1・長靴とクローバー
一般小説程度の軽い性描写あり
梅雨である。
玄関先に出された水色の長靴をめぐり、母と次男坊が口論している。
「長靴なんか履かねぇよ」
「だってロンちゃん、きょうすごい雨よ?」
「長靴なんか履いてくるやつ、六年にいねぇし。低学年だけだし」
「泥水でぐちょぐちょになったら、洗うのお母さんだよ?」
「自分で洗うし」
「うそばっかり。どうせそのままほったらかして、スニーカーがくさい靴下製造器みたいになっちゃうんだよ。家族みんなが迷惑するんだよ。ロンちゃんの足のにおいのせいで!」
「なんでそこまで! つか、ロンちゃんって呼ぶな! 恥ずかしいから!」
弟が思春期らしい抵抗を見せている間、長男坊である木崎 蓮は、かつて自分が履いていた長靴の明るい水色をなつかしい思いで眺めていた。
ソーダアイスのような澄んだ水色。
蓮は小学生のとき、この長靴を履くたびにうまそうだなあと思ったものである。色合いがガリガリ君ソーダ味そのものなのだ。
蓮の足が大きくなり、この長靴はしばらく靴箱の奥で眠っていた。このたびおさがりとして復活したようだ。
しかし、その復活を弟は阻む気でいるらしい。
かわいそうな長靴。
「論、長靴が哀れだから履いてやれ」
「そうよそうよ、お兄ちゃんの言うとおりよ」
「『長靴が哀れだから』って、意味わかんねぇよ」
「お兄ちゃんの言うことききなさい」
「なんだよ、ふたりして。こんな変人の言うこと誰がきくか」
変人。
失礼な。
「話し合いが終了しないようだから、俺は行くぞ。思春期くん」
「誰が思春期くんだ! あんただろう思春期くんは!」
「十八歳も思春期だったかな?」
「論。お兄ちゃんは思春期を通りこして老熟期に入ってしまったの」
わめく弟と失礼な母を無視して、蓮は魚屋が履くようなふくらはぎまでの黒いゴム長を履いた。おしゃれなレインブーツではない。昭和の香り漂う業務用のゴム長だ。
当然ながら、蓮の高校でゴム長を履いてくる生徒は蓮以外いない。
こんなレトロなゴム長、今どきおじいさんしか履かない。
玄関のドアを開ける。
雨の音が強く聞こえ、細かな飛沫と湿気が顔に押し寄せる。
母の言ったとおり、雨足が強い。
玄関ポーチで傘を開きながら庭を見ると、柴犬のルンが真新しい犬小屋の中で縮こまっていた。梅雨入りしたから、散歩に行けない日が多くなるだろう。
遊びたい盛りの子犬なのに。
かわいそうな六代目ルン。
母親のこだわりで、母の飼うペットはすべて「ルン」と名付けられている。母が子供のころからの伝統(?)だ。
ペットはルン。
長男は蓮。
次男は論。
ルン・レン・ロン。
つまりまあ、木崎家の名付けの法則はそういうことだ。
ちなみに、母の名は凛という。
リン・ルン・レン・ロン。
バス停まで、蓮は家が密集した住宅地を歩く。
晴れていれば自転車通学、雨ならばバス。しかし高校の前まで行ってくれる路線バスに乗るには、蓮の家からたっぷり十五分間歩かなければならない。最初のうちはローファーで歩いたのだが、つま先から水がしみこむわ、裾が濡れて脛にはりつくわで気持ちが悪かった。
というわけで、ゴム長を採用した。
ホームセンターでたまたま目についたのである。安かった。
ちょっと重いが快適である。
蓮としては学校の靴箱に入りづらいのだけが問題なのだが、弟は「もっと別の問題があることに気付け。そんなだから彼女がいないんだ」と、ひどいことを言う。
大きなお世話である。
水たまりをものともせず、路地をずんずん進む。
蓮は苔むした古いブロック塀にかたつむりがくっついているのを見た。かたつむりを見つけても、小学生のとき感じたような気持ちの高まりがない。自分も歳をとったものだと思った。
小学生の自分なら、片っ端からかたつむりをむしりとって手のひらにのせ、そのまま学校へ持って行き、教室に着いてから「はて。これをどうしよう?」と途方に暮れたことだろう。(そんな児童だったのだ。)
でも、十八歳の自分は、バスに乗り込むころにはもう、かたつむりのことなど忘れてしまうのだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、水を跳ね上げながら走る足音が聞こえた。
ふりかえると、水色の長靴を履いた小六男児がいた。
履いてやれとは言ったものの、明るくファンシーな水色は、この子には似合わんな――と蓮は思った。弟はどうやら長靴論争で母親に負けたようだ。
「論、その長靴けっこう滑る――」
言ってるそばから。
論は側溝のふたに足を滑らせ、すってーん!と転んだ。
