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2・丸い爪

 はじめと自分は、誰が見ても後ろ姿が似ているらしい。

 クローバーで働いてみて、蓮はつくづく思い知った。

 はじめと親しく口をきく常連客は多いようだった。テーブルを片づけていると、入って来た客に「はじめくんこんばんは」などと背後から声をかけられる。さっき来た女子大生グループは、「ちょっとうしろ向いてみて」と蓮を回れ右させ、キャハハハハと盛大に笑った。

 もう苦笑するしかない。

 閉店後モップで床を拭いていると、はじめ父まで「後ろから見たら区別がつかない……」と言い出した。

「マスター、高校生の子供が髪染めたら『不良』とか言って怒るタイプですか?」

「上の子の時代だったら言ったかもしれないけど、いまどきそれはないよ」

「もういっそはじめくんに茶髪になってもらおうかと思ってまして。よろしいですか?」

「……致し方ない」

 許可もとったことだし、あとははじめに実行してもらうだけだ。

「そうだ、マスター。前の店舗のお客さんで、クローバーがつぶれたと思ってがっかりしてる人に会いました。今度会ったら移転先をしらせておきますよ」

「へえ? 前の店のお客さんは近所の人ばっかりだったから、大体みんな移転はしってると思ってたけど。常連さんではない人かな。うれしいね」

「以前近所に住んでた人だと思います。若い女の人です。ほっぺたがふっくらした童顔で、目は大きくはないんだけど睫毛がたくさんあるかんじで、ちょっと垂れ目気味で。髪型は前髪が眉毛くらいであとはまっすぐ長い――まあ髪型なんて変わってるかもしれませんけど」

 蓮はモップを動かしながらしゃべっていた。

 店主の反応がないので、手を止めてカウンターのむこうを見やる。

 店主は店主で、生パン粉を製造する機械の前で、パンを持つ手を止めて固まっている。

「マスター?」

「あ、いや」

 ふりかえったはじめ父の顔が、血の気が引いたように蒼白だった。

「……その人、店は残念だったけどお店の人には会えたって言ってましたけど」

「僕は会ってないよ」

「そうですか。なら、おばさんでしょうか」

「どうだろう。わからないね」

 この話はもう終了とでも言うように、生パン粉製造機のブゥゥンという振動音が店内に響いた。蓮は十秒ほど、店主の白い上っ張りの後ろ姿を見つめた。

 なんてことない会話のはずなのに。

 マスターの手はどうして震えているのだろう?

 蓮は床とモップに視線を戻した。

 モップはけばけばしいオレンジ色で、どうして目立たせる必要のない清掃用具にきつい配色をほどこすのかと、どうでもいいことを考えた。

 ヨーロッパのモップだったら――と考え及んだとき、いつだったかDVDで観たフランス映画を思い出した。

 「パリのレストラン」という映画で――。

(オーナーシェフの浮気相手の若い女が、レストランを訪ねてきたっけ……)

 蓮は再び顔をあげて、はじめ父の背中を見た。

 年齢のくたびれを感じさせない、粋でしゃんとした背中だ。

 若い自分が見てもじゅうぶん魅力的なマスター。

「どうもありがとう。おつかれさん」という店主の声に送られて蓮がクローバーを出ると、雨がぽつぽつ降り始めていた。

 天気予報でも、夜から梅雨空が戻ると言っていた。

 蓮は折りたたみ傘を開いた。

 明日もまた雨らしい。

 明日は空子に会えるだろうか。

(会っていいのかな……?)

 傘を持つ手に力を入れる。

 空子とマスターの間にはなにかがあった。

 そんな予感が、蓮の胸に黒いもやを広げはじめていた。

 それはもしかしたら、自分はしらないほうがいい(たぐい)のことかもしれない。


 バス停へむかういつもの路地は、南側に国道が並行し、北側に川が並行する。車は車線の多い国道を走るし、自転車は川原のサイクリングロードを走るから、まるで歩行者天国のように徒歩の人しか見ない。

 朝夕の通学時間帯は、子供の姿ばかりよく見かける。小学校が近くにあるのだ。

 人の気配を感じてふりかえるたびにランドセルの小学生なので、今朝の蓮は何度も落胆と安堵の入りまじった思いをくりかえしていた。

 会いたいような、会うのがこわいような。

(空子さんの思い出ってどんな思い出?)

 マスターとの思い出?

