにうごめく枝葉の影が、ここをまるで異界であるかのように見せる。

 ――異界なのかもしれない。

 蓮はクローバー旧店舗を見上げた。

 二階は住居。つい四ヶ月前までマスターとおばちゃんと長男はじめがいて、十六年前までは長女桜子もいて、十八年前までは次女涼子もいて。

 そして今は誰もいない――はずだ。

 一階の店舗は、格子ガラスのむこうになにもない暗闇を見せるだけだった。

 二階の窓にはカーテンが引いてある。

 蓮は望んだ。カーテンが開かれ闇の中に空子の顔が浮かび上がるのを。

 空子の――涼子の。

 おそろしいとは思わなかった。

 会いたかった。

 幽霊でもいいから会いたかった。

(正体を知られたら消えてしまうとか――そんなのはなしにしてくれ。頼む)

「空子さん……」

 願いのように、彼女の名をつぶやく。

 彼女の名――空子という偽名は、六月の闇に溶けて消えるかに思えた。

 が。

「蓮くん?」

 返事があった。

(ええっ!?)

 蓮は勢いよくふりかえった。

 路上に空子がいた。

 今日は雨降りではないのになぜか髪が濡れていて、肩にタオルがかかっている。ギンガムチェックのワンピースの上から緑のカーディガンをはおり、プールバッグのような透明な手提げを持っていた。バッグの中にはシャンプーとコンディショナーのボトルが入っている。

「空子さん……なんでここに?」

 どう見ても銭湯帰りのスタイルなのだけれど……。

「こっちがききたい。ちょっと人に見られるとまずいから……こっち来て。裏、裏」

 空子に腕をつかまれて、建物の裏手に回る。あじさいの繁る小さな裏庭に面して、ひっそりと目立たないドアがある。勝手口のようだ。

 空子はワンピースのポケットから鍵を取り出した。リンゴ型チャームのキーホルダーについた、現実味溢れる鍵である。

 それを慣れた様子で鍵穴に差し込む空子を見て、蓮はなにがなんだかわからなくなった。

 さっきつかまれた腕の感触といい、この物慣れた様子といい、シャンプーの香りただよう髪といい、幽霊とは思えない。

 かと言って遠野家と無関係とも思えない。

 だって、鍵。

「一体……」

「静かに。泥棒だと思われちゃう」

 空子はそっとドアを開いた。蓮を押し込むように中に入れ、自分も滑り込む。光源の全くない家の中は真っ暗だった。空き家らしい湿ったにおいがした。

 空子が持っていたペンライトをつける。

「階段上がるね。急だから、気をつけて」

 空子のあとに続いて、狭い階段を上がった。

 電気の来ない空き家に、幽霊かもしれない女の子とふたりきり。

 小さなペンライトだけでは、廊下の壁紙がレトロな縦縞柄であること以外、屋内の様子はあまりわからない。家具らしきものの影はない。カーテンだけは残されていて、きっちりと閉ざされているため、外の様子はまるで見えなかった。

