眠り姫
ー5年が経った。復興の兆しは訪れない。
〈エンゼル・リング〉は、空の彼方にかすかに見える。回転を続け、腐敗した環境を浄化しているに違いない。
男は彼方からそれを臨む。もう使われることはないであろう空母の甲板上で。
空母は海上を鈍くさと航行している。流されるまま流されていると言った方が良いかもしれない。巨大な空母である。実際、それは一つの都市と言っても良い。其れを数隻のイージス艦が護衛している。
天使の輪の影響は大きい。汚染浄化物質を含んだナノマシンが、この輪から半永久的に放出されている。世界に誇るイージスシステムは、過去のものだ。この護衛艦隊は、自分たちの千里眼を潰されている。残るは人の目だ。
空母の収容艦載機数は半分以下だ。戦争でことごとく撃墜され、しかもナノマシンの影響下においては、鉄くずも同然だ。こうなると、一時代前のジェット機などの方が、よほどのことがない限りこの影響を受けない。既に大国と、その仮想敵国諸国は、次世代戦闘機の開発を取りやめている。時代と技術は、確実に交代している。時期全ての文明の発達は終焉するだろう。
空母に収容されているのは難民である。雑然とこの難民は鉄の箱に閉じ込められている。国を追われ、土地を追われた民族。もうニホンと呼ばれたクニはここにはない。戦争をけしかけた大国すら、予想外の汚染と浄化の遅延で、このクニの領有を主張しない。ニホンのあった場所は、現在白地図になっている。
ーあっけないものだ。と、男は思う。甲板上で男はかげろうにゆらゆら浮かぶ本土を眺める。あの場所にはまだ夏が残っている。その上空では、天使の輪が浮かんでいる。不可思議な光景だ。
このところ、影響は酷くなる一方だ。いつかこの輪は、ハイテクをすべて無力化するだろう。
もっと早く出来ていれば…と、彼は歯噛みする。男は一人つぶやいた。
「もっと早く出来ていれば、やつらは戦争する気さえなくしただろうに…」
其れともやつらは竹槍でもなんでも戦おうとしただろうか。
そうではない。と、彼は思った。彼らの武器が全ておじゃんになる。莫大な投資が全て不意になる。永久戦争と、その裏返しの永久平和の手の結びあい永続させていたものは破滅する。やつらは凋落するだろう。あの輪はやつらから全てを取り上げる、文字通り最終兵器になるはずだった。
それなのに…それは間に合わなかった。あの輪はしょせん試作品だ。理想には遠く及ばない。もっと巨大な輪。地球を覆い尽くす巨大な、完璧な、天使の輪になるはずだったではないか。やつらとそのおこぼれにあずかろうとする同類の寝首をかけるはずだった。それが…
男は〈エンゼル・リング〉共同開発者の一人である。
今やクニを追われ、テラフォーミングシステムの開発チームからも追われ、こうして自分の落とし子を彼方から眺めながら時を過ごす。
当初の目的ー永久戦争と永久平和の馴れ合いは撃ち砕けなかったが、着実に事態は進行している。いずれこの天使の輪の影響は、世界中に浸透するに違いない。その時こそ、このテラフォーミングシステムは本当の意味を持つはずだ。
男は今日も、この彼方の落とし子の働きに満足しながら、タラップを降りた。
ーその部屋は、空母の中でも、特に厳重な部屋だ。衛士ーそれは単純な警備ロボットであるーがこの科学者を識別する。隔壁は開かれる。
重苦しい空気だ。ここはささやかな研究室である。
数名の科学者ー彼らは”賢人たち”と難民たちから呼ばれていた。それは皮肉を込めて言われるのだがー彼らはめいめい、研究室のサーバールームや、休憩を取るために仮眠室でつかの間の安息を得ている。ぐったりと疲れきっている。空気はひどく淀んでいる。男は急に自分がひどく年をとったような気持ちになる。終戦直前にニホン崩壊の只中から逃げ延びて5年が経つのだ。彼らは刺激から離れ、先の見えない研究にウンザリしながら、それでもこの場所の他に行くところはない。めいめいがクニを追われ、裏切り者、お尋ね者として、ここに集まっている。彷徨えるユダヤ民族のように。だが、どんな環境にも、人間は適応してしまうものだ。男は昔本で見たことのあるこんな一文を思い出した。
〈人間は柔軟だ。何にでも慣れてしまう〉
