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Case亮二 〜浴衣〜

亮二りょうじ、どったの? ドテラは?」


圭介けいすけがきょとんとした表情で俺を見る。無理もない。さっき二人で大浴場に行った時には二人ともドテラを着ていたのだ。後に部屋に戻った俺だけドテラを着ていなければ、当然抱かれる疑問である。


「んー、忘れた。風呂上がりで暑かったから、着ないで扇風機に当たってたら、その存在自体が頭から抜けた」


俺はなるべく冷静を装いつつ答える。


「ほー、取りに戻らなくて大丈夫?」


圭介は話を信じたみたいで、ペットボトルのコーラを飲み下しながら訊いてくる。この話題への興味は薄そうだ。サラッと流して話題を変えよう。


「あー、暑いからいらねぇや。コーラいいな。どっかに自販機あったっけ?」


「あれっ、自販機の在り処(ありか)気づかなかった? お前ら(・・・)がいた中庭の入り口付近に二台もあったのに」


ニヤリと厭な笑みを浮かべる圭介。俺の中で何かが崩れ落ちる音がした。


「……見てたのか?」


「見えてたんだよ」


コーラのペットボトルを持った腕を楽しげに持ち上げる。やむを得ない。修学旅行定番の恋バナに花を咲かせるしか無いだろう。


******


ことの始まりは、小一時間前の事だった。俺は大浴場の広い湯船で圭介を含めた男子数名と、修学旅行のお約束とでも言わんばかりに水泳に興じた。その後脱衣所で扇風機前を陣取る戦いに哀れ敗退し、中庭で涼をとろうと、人知れず脱衣所を去った。


俺の選択は正しく、薄暗い中庭はひんやりと涼しかった。しかもそこには運の良いことに……


桜木さくらぎ……」


俺の片想いの君、桜木さくらぎ奈々(なな)ちゃんが居た。よっしゃー、修学旅行の晩に好きな女子と図らずも二人っきり。これって何かが起こるフラグじゃねぇ? 俺の心は沸き立った。沸き立つどころか、心の中でガッツポーズくらいはしていたかもしれない。


「あっ、高谷たかや君」


人懐っこい笑顔満開で俺を見る桜木。可愛い。頬がほんのり熱くなるのを感じる。


桜木も風呂上がりなのか俺と同じで、旅館の浴衣姿だった。まだほんのりと湿り気を帯びている髪は……そののんびりとした性格から予測するに、ドライヤー争奪戦に敗れたんだろう。


「高谷君も涼みに来たの?」


ニコニコと笑顔を向ける彼女に、まぁなと小さく答えつつ、なるべく自然に隣に立つ。数分前に男湯でダチに「此処だけはイケメンっぽい」と称された、首筋から鎖骨のラインが、桜木の目に止まればいいなぁなんてよこしまな思いをほんのり抱きつつ。