 この世から切り離された異界だと言われても、すとんと納得できてしまうような、がらんどうの古い家。

「蓮くん……なんでここに来たの」

 二階端の部屋の前まで来て、空子――それとも涼子だろうか――は、覚悟を決めたように言った。

「写真を見たんだ」

「写真?」

「遠野涼子さんの」

「……」

「空子さんは、涼子さんなの? 涼子さんの幽霊――」

「……そうだよって言ったら、帰る? 帰るよね。こわいもんね。こわいでしょ?」

 彼女はドアノブに手をかけたまま、ドアを開こうとはせずに止まっていた。下を向いた横顔に表情はなかった。

 感情がないからではなく、感情を押し込めたからこその無表情だということくらい、蓮にだってわかる。

「……そこは涼子さんの部屋?」

 蓮は答えず、視線でドアを指し示した。

「十八年前までは、涼子の部屋だった。そのあとはしらない」

「俺入ってもいいの?」

 蓮の問いに涼子は顔をあげた。

「帰らないの?」

「帰らなきゃだめ?」

「こわくないの?」

「こわくない」

「十八年前に死んだはずの人間がいる空き家だよ……」

「だってぜんぜん幽霊ってかんじしない」

「わたし、幽霊じゃないもの……」

「えっ?」

 涼子はさみしげにほほえみ、ドアを開いた。キィ……と細く軋む音がした。

 ドアのむこうは闇が控えていると予想したけれど、窓の真ん前にあるらしい街燈が、遮光率の高くないカーテンを透かしてぼんやりと光を投げかけていた。

 八畳ほどのフローリングの部屋。住人はもう引っ越してしまったため家具はない。

 家具がないかわりに、床の上に毛布とボストンバッグがあった。蓮が二度目に空子に会ったとき、彼女が持っていたボストンバッグだ。

 バッグの横には古臭いポータブルCDプレイヤーと、ミネラルウォーターのペットボトルがある。

 ――ささやかな生活の痕跡。

「ずっとホテルに泊ってたら、すぐにお金がなくなっちゃうもの。最初は半月だけいるつもりだったんだけど……。もっとずっといたいから、節約のために、ここに来ちゃった。鍵が変わってなくて助かったなあ……」

「空子さん、あなたは一体……」

「オカルトだと思った?」

「……」

「残念ながら、SFなの。入る? 見てのとおりなにもないけど」

 蓮は部屋に足を踏み入れた。

 明かりとも言えない、カーテン越しのほのかな光。天井が斜めになった屋根裏のような部屋だった。

 空子は毛布の上に体育座りした。

 隣をぽんぽんと叩いて示すので、蓮は空子と並んで、毛布の上に腰を下ろした。

 空子の濡れた髪から漂うシャンプーの香りが、ほこりっぽい空気を新鮮に染め変える。

 死者の匂いとはほど遠い、鼻孔を甘くくすぐる香り。

「たしかに幽霊じゃないですね……」

 空子――涼子。

 トラックが突っ込んできて、巻き込まれて死んだという遠野涼子。

 膝を抱えて座った姿勢で、蓮は横にいる空子を見た。空子もおなじ姿勢で、顎を膝にのせて蓮を見た。

 薄闇の中で見る彼女の顔は、いつにも増してなまめかしかった。

「幽霊になるって手もあるのかな。でもなりかたわかんない。時は跳べても、幽霊にはなれないな、きっと」

「時を跳ぶ……?」

「SFだって言ったでしょ? わたし、過去から来たの」

「過去からって……」

「信じてもらえるとは思わないから。蓮くんが好きにえらんで。一、わたしは涼子の幽霊。二、わたしは十九年前から来た涼子。三、……うーん、そうね、わたしは並行世界から来た涼子」

「……四番の、涼子さんじゃなくて別人、をえらぶ。君は空子さんだ」

「ブブー。その選択肢はありません」

「空子さん……」

「涼子なの。ほんとうの名前で呼んで」

「……」

「蓮くんが好きだから、ほんとうの名前で呼んでほしい」

「……涼子さん」

「ありがと」

 涼子はさみしげにほほえんだ。

「空子のままでいて、空子のままで消えるつもりだったんだけど……。だめね、わたし。こらえ性がないね」

「消える!?」

 蓮は思わず大声を出した。

「しっ。近所のひとに聞こえちゃう」

「消える? 消えるってなに? 消えちゃうのか? 消えるな!」

「あ、蓮くん敬語じゃない。すごい、命令形だ。はじめてだね」

「茶化さないで。消えるってなんだよ。消えるなよ。消えないでくれ!」

「でもわたし、死ぬ予定だもん」

「死ぬ予定って。なんだよそれ……」

「言ったでしょ、SFだって。でも役に立たないタイムトラベラーよ。自分が死ぬのも避けられないんだもの」

「タイムトラベラー……」

「行き先の年月日を選んで跳べるわけじゃないの。好きなときに自由に跳べるわけでもないの。跳べた回数は十回くらいだし、行き先は、自分が死ぬ事故より後の時間ばかり。死後の時間にしか行けないみたい」

「死後の時間って。そんな……」

「跳ぶときは夢の中にいるみたいに、まわりに現実感がなくなっていってね……。そのかんじに身を任せると、眠りから覚めるみたいに時間を移動してるの」

 涼子はペットボトルを手に取った。蓋を開け、水をひとくち口に含む。

「最初はこわくてこわくて。でも、なんでも慣れるものね。何度か未来と行き来してからは、事故が起こった場所と時間を調べて――もとの時代に戻ったら、それをノートに書いておいて、未来の自分が決してその日その場所に行かないように準備するようになったの。なのに――もう一度事故の後の時間に行くと、わたしは死んでるの」