転んだ拍子にランドセルが開いたらしく、筆箱やらノートやらが濡れたアスファルトにバラバラとこぼれ落ちてしまう。
(嗚呼バカめ。これはダメージでかいぞ)
蓮は弟に走り寄った。ふっとんできた学童傘を拾い、身を起こした弟に渡す。屈んで筆箱とジャポニカ学習帳を拾い上げながら「だいじょうぶか?」と訊いたら、「平気」と返事が返ってきた。
「見せてみろ」
弟のズボンの裾をめくりあげる。七分丈ズボンだから膝小僧は擦りむかずに済んだようだった。大ダメージを受けたのは膝よりも、水たまりに落ちたジャポニカ漢字練習帳だ。
「濡れたな、これ」
「もう終わりそうだから、いいよ」
「今日使う分に困るだろうよ」
蓮は自分のショルダーバッグを開けた。ルーズリーフの用紙を何枚か抜き出し、「これ使っとけ」と言って、背負われたままの弟のランドセルに入れてやる。
弟がハンカチで拭いた筆箱も、受けとって中に入れた。
「さんきゅー、蓮」
「長靴であまり走るな……って言ってるそばから! 走るな論!」
「待って! ねえ待って! これも君のじゃない?」
走り去る弟の背中に、自分以外にもうひとり、声をかける者がいた。
蓮はびっくりして声のほうを見た。
蓮とおなじくらいの年頃の、女子だった。透明なビニール傘をさした長い黒髪の女の子が、空のペットボトルを上に掲げていた。
予想外の声に呼び止められて、弟は立ち止った。
女の子が論に近づく。
「君のランドセルから転がり出てきたんだけど……」
「あ。俺のです。ありがとうございます」
五〇〇ミリリットルのペットボトルを受けとりながら、論は礼儀正しくぺこりと頭を下げた。よく見ると、耳まで赤い。
妙齢の女子だからって、お兄ちゃんとはずいぶん態度が違うなあ思春期くんと、蓮は思った。
「図工で使うの?」
「はい、そうです」
「なつかしい」
思春期くんはもう一度軽く頭をさげ、どことなくぎくしゃくとした足取りで去って行った。
弟が遠ざかったあとの路地は静かになり、ただ雨の音が響いている。
蓮はおそるおそる、となりにいる長い黒髪の女の子に顔を向けた。
ちょうど女の子も、蓮のほうを見たタイミングだった。
ビニール傘越しに、目が合う。
お互い、反射的にぱっとそらす。それはそれで気まずいので、もう一度そうっと相手のほうを向く。
二度目に相手の目を見たとき、女の子はビニール傘を傾けていた。水滴のついた傘越しにぼんやりとしか見えなかった彼女の顔が、障害物なしに蓮の視界に飛び込んできた。
切り揃えた前髪の下の、やや目尻の下がった目元だけがすこし大人っぽい、頬のふっくらしたベビーフェイス。
化粧気がないのに、睫毛は濃く、唇は赤い。
……かわいい。
蓮は引き込まれるように、彼女の黒目がちの目をまじまじと見つめてしまった。
雨が傘を叩く音をどこか遠くで聞きながら。
「あなたご近所のひと?」
彼女は言った。ふくふくしたほっぺたの印象より、大人っぽさのある目元の印象に近い声だった。
落ちついた声。
「ここから徒歩五分圏内に住んでます」
「この先に、ハンバーグ屋さんがあったんだけど、知ってる?」
女の子は蓮が行く先の路地に、人さし指を向けた。
「ハンバーガー屋? こんなただの住宅地にですか?」
「ハンバーガー屋さんじゃなくって、ハンバーグレストラン。近所の人しか来ない小さな店だったんだけど、さっき行ってみたら看板がなくなってて。つぶれちゃったのかな……」
濡れた路地を見ながらつぶやく彼女は、困ったような顔をした。そのハンバーグレストランに用があるのだろうか。それとも、愛着のあった店なのだろうか。
「申し訳ない。今年三月に隣町から越してきた新参者で、よくわかりません」
「そっか。ごめんね、通学途中に引き止めて」
「いえいえ。数分なら時間に余裕はあります」
「さっきの子、弟さん?」
「そうです」
「かわいいね」
「小憎らしいですよ」
「やさしくしてあげてたじゃない」
「不測の事態でしたし」
「不測の事態……」
女の子は蓮の黒いゴム長に目を止めた。
不思議そうにじっと見ている。
「……めずらしいね」
「ゴム長見たことないんですか?」
「あるけど」
「雨の日は長靴がいいですよ」
「そこはわたしも同意するよ」
彼女はそう言って、視線で足元を指し示した。
彼女も長靴だった。蓮から論に受け継がれたあの長靴とおなじような、ソーダアイスみたいなクリアな水色の長靴。
奇遇だなと蓮は思った。
「……子供みたいな長靴ですね」
うっかり本音が出てしまった。いかんいかん。
「ちょっと。今の発言、わたしもあなたのゴム長を笑ってもいいってことかな」
彼女は笑いながら言った。