 大変くやしいことに、はじめ父だったら隣にいるのが若い女の子でもサマになる。歳の差カップルによくある「金絡みの関係だろう?」と思わせる下賤な雰囲気がない。フランス映画じみた、若い女とくたびれた中年男のアンニュイな関係……。

(太刀打ちできない……)

 蓮はため息をついた。

 妄想を振り払うように足を早める。

 今度空子に会ったら――本当に会うことがあるかわからないけれど――変に妄想をたくましくしてないで、ちゃんと訊いてみればいいのだけれど。

「どんな思い出を探しに来たの?」と。

 背後からバシャバシャと水たまりを蹴散らして走る音がした。小学生は雨でもよく走るなあと思ったら、「ねえ! 待って!」と聞きおぼえのあるハスキーな声がした。

(ええっ! ほんとに来た!)

 若い女とくたびれた中年男の、モノクロームな映像が頭から掻き消える。ふりかえった蓮の目に飛び込んできたのは、明るい水色だった。

 この前は長靴が水色だった。きょうはブラウスが水色だ。足元は黒のフラットシューズ。

 夏らしい水色の半袖ブラウスを着た彼女は、蓮に追いついてはあはあと肩で息をした。

「走ったら濡れちゃいますよ」

「だって蓮くん、どんどん行っちゃうんだもの。今日は急ぐの?」

「そうでもないけど」

「じゃあ、途中まで一緒に行っていい?」

 彼女はふっくらした頬を紅潮させて、ふわっと笑った。笑顔になると眉が下がって八の字になる。

「うん……。この先の図書館前からバスに乗るんだけど」

「じゃあ、図書館前まで」

「うん……。でも、なんで?」

「なんでって?」

「ええと、なんて言ったらいいんだろ。なんで俺と……いや、俺に……いや、俺を……」

 俺といたがるの。俺についてくるの。俺を待ってるの。どのせりふも思いあがりの響きがある。口にしてよいものかどうか。

「迷惑ならやめる」

 逡巡する蓮の声をさえぎるように、空子が言った。

「迷惑じゃない」

 力強く即答してしまった。

 蓮は照れかくしに、あわてて「疑問なだけ」とつけ加えた。

「やさしそうだから」

「……ええと、その答えはどう解釈したらいいんだろう」

 やさしそうだから俺に声かけたの? なんのために?

 もう一段深く疑問をぶつけたい。

 なのに彼女は、答えをくれない。

「迷惑ならやめる」

「迷惑じゃない」

「あのね、信じてもらえないかもしれないけど、わたしすごく思い切ったことしてるの。でも、クローバーのおばちゃんを助けてる蓮君を見て、ああこの人だなって思って」

 この人だなって思って!

 この人だなって思って! 

 この人だなって思って!

 蓮はその言葉を何度も反芻し、噛みしめた。

 内心舞い上がっているくせに、超絶ポーカーフェイスで。

「おろおろ救急車呼んだだけですが。ていうか空子さん、あの人が誰だかしってたんだ」

「うん」

「例のハンバーグ屋さんの人なんでしょう? 会えたお店の人って、あのおばちゃんのこと? それとも……マスター……だったりして……?」

「おばちゃんのこと。でも本当のこと言うと、おばちゃんと面と向かって会ったわけじゃないの。おばちゃんがお墓参りするところを隠れて見てただけ」

「なんで隠れるの?」

「事情があって」

 彼女はうつむいて足元を見た。フラットシューズは甲まですっかり濡れてしまっていた。雨なのになぜあの水色の長靴を履いてこなかったんだろうと、蓮は不思議に思った。

「どんな事情かは追及しない方針です。クローバーはつぶれたんじゃなくて、駅前商店街に移転になったんだそうで」

「うん。近所の人にきいた」

「それと、俺は週二回、夕方からクローバーで臨時従業員してます」

「ええっ!?」

「クローバーの息子と同じクラスだもんで、その縁でいろいろと」

「息子? 息子なんていた? 孫ならいそうだけど……」

「孫もいるらしいけど高校生の息子もいます。俺と同い年のが」

「……あなた何歳?」

「先月十八になりました」

 そういう空子さんはいくつ?と訊きたかったけれど、彼女は真剣な顔をして、指を折ってなにか計算している。

 そして指から顔を上げ、「四十四歳!」と言って目をまんまるくした。

「お、おばちゃん、がんばったんだなあ……。四十四で出産かあ。うわーうわー」

 彼女は傘を持ってないほうの手のひらを頬に当て、赤くなっていた。その様子には感動の色があって、どう見ても不倫相手の憎い妻を思う女性のものではない。女としての先輩の高齢出産に、ただただ感心しているように見える。

