05話 「英雄で最強」
自分の足で地上から五メートルもの高さにまで跳ぶことなど、トランポリンを使わない限りは体験できないことであろう。
通常では体験できないことを今まさに体験している彼が、最初に思ったことは「このまま地面に着地でもしたら足の骨が折れたりしないんだろうか」ということだった。
そして、次に彼の頭の中に巡った考えは、何故こんな高さまで跳ぶことができたのか。
彼女もこのくらいの高さまで跳んでいたことから、魔界の利益の可能性が高いが、特別な靴を履いたわけでもないのにその恩恵を受ける事は可能なのだろうか。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。
跳んで化け物の鉤爪を避けられた、その事実だけで十分だ。
考えるべきはこれから落下した後にあの化け物をどうするのか、ということであった。
化け物は頭が悪いのか、それとも一瞬の内に彼が跳んだことを目で捉え切れなかったのか、彼が上空にいることに気づいていないようで、必死に首をを左右に振りながら彼の存在を探している。
このまま刀の切っ先を下に向けて自由落下運動すれば、化け物に大きなダメージを与えられることは確実だが、その狙いを定めるのが難しい。
もし化け物が移動して外せば刀は地面に突き刺さり、化け物の鉤爪が無抵抗な彼の脳天に突き刺さるだろう。
そんな仮定を考える前に自由落下は始まり、黒い刀を両手で、逆手で握り、その切っ先を真下に向けた。
重力によって加速して落ちる速さと、彼の体重も乗った刀の切っ先は運よく化け物の脳天の中心に刺さり、そのまま化け物の背骨に沿う様な形で怪物の体を貫いていく。
刀の鍔に化け物の頭が当たるのと同時に、化け物は尻餅を着いて、刀の切っ先は地面に突き刺さった。
彩音の血が少しだけ付いていた制服も、化け物の脳天から噴き出す血によって顔も制服も汚れていく。
「うげぇ」
そう言いながら刀を握っていた手を放して、後ろに数歩下がった。
得体の知れないもの血がかかったことに不快感を抱きながらも、五体満足でどこも怪我せずに状況を切り抜けられたことに安堵する。
それにしても、制服の血の汚れを母親に対して、どのように言い訳すればいいのだろうか。傍から見れば、人を殺したようにしか見えないので、まず無事に家に帰れるかどうかも分からない。
そう思ったときにあることに気がつく。
彩音がいなければ、今いる狭間から出て行くことも危うい。
「アヤネ!」
声を上げるとともに、地面に寝かせた彼女の方へと駆け寄る。
血は化け物の牙が刺さっている部分から溢れ出て、地面に広がりを見せていた。
「倒した……の……?」
辛うじて意識を保っているような状態の彼女の質問に彼は大きく頷いた。
「うん! 倒せたんだけど、これからどうすればいい? どうやって、ここから抜け出せばいい!?」
「わたしが……道案内……するから」
その言葉に再度大きく頷いた彼は彼女の身体を起こすのと同時に、背中に乗せて、彼女をおんぶするような形になった。
思っていたよりも重くはなく、軽く彼女を背負って歩く事ができた。
「どっち行けばいい?」
交差点に差し掛かったときに彼女に問いかけてみるが、彼女の応答はなく、吐息の音だけが耳元で聞こえてくる。
「……来た道戻れば……笹屋さんとこに辿り着くよな……?」
その問いかけに誰も答える者はいなかったが、自分に確かめる為に呟いた事だったので、気にせず、自分の思った道を進む。
考えるよりも先に身体を動かして、病院に少しでも近づかないと、彼女の命が危ないかもしれない。
それに彼の記憶を思い返しても、ここに来るまでそう長い距離は進んでいない。闇雲でも進んでいれば、どこか人のいる場所に辿り着けるはずだ。
(我慢してくれよ……アヤネ……!)