ああ、このひとは失言を冗談にしてくれる心の広いひとだ。蓮はそう判断した。
「まあ、大抵のひとは笑いますので。どうぞ」
「どうぞと言われても改めて笑ったりしないけど」
「じゃあ気が向いたら笑ってください……」
「あなたおもしろい」
「えっ? えっ? それ『奇妙な人』ってことですよねぇ?」
彼女はまた笑った。笑うと目が細くなって、童顔具合が増す。声が大人びているので、アンバランスな魅力があった。
童顔なのにハスキーな声の持ち主は、蓮の好みだ。
ずっとこのまま彼女としゃべっていたいなあ……。
そう蓮は願ったが、路地沿いの家から主婦がゴミ捨てに出てきた途端、彼女はくるりと踵を返した。
「じゃ」
小さな出会いにふさわしい、簡単な別れの言葉を残し、彼女は蓮から離れて行った。
蓮はしばらくその場に立ちつくしていた。
なすすべもなく、彼女の後ろ姿が小さくなっていくのを見送る。
白い薄手のパーカー、デニムのミニスカート。化粧気がなく同い年くらいに見えたけれど、私服のところを見るともう高校生ではないのだろう。
(年上か)
一度だけ、彼女はちらりとふりかえった。
笑いかけてくれた気がしたものの、遠くてよくわからなかった。
そのまま彼女は路地を曲がり、蓮の視界から消えた。
水色の長靴の残像が頭をよぎる。
蓮は、かたつむりはもういらないけれど、彼女とまた会う機会がほしいと思った。
(ハンバーグレストランって、どこだったんだろう)
路地の両側を注意しながら歩く。
バス停へ続くこの道は雨の日しか通らないし、隣町の団地からこの近辺へ越してきてまだ三ヶ月だし、詳細な土地勘はない。
民家が立ち並ぶ中、神社と呼ぶには小さすぎるようなお社や、ペンキが剥げた遊具のある児童公園、桑の木のある小さな墓地などがある。
家庭菜園の葱ぼうずと黄色いヤマユリ。本棚くらいの小さな温室の中で、守られて咲く白い蘭。家々も庭もちまちまと小さく愛らしいこの道を、蓮は好ましく思っている。
(あ……ここかな)
入口の扉が白い格子とガラスでできている建物が目に止まった。
一般の民家だったら、ガラスから中の見える玄関扉など付けないだろう。
白い大きな出窓もある。前を通るたび、淡いペパーミントグリーンの外壁が昭和のペンションみたいだと思っていた建物だ。三角屋根と庭の欅も、高原のペンションっぽさを演出していた。
築年数はだいぶ経っているようで、モルタルの壁にひびが入っている。ノスタルジーを漂わせるたぐいの上等の古さはなく、単純に古い。そのぶん昭和レトロだのなんだのと余計な洒落っ気がくっついてこなくて、安心できる古さではあった。
注意してよく見ると、扉上部の外壁に四角く切り取ったように汚れていない部分がある。そこに看板がかかっていたのだろう。
蓮はあまりじろじろ見ないように、ゆっくり前を通り過ぎた。二階部分は住居のようだし、店は畳まれていてもまだ人が住んでいるかもしれないからだ。
出窓の下の花壇には、白薔薇がいくつか咲いていた。
雨に濡れた大輪の薔薇は、触れたらはらりと崩れてしまいそうな風情で、重たげに花首を傾けていた。
学校の昇降口で上履きにはきかえ、黒いゴム長を折って靴箱にぎゅうぎゅう押し込んでいたら、「はじめ!」と言って背後から蓮の肩をたたく男子生徒がいた。
「……はじめ?」
顔を向けた蓮を、中学からつきあいのある中井が「あれっ?」という目で見る。
「おやじだったんか。ごめん、まちがえたわ。似てるなおまえら」
「おやじ」というのは蓮の古いあだ名だ。容姿ではなく、趣味やふるまいが今風でないからついたあだ名だった。
「はじめって遠野一? 似てるか?」
遠野一とは三年に上がったこの四月に、はじめて同じクラスになった。誰にでも愛想のいいやつなので、蓮もふつうに話す相手だけれど、自分に似てると思ったことは一度もない。
蓮はおやじくさい言動に似合わず「参謀っぽい」だの「影の主役っぽい」だの言われる系統のクールな顔立ちで、遠野一は「やんちゃっぽい」「子犬っぽい」の系統だ。
「顔は似てない。うしろあたまが似てるな。同じ髪型だ」
蓮の後頭部を見ながら中井が言った。
そう言われるとそうかもしれない。身長や体型も似たようなものだし、髪型が同じで制服ならば、まちがえられることもあるだろう。
そのまま中井と一緒に教室まで行く。
教室に入ろうとすると、入り口に遠野一がいた。
あいさつしようとしたら、はじめのうしろから蓮の友達が近づいて彼の肩をたたき、「蓮、先週借りた本だけど……」と話しかけていた。
「えっ? 蓮て?」と言って、はじめがふりかえる。
それを見て、先ほど同じことをした中井が爆笑した。