「ねえ空子さん、クローバーにどんな思い出があるんですか?」

 ちょうどペパーミントグリーンの建物の前まで来たので、蓮は思い切って尋ねてみた。

「家族の思い出」

 彼女は目を細めて建物を見上げた。

 クローバーには、家族とよく食事に来ていたのだろうか。

「……ふつうですね」

「ふつうの思い出を探しに来たの」

「だったらマスターに会いに行けばいいのに。おばちゃんは入院中ですけど。なんなら一緒にお見舞いに行きましょうか」

「行かない。事情があるの」

「どんな事情?」

「追及しないって言ったじゃない」

「まさか空子さん、犯罪者で逃亡中だから、素性を知る人には会いに行けないとかそんな理由だったりします?」

「は? そんなわけないでしょ」

「では……マスターとかつて不倫の関係だったから、彼の家庭を壊さないよう陰から見つめるしかないとか、そんな悲しい事情」

「はああ? なに考えてるの! やだもう!」

 あきれかえった彼女は真っ赤になって蓮をぶつ真似をした。

 一分の隙もない否定の表情に、蓮の心のもやもやはすうっと溶けてなくなった。

「すみません、俺、実はその線を疑っていました……」

「どう考えたらその線が出てくるの? それだけは勘弁して。もう、いっそ犯罪者ってことにする。逃亡中よ」

「罪状は?」

「食い逃げ」

「なんと色気のない……」

「結婚詐欺」

「それはちょっと洒落にならんです。俺が警戒します」

「いいから、結婚詐欺に誑かされなさい」

「はい」

 蓮と空子は顔を見合わせた。

 空子は笑っていた。蓮もつられてふっと笑う。

 誑かされなさい。はい。

 なんと奇妙で粋な逆ナンパであろう。蓮は感動にうちふるえた。

 好きだ、と思った。

 空子のことが大好きだ。

 彼女はバス停までついて来た。もじもじしながら「帰りも待ってていい?」と尋ねるので、「図書館で待っててください」と蓮は答えた。

 バスが発車するとき、窓越しに手をふりあった。彼女の姿とガラスについた水滴が、発車とともに後方へ流れる。

 蓮は彼女から我が身を引き離す路線バスが憎くなった。

 どきどきしながら、空子とのやりとりをあれこれと思い返す。

 空子は言っていた。「思い出を探すし、思い出をつくるの」と。

(「思い出をつくるの」……)

 思い出をつくる。

 蓮はひっかかりを覚えた。

 よくよく考えたら、これから経験することを「思い出箱」に入れて、パッケージするような言い方だ。

 あらかじめ思い出となることが前提の出逢い……。

 そんなことを思いついてしまい、蓮は首をふった。

 考えすぎだ。


 蓮は、自分はどちらかというと疑り深いんだと悟った。

 図書館の雑誌コーナーで空子がファッション誌を眺めている姿を確認するそのときまで、からかわれているんじゃないか、いたずらなんじゃないか、来てないんじゃないかと、心のどこかで思っていた。

 だから最初に出た言葉が「いたんだ……」になってしまったのだ。

「約束したんだもの。いるよ。……そう言われてもしかたない出会いだとは思うけど」

 雑誌を棚に戻す空子は、蓮の言葉に傷ついたように見えた。

「ごめん」

「いいよ。それより蓮くん」

 空子は体をまっすぐにして、正面から蓮に向き直った。

「わたしの服、変じゃない?」

「全然変じゃないけど」

「流行遅れじゃない? 浮いてない?」

「そういう服にも流行があるのだろうか?」

 空子は朝と同じ、丸襟のシンプルな水色のブラウスに明るいベージュのフレアスカートという装いだ。ブラウスもスカートもごく定番的なひねりのないデザインだった。

「どんな服にも流行はあるよ。丈感とか、身幅とか」

「そういう細かい話になったら、俺は全くお手上げです」

 雑誌コーナーで論壇誌を読むおじさんがじろりとこちらをにらんだので、話は切り上げて図書館を出ることにした。

 出たはいいけど、このあとどうしよう?