「……」

「調べてみると、事故の日時と場所が変わってる。なのにわたしを轢き殺す運転手と、わたしが二十歳(はたち)で死ぬことは決まってる。車が店に突っ込んだり、十字路で出会い頭だったり、旅先だったり。時間と場所が変わっても、わたしは死ぬし、おなじ人が轢く。わたし、わたしを轢く人に会いに行ったこともあるよ。トラックに乗らないでくださいってお願いに。頭のおかしい子だって、追い返された。あたりまえだよね。トラックの運転が仕事の人に、乗らないでください、将来わたしを轢くからって言ったって、聞いてもらえるわけないよね。その人だって生活があるんだもの。やすやす信じてもらえるわけないよね」

「そんな……」

「蓮くんだって信じないよね」

「だってそんな話、急に言われても」

「幽霊話は信じたの?」

「すっかり信じたわけじゃないけど……。君のお父さんが言うには、お葬式の日の夜明け前、君の遺体を安置した部屋にひとりでいたら、『お父さん、これどういうこと?』って君がやって来たって……」

「最初のタイムスリップのときね……。一年前よ。あのときは、夢だと思ってた。自分のお葬式の夢なんてよくあるじゃない。夢だと思ってたから、お父さんに残酷なこと言っちゃった。『わたしが死んだなんてなに言ってるの? これ夢だよお父さん』って。お父さん、きっとあのあとお棺を開けたでしょうね……」

 涼子は眉をふるわせて目を伏せた。

 蓮も、マスターが縋るような顔つきで棺に這い寄り、蓋を開け、中を確認する場面を思い浮かべてしまった。中を見て――無残な遺体に絶望する様子を。

「未来に行けて、いいことなんかなにもないね。なんにもないから、神様はきまぐれでわたしにこんなおかしな能力をくれたのかな……。意地悪だね、神様って」

「……涼子さん」

「こんな話、信じなくていいよ」

「涼子さん」

「やっぱり空子のままでいればよかったかなあ――。今、蓮くんといる時間が、今まで跳んだ中で一番遠い未来。自分が生きてきた時間と変わらないくらい未来だなんてね。びっくり。携帯電話? さすが未来だよね! 使い方わからないよ、あはは……」

「……」

「だから、今までで一番開放的になれて、好き勝手しちゃった。ごめんね、蓮くん」

 涼子は両手をうしろの床につき、足を伸ばして淡く笑った。なにもかも覚悟したような笑い方だった。

 彼女が時を跳べるようになったのは一年前が最初だと言った。

 この一年、彼女がどんな思いで過ごしたのか――。

 これから先、彼女はどんな思いで過ごすのか――。

 死に連れ去られる覚悟とともに過ごすなんて。

「涼子さん」

 蓮は膝立ちになって涼子に向き直った。

 彼女の細い両肩を強くつかみ、瞳を合わせる。

「痛いよ、蓮くん……」

「帰らなければいい。このまま過去に帰らなければいい。空子のままでいればいい。そうすれば――きっとそうすれば死なずに済む」

「……無理だと思う。今だってときどき過去に戻りそうな感覚がやってくるもん。眠気をがまんするみたいに、そのかんじに耐えてるんだもん。――そのうち限界がくると思う。わたし、死ななきゃいけない運命なんだよ」

「そんなこと言うな! あきらめないでくれよ!」

「ごめんね蓮くん。蓮くんはいい人だね。わたしは、すごくずるい子なの」

「どこもずるくなんかない!」

「ううん、ずるいの。もう死ぬのは避けられないってわかったから……未来に行く目的を変えたんだもの」

「目的……?」

「ごめんね蓮くん。わたし、恋がしてみたかったの」

 涼子は自分の両肩から、蓮の手をそっとはずした。

 そして愛おしげに蓮の手の甲をひとなでしたあと、小さな両手をひっこめた。

「わたし、誰かをおもいきり好きになってみたかったの。わたしはあと一年で死んじゃうから、むごたらしい最後を見せずに済む人をえらんで――未来の誰かをえらんで、恋をするつもりで来たの。短い恋を、する気で来たの」

「短い恋……」

「ひどいでしょ。相手のことなんかなんにも考えてないでしょ。自分が思い出つくれれば、それでいいって思ってたんだよ。そんなの、遊びの恋と同じだよね。さよならするのが前提だもの。ひどいよね、ごめんね、ごめんね蓮くん」