はじめはわけがわからないと言いたげな顔をして、人違いしたクラスメイトと笑う蓮たちを見て当惑していた。
「蓮、ちょっとトイレいこーぜ」
「トイレ?」
授業の合間の休み時間、蓮が教科書をしまっていたら、机の前にはじめがやってきた。
はじめとは連れションするほどの仲ではない。
不思議に思って見上げると、彼はラインストーンでキラキラにデコってある平べったいものをふたつ持っていた。片方はピンクっぽく、片方は白っぽい。どう見ても女子の持ち物である装飾過剰なそのグッズがなんであるか、蓮にはわからなかった。
「……なんだそれは」
「鏡。女子に借りた。トイレの鏡の前行こーぜ」
はじめは白っぽいほうの薄っぺらい品を蓮に手渡した。表面に貼りついたキラキラになるべく手を触れないようにして、CDケースを開く要領でおっかなびっくり開けてみると、中はたしかに鏡であることがわかった。
鏡を持って鏡の前へ行くということは、そうか、合わせ鏡の要領で自分のうしろあたまを見ようということか。
合点のいった蓮は「よかろう」と言って立ち上がった。
自分たちの後ろ姿の似具合を確認してみようという提案なのだろう。
男子トイレの鏡を占領し、蓮とはじめはああでもないこうでもないと手鏡の位置を調整しながら、自分たちの後頭部が並んで映る角度を探した。
探求の結果、手鏡に映った図を大鏡に映すより、大鏡に映った図を手鏡で拾うほうが見やすいと判明、ふたりして壁の鏡に背を向ける。
「似てる!」
「似てるな……」
蓮ははじめて認識した。
自分と後ろ姿がそっくりの人間がいることを。
「えりあしのかんじとかそっくり!」
はじめはなんだかはしゃいでいる。
「髪質もおなじだな。つむじの位置も」
「蓮、どこで髪切ってる?」
「駅前の雑居ビルにある……、カルマがどうこういう美容室だ」
「カルマがどうこう~? なにその輪廻なかんじ。中二病?」
「オーナーに訊いてくれ。母親の友人が経営していてな。寿司屋の二階だ」
「もしかして、エア・カルム?」
「そんな名前だったかな。カタカナは苦手だ」
「おれもそこだよ! 担当美容師誰よ?」
「若なんとかいう、大村崑みたいな鼻眼鏡の若者だ」
「大村崑って誰よ。もしかして若平さん?」
「ああ、そんな名前」
「おれもその人だよ! おれら同じ美容師におなじようなうしろあたまにされてんのね……。前とサイドはこだわっても後ろなんて任せちゃうからね……」
「また間違われたら面倒だから、おまえ別の店行ったらどうだ、遠野」
「やだよ。ポイント溜まったから次回千円引きになるし。蓮が別の店行け」
「そうは言っても。母親の義理があって、長いこと通ってるんだ」
「じゃあ担当変えるとか」
「それも気まずいだろう。大村崑に手落ちがあったわけでもないし。おまえが変えろ」
「分かった……変える。担当美容師じゃなく髪色を」
「髪色?」
「染めれば同じ髪型でも問題ないだろよ?」
「なるほど」
はじめなら、黒髪より茶髪が似合いそうだと蓮は思った。
「というわけで」
そう言いながら、はじめは右手のひらを上に向けて、蓮にずいっと差し出した。
「なんだ、この物欲しげなポーズは?」
「ヘアカラー代半分ちょうだい」
蓮ははじめの手を払いのけるようにバシッと叩いた。
朝方の雨は昼過ぎに豪雨になったあと、放課後にはあがった。自転車で来ていないから、蓮は帰りもバスだった。
いつものバス停を降りると、濡れた街が雲間から顔を出した太陽に照らされていた。
六月の日は長い。夕方なのに日差しがくたびれていない。
蓮は水たまりが光を反射する住宅地を気分よく歩いた。庭やプランターを彩る花々が、雨露をまとって光り輝いている。
しかし、ペパーミントグリーンの建物の白薔薇は、花がすべてなくなっていた。
豪雨の勢いで散ってしまったのかと思い、蓮は出窓下の花壇に近寄って確かめてみた。地面に花びらは散っておらず、枝がすっぱりと断ち切られていた。住人が切りとったのだろう。
路地沿いにある墓地では、桑の木に小学生が群がっていた。
「五枚くらいとればいい?」
「蚕けっこうよく食べるよ」
などと、小学生たちが声高に話すのがきこえる。
そう言えば、小学校のころ理科の授業で蚕を飼ったっけな。蓮はふんわりした触りごこちの白い芋虫をなつかしく思い出した。
「濡れた葉っぱやったらだめなんだよ」
「あとで拭けばいいよ」
子供たちの声を聞きながら、墓地の前を通り過ぎる。
そのとき、どしんと鈍い音がした。
重いものが落ちたような音だ。
蓮の心臓がきゅっと縮み上がった。さっき、上のほうの葉を取るために墓地の外塀によじのぼっている子がいた!