蓮は途方に暮れた。いつも通りふつうに歩いたら、十五分で家に帰りついてしまう。空子を家に招くというのも――母親と弟という難敵の存在が大きすぎる。

「バスに乗ろう」

 傘を開こうとしている空子に、蓮は言った。学校方面と反対に向かえば、終点は大きな街だ。気のきいたカフェも映画館もあるから、デートらしいデートができるのではないかと考えた。

「バスに乗ってどこに行くの?」

「繁華街」

 空子は無言で、蓮の魚屋のような黒いゴム長を見た。

 蓮も彼女の視線に合わせて、自分の足元に目をやった。

 弟よ。

 おまえは偉大だ。

 お兄ちゃんがまちがっていた。お年頃の男子は、ゴム長靴など履いてはいかんのだ。

 たとえつま先から雨がジクジク染み込もうとも、ズボンの裾から水濡れが這いあがってこようとも、ローファー通学を死守しなければいけなかったのだ。

「ゴム長の分際で街へ出ようなどと言って申し訳ない」

「ゴム長の分際って」

 空子は笑った。

「そう言えば、空子さんはなんで長靴じゃないの。水色の長靴は?」

「家に置いてきちゃった」

 ――家に?

 空子は旅行でこの街へ来たと言った。

 彼女が大きなボストンバッグを持っていたあの日――あの日の朝にも、蓮は空子に会っている。朝、空子は水色の長靴だった。ボストンバッグを持って現れた夕方に履いてたのは、今履いているのと同じ黒いフラットシューズだった。

 おなじ日に、一度家へ帰って長靴を置いてきたのだろうか?

 しかし、日帰りで往復できる距離に家があるのなら、あの大荷物はなんなのだ?

 どうも腑に落ちない。

 空子がいろいろと隠していることは間違いなかった。

 そして蓮には、それを暴く資格はなかった。

 だって誑かされることを了承したのだから。

「蓮くん受験生でしょう。遅くまで引っ張り回したら悪いから、近くをぶらぶらしようよ」

「……真面目なんですね」

「蓮くんも真面目でしょう。まだ敬語なおらないし」

 バカにして言ったつもりはないのだけれど、空子はむくれたようにそっぽを向いた。

 真面目と言われると怒るのは、奔放願望のある真面目なタイプではなかろうか。

「あ、バス来ましたよ。なんなら街まで出ないで、碧山大池で降りるのはどうかと」

「碧山大池なつかしい! 遠足で行ったなあ」

「このあたりの小学生は必ず行くみたいですね。この雨じゃ、ボートは無理だけど」

「あの池は、カップルでボート乗ると別れる種類の池だよ」

「別れる種類の池って」

「女の神様のお社がほとりにあると、嫉妬されて別れるって言わない?」

「そういえば弁天様のお社があったような。神様って誰かれ構わず嫉妬するんですかね? 心ちっちゃ」

 弁天様に嫉妬されるとか。

 まだつきあってもいないのに。

 いや、誑かされるのを了承した時点でつきあってるのか……?

 蓮の脳みそには、現時点での空子との関係性を確認するツールはインストールされていなかった。

 そもそも、こんな出逢いをシュミレーションしたことがない。

 「好きです」という告白と「わたしも」という返答のセット、蓮の認識できる「おつきあいのはじまり」は、そのモデルしかない。どうしたらよいものか。

 ぷしゅうと音を立てて、目の前でバスの扉が開く。

 一番後ろの席に、並んで座る。

 窓際に座った空子の隣に、肩や足が触れない程度の間を開けて蓮は座った。

 空子はいったん蓮のほうを見て、すぐに窓から見える景色に視線を戻した。

 フレアスカートからのぞいた膝の上に、華奢な手をきれいに揃えて乗せている。爪は短めに切り揃えられていて、小さくてまんまるい形をしていた。かわいい爪だ。

 一体、空子はどういうつもりなのか。

 高鳴る鼓動を落ちつかせながら、蓮は考える。

 好意を持ってくれていることは、とてもよくわかる。けれど空子は自分のことを話そうとしない。名字すら言わない。歳も言わない。

 旅先の、ちょっとロマンチックな思い出づくりなのだろうか。

「真面目なんですね」と言ったのは、彼女が気軽に男に声をかけて遊んだりなんかしないタイプであってほしいという、自分の願望かもしれない。声をかけられてこうして乗っておきながら、ずいぶん矛盾した願望だけれど。

 フルネームを教えて。

 歳を教えて。

 どこから来たのか教えて。

 質問を口にするかわりに、蓮はスマートフォンをとりだした。「連絡先、教えてください」と空子に言う。

「携帯電話持ってない」

 流れていく外の景色に目を向けたまま、空子は答えた。

 蓮は「持ってない」の続き――「持ってくるのを忘れた」でも「持たない主義」でも「使い過ぎて親にとりあげられた」でもなんでも、「持ってない」ことの理由が続くことを期待して言葉を待った。けれどそのことに関して、空子はもうなにも言わなかった。