「涼子さん」

「はじめて蓮くんに会ったときと、二度目に蓮くんに会ったとき、蓮くんにとってはおなじ日だったんだよね。でも、わたしにとってはひと月空いてるの。その一ヶ月の間に、わたし生きることをあきらめたの。せめて生きてる間に思い出つくろうって気持ちを切り替えたの。今までおなじ日に跳べたことなかったから……二度目に蓮くんに会ったとき、運命だって勝手に決めたの。一度目も二度目も蓮くんは人を助けてた。二度目なんてわたしのお母さんを助けてた。もうこの人しかいないって、勝手に思い込んだの」

 長靴。最初に彼女に会ったとき履いていた長靴をどうして履かないのか、蓮は不思議に思っていた。

 ふたりの月日のずれの間に、置いていかれた水色の長靴。

 過去に置いてきてしまった長靴。

 過去から来た涼子。

 未来を奪われた涼子。

「……わたし、蓮くんに好きになってもらえる資格なんかない。こんな自分本位な気持ちで蓮くんに近づいたんだもん。次の機会が来たら過去に帰ろうと思うの。夢の中みたいな感覚になったとき、そのかんじに逆らわなければ過去に戻れ……」

「だめだ!」

 蓮は涼子の二の腕をきつくつかんだ。

 ありったけの想いを込めて、彼女の瞳を見つめながら。離れたくないという思いの丈が、まなざしを通してすべて伝わるように。

「行かせない」

「蓮くん」

「帰らせない」

「蓮くん、わたしのことはもう忘れて。同じ時間を生きる、ずっと一緒にいられる女の子をえらんで」

「嫌だ」

「今ならまだ忘れられるよ」

「忘れない」

「忘れて」

「忘れない」

「わす……」

「黙れ」

 蓮は唇で涼子の唇をふさいだ。

 昼間のキスは冷たいソーダの味がする、六月の夏日みたいなキスだった。

 でも今度は違う。

 さよならを封じ込めるための、何者も自分と涼子の間に通さないための、過去と未来の隙間を埋めるための、(まじな)いじみたキスだった。

 彼女の二の腕をつかんだ両手を、ゆっくりすべらせて首筋に触れた。そのまますべらせ続けてふっくらした頬に触れる。蓮は両手で涼子の顔を包み込み、荒々しい唇を離した。

 目の前に、睫毛の多い濡れた瞳。

 華奢な首。小さな顔。この女の子を潰そうとするすべての物から、彼女を守りたい。

 トラックでも、運命でも、彼女を傷つけるすべての物から守りたい。

 だって彼女の瞳は言葉とは裏腹に、こんなにも真剣に自分を見つめてくれている。自分を求めてくれている。自分と恋をしたがっている。

 恋がしたい。

 俺だって、涼子と恋がしたい。

 涼子がいい。

 涼子じゃなければ駄目だ。

「涼子さん、誰かを好きになってみたかったからでもかまわない。俺をえらんでくれたんだから、それでいい。俺はあきらめないから。涼子さんをあきらめないから。ずっと一緒にいるから。決めたから」