蓮は桑の木をふりかえった。
地面に落ちて痛がっている子供の姿はなかった。
子供たちはみな無事で、揃って墓地の入り口を見ていた。墓地はすこし土地が高くなっているため、入口は五、六段の石段になっているのだ。
石段の下に、誰かうずくまっている。
顔をうつむけているが、髪型や服装から中年すぎの女性だとわかる。
子供たちは身をこわばらせ、無言でその人を見ていた。
「大丈夫ですか!」
蓮は中年女性に駆け寄った。濡れた石段に足をすべらせ、落ちたに違いない。
「痛い……。痛、痛」
中年女性は蓮の声に顔をあげ、地面に座りこんだままスカートから出た足首をさすろうとした。触ったらかなり痛かったようだ。目をつぶり、ぎゅっと眉根を寄せた。
「そ、そんなに痛いんですか」
「痛いー」
「救急車。救急車呼びましょう!」
「えっそんな、救急車なんておおげさな……痛――っ!」
「立とうとしちゃだめですよ。呼びますよ? 呼びますからね」
蓮はスマートフォンを取り出した。
救急車って何番だっけ? はじめてかけるのでそんな基本的なこともド忘れしてしまい、指が彷徨う。
「119番……」
あまりの痛みに観念したのか、中年女性のほうがあわてる蓮に助け舟を出した。
119番電話のむこうの「火事ですか救急ですか」という第一声に、火事?どうして火事が出てくる?と思ったくらい蓮は動揺していたので、「住所を教えてください」と問われたとき、しばし言葉に詰まった。
「住所……? え。ここどこだ……」
「西萩坂二丁目……養安寺墓地前」
怪我人がまた助けてくれる。
おろおろしつつも、蓮はなんとか救急車を呼ぶ使命をなしとげた。
電話を切ったあと、はたと困る。目の前に、額に汗を浮かべ痛みに耐える人がいる。なんとか苦痛をやわらげてあげたいが、方法がわからない。
そんな蓮の気持ちを察してくれたのか、桑の葉をとっていた女子児童のひとりが「お母さん呼んでくる!」と言って走り去って行った。
蓮は心の中で(ぜひ頼む……)と彼女に念を送った。
中年女性は墓参りに来た帰りらしく、アスファルトに落ちたビニールバッグから線香の箱や花切り鋏などがのぞいていた。倒れて中味がこぼれそうになっているバッグを立てて道の端に置くと、あとは怪我人のそばに座っていることくらいしかやることが思い浮かばない。
「大丈夫ですか」
まったく大丈夫じゃなさそうな相手に言うにしては間抜けなせりふだと思いつつ、蓮は言った。
「ありがとね……。北高の制服だね……うちの息子と一緒」
「そうなんですか」
「何年生?」
「三年です」
「あら……うちの息子もだよ」
ずっと眉間にしわを刻んでいた中年女性は、額に汗を浮かべながらも、ふっと笑顔になった。愛嬌のあるその笑顔を見て、誰かに似てるなと蓮は思った。
誰だっけと考えるまでもなく、中年女性がその答えを言ってくれる。
「遠野一っていうんだけど……」
「えっ!」
「しってるの?」
「同じクラスです」
担当美容師も同じですと、心の中で蓮は言った。
「あなたみたいに親切な子と同じクラスなら安心だね……。お調子者だけどよろしくね。あなた、お名前は?」
「木崎蓮です」
「木崎蓮くん。おぼえとかないと。おばちゃん歳だから忘れちゃうよ……」
痛みに耐えているこの状況では、歳でなくともおぼえておくのは困難かもしれない。そう思いつつも、はじめの母親は蓮の母親よりだいぶ歳だなと思った。服装や手肌のきめなど、祖母と言われても通じそうな微妙な歳に見える。はじめは遅い子供だったのだろう。
そうこうするうちに、女子児童が母親を連れて戻ってきた。
母親はバスタオルを持っていた。怪我人に気付くと「クローバーのおばちゃん!」と声を上げ、赤の他人に見せるのとはちがう親身な心配顔になって、駆け寄ってきた。
どうやら知り合いのようだ。
蓮はほっとして、大判のバスタオルにはじめの母親が横たわるのに手を貸した。
横になったはじめの母親と女子児童の母親の会話をぼんやりと聞く。
「石段から落ちたん? おばちゃん大丈夫?」
「骨折れたかも」
「えー!」
「お店どうしよう……」
「お店の心配より怪我の心配しなよ。救急車呼んだん?」
「蓮くんが呼んでくれたの。はじめの友達」
女子児童の母親に蓮が会釈を返すと、遠くに救急車のサイレンが聞こえた。
今日は身のまわりで人がよく転ぶ。
はじめの母親を乗せた救急車を見送り、蓮は静けさを取り戻した路地を歩きだした。バスを降りたときより日が傾き、夕方らしい空になっていた。
自分と遠野一は、なにか縁があるんじゃないか。
そう思わずにはいられない一日だった。
むこうが馴れ馴れしく「蓮」と名前で呼んでくるのだから、こっちも明日からは「はじめ」でいいやと思った。
はじめの母親は足首の骨折らしいので、しばらく日常生活が大変だろう。はじめも不自由するだろう。まあ、なにか助けになることがあれば、微力ながら力を貸そう。
正面に見えるオレンジの夕日がまぶしいので、蓮は下を見て歩いていた。
半乾きのアスファルトに長く伸びる影がある。
人の気配を感じて顔をあげる。
ドキンと心臓が踊った。
朝見つけたかたつむりを放課後もう一度見つけた小学生のように。
前髪を目の上で切り揃えた長い黒髪。
目元だけ大人びた童顔の少女。
「また会ったね」
彼女は朝とはちがう服装だった。緑の七分袖カーディガンに、白いサブリナパンツ。水色の長靴ではなく、黒いフラットシューズ。
そして大きな旅行用のボストンバッグ。
「会いました」
また会ったねという言葉に対して、会いましたという受け答えはどうなのだろう。我ながらまぬけだと思う。
「あなたって、いつも誰かを助けてる」
「見てたんですか。今日はまわりでよく人が転びます」
「今日……」
彼女がなにか言いたそうだったので蓮は言葉を待った。
しかし会話はそこで途切れてしまった。
彼女の大荷物を見て、蓮は質問を口にした。
「旅行かなにか?」
「うん」
「どちらへ?」
「ここへ」
「ここ?」
「ここに旅行に来たの」
「観光地でもなんでもないふつうの街なのに?」
「思い出旅行なの」
蓮は彼女がハンバーグレストランのことを尋ねてきたことを思い出した。
蓮にとってはただの住宅地でも、彼女にとっては思い出深い場所なのだろう。
どんな思い出かわからないけれど。
そこまで訊けるほどの関係でもないけれど。
彼女と自分の関係は、言うなれば通りすがりだ。
「あなたが言っていたハンバーグレストラン、ペンションみたいなペパーミントグリーンの建物ですか? 出窓のある……」
「そうよ」
「……閉店してましたね」
「うん。でも、お店の人には会えたから、いいの」
「よかったですね」
「うん」
「ほかにもなにか思い出をお探しで?」
言ってみてから、ずいぶん恥ずかしいせりふだと思った。「ほかにもなにか思い出をお探しで?」って! ドラマか!