(「お金がなくて買えない」の場合もあるからなあ。理由はきいちゃダメか)

「固定電話でもいいんですけど……」

「固定電話? 家に電話しても、今そこにわたしいないよ?」

「まあそうですね」

「うーん……。駅の伝言板じゃだめかな? ホワイトボードの」

「伝言板て。その発想はなかったなあ。……空子さんって変わってる」

 蓮が途方に暮れてつぶやくと、空子は「えっ!」と驚いた顔をして勢いよく蓮のほうを向いた。

「わたし変?」

「わりと」

「……」

「いいんです。変でも。俺も変人って言われるから」

 絶句した彼女は本気でショックを受けた顔をしている。

「変わってる」と言われて喜ぶタイプではない。それはよくわかった。

 遠足で碧山大池に行ったということから、このあたりの小学校出身ということもわかった。

 こんなふうにすこしずつ、空子のことをわかっていければ、それでいいのかもしれない。

 空子自身が語る空子ではなく、自分が感じた空子を積み上げていければ。

(積み上げる時間がどのくらいあるのかわからないけど)

「……いつまでこの街にいるんですか」

 それだけはどうしても知りたいことだった。

「いつまでもいたいなあ」

 けれど空子の返事は、答えではなく、願いだった。


 雨が降ろうが晴れようが、明日から毎日バスで行く。

 雨降る池の、デートの帰り。

 家の近くの交差点で別れるとき、蓮がそう言ったら、空子は「そんなのお金かかっちゃうから、いいよ」と、手のひらを前に向けて小刻みにふった。

 雨はもうあがっていた。

 彼女に断られてやっと、蓮は(あ……毎朝会いにこいって言ってるようなもんじゃないか、これは。彼女だって旅の予定はあるよな)と思い至った。

「そういえば空子さんって、今どこに泊ってるんです?」

「ふつうのビジネスホテル」

「どこの?」

「内緒」

「……」

 今日、空子についてわかったことのひとつ。

 「内緒」が出たら、空子はもうそれに関してはなにも言わない。

 そして話をそらすように、ちがうことを言うのだ。

「ねえ、自転車ではどういうルートで登校してるの?」

「三丁目公園の前を通って国道に出ます」

「じゃあわたし、晴れてたら三丁目公園で待ってようかな。何時頃通るの?」

「えっ……」

 これは、彼女のほうから毎朝会いにくると言っているようなものではないか。

 ならばさっきの「お金かかっちゃうから」というのは、体よく断りを入れたわけではなく、本当にそう思ってるから出た言葉なのか。

「迷惑ならやめる」とまた言うし、強引なのか遠慮がちなのか、本当にわからない。

「迷惑じゃない。迷惑なわけない。七時半に行きます」

 気が急いたように蓮は言った。

 会えるならいつだって、空子に会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。

「七時半? そんなにはやく学校行くの?」

「はやすぎて迷惑ならいつも通り八時に行きます。でも八時だと、通るだけになるから。三十分だけでも、空子さんと過ごしたい。迷惑じゃなければ……」

「……迷惑じゃないよ」

「よかった」

「うれしいよ」

 下を向いてもじもじと足をクロスさせつつ、空子はぽつりと言った。

「お、俺も……」

「……へへ」

 はにかんだ笑顔になって、空子が顔をあげる。

 ……かわいい。

「晴れか雨か微妙でも三丁目公園で」

「うん……」

 さっきから何回信号が変わっただろう。

 別れがたくて、ずっと向き合って立ちつくしている。

 空子はうつむきがちで、意味もなく自分の爪を見たりしていた。

 丸くて小さくてかわいい爪。

 時おり顔を上げては蓮を見て、にへっと笑う。

 碧山大池のまわりを並んで歩きながら、蓮はずっと相合傘で歩きたいと思っていた。言い出せないまま一周してしまい、己のふぬけ具合を責めた。

 相合傘で、彼女の小さな手に重ねて傘を持ちたかった……。

 自転車を立ちこぎする小学生二人組が、むこうから信号を渡ってくる。すれちがいざま「ラブラブぅ~!」と大声で冷やかされてしまった。

 その小学生たちが通らなかったら、蓮は我に返ることができないまま、日が落ちてもずっと空子と向き合っていたかもしれない。


「はあ~……」

 ざわついた休み時間の教室で、蓮は机に突っ伏して熱い吐息をついた。

 今朝も空子はかわいかった。

 魔法瓶に冷たい紅茶を入れて持ってきてくれたので、公園のベンチに並んで座って一緒に飲んだ。魔法瓶の蓋になっているカップしかなかったから、必然的にそのカップをふたりで使うことになった。

