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Case櫂 〜胸筋と柔肌〜

「ハッ、ハッ、ハッ……」


小刻みな息が部屋に響く。修学旅行だろうが何だろうが、これは俺の日課なんだから関係無い。俺は黙々と腕立て伏せを続ける。


腕立て伏せと言うと腕筋を鍛えるイメージがあるが、何気に胸板を厚くする胸筋の強化にも効果的な筋トレなのだ。


「暑苦しいなぁ」


同室の圭介は団扇をパタつかせながら俺を見る。だがその言葉に剣はない。ニヤついた表情から、本気で迷惑がっているのではなく単なるカラカイの言葉なのは間違いないだろう。こいつは、そういう奴だ。


「フーッ」


俺が今日の分の腕立てを終えると、


「わー、汗びっしょり。かいも風呂行こうぜ。この修学旅行の唯一と言っていい娯楽だぜー」


早く早くと圭介が急かす。急かさずとも汗をかいたら風呂に行くつもりではあったが……恐らくは俺の腕立ての途中で同室の亮二が先に風呂に行ったのが原因だろう。圭介はあいつの恋の行方も外野として楽しんでるからな。


「今行く」


俺は短く答えるとタオルと替えの下着、服を掴み取り、圭介と共に大浴場へと向かった。


******


大浴場は良い感じに広かった。ただただひたすらに四角くてデカイ風呂が一つと、申し訳程度にこじんまりとあるジャグジー、そしてサウナと水風呂。


皆は修学旅行が二泊三日の温泉旅行なんてと不満を述べたが、俺は風呂好きだ。温泉旅館に連泊なんて普段は出来ない贅沢に、充分満足している。


俺はそんな事を考えつつサクッと身体を洗うと、ちっこいジャグジーに浸かる。皆はデカイ風呂で水泳に興じてるみたいだが、風呂はゆったりと疲れを落とす場というのが俺の持論だ。


「おー、良い感じに胸筋ついてるねー。たっくましー」


暫くジャグジーを堪能し、次はサウナに移ろうかと思い始めていると、水泳に飽きた圭介が俺に絡みに来た。楽しげにバシバシと俺の胸板を叩く圭介。


「鍛えたからな。あの情報、信じていいんだろ?」


俺は確認するように圭介に訊く。


「モチノロンだよ〜。お前は情報通の圭介君を信じて胸筋を鍛えるのが吉!」


俺はギュッと胸筋に力を入れると、綺麗に筋肉の割れ目が現れる。


「うん、良い感じだねー。そろそろ良いんじゃない」


「あぁ、今回の旅行中に……告白するつもりだ」


俺は自分に言い聞かせるように、宣言した。


******


俺の惚れた女子、鷹宮良子たかみやりょうこは可憐な少女だった。白いワンピースにレースの日傘が似合うような、サラサラの黒髪と大きく黒目がちな瞳を持つ、中々お目にかかれないような美少女だ。


真白でキメの細かい、柔らかそうな肌は、きっと滑らかでモチモチとした柔肌なのだろう。女子に良く頬を突つかれて可愛がられている。


そんな鷹宮に俺は、一目惚れした。


勉強は人並み、運動は並の下、社交性は絶望的。女子に話しかけられるだけで、やや挙動不審になる、そんな俺にも毎日笑顔で挨拶してくれる鷹宮に、想いは風船のように勢い良く膨らんで行った。だが……


『高嶺の花』


その四文字が重たくのしかかり始めたのは、鷹宮を観察し、より彼女を知れば必然だろう。学級委員、文芸部部長、生徒会長。成績は学年一、先生の信頼もピカイチ。


惚れた欲目など抜きにしても、俺の入り込む隙間など無い、本当に良くできたクラスメイトだった。


きっと鷹宮に心奪われた男子の数は、五本の指じゃ収まらないだろう。だけど恐らく皆の頭を過ぎったのは俺と同じ高嶺の花(ことば)。鷹宮に関しての浮いた話は、まるで箝口令かんこうれいでもひかれたかのように、一切上がって来なかった。


いつも鷹宮は恋愛などとは関わりがないとでも言うように、誰にでも屈託のない笑顔を振りまいていた。


だが、諦めようとしていた恋心に、ある日一筋の光が差した。


「お前の好きな鷹宮ちゃん、胸板の厚い逞しい男が好きなんだってよ」


「逞しいって言ったらお前だろぅ。鍛えたら?」なんて無邪気な笑みを浮かべて来たのは、友の恋愛事情をこよなく楽しむ圭介だった。


特にスポーツをやって来た訳でもないのに圭介が逞しいと称したのは、俺の生まれ持った筋肉質な身体ゆえだろう。運動神経の伴わないこの筋肉が、ありがたいと思ったのは初めてだった。


圭介の言葉にどの程度の信憑性があるかはわからない。だが、目の前に垂れ下がった蜘蛛の糸を掴むかのように俺は、一心に胸筋を鍛え始めた。


それから半年。最近になってやっと、満足出来る程度に胸筋がついた。少なくとも、厚い胸板を好むと言う鷹宮に、胸板だけは好まれるレベルになれたと思う。


時は満ちた。


俺は一人小さく頷いた。


******


恋の熱に浮かされつつ風呂に入っていたからだろうか。それとも単に運動直後にろくに水分も摂らずに長風呂をした影響だろうか。風呂の中で頷いた俺は情けない事に軽い目眩を感じ、そのままユルユルと湯船に沈んで行った。