蓮は頬を赤らめて、口元を手で覆った。
彼女はそんな蓮を見てクスッと笑った。
「古い思い出を探すし、新しい思い出をつくるの」
笑われたと思ったら、彼女も似たような恥ずかしいせりふで答えてくれた。
彼女も恥ずかしいせりふの自覚があるのか、口元が笑いをこらえるような形になっていた。
この人は、決してテンションは高くないが、ある種のノリがよい。
蓮はますます彼女に好感を持った。
そして、なんとなく彼女も自分に好感を持ってくれているような気がした……が、弟が「もてない男の悲しい思い込みだな」と突っ込みを入れてくるような気もした。
論のやつは、小学生のくせに毎年バレンタインに複数のチョコを貰うモテ系なのだ。まったくもって生意気だ。
「通学はいつもこの道を通るの?」
蓮の懊悩を知ってか知らずか、彼女が無邪気に訊いてきた。
「いえ。雨の日だけ」
「雨の日だけなんだ……」
(何故がっかりした顔をするんだ?)
冷静を装いつつ、蓮は混乱した。
なんだろうこの会話。
なんだろうこの期待を持たせるような彼女の表情。
今日会ったばかりじゃないか。ひょっとしてこれが世に聞く逆ナンというものか。もしかしてラインのIDなどを訊かれるのだろうか。
どうしよう。ラインもツイッターもやってない。
いまどきメールアドレスじゃ重いのだろうか。
しかし彼女は携帯電話を意識したような動作は、微塵も見せなかった。
そしてどこか儚さを感じさせる笑顔になって、「雨、降るといいな」と言った。
「ええと」
それは、雨が降ったらこの道で俺と会えるからと解釈してもよろしいのか?
そんな疑問が脳裏に渦巻いたものの、やすやすと口に出せるほど蓮の神経は太くはなかった。
「なに?」
「ええと。質問があるんですけど」
「敬語やめてほしいなあ」
「はい。……じゃない、うん。ああ? おう? へい?」
「『うん』で」
「うん」
「質問って?」
彼女はのぞきこむような上目づかいで蓮を見た。
「ええと。ええと。名前……とか」
「空子。青い空の空子。あなたは?」
「蓮。ラリルレロのレン」
「らりるれろ?」
「ああああ間違えた。蓮華の蓮」
「ラリルレロのレンくんね」
「いや、蓮華の蓮……」
「ラリルレロのロンくんもいるのかしら……」
「それ弟」
空子はぷーっと吹き出した。
「もしかしてラリルレロのルンくんもいるの?」
「それうちの犬」
「ラリルレロのリンくんは?」
「母がリンちゃん」
「じゃあいるよね? ラリルレロのランちゃん」
「それ伯母。母の姉」
「あははははは!」
空子は心底可笑しそうに笑い、笑った拍子にボストンバッグを足の上に落とした。
「痛あ!」
痛がりつつも笑っている。
「重そうですね。持ちましょう」
「敬語やめてー」
「だって空子さん、年上でしょ」
「年上きらい?」
「好きです」
好きです、と言ったタイミングで、空子がぴたりと笑い止んだ。
蓮がボストンバッグを持ちあげつつ彼女の顔をのぞきこむと、空子は唇を真一文字に閉じて頬を赤らめていた。
空子のことを好きだと言ったのではなく年上が好きだと言ったのだが、空子だってもちろんそんなことはわかっているはずなのだが、「好きです」という言葉だけがふわりと浮いて、夕日にキラキラと乱反射する。
ああ、どうしようと、蓮は思った。
彼女のことなんてなにも知らない。名前しか知らない。
ちょっと話しただけなのに。
なんでこんなに彼女のことが頭を占めるのか。
朝の通学路で大きなかたつむりを見つけた十年前の自分は、放課後までかたつむりのことしか考えていなかった。あれと同じだ。小学生の自分が理由もなくかたつむりが好きだったように、お年頃の自分は理由もなくかわいい女の子が好きなのだ。おとなしめで清楚な雰囲気でありつつ、ほどよく冗談の通じるハスキーボイスの女の子が。
「蓮」
ケダモノめと、つい自嘲のつぶやきが出る。とはいえ別に潔癖症ではないから、これはこれで男ならしかたないとは思っている。というか今までこういう機会がなさすぎたから、わずかばかりのことでこんなに意識するはめに……。
「蓮」
いやちょっと待て、そこまで意識するようなことか? メールアドレスのひとつも訊かれてないのに、舞いあがり過ぎじゃないか? 痛いぞ俺。また生意気な弟にバカにされるぞ。
「蓮。こら無視すんな」
頭頂部の髪をつかまれたかと思うと、ひっぱられて無理矢理顔をあげさせられた。
目の前に、はじめの人なつっこい顔があった。