 お互いなにげない風を装いながら、ひと口飲んでは相手にカップを渡すとき、言い知れぬ甘い緊張が漂った。

 思い返すとドキドキする。

 帰りたい。

 学校なんかサボって一刻もはやく空子に会いたい。

 彼女は今、なにをやっているんだろう……。

「蓮、どう? この色。アッシュブラウン」

「ああいいんじゃない」

「見てから答えたらどうだ」

 髪をつかまれ、無理矢理顔をあげさせられた。

 目の前に、髪色が明るくなったはじめがいる。

「やめろ。ハゲる」

「いっそハゲろ!」

 なおも髪を引っ張られ、蓮は「やーめーろー」とわめきながら抵抗した。

「なかよしだねえ」

 くすくす笑いながらそう言う声が、廊下側から聞こえた。

 教室の出入り口付近に、ほかのクラスの女子がいる。名前も組もしらない子だ。巻いた茶髪から察するに蓮が苦手な派手めなタイプだが、表情がにこやかで威圧感はない。

「誰だ?」

「彼女」

「へー」

 はじめがさらっと言うので、蓮もさらっと答えた。

 さっさと彼女のところへ行けばいいのに、はじめは妙ににやにやして絡んできた。

「童顔黒髪ロングの子とはどうなの?」

「……それなりに」

「今度語ろうぜ」

 はじめは手をグーにしてぐりぐりと蓮の脇腹を圧迫したのち、やっと解放してくれた。小学生みたいなやつだと蓮は思った。

 カップルをじろじろ眺める趣味はない。

 蓮は机にくたりと頭を乗せ、廊下とは反対側の窓を見やった。

 梅雨の切れ間の晴れ渡った空が、ソーダアイスのように青かった。


 蝉が鳴くほどの本格的な夏は苦手だ。

 でも、六月の夏日はきらいじゃない。

 日焼けも海も手つかずの、まだ暑くなりきれない新品の夏。

 三丁目公園には足首程度の深さの流れる水路があって、放課後の小学生たちが靴と靴下を脱ぎすてて遊んでいた。靴下の脱ぎすてっぷりが乱雑すぎる。片方なくして親にしかられる子がいるだろうなと、蓮は散らかった靴下を憂えた。

 はじめは靴下をなくすタイプの小学生だったにちがいないと思う。クローバーのおばちゃんにガミガミ言われている十歳の彼が目に浮かぶようだ。

 蓮自身は、靴下を丸めて左右別々に靴に詰め、そのまま忘れて靴を履こうとして、履けなくてあせる子だった……。よく母親に「ちゃんとしてるようでいて根本的にどこかバカ」と言われたものだ。

 空子には朝、放課後四時半くらいに行くと言ってあったけれど、四時十五分には公園に着いた。

 自転車を置き、木陰のベンチに座る。

 空子を待つ間に英熟語でも暗記するかとノートを広げたものの、一分おきくらいに顔をあげて周囲を見回してしまう。

 だから空子が右手に青、左手に白い丸いものを持って抜き足差し足で近づいてきたのも、すぐに見つけた。

「見つかっちゃったあ」

 植え込みの陰からひょっこり顔を出しながら、空子は言った。

「なにする気だったんです?」

 蓮の問いに答えるかわりに、空子は手に持った丸いものを蓮の頬に押し当てた。

「つべたっ! なにこれ!」

「玉ゼリーだよ。しらない?」

 空子が丸っこいチューペットのようなものを蓮に見せる。やわらかい透明な容器に入ったこの玉が、ぴょこんととび出た吸い口から吸って食べるゼリーであることを蓮はようやく思い出した。

「なつかしい。よく駄菓子屋で買って食ったな」

「小学校のそばに駄菓子屋があるの。わたしがこのへんに住んでたころにもあったんだけど、まだあって感動しちゃった。凍ってるのを溶かしながら食べるのがおいしいんだよね」

「凍ってるんだこれ。どうりで冷たいと」

「青と白どっちがいい?」

「……これってピンクもなかったっけ?」

「ピンクがよかった? いちご好き?」

「いや。空子さんは?」

「わたしはピンクより青が好きなの。いちごよりソーダがすき」

「じゃあ、青どうぞ」

「途中まで食べたら交換っこしようか?」

「……うん」

 吸い口の先を溝からねじり切って、ちゅうちゅうと中味を吸う。まだあまり溶けていないので、吸うのが困難だった。というかそれよりなにより、キスするように小さな唇をすぼませて吸い口をくわえる空子の顔を正視できない。

「半分食べた。あれ? 蓮くんおそい」

「……」

「どうしたの?」

「空子さん、君って……」

 確信犯? 実はすごい手練(てだれ)なの?

