起承転結不要試論
ところで、「起承転結」ってアレホンマかいな?
はいどうも。底辺作者です。最近全然この名義で小説を書いていないので、「そのお前が何言ってんだ」と言われちゃいそうですけど、どうも最近疑問なんですよね。起承転結っておかしくね? と。
ここは小説投稿サイトな上、タイトルの関係上これを読むのは何らかの形で小説を書いている皆さんだと思いますので説明するまではないかなー、と思いつつあえて説明させていただきますねー。起承転結っていうのは、日本においてよく言われる文章の組み立て方のことで、物事を語り出す「起」、その起の内容を広げる「承」、起承で広げた世界から少し外して面白みを与える「転」、そして最後の締めくくりの「結」の四つによって文章を組もう、という考え方です。実はこれ、小学校の「作文の書き方」なんていうところでも言及のある、日本人にとっては親しみのある文章の組み方です。
でもこれ、なんかおかしいよね、というのが今日のお話です。
まず「起承転結」の話をする前に、江戸時代後期の頼山陽という方が作ったという戯れ歌を紹介します。これも有名なので、皆さん耳にしたことがあるのでは?
こんな内容です。
大坂本町花屋の娘
姉は十六 妹十四
諸国大名は弓矢で殺す
花屋の娘は目で殺す
これ、「大坂」が「京都」だったり「花屋」が「糸屋」だったりと色んなバージョンがありますが、基本的には「美人の娘たちがいて、諸国大名が弓矢で男たちを射殺すように、その娘たちは男たちを目で射殺して(=メロメロにして)いる」という内容です。
これ、一説には頼山陽さんが弟子たちに詞の作り方を指南するために作ったともいわれており、よく「起承転結」を説明するときに引っ張られます。一行目が「起」、二行目が「承」、三行目が「転」、四行目が「結」なんですね。そうしてみてみると、確かに一行目はお話の概略を説明して(「起」)しており、二行目は一行目の内容を広げて(「承」)います。また、三行目はあえて関係ないことを引っ張り出し(「転」)、四行目は一~三行目の内容をすべて回収して締めくくって(「結」)います。
でも、実はこの中で一行だけ明確な仲間はずれがいます。お判りになりますでしょうか。
それはずばり、三行目の「転」です。
どういうことか。
ええとですね、みなさん、指で三行目だけ消して、この詩を読み上げてみてください。するとどうでしょう、意味が通じるでしょう?
そうなんですよ、実は三行目というのは、決して文章において絶対に必要なものではないのです。
この三行目(「転」)というのは何かと言うと、実のところこの詩の面白さを担保するために作られているものです。どういうことかというと、この詩の面白いところは、娘さんのことを書いていたかと思いきや「諸国大名は弓矢で殺す」と突然関係ないことを引き合いに出し、その娘さんと大名の共通点を最後に明らかにするところにあります。つまりこれ、謎かけ的な面白さなんです(ねづっちさんの「整いました!」的な面白さですね)。
でも、こういうことを書くと、こうおっしゃる方がいらっしゃるのではないでしょうか? 「面白い文章を書くためにこの「転」が開発されたんじゃないの?」と。
ええ、それに関してはその通りとしか言いようがありません。
でもですね、「転」は文章を構成するにあたって「必須ではない」ということです。
さっきのことを思い出してください。三行目(「転」)を消してしまっても話の筋は分かりましたよね。つまり、「転」というのはあってもなくても情報の伝達にはあまり関係のない個所だといえる、ということです。もっといえば、「転」というのは文章を組み立てる時に絶対に必要なものではなく、その文章を面白くするためのスパイスだといえそうです。
そして、あの詩の中で、もう一つ、消してしまっても意味が通じる箇所があります。
それは、二行目の「承」部分です。
あの詩に即して言えば、娘さんの年齢がいくつであろうが一向に構いません。一行目で「娘」と歌われているからにはそれなりに妙齢の女性であることは想像できるわけですからね(いや、「娘」っつったってもしかしたら六十過ぎの可能性だってあるじゃん、というツッコミはナシでお願いします)。
ともかく、二行目もある意味必要のない個所になってしまうわけです。
かくして、「起承転結」は「起結」だけになってしまったわけですが、これ以上削ることは可能でしょうか?
結論から言います。不可能です。
それは、すべてが残った状態で「起」あるいは「結」を消してみた場合でもそうですし、「起結」しか残っていない状態でそれぞれを消してみても同じです。
そう。「起」と「結」は必須なのです。
そう考えると、文章を組み立てる時には「起結」だけでよいのか? という話になってしまうのですが、「そうでもない場合が多い」という答えになってしまうのがまたもどかしいところです。
200文字小説のような極短小説や数行のコラムだったら「起」と「結」だけで文章が終わってしまうこともあるでしょう。しかし、大抵の文章の場合、「起」と「結」の間に、巨大な何かが挟まっています。お話を広げ、これまでの盤面をひっくり返し、以前語られていた顛末が出たかと思いきや突然新しい事実が飛び出して来たり……。そんな「起」と「結」の中に納まらない「何か」が間に挟まれています。
それが「承」と「転」なんじゃないの? というご意見もあろうかと思います。けれど、わたしはそれを取るべきではないと思っています。というのも、従来言われている「起承転結」は、文章の組み方、すなわち論理展開やプロットを組む際のひな形とされているからです。わたしが危惧しているのは、起と結の間に横たわっている「何か」には何を突っ込んでもいいのに、「起承転結」なんていう言葉があるばっかりに「そこには承と転を入れるべきなんだ」という思い込みを生みかねないということなのです。
これまで見てきたように、必ずクリアしなくてはならないのは「起」と「結」のみです。その間に挟まる「何か」というのは様々な要素が入り乱れている上に「結」に至る限りにおいては何をしてもいい場所なので、「承」や「転」というテクニックで固定化したくないのです。
そこでわたしが提案したいのは、「展」。
便宜的なものだと思ってください。あくまで、「起」と「結」の間に挟まる「何か」に名前がないと困るので適当に名づけているだけです。
でも、この「展」部分こそ文章の肝といえましょう。
「起」で提示された前提を元に文章が広がっていき、ところどころでいろんな要素が絡まり合いながら一つの結論へと落ち着いていく。そこはさながらおもちゃ箱のようなものです。その部分にどれだけ面白いものをぶち込んで魅せることができるか。それこそが文章が上手くなるコツなのだと思いますし、また上手い文章というものだと思うのです。
まぶっちゃけたところ、「起承転結」なんて嘘っぱち、捨ててしまっていいと思うんですよね。
「起承転結」で組まれていない文章なんてたくさんあります。それどころか、この形で書かれている文章のほうが珍しいくらいです。
たとえば、論説文で「起承転結」はありえません。
なぜかというと、論説文というのは論理性の高さが求められるものなので、前段を受けないで突然新しい要素が飛び出してくる「転」を使うわけにはいかないのです。そう、実をいうと、「起承転結」というのは論理的な文章ではないのです。
また、海外の創作の世界では、「起承転結」という枠組みは使っていません。三幕構成といって、「設定」「対立」「解決」の三要素で物語は構成されている、と考え、その枠組みで物語を作るのが主流です。
そもそも、「起承転結」というのは四行詩の作り方であって、文章の作り方ではなかったんですね。それを後世の人たちが「これ、文章にも応用できんじゃね?」と始めたのがきっかけです。
ところで、「起承転結」ってアレホンマかいな?
冒頭の疑問をそのまま最後に引き写して、結語とさせていただきます。