「やめろ。ハゲる」
「おれが染める代わりに、おまえがハゲるって手もあるな。なに真剣に考えてんだよ。ケダモノめとか言ったりして。キモイぞ」
「俺そんなこと言ってたか?」
「言ってたし、目がなんも見てなかった。うちの母ちゃんが『すごくいい子だった』っておまえに幻想持ってるから、変な言動は慎んでくれよ」
「あ。おまえの母さんその後どうだ、大丈夫か?」
「入院二週間の全治三ヶ月だってさ」
朝の授業前だった。
晴れていたので、迷った挙句結局いつもどおり自転車で来た。
空子のことばかり考えてしまうからやっぱりバスで来ればよかったいやそれは期待しすぎだ雨の日だけと答えたのだから雨の日だけにするべきだ物欲しそうに見えたら恥ずかしいし――などとごちゃごちゃ考えていて、はじめの母親のことをすっかり忘れてしまっていた。
(ケダモノなうえに外道な俺)
キモイと注意されたばかりなので、口には出さないよう胸のうちで言う。
「店がどうとか言ってたけど、大丈夫なのか?」
「夕方まではパートさんが来てくれるから大丈夫。夜はおれがフルで手伝わされてるけど」
「ふーん。で、なんの店なんだ?」
「あれ、まだ知らなかったのね。ハンバーグ専門の洋食屋」
(ハンバーグ専門の洋食屋?)
蓮はまじまじとはじめを見た。
ペパーミントグリーンの空き店舗が頭をよぎる。
質問を口にしようとする前に、はじめが先を続けた。
「シェフは親父なんだけど、母ちゃんは自称看板娘だからね。駅前商店街に移転してまだ間もないから、母ちゃんの戦線離脱は正直きついねー」
「移転した? 移る前はどこだったんだ?」
「母ちゃんが骨折した墓地のすぐ近くだよ。知らない? 『クローバー』って店」
「俺んちは南萩坂団地からの住み替えで、西萩坂に三月に引っ越したばっかりなんだ」
「そっか、入れ替わりだな。じゃあわかんないね。盛り場進出を果たした矢先にこれだよー。夜のパートさんが見つかるまで、おれ塾も行けんわ」
「……おまえ塾何曜日だ?」
「へ? 火金だけど――」
「おまえが塾へ行ってる間、俺が店を手伝ってやろうと思うが、どうだ」
「へっ?」
はじめが信じられないといった顔で見つめてくる。
しまった、この調子だと自分は遠野家にとって伝説の「親切くん」になってしまう。自分で言い出しておきながら、蓮はあせった。
なにか手伝えることがあればと思っていたことは確かだ。でも正直なところ、『クローバー』に思い出があるらしい空子が来るかもしれないという、下心のほうが大きい。
だからはじめが「なんか蓮ってマジいいやつ? 超絶いいやつ?」などと言うのに対して、「ファミレス程度の時給は出るんだろう?」と金の話で会話を締めた。
「手ごねハンバーグの店 クローバー」新店舗は、駅前商店街のいい場所にあった。駅からほど近く、人通りも多い。
カウンターとテーブル席四つの小さな店だけれど、あの住宅地の店舗よりはずっと客の回転がよさそうだった。さすがにペンションっぽい外観はしていないものの、こちらも小花柄の壁紙やらコットンレースのカフェカーテンやらで彩られ、カントリー趣味を感じさせる内装だ。はじめ母の好みかもしれない。
「助かるよ、本当に。いろいろとありがたいなあ……。君みたいな親切な子が、うちのはじめの友達とは」
ランチタイムとディナータイムの間の休憩時間だった。
シェフらしく白い帽子と白い上っ張りを身に付けたはじめの父親は、カウンターのむこうでディナータイム用の仕込みをしている。
はじめ父は口髭が半分くらい白くなっていて、はじめ母同様、父親とも祖父ともとれそうな微妙な年齢だった。商売人らしくよく笑うが、声に深みがあってうるさい感じはしない。首元に巻いた赤いバンダナが洒落ている。
私服になったらパイプ煙草とブランデーが似合いそうだと、蓮は思った。古いヨーロッパ映画に出てくるような、渋みと貫録のある大人の男だ。金持ちがこのタイプだと鼻につくものだが、親しみやすい小さなレストランの経営者という立場だと、なかなか感じがよい。
「あのときは救急車呼んだだけですし」
はじめ父が渋くてかっこいいので、蓮は若干緊張気味だった。
「話をしてくれたおかげで痛みから意識がそれてありがたかったって、うちのやつが言ってたよ。そばについててくれる人がいるのといないのとじゃ大違いさ」
「そうですかー」