 蓮はやけくそのような勢いで溶けかけた玉ゼリーを吸い上げた。そして「はい、半分」と言って、空子にそれを差し出した。

 自分の食べかけの白が空子の手に、空子が小さな唇で吸い上げた青色の残りが自分の手に渡る。空子が、さっきまで蓮が吸っていた白色の吸い口に唇を寄せる。その様子を見ているだけで、胸の奥から甘いざわめきがせりあがってきた。

(この先どうなっちゃうんだろう……)

 不安半分期待半分に思いながら、蓮はきっぱりと決心した。

 せざるを得なかった。もう駄目だ。

 だまされているのだとしても、後悔はしない。

 あそばれているのだとしても、空子を責めたりしない。

 ふたりの間の拳ふたつぶんほどの距離を、蓮は思い切って縮めた。半袖から出た二の腕が、空子のやわらかな二の腕に触れた。

 空子がきゅっと身を固くしたのがわかった。

(手練なの? それとも純情なの? もうわからんよ……)

「空子さん、俺だまされても恨まないけど、たぶん泣く」

 空子が玉ゼリーから唇を離すのが、視界の端に映った。

 横顔に感じる彼女の視線。

「だましてないよ……」

 空子の声は少しふるえていた。

「うん」

「でも、だましてるかもしれない……」

「どういうこと?って訊かないほうがいいんですよね」

「ごめんね」

「うん」

「迷惑だったらもう蓮くんにつきまとわない」

「迷惑じゃない。何度も言うけど」

 膝に置かれた彼女の右手を、蓮の左手がつかまえた。凍ったゼリーで冷たくなった華奢な手を包み込むように力を入れる。

「俺に声かけてくれてうれしい」

「なんで……」

「好きだもん。空子さんのこと。なんにもしらないけど」

「なんにもしらないのに好きって変だよ……」

「そうですね。名前と住所と連絡先以外のことなら少しずつわかってきたから、なんにもしらないってわけじゃないな」

 空子の目をのぞきこんだら、多めのまつげに縁取られた瞳の表面に、うっすらと涙が幕を張っているのがわかった。

「本気ですよね? 信じていいですね?」

 空子は小さくうなずいた。

「空子さんに出会えてうれしい」

「わたしもうれしい」

「俺のこと好き?」

「大好き」

「告白完了。……ギャラリー多いけど、いいですか?」

「ギャラリー?」

「ガキどものこと」

 体の向きを変え、空子に向き直る。

 左手で空子の右手をつかまえたまま、右腕をまわして空子の体を包み込む。空子は顔をあげた。泣きそうだった。俺も泣きそうだと蓮は思った。

 悲しくなんかないのに、胸がいっぱいになると泣きたくなるんだな。

 まわした腕に感じる空子の体はあたたかいのに、そっと重ねた唇は冷たくて、冷えたソーダの味がした。


 金曜は、二度目のクローバー手伝いの日だった。

 蓮がカウンター内の物置からデニムのエプロンを取り出してつけていたら、手の空いたマスターが話しかけてきた。

「蓮くん。君がこの前言ってた、ここがつぶれたと思ってた人には、あれから会ったの?」

「会いましたよ」

 気にすることなどなにもないのだと思いつつも、この前のマスターの様子が変だったから、空気が張り詰めたようにかんじてしまう。

「そう。なにか言ってた?」

「クローバーが移転したことは最近きいたって言ってました。お店に来ましたか?」

「いや――。どんな人だって言ってたっけね」

「髪が黒くて長くてまっすぐで、ほっぺたがふっくらしたかんじの童顔で、垂れ目の目元だけは大人っぽいかんじの人です。歳は俺くらいに見えるけど、もうすこし上のようです」