自分を助けてくれた彼女を救いたい。
そう思えば思うほど、足取りは軽くなっていき、自分の背中に彼女を背負っていることも忘れるくらい軽くなると、足も段々と速くなった。
今の自分ならば全世界の人間を救うことができるのではないかと言うくらいの力が体中にみなぎっていた。
「なんだこれ……? 俺の体じゃないみてえ……」
そんな漫画でありそうな台詞を吐いてみるとますます体に力が入り、進む速さも比例して上がっていく。
しかし、彼がどれだけ進もうとも人気のない住宅地から抜け出すことはできない。
「あれ? 確かこっち……? いや、あっちかも……?」
首を傾げながらも足を止めずに進んでいく彼の方向を正す者は誰もいない。
彼の進む方向は笹屋の古本屋とは逆の方向であり、それは魔界へと進む方向。
そうとは知らずにずっと進んでいた彼ははこの世界の端と呼ぶべき場所に辿り着いてしまう。
「……なんだ……ここ……?」
そう言って彼はずっと動かしていた足をようやく止めた。足を止めたのは、彼の見ていた景色が一変したから。
彼の見つめる先には、ずっと続いていたはずの住宅地など存在せず、ただ黒い壁のようなものがあるだけだった。
いや、壁にしてはそれは大きすぎる。縦は雲の上まで伸びており先は見えず、横は地平線に沿って際限なく続いている。
どこかとどこかの世界を区切るようなその黒い境界。
どことどこの世界を区切っているのか、それは彼も知っていた。
「この先に行けば……――――魔界」
ごくりと息を呑み、もう少しだけその境界に近づいてみることにする。
十メートルほどの距離まで近づいて、黒い境界を見上げてみるが、やはり先は見えなかった。
「よし!」と何か決断したような声を出して、彼は黒い境界に背を向けた。
彼が今やるべきことは魔界に行くことではなく、背負っている彼女を助ける為に病院に行くことだ。加えて、今の彼は刀を持っていないので、また、あんな化け物と対峙したら確実に死ぬ。
対峙する前に一刻も早くこの場から離れようと、足を一歩踏み出したその瞬間、背負っていた彼女の体が急に後ろに引っ張られ、同時に彼の身体もバランスを失って、後ろに体重を持っていかれる。
「うおあ!」
変な声を漏らすのと同時に、地面に仰向けに倒れこむ。
普通なら、背中に人がいたら、その人が倒れた人と地面に挟まれてサンドイッチのような状態になるが、今回はそうではなかった。
地面と彼との間にいるはずの彼女の姿がなかった。
その事に気がついた彼はすぐさま起き上がって黒い境界の方を見ると、彼女は透明人間によって引きずられるようにして、黒い境界の中へと入っていった。
「アヤネ!」
彼女の名前を呼ぶ頃にはもう地面に着いた血だけがそこに存在し、その姿は黒い境界の向こう側に消えていた。
目に見えない何者かによって、彼女は黒い境界の向こうに引きずり込まれた。
そして、彼女の腹には未だに化け物の牙が刺さったままだ。
「……助けないと……!」
口にはしてみるが、その方法が分からない。
黒い境界の向こうに行ったところで、何の武器も持たない自分に何ができると言うのか。
だが、化け物に出会わないという可能性もある。
その時、獣のような呼吸と、足音が彼の背後から聞こえ、すぐに振り返った。
そこにいたのは今日だけで三回も遭遇した、黒い体毛で覆われた狼人間のような化け物だった。
応戦しようにも武器はない。逃げるしか方法はない。そして、逃げ道として残されたのは、黒い境界へと続く一本道だった。
後方の黒い境界に逃げるしかないと思った彼だったがその時、彼は両足を誰かに掴まれたような感覚に襲われ、急に両足を引っ張られるのと同時にバランスを崩す。
彼の身体はそのまま後ろ向きに地面に倒れ、後頭部を地面に叩きつけられた彼は気を失った。