照れくさかったので手元に視線をそらすと、カウンターのメニュー表の横に「短期パート募集」と書かれたカードがメモスタンドに挟まって置かれていた。蓮が手伝うのは夜のパートさんが決まるまでの、火曜金曜の五時から閉店までだ。
バイト代その他の打ち合わせが済むと、はじめ父は息子にむかって「これで塾をサボる理由はなくなったよな。な?」と念を押した。
「ちゃんと塾行けよ、はじめ」
蓮も隣に座るはじめに畳みかける。
「……なにこの逆らえない雰囲気。成績いいからってえらそうに」
「蓮くんは成績もいいのか。頭が上がらないな、はじめ」
「うがー」
「こいつは上の子と二十以上も歳の離れた末っ子でね。甘やかして育てちゃったもんだから、調子ばっかりよくて。蓮くんはお兄さんってかんじだね」
「はい。小六の弟がいます」
「うん、そんなかんじだ。はじめ、蓮くんにしっかり鍛えてもらえよ」
「なにをだよー」
「まずは正しい姿勢からだな」
はじめ父はそう言って、カウンターについた息子の肘を小突いた。頬杖をはずされてカックンとなったはじめを笑いながら、いい家族だなと蓮は思った。
「前の店舗の二階には、もう住んでらっしゃらないんですよね」
「あそこは老朽化したから、取り壊して二世帯住宅にするんだ。はじめの姉一家と一緒に落ちつくつもりさ。今は賃貸マンションに住んでるよ」
「ということは、新しい家が建ったらご近所ですね。よろしくお願いします」
「末永くよろしく頼むよ――こいつのことも。そうだ、今度蓮くんのご家族もこの店に連れてきなさい。タダにしとくから」
「いいですよ、そんな」
「いいからいいから。近いうちに是非」
はじめ父が「ちょっと買い物に行ってくる」と言って店を出たので、客のいない休憩時間の店舗に、蓮ははじめとともに残された。
「親父さんダンディだな」
蓮はサービスしてもらったアイスコーヒーをストローで吸い上げた。ガムシロップが底に溜まって激甘で、おもいきりむせる。げほげほ言いながらもう一度かきまわした。氷が鳴る。
「『ダンディ』ってあんまり言わなくね? おまえ昭和言葉好きだなあ」
「ああいう人をダンディと言わずしてなんというんだ」
「ふつうのおっさんだろ」
「格好いいおじさんだ」
「そうかなあ?」
「おまえは似てないな」
「……今、すごく持って回った言い方でおれがかっこ悪いって言ったな」
「言っとらん」
蓮は甘さがいい塩梅に拡散されたアイスコーヒーを吸い上げた。
はじめは「いいんだ、おれはかわいい系だから」とかなんとか、ぶつぶつ言っている。
男なのに「かわいい系」とはなんぞやと思った昭和脳の蓮だったが、言われてみればたしかに佇まいにかわいげがあるはじめである。飼い始めたばかりの六代目ルンに少し似ている。
「なにじっと見てやがる」
蓮の視線に気付いて、はじめが言った。
「ひとつ疑問がある」
まじめな顔で蓮は言った。
「……なに?」
「弟なのになんで『はじめ』なんだ?」
「ああ、それはおれも不思議に思って親に訊いたことがある。母ちゃんが言うにはこうだった。『バカボンの弟だってハジメだ』」
「……!」
蓮は衝撃を受けた。確かにそうだ。バカボンの優秀な弟は、次男なのにハジメだ。
「バカボン知ってんの? やっぱ蓮は昭和だなあ」
「MXで再放送を観たんだ!」
「あーおれもよく見てたよ。なごむよね、昭和アニメ。キテレツとかさ」
キテレツ大百科のオープニングの出だしがドラクエのテーマ曲に似てないかなどと、どうでもいいことをしばし語らう。
休憩時間の『クローバー』に、男子ふたりのまったりと平和な時間が流れた。
「ところで」
まったりを蓮が破る。少々唐突なタイミングではあった。
実はさっきから言い出すタイミングを計っていたのだけれど、いい機会に恵まれなかったのだ。
「前の店舗のお客さんだと思うんだが、童顔で黒髪ロングヘアの女の子しらないか? 大学生くらいの」
「えっ、誰それかわいい子?」
「わりと」
「えっ、何それおまえの好きな子?」
はじめの瞳が急にキラキラ輝きだす。
やはり言うんじゃなかったと蓮は後悔した。目を泳がせているところに、なれなれしく肩に手を置かれる。
「来店客をチェックしときますよ先生。童顔黒髪ロングね。ふふふ」
「しなくていい。そんなんじゃないし」
「服は何系?」
「シンプルで普通っぽい……いや、だから、チェックしなくていいって!」
「いやいやいやいや! ははははは!」
置かれた手で今度はバシバシ肩をたたかれる。本当に言うんじゃなかったと思ったけれど、すべては後の祭りだった。