「蓮く――」

 帰るという言葉も、忘れてという言葉も、すべて封じるように。蓮はもう一度唇で涼子の唇を塞いだ。 

 彼女の頬を包んでいた手を彼女の背中にまわし、痛くないようにそっと彼女の体を毛布に倒す。

 唇は、塞いだまま。

 離したらいけないような気持ちで、必死になって塞いだまま。

 過去も未来も忘れてしまえばいい。

 今ここにいる俺だけを感じていればいい。

 俺だって、今ここにいる涼子がいれば、涼子がいさえすれば、いい。

 それだけでいいんだ。

 えぐるように差し込んだ蓮の舌を、涼子は抗わずに受け入れた。

 熱いな――人の口の中って熱いな――。肌はあたたかいのに、中って熱いのな――。

 涼子があえぐように声を漏らしてやっと、蓮は彼女に呼吸する間もあたえず唇を貪っていたことに気付いた。彼女の唇を解放して、瞳をのぞきこむ。

 ごめん、と言うべきかとも思ったけれど、涼子が自分を見るうるんだ瞳がただただ甘やかだったから、ポーズみたいに「ごめん」を言ってもしょうがないと思った。

 全身全霊、涼子にキスしていたかったから、したいとおりのことをした。

 今までの人生で、ここまでまっすぐ願いを行動に移したことははじめてのような気がした。もうポーズみたいなものは全部嫌だ。

 俺は涼子がほしい。

「涼子さん、ほかの女の子をえらんでなんて、本気じゃないよね?」

「……本気だよ」

「質問変える。俺がほかの女の子えらんでも、いいの?」

 しばらく間があった。間があっても蓮はこわくなかった。

 答えは分かってる。

「……嫌」

「俺もほかの子なんか嫌。――続きしていい?」

「……うん」

 涼子は蓮の腕の中で、恥ずかしそうに目を伏せて言った。

 続行許可はもらった。蓮は涼子の瞼に軽いキスをひとつ落とすと、そっと彼女から手を離し立ち上がった。

「どこいくの?」

 続きしていい?と言っておきながら、離れた蓮を涼子が不安そうに見上げる。

「ドラッグストア」

「ドラッグストア?」

「……続きするからには準備しなきゃいけないものがあるでしょ」

 涼子は一瞬きょとんとしてから、急に照れた顔になった。

「れ、蓮くん、真面目」

「興ざめですみません」

「ううん。そういうところ、大好き」

「俺も涼子さん大好き」

 大好き。


 この梅雨は、午前中の雨が午後に止むパターンが多い。

 窓辺で雨あがりの校庭の風情を楽しみつつ、涼子と過ごした時間を思い返して甘く気だるい気分にでも浸りたいところだ。しかし、蓮にはやるべきことがある。

 バスの時間まであと十三分ある。

 三分でバス停まで行くとして、十分あれば数学の問題が二問解ける。

「おーい、蓮~」

 はじめの呼ぶ声がするが、蓮は問題集から顔を上げずに、手だけでしっしっとはじめを追い払う動作をした。

「んだよ。犬じゃねえぞ。このガリ勉が」

 はじめはめげずに蓮の机に近寄ってきた。

「最近受験勉強が滞っていたからな。自分にノルマを課した。おまえにつきあう暇はない」

「なんで急に。さては黒髪ロングの子に失恋したんだろ。いい大学行って見返してやろうとか、そんな魂胆だろ」

「逆だ、逆」

「逆ってなに?」

「彼女との将来のために、よりよい研究ができそうな環境に身を置きたい」

「けんきゅー? なんの研究すんの?」

「タイムスリップについて」

「大丈夫? 脳が沸いてるぞ。心配だなあ」

「うるさい。用があるなら、二問解いてからきく。バス停に向かいながらな」

「へいへい。あとでいいよ。おれもおまえと一緒のバスに乗るから、一緒に帰ろうぜ。きょうは、前の家まで行くからさ」

 蓮は顔をあげた。

 前の家?

「……古い『クローバー』か?」

「うん。取り壊される前に取りに行くものがあって」

 これはまずいと、蓮は思った。

 クローバーの二階には、涼子の荷物が置いてあるのだ。はじめに不法侵入がバレたら、めんどうなことになる。

 涼子とは、今日も図書館で待ち合わせだった。涼子に会って事情を話し、はじめが行く前にクローバーから荷物を移動させなければならない。

 涼子が携帯電話を持ってないのが痛手だ。

 どうにかしてはじめを足止めさせ、先に荷物をどけなくては。

 そこまで考えてから、蓮はふと思った。

 涼子は、はじめに会ってみたくはないだろうか。

 涼子本来の時間では、はじめはまだ存在していない。おばちゃんのおなかの中にいるかいないかだ。涼子が事故に遇ったとき、はじめはまだ赤ん坊だったらしいし――。

(だめだ。はじめは写真で涼子の顔をしってる)

 蓮は頭をふった。ふたりを引き合わせるわけにはいかない。

 はじめのことは、涼子にあれこれ話していた。まだ見ぬ弟の話を涼子はおもしろがって聞いていた。

 末っ子なのに「はじめ」なのは、バカボンの賢い弟にあやかるためだとか。後ろ姿が蓮にそっくりで、よくまちがわれるとか――。

 蓮はシャープペンシルを持つ手を止めた。

(俺にそっくり?)