「あっ、高谷君も見る? 可愛いんだよ〜」


と桜木が池の鯉を指差す。うん、可愛いよ、鯉じゃなくてお前がね。そんなイタい台詞を過ぎらせつつも、おとなしく鯉に視線を移す。


「短いヒゲがね、ニョロニョロ〜ってしてて、可愛いんだ〜」


と言う桜木の声に、全神経を傾ける。コロコロと愛らしい声は、何の効果かいつ聴いても俺の脚をふわふわの腑抜けにする。


「鯉か、いいなっ」


俺はなるべく爽やかさを心がけつつ、桜木に笑顔を向ける。残念ながらその笑顔は、彼女の視線を一身に受ける鯉に破れる訳だが。


俺がささやかに切なさに打ちひしがれていた、そんな時だった。事件が起きたのは。


「あっ、あっちの鯉おっきい」


桜木がはしゃぎながら、奥にいるぬしと形容するのがぴったりな貫禄を持つ黒い鯉に向かおうとしたその時、少し長めだった浴衣に足を取られ……


「危ない!」


俺の声を追うようにバシャンという派手な水音を立てて、桜木は池に転落した。


「ありゃりゃ」


キョトンとしてから、自分に何が起こったかを把握したように間の抜けた声を出した桜木は、照れ臭そうに俺に向かってにへらっと笑みを向けた。


池が浅くて大事にならずに良かったとか、困った笑顔も可愛いなぁとか、色々なことが頭を巡った訳だが、彼女が立ち上がった時に俺は初めてことの重大性を理解した。


薄く白い安手の浴衣が水に濡れればどうなるか。そんな事は火を見るよりも明らかだった。


「これ……羽織はおっとけ」


俺は桜木から顔を逸らしつつ、自分の着ていたドテラを押し付けた。


「そんなに冷たくないし、大丈夫だよぉ」


なんてのほほんとした声が響くあたり、桜木はまだことの重大性に気がついていないらしい。そうは言われてもこのまま部屋に帰すわけにもいかないし、途中で気がつかれて気まずい空気になるのは、片想い歴一年を超える俺としては耐えられない……


「良いから着とけ」


俺は桜木の首から下は見ないようにしながら、ドテラを無理やり羽織らせる。


うん、俺の背が高くて良かった。俺のLサイズのドテラは小柄な桜木の太もも辺りまでカバーされており、全体的に、なんというか、カバーされていた。


「高谷君、ありがとう」


デカいドテラを羽織り、「おっきいね〜」なんて無邪気にパタパタと腕を振る桜木は、やはり可愛い。もっと一緒にいたいという気持ちもあるが、俺のドテラを着ている桜木を見てると、照れ臭さのあまりに色々とボロを出しそうな気がして、話も早々に部屋への直帰を決めたのだ。


******


「へー、高谷君ったら紳士〜。ヘタレと言う名の変態紳士〜」


楽しげに俺をからかう圭介に軽い殺意を覚える。


「ヘタレは否定しない。否定したいがやむを得ない。だけど何で俺が変態紳士なんだよ。何も見てないししてないだろ」


俺は不満をぶちまける。すると圭介はケラケラとかんさわる笑い声を上げて、


「池に落ちた女の子見て、始めに透け感を気にする奴は、まごうことなき変態紳士だよ。きーっと今頃、女子部屋でも同じ認定を受けてるね」


ま……マジかぁ。


俺は膝から崩れ落ちる。だって、じゃあどうするのが正解だったんだよ。あれが俺にとっての最善だったんだよ。


「むしろ女子のがえげつない。尾ビレ背ビレで、今頃お前が桜木さんを池に突き落としたくらいまで話は膨らんでるかもしんねぇ」


「まー、どうしたってお前は変態認定されただろうね。イケメン男子なら何をしても素敵〜で終わったのかもだけど。お前はあの場に遭遇した時点で変態の称号を与えられる運命だったのさ」


俺は目の前が真っ暗になりながら、虚ろな目で圭介を見る。その時……


ピンポーン


間抜けな機械音が響き渡った。


******


参った。俺は非常に参った状況になっていた。


インターフォンの音を聞き部屋のドアを開けると、そこには桜木がいた。再び浴衣姿であったが、それは真新しいのりのかかったものだった。恐らくはフロントで替えてもらったのだろう。そしてその手には、こちらも汚れひとつ見当たらない、綺麗なドテラがあった。