圭介に抱きかかえられるように脱衣所に移動させられた俺は、すっかりと逆上せてしまっていた。


「櫂、大丈夫かぁ?」


いつもより幾分か真面目な顔で俺を覗き込む圭介。俺は脱衣所の長椅子に深めに腰をかけつつ、圭介が持ってきてくれた冷水を、ひとくち一口噛みしめるように飲み込んでいた。


「サンキューな。少し休めば大丈夫だ」


そう答えると、圭介が心底ホッとした表情を見せる。


「俺の事は気にせず、先に戻っててくれ」


圭介は暫し思案顔をしたが、俺のデコを冷やしていたタオルを冷たい水で絞り直すと、


「この状況で戻れるかよ。介抱してやっから、後で飲み物奢れよ〜」


とおちゃらけたように告げる。なんだかんだで良い奴なんだよな。


「了解。なら済まないついでで悪いんだが、部屋まで肩貸してくれないか? そろそろ皆上がってきて脱衣所も混み合うから、その前にここを立ち去ってゆっくり休みたい」


「あいよっ」


圭介は当然とばかりに自らの肩で俺を支える。俺はその力を借りて弱々しく立ち上がると、ゆっくりと脱衣所を後にした。


******


それは脱衣所を出て少ししてからの出来事だった。圭介が突然よろめいた。俺より小柄で比較的華奢に見える圭介だが、中学までスポーツ少年で俺を支えるくらいなんでもない筈だが……


俺が疑問を抱いていると、


「大丈夫?」


と言う女子の声が聞こえて来た。聞き間違う筈もない。この声は……


「鷹宮……」


顔をあげると俺の目の前には、想い人である鷹宮良子が立って居た。俺が動揺のあまり何も言えないでいると、


「こいつ風呂で湯あたり起こしたみたいで部屋に連行中なんだけど……正直、俺一人で支えるの、ちょい厳しいんだよね」


圭介が困ったように言う。ん? なんだか嫌な予感しかしないんだが。


「悪いっ、礼はするから鷹宮も部屋まで肩貸してくんない?」


「勿論だよ。加藤かとう君、大丈夫?」


鷹宮は直ぐに圭介とは逆側の俺の肩の下に入り込み、気遣わしげに俺を支える。俺は軽く頷くが、正直、この状況が大丈夫じゃない。


「わっ、顔真っ赤だよ! 本当に大丈夫?」


……頼むから追い打ちをかけないでくれ。圭介が声を殺して笑っているのか、小刻みに肩が震えてる。


「んー、確かに真っ赤だねー。これは部屋戻る前に水分摂って、もう少し休ませた方がいいかも。俺何か飲み物買って来るから、二人はそこの椅子で待っててくれる?」


「うん、わかった。加藤君の事は任せて」


俺がパクパクと声にならない抗議をあげるも、圭介はヒラヒラと手を振ると、その場を立ち去った。俺は止むを得ず、鷹宮と二人横並びで椅子に腰掛ける。


「掛けてると、少しは楽?」


俺は小さく頷く。


「もし辛いようなら、寄りかかっても大丈夫だからね」


俺はギョッとしながら鷹宮を見る。だが鷹宮は至って真面目な顔だ。


ゴクリッ……


いいんだろうか、寄りかかっても、いいんだろうか。俺は暫し悩んだのち、鷹宮の肩に軽く頭を預けた。


「緊急時に遠慮は無用。ちゃんと体重掛けないと楽じゃないでしょ」


そう言うと鷹宮は俺の頭をあろうことか自分の方にぐいっと引いた。今回の旅行で告白、とは思っていたけど、これは想定外過ぎる。


頭が……グラグラする。


そんな俺を尻目に、「ふふっ、加藤君なんだか弟みたい」なんて無邪気にはしゃいでいるのは、異性として見られていないのではないだろうか。明らかなる脈なしなのではないだろうか。


告白する前に、せめて異性として意識して欲しいな。


俺は名残惜しいが寄りかかっていた鷹宮の肩から離れ、静かに鷹宮に向き直った。それから真剣な顔で真っ直ぐに鷹宮を見つめる。


鷹宮はきょとんとした顔をして俺を見返す。


睫毛長いな。大きくて黒目がちな目、それに白くて滑らかな……


俺は気がつけば鷹宮のそのふよふよと柔らかい頬に、手を添えていた。すると、


「うふふー、柔肌でしょ。今日も温泉でしっかり保湿したからモチモチなんだよ」


と俺の手に自らの手を添える。俺は慌てて離れると、


「おいっ、鷹宮! 触った俺が言うのもなんだが、お前無防備過ぎだ。男にそうやすやすと触らせるなよ」


心臓がバクバクしている。すると鷹宮はニヤリと妖艶な笑みを浮かべ、


「それ、本当に加藤君の言えた台詞じゃないよね。じゃあ、ほっぺ触られた仕返し」


と言うと、ペタッとその頬を俺の胸元へと押し付けてきた。


ーー顔が熱い。


鷹宮の真意を測るため、その表情を読み取ろうとするが、生憎、彼女の美貌は、ピタリと俺の胸元におさまり、窺い知ることが出来ない。


俺が慌てて口を開こうとするも、先の言葉を発したのは、鷹宮だった。


「告白します。圭介君はきっと戻ってこないよ。だって私の協力者だから」


戻ら…ない……協力者?


俺はだらし無くポカンと口を開きながら、彼女の言葉を反芻する。


ーー頭が上手く働かない。


「加藤君は柔肌が好きって聞いたから、お肌のお手入れ頑張ったんだよ。加藤君が頑張って胸筋鍛えてくれたのと同じで」


扇情的に俺を見上げる鷹宮。その狩るものの眼に、背中にヒヤリとした電流が走る。


「ここまで言ってもわからないかな? 加藤君、好きだよ。私と付き合って」


俺は思考停止に追いやられる中、精一杯の足掻きで、鷹宮の背中に手を伸ばした。

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