男は休もうと考えて、小会議室のとびらをあける。するとただ一人、その中で何もせずにむっつりした黄色い肌の表情の男がいる。
「ジャコヴ、またあの悪魔を見に行っていたのか?」
男ージャコヴは空いた席にどっかと座り込んで、肯定の笑みを浮かべた。
「いや、あれはまさしく天使の輪さ。天使は獰猛な、”神の被造物”だからな。人間にすら牙を剥く。俺たちが産んだのにな」
「神様だってか?傲慢だな。やっぱり悪魔じゃないか」
研究室の唯一のニホン人、乾刻真は冷めた表情で見つめる。彼もテラフォーミングシステムの開発チームの一人で、大国に反抗の末逃げ延びた一人である。彼を民族の裏切り者として、暗殺対象にする元ニホン組織も多い。
「時に…」
と、そんな軽蔑などものともせず、ジャコヴは口を開く。
「我らが”眠り姫”はどうした?」
ジャコヴは部屋の奥に眼を向ける。
そこには滅菌室がある。青白い光が差し込んでいる。
彼らが言う”眠り姫”はここにいる。彼等は24時間体制で、代わる代わる姫が起きるのを待っている。皮肉を込めて、彼らは自分たちを”七人の小人”と言っていた。ここ5年間、彼女は眼を覚ましたことはない。彼らの科学が及ばない領域で、夢を見続けている。それだけが彼らが彼女について知る唯一の情報であった。
「相変わらずさ」
と、乾は諦めたようなため息をつく。卓上には乱雑を極め、検査結果の資料が置かれている。全て〈unknown〉…これでは何もわからない。
わからないのだ。彼女の全てが謎に包まれていると言っていい。 眠り姫が何年も眠り続けているのも、彼女が何者なのかも…そして全く彼女は歳をとらないのだ。わからないということほど、彼らを侮辱するものはなかった。
しかし、彼女は美しかったのだ。
愛らしい少女である。この小人たちは、愛憎入り混じる感情で、彼女が目覚めるのを待っている。なぜ待つのか、本当に今後目覚めることがあるのか、彼らにも判然としない。
「彼女は眠ったままだ。そしてー」
ジャコヴは乾の言葉を継いで
「夢を見ている…何の夢を見ているのかもわからないが…」
「長い夢だ。だがまだ見たりないらしいな、覚める気配もない。恐ろしいなこのお嬢さんは…俺たちの科学を裏切る」
乾は苛立たしそうだ。彼は闇売りの”ニホンタバコ”に火をつける。何処からか、彼はこのいかがわしい”ニホンタバコ”を調達してくる。乾は天才である。だが、彼女の前には、全ての科学者が無力に見える。彼にはそれが気に入らない。
「まったく、頑固な”眠り姫”だ。たっぷり寝てよく育つだろうよ。何も教えてくれない。それにキスで起こしてくれるような王子様も、こんなとこじゃなあ。…おいジャコヴ、いつまで俺たちは七人の小人をやるつもりだ?まさかこのお姫さんは、おっさんのチューでも起きるようなお馬鹿さんか?そうじゃないだろう」
「だからこそだ。私たちは七人の小人になるんだ。何時までも王子様が通りかかるのを待つわけにはいかない。我々から向かうしかない」
「…だが証明できない。もう未知でしかない。…まったく困ったもんだ。俺たちの魔法は無力だぞ」
「だからこそ我々自身が行動しなければいけないんだ。あの場所に行けば、何かわかるかもしれない」
「何か、ね…だがそんなもんだろう。…とにかく、信頼できる同志を集めることだ」
乾はジャコヴと同じく、部屋の奥にある滅菌室に眼をやる。
「寄せ集めの七人の小人ではいけない。これは大仕事だ。しかも一か八かの。それなりの準備が必要だ。信頼できる同志、信頼できる正確なデータ…それでなけりゃ、俺はやらんぞ。どうにでもなってしまえばいいんだこんな世界」
「だが、我々にはあれを作った責任がある」
乾は仕方なく荷担しているのだ、とジャコヴは思った。
そうだ。何もかもが未知なのだ。乾が正確さを求めるのは、おかしな話ではない。寧ろジャコヴのほうが突拍子もない、危険な「賭け」に出ようとしている。
「わかっているさ…だが、急がなければ…」
ジャコヴは懐から、ホログラフィーを取り出す。
彼女が持っていたものだ。それは彼女に実態があったことの、唯一の証明だ。この世界と彼女の接点。
一人の青年と”眠り姫”が、仲良く写っている。裏面のテキストデータには、
ーイクトと。イサナー
と、記入されている。
「国殺しの王子様め」
乾は苦々しく言った。