「あぁ、返しに来てくれたのか?」


俺が桜木の顔を見るも、いつもの笑顔はそこには無い。というか、がっつり下を向かれていて、その表情がわからない。


「桜木?」


俺は嫌な予感がしながらも、それを声に乗せないよう細心の注意をしながら桜木の名を呼ぶ。


チラッと顔を上げた桜木を見て、予感が確信に変わった。その真っ赤な顔は、間違い無くあの池ぽちゃ事件後の俺の行動の本質に気がついたのだろう。


どうするか。答えはすぐに出た。


「サンキューな。ドテラ、新しいのに替えて来てくれたんだな」


しらを切り通そう。そうと決めた俺の行動は実に軽やかだった。桜木の腕からさらりとドテラを受け取り、笑顔を向ける。


ボロを出さないように、この局面を乗り切れば、時間が笑い話にしてくれるはず。その思いが俺の脳内を支配していた。


「こちらこそ、その……ありがとう。私、いろいろと鈍くって、ごめんね」


チラチラと俺を伺う桜木の顔は、激しく赤らんだままだ。


「まぁ、いろいろと、気にすんな。浴衣なんて着慣れてるやつのが少ないんだから、足取られる事だって珍しく無いさ」


俺は頬をポリポリ掻きつつフォローを入れる。


「高谷君、優しいね。じゃあ、うん、気にしない事にするね」


桜木に笑顔が戻る。照れくさそうにクシャっと歪められた笑顔は、いつもより更に愛らしい気がする。


「じゃあ、私、部屋に戻るね」


乗り切った。桜木の一言に俺はホッと息をつく。だが……


「きゃっ!」


くるりときびすを返そうとした桜木は、事もあろうか再び浴衣に足を取られ……


ぽふっ


桜木は俺の腕の中に、すっぽりと収まった。


熱い。桜木の熱が薄い布越しに伝わってくる。バクンと跳ねた鼓動と共に『抱きしめたい』なんて邪な思いを抱く時点で俺は、変態紳士の称号を甘んじて受けないといけないのかもな……なんてひとりごちる。


桜木はガバッという音が聞こえそうな勢いで俺から離れた。触れていた胸元が、何かが足りないと主張するように温かみを失って行く。


「「ごめん」」


俺と桜木の声が重なる。


「えっ……」


次いで真っ赤になりつつも、戸惑いの目を向けて来る桜木。よく考えれば俺は倒れてきた桜木を支えただけなのだ。いだいてしまった邪な思いゆえ謝罪が口をついたが、本来俺に謝罪する理由は無い。


「いや、事故とは言え女子は、嫌だろう。その……好きでもない男子と、あんま接触するのとかって、どうなのかなって」


俺はしどろもどろになりながら弁解する。桜木は、なんとも言えない複雑な表情をすると、


「うん、そう……かもね」


と答える。自分が引き出してしまった言葉とはいえ、正直、好きな女子に肯定されるとキツい。微妙な空気が周囲に漂う。


「でもねっ……」


俺が打ちひしがれていると、桜木は焦ったように沈黙を破る。


「今は、その、高谷君が助けてくれたから、嫌じゃ無かった……よ」


真っ赤になりながら、桜木は言葉を紡ぐ。俺がその発言の真意を図りかねて首を傾げると、


「その、えーっと、助けてくれたのが高谷君だったから……」


桜木は言葉を選ぶように一生懸命に続ける。


……もしかして俺は、自惚れても良いのだろうか。


桜木にとってただのクラスメイトでは無く、好かれてると思っても良いのだろうか。両想いだと思っても良いのだろうか。


「桜木、好きだ。前から好きだった」


気がつけば思考より先に言葉が出てきた。


ドクドクドクドク……


鼓動が速い。五月蝿い。


俺はグッと胸に手を当てると、


「俺と……付き合ってくれ」


激しい高揚感と共に、何とかその言葉を捻り出した。


「……」


ちょっとした無言が続く。俺は不安で目を塞ぎたいと思いながら、精一杯の虚勢で桜木を見つめる。


桜木は少しふるふると肩を震わせていた。それから目をいっぱいに潤ませつつ、


「ずるいよ」


と拗ねたような小さなかすれ声で呟いた。その唇は、僅かに震えているように見えた。それからびっくりするようなふにゃりとした笑顔を浮かべると、


「ずるいよ。私が告白しようと思ってたのに。そんなストレートな告白されたら、嬉しすぎてどんな顔したらいいかわかんなくなっちゃう」


と両手で頬を隠すような仕草をし、桜木は俺に勢い良く抱きついてきた。


「こうすれば、どんな顔してても見えないよね」


俺はやばい鼓動の勢いに、幸せすぎて死ぬんじゃないかなんてバカなことを考えながら、硬い浴衣の布越しに戻ってきた温かさを、愛でるようにギュッと抱きしめた。

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