 問題集から顔をあげ、かたわらでスマホをいじるはじめを見る。

 アッシュブラウンの髪がよく似合う、アイドルじみた甘さのある横顔。

「ん? そろそろ行くか?」

 蓮の視線に気付いて、はじめもこちらを向く。

「いや、トイレ」

 蓮は早足で教室を出た。

 はじめの彼女は一組だったはずだ。

 蓮は一組を目指して、猛ダッシュで廊下を走った。

 幸いなことに、はじめの彼女は教室に残って友達と談笑していた。

 蓮はつかつかとはじめの彼女、藤本に近づいた。

「あっ、木崎蓮くん」

「藤本さん、頼みがあるんだ。はじめを学校に引き止めてくれないか? 十五分でいい」

 愛嬌のある笑顔を向けてくる彼女にむかって、蓮は言った。

「引き止めて? なんで? はじめ、今日は前住んでた家に行くって言ってたけど」

「申し訳ない。今は理由をきかず、どうか内密に頼まれてほしい」

 蓮ははじめの彼女に向かって、深々と頭を下げた。


 藤本がはじめを引き止めてくれたおかげで、蓮は図書館で待つ涼子と落ちあい、はじめが来る前に旧クローバーから荷物を運び出すことができた。

 昼間なので人目につかないよう、ヒヤヒヤしながらの運び出しだった。

 またいつこんなことがあるかわからない。やはりビジネスホテルに滞在したほうがよさそうだ。

 バス停に引き返す。

 いつもの路地をたどったら、後から来るはじめに出くわすかもしれない。ふたりは国道のほうから遠回りすることにした。道沿いに店舗の多い国道なら、もしはじめを見かけても隠れるところがある。

「ホテル代のことなら大丈夫。俺だって貯金くらいあるし」

 涼子の荷物をえいやっと肩にかけ、蓮は言った。

「……ごめんね」

「いやなに。貯金はこういうときに使うものなんだとしみじみ思ってますよ。毎年お年玉を使わず貯めてた俺えらい」

「ああ、蓮くんってそんなかんじ。夏休みの宿題も七月中に終わらせるかんじ」

「当たらずとも遠からず」

 小学生のころから、ドリルやプリントだけは七月中どころか初日に全部終わらせていた。残りは気分でやるタイプだったため、習字と読書感想文はいつも八月末日にやっていた。

「でもごめんね……。蓮くんのお金なのに」

「結婚詐欺容疑で逃亡中のひとが、なに言ってるの」

「その嘘、まだ生きてたの?」

「今蘇ったの。――っと!」

 ホームセンターの前まで来たところだった。

 蓮は涼子の腕をつかみ、ホームセンターの自転車置き場にひっぱりこんだ。

 路地を避けてわざわざ国道側から来たというのに、はじめの姿が見えたからである。

 はじめは藤本と並んで、歩道をこちらに向かってくるところだった。

「……なに?」

「はじめがいる。店の中に入って、通り過ぎるまで待とう」

 蓮と涼子は自転車置き場を抜け、外に設置された園芸コーナーに足を踏み入れた。サボテンの棚に隠れて、そっと通りをうかがう。

 しかしそこで、思いもよらない展開になった。

 はじめが藤本とふたり、ホームセンターの敷地に入ってきたのだ。しかも建物の入り口には向かわず、まっすぐ外の園芸コーナーを目指してくる。

「げ。まずい」

 蓮は涼子をうながして、園芸コーナーから離れようとした。なのに涼子はサボテンの棚にくっついて、じっとしたまま離れようとしない。

 涼子の目は、はじめと藤本に注がれていた。

 ああ、そうか。

 蓮は理解した。

 涼子は、はじめを見たいのだ。

 まだ見ぬ肉親であるはじめの生き生きとした姿を、その目に焼き付けておきたいのだ。

 蓮は涼子をうながすのをやめて、涼子を守るように、うしろから肩に手を置いた。

 藤本が「これかわいい」と言って、楽しげに花の鉢植えを指差している。はじめはそんな藤本にやさしい顔を向け、「なんていう花? 将来庭に植えようぜ」などと言っている。

 将来――。

 蓮ははじめたちの新婚夫婦のようなやりとりに、つんと鼻の奥が痛くなるのを感じた。

 将来。

 自分と涼子には、ともに歩む将来があるのだろうか。

 俺たちはまだ、はじまったばかりなのに。

 得体の知れないなにかに、引き裂かれることに怯えてる。

 すぐそこに、鮮やかな夏の花に囲まれたはじめと藤本がいる。自分たちは薄暗い棚の陰に隠れているのに、はじめと藤本は初夏の陽光を浴びながら、将来のふたりの家を思い描いている。甘い愛の夢で彩られた未来像を、青春時代の特権で、疑うことなく味わっている。