「ふうん……」

「心当たりがあるんですか?」

「それだけじゃわからないな。よくいるタイプだろう」

「――水色が好きな人です」

「水色?」

「いつも水色のなにかを身につけてます。長靴とか、ブラウスとか……」

 魔法瓶も水色だった。そう言えば。

 蓮はそこまで言ってしまってから、空子には店の人たちを遠くから眺めるしかない事情があることを思い出した。どんな事情かはしらないが、マスターに空子のことを詳しく話すのはまずかったかもしれない。

 ドアについたベルが鳴り、客が入ってきた。「いらっしゃいませ」と商売用の声を出してメニューを手にし、蓮はカウンターを離れた。

 空子の話はそれっきりだった。

 閉店後、モップを手に雑談しているときも、蓮ははじめの子供時代の暴露話に笑っていたから、暴露話のつぎにマスターが口にした話題が空子につながるとは、まるで思わなかった。

「蓮くんは、霊感ある?」

 マスターの言葉に、蓮は(そうか、そろそろ怪談の季節か)と納得しつつ、「ないですねー。一度くらいは怪奇現象を見てみたいと思いますけど」と愛想よく返した。

「僕はあるらしい。一度だけ幽霊を見たことがある」

 へえすごいですねえ、どこでですか?と軽く尋ねるには、マスターの声のトーンが重かった。

 蓮はモップの手を止め、店主の顔を見た。

「きつかったなあ……あれは。娘の葬式の日に、死んだ娘の霊に会うんだから」

 彼は洗った調理器具を拭く手を止めずに話していた。

「娘の葬式? え? 娘さんとは今度一緒に住むんでしょう? 新しく建てる二世帯住宅で。だんなさんとお孫さんたちも一緒に……」

「はじめにはきいてないのかい? 死んだのは次女だよ」

「次女? お姉さん、ふたりいたんですか?」

「次女は交通事故でね……。まだ二十歳(はたち)だった。かわいそうに」

「……」

「姉妹で歳が近かったから、持ち物が混乱しないように長女のものはピンク、次女のものは水色って、なんとなく決まっていて……」

「……」

「君が会ったその人は――ふふふ、次女の霊かなあ?」

 はじめ父の声に、わざとらしい演技っぽさが混じってきたのを蓮は聞き逃さなかった。

「あっ、なんだ、冗談ですか? ですよねですよね?」

「いや、僕が娘の幽霊に会ったのは本当なんだよ~」

「ええとその……」

「君が会ったその人は……。ねえ君、怖い話苦手? 実は苦手?」

「苦手じゃない……ですけど……」

「ははは。君が会った娘さんは幽霊のようにミステリアスな人なのかい? それは素敵だね。今度ぜひ店に連れて来なさい。ご家族と一緒でもいいよ」

「そ、それは怪談より怖い状況です!」

「ふむ、彼女か」

「あう……」

「いいね、おもいっきり青春を謳歌しなさい。人生いつ終わるかわからないからね」

 蓮が絶句した顔を見て、マスターは笑った。笑うと眉毛が八の字に下がる。

 見事にからかわれたように思えるけれど、蓮はひっかかりを覚えた。

 はじめ父は、バイトをからかうためだけに、娘の死を持ち出すような人だろうか?

 そうは思えない。

「マスター」

「なんだい?」

「この前俺がその女の子のことを話したとき、一瞬本気で娘さんの幽霊だと思いませんでしたか? 今もちょっと思ってませんか?」

「ははは。まさか」

「ならいいです。つらいこと思い出させてすみませんでした」

「――次女の写真、見る?」

「いやそんな。マスター、見たらつらいんじゃ……」

「つらいもなにも、いつもここに飾ってあるし」

 はじめ父は、厨房の一画を占める業務用冷蔵庫のほうへ蓮をうながした。

 冷蔵庫の側面は、マグネットで貼られたメモでいっぱいだった。メモに隠れて写真が貼ってあるのかと蓮が目をこらすと、マスターは冷蔵庫の側面ではなく、冷蔵庫の陰になった目立たない壁面を指差した。

 花柄の壁に、四窓の木製フォトフレームがかかっていた。四窓のひとつは遠野家の家族全員の写真――はじめは赤ん坊だ――残りの三窓は、三人の子供たちのアップの写真。

「次女はこれ」

 蓮くらいの年頃の少女ふたりのうちひとりを、はじめ父は指差した。

 蓮はフォトフレームに顔を近づけた。

 よく撮れた写真だった。

 いまはもういないという、写真の次女が笑いかけてくるかのようだった。

「マスターに似てますね。笑い顔が」

 写真を見ながら蓮は言った。

「そうかな」

「はい。雰囲気がよく似てます。はじめはおばさん似ですね」


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