「花見ててよ。俺、鉢とスコップ買ってくるから」

 はじめはそう言って、藤本の元を離れようとした。

「あたしも手伝うから、スコップふたつ買ってきて」

「制服汚れるぜ」

「手伝いたいの。お母さんのために、庭の花を植え替えに行くなんて泣かせるじゃん」

「だって庭も花壇も潰すんだし。花もあわれっしょ」

 ふたりの会話から、はじめが古い家に取りに行くと言っていたものがなんなのか、蓮は知ることができた。

 はじめは、家が取り壊される前に、花壇の花を鉢に植え替えて、持って帰るつもりでいたのだ。

「やさしい子ね」

 蓮が思ったのとおなじことを、涼子がつぶやいた。

「……うん」

「彼女もやさしい」

「うん」

「ふたりに会えてよかった」

「うん」

「はじめくんの彼女、なんて名前?」

「藤本杏奈さん」

「かわいい名前」

「そうだね」

「しあわせになるといいね、あのふたり」

「……うん」

 涼子は話しながらふりかえらなかった。

 泣いているのかなと、蓮は思った。

 そっと両腕を回し、後ろから涼子をふわりと抱え込む。

 涼子は蓮の腕に手を添えて、はじめが買い物を終えて藤本とホームセンターを出ていくまで、その後ろ姿を見送っていた。


 そんなしっとりした午後が一転。

 とある事情が生じて、蓮はヴェルサイユからはじめに電話をかける。

 ヴェルサイユだ、ヴェルサイユ。

 なんという部屋名だ。

 阿呆じゃなかろか。

 はじめはすぐに電話に出た。クローバーの手伝いはこれからのようだ。

〈ああ、蓮かー? 放課後は悪かったな。杏と話してたらバス乗り遅れたわ〉

 スマートフォンの向こうのはじめは、蓮が仕組んだことなどまるで気付いていないようだった。藤本が上手いこと引き止めてくれたのだろう。

「いやなに。気にしとらん」

〈ならよかった。なんか用か?〉

「ああ。今晩俺は、おまえの家に泊ることになっている」

〈はあ?〉

「もし俺の家から連絡があったら、口裏を合わせてくれ。事情は察してくれ」

 本当は長いつきあいの中井に頼みたかったのだが、中井には涼子のことを言ってない。一から説明するのは大変そうなので、蓮に彼女がいることを知っていて、彼女持ちの気持ちがわかるであろうはじめに頼むことにしたのだ。

〈察した〉

 さすがだ。彼女持ちは話がはやい。

「よろしく頼む」

〈おまえ今どこいるの?〉

「ヴェルサイユだ」

〈は?〉

 蓮は通話を切った。

 ヴェルサイユとは、蓮と涼子が今いる部屋の名前だ。

 ラブホテル「ヨーロピアン」の「ヴェルサイユ」だ。

「モナコ」や「コートダジュール」もあった。はじめての場所に緊張しすぎて部屋写真を吟味する余裕などなかったので、適当にボタンを押したらヴェルサイユの鍵が出て来た。

 しみったれた赤いカーペットの廊下を通りヴェルサイユの扉を開けたら、真っ金金のカバーが掛かった巨大円形ベッドにお出迎えされた。天井とベッドまわりの壁が鏡だ。ヴェルサイユ宮殿鏡の間だ。もうどうとでもなれ。

 最初はビジネスホテルに行こうとしていたのだ。

 けれど二件続けて満室で――ネットで探すかと思っていたら、たまたま前方を歩いていたカップルが「ヨーロピアン」の門をくぐっていった。なんとなく目を合わせ――「どうする」「どうしよう」と言いながらも自然と足は進み――そして今に至る。

 涼子は「こんなところにひとりでいるのは不安」と言うし、それにせっかくの機会だし、そもそもそういう場所だし……いやいやいや。

 蓮は、金色のベッドカバーの上で身を固くしている涼子を見た。

 こんな場所に連れてきてしまって申し訳ないという気持ちと、でも実はとてもうれしいという気持ちがないまぜになり、なんと言葉をかけたらいいかわからない。

「家に電話する」

 結局それだけ言って、自宅の番号を表示する。

 電話には弟が出た。

「もしもし。蓮だ」

〈なんだ。兄ちゃんか。母さんなら買い物だぞ〉

「今日、文化祭の相談があっておなじクラスの遠野の家に泊りたいんだが……」

〈うそつけ。女のとこだろ〉

 蓮は絶句した。

「いやいや、遠野の……」

〈おれの耳に兄ちゃんの女の情報が届いてないと思ってたのか? 小学校の学区内でいちゃいちゃしやがって。おれが恥ずかしいから遠くでやれ〉

「すみません……」

〈母さんにはうまく言っといてやるから。文化祭の相談で遠野の家な? まあがんばれよ〉

 弟よ。

 おまえは偉大だ。

 蓮はうなだれつつ通話を終えた。弟に完敗した気分だった。

 電話をしまうと、差し当たってやることはなくなってしまった。

 涼子がきゅっと身を縮める気配が伝わってきた。彼女のほうを見やると、唇を「~」の形に引き結んで真っ赤になって、上目づかいに蓮を見ている。

 こんな、いかにもいかにもな場所なんて。

 いかにもすぎて、逆にどうしたらいいかわからない。

(こういうときなんて言うんだっけ? 「先にシャワー浴びてこいよ」?)

 乏しい知識からくる借り物の台詞を口に出そうか出すまいか悩みながら、風呂のほうを見る。バスルームと部屋の仕切りは透明で、ベッドからバスタブが丸見えだった。

 なんにせよ、長い夜はこれからなのだった。


 長い夜の間に間に。

 大の字に横たわった蓮の肩に頬を乗せて、涼子が言った。

「すごく不思議なんだけど」

「なにが?」

 涼子の滑らかな髪の毛の下に感じる、頭蓋骨の華奢なつくり。

 女性の頭蓋骨の小ささは、予想外だった。抱きしめたらパリンと壊れてしまいそうだ。

「十代になると、もう親にぺたっとくっついたりしなくなるよね?」

「そうだね」

「誰にもぺたっと密着しなくなるよね?」

「……今してるけど」

「それが不思議で。わたしが過去から来たとか、そういうことを抜きにしても、ついこの間まで知らないひとだった蓮くんとこうしてぺたっとしてるのが不思議で。何年も誰にもくっつかずに過ごしてきたのに、こんなふうになるなんて。なんだか夢を見てるみたいで。ひょっとしたらわたし、もう死んでるんじゃないかと思っちゃう。ここはもう死後の世界なんじゃないかと思っちゃう」

 涼子の言葉を聞きながら天井の鏡を見ると、素っ裸で横たわった自分を枕にして、おなじく裸の涼子が寄りそうようにくっついている。

 長い黒髪が金色の布に散っている。

 こんな金色と黒のほの暗い絵を、どこかで見たことがあると蓮は思った。

 文明に倦むことをおぼえた、十九世紀末のイメージ。

 物語の挿絵みたいだなと、蓮は思った。

 どこか死の匂いがする物語の挿絵。

「死後の世界でも俺がいるんだからいいじゃない」

「うん」

 言ってみて蓮は、心中する人間の気持ちをちらりと想像した。だるくてねっとりと甘くて、なかなか悪くないもののように思えた。

 死はふたりを分かたない。

 あなたがいれば、それでいい。

 そんな願いから燻り出す、媚薬のような甘い酩酊。

 蓮は涼子の頭を抱え込んだ。横向きで涼子を抱きしめる。

「涼子さん、俺を過去に連れてって」

 蓮は涼子の額に口づけた。

「――連れて行きたい」

 目を閉じて、かすれた声で涼子は言った。

「バッグ持って過去から来たよね? 荷物持って移動できるんだよね? なら、俺持って過去に戻って」

「持って行きたい」

「そしたらこんなふうに閉じこもって抱き合って、ずっとふたりで過ごそう」

「わたしが死ぬまでずっと?」

「死んでからもずっと。俺、すぐに追いかけるから」

「そんなの駄目――」

 金色の鏡の結界で、時間を踏み外した女の子とふたり。

「君は俺を迎えにきたんだ。俺は君を待ってたんだ。俺も時間を越えて行くよ」

「駄目だったら」

「駄目でも行く」

「駄―-」

 蓮は涼子に口づけて、言葉を塞いだ。

「今、跳んで。過去に」

 蓮の懇願に、涼子は目を閉じて首をふった。

「俺を連れてって」

「駄目。ごめんなさい、ごめんなさい蓮くん……」

「ひとりで行かないで。俺を連れて行って」

「そんなこと言ったら……。わたし、ほんとうに、連れていっちゃうよ?」

「連れて行って」

 涼子は目を見開いた。

 涙でうるんだその瞳は、いいの?と蓮に訊いていた。

 明かりを落とした金色の一室は、現実味がなくこわいくらい無音で、現在からも過去からも、すべての時間から切り離されているように思えた。


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