「……――――じょうぶですかー? 生きてますー? 生きてますかー? あ、生きてますねーちゃんとー」
彼は幼い少女の声によってゆっくりと目を開ける。
すると、一番初めに視界に入ってきたのは数センチしか離れていない十歳くらいの少女の顔で、驚いて声をあげる前に、口の中にパンのような食料を入れられる。
「はい。食べてくださいねー」
顔を遠ざけた少女の言うとおりに、口の中に入れられたパンのようなものを食べようとするが、硬すぎてなかなか噛み千切ることができない。
一度、手を使って口の中から出そうと試みるがそれはできない状態だった。
両手、両足は金属の枷と鎖で拘束されており、加えて胴体も黒いベルトのようなものでベッドに括りつけられていた。
外そうともがいている様子に呆れたように少女は呟きながら、右手を振りかぶる。
「早く食べちゃってよ!」
その言葉と同時に放たれた右手は彼の口の中に入ったものを無理やり喉の置くまで押し込んだ。
喉に詰まって息ができずに彼が苦しみ出したのを見計らって、水を彼の口の中に流し込む。
すると意外にもパンのようなものはスムーズに喉を通っていき、無事に胃へと辿り着いたようだった。
「ゲホッ! ゲホッ! 急に何すんだよ!」
「だってお腹空いてたでしょ?」
彼女の言うとおり、少し空腹感はある。だが、今聞きたいのはそんな事ではない。
「なんで拘束してんだよ! 早く外せよ!」
「それはできねえよ、兄ちゃん。勇者だろ? 武器は持ってねえようだが、俺たちを殺さねえ理由にはならねえ」
扉のない部屋の入り口から入ってきた黒いスーツに黒いサングラスを掛けた男はズボンのポケットに手を突っ込みながら彼の拘束されているベッドに近づき、少女の隣で足を止める。
「そんな……殺す訳――――!」
「俺らが幽霊って知ってて反論しようとしてんのか? あ?」
男の言葉を聞いた瞬間、彼は「え?」と声を発して質問を聞き返しそうになったが、呑み込んだ。
「ホントに知らなかったのかよ……あきれたぜ。てめえみてえなのが勇者だってことが! 俺たちはてめえらみてえないい加減なヤツらに狩られてんのかよ! ええ!?」
「ちょっと、勝手にヒートアップしないでよ。こいつ“一応”勇者だけど、アヤネと一緒にいたんだし……」
少女の男を宥めるような発言で、彼女の存在を思い出した彼は彼女の負った怪我の事が気になった。
「あの! アヤネは無事なのか!?」
「……大丈夫。人間界の病院に連れて行ってたら危なかったかもしれないけどねー」
少しだけ安心したが、自分を拘束するような連中の言葉だ。やはり、すぐに聞き入れることはできない。自分の目で彼女の無事が確認できるまでは。
「アヤネもこんな風に拘束してんのか?」
「彼女は信用してるから、拘束してないよ。でも、君は信用してない。たとえ初心者だったとしても勇者は勇者なんだもん」
どうやら、信用を勝ち取るまでは拘束を外す気はないらしい。
それに、どうやって信用を勝ち取ればいいのかも分からないので、実質、この拘束は彩音の説得があるまでは解けないと考えた方がいいだろう。
冷静に自分に落ち着くように言い聞かせる彼は自分のいる部屋を見渡す。
窓はなく、部屋の外に出るには扉のない出入り口を通るしかない。
部屋は木で造られており、自然の落ち着く香りが部屋を満たしている。
物はベッドしかなく、他は何もない。
元から拘束するためだけに造られた部屋のようだが、それにしては扉がないのはおかしい。
「大丈夫? 黙りこくっちゃって。頭は強く打ったようだけど、何も異常はなかったのになー」
少女がベッドで寝ている彼の額に手を当ててみる。彼女の手から体温を感じることができなかった。
そこで初めて男の言う“幽霊”という言葉が現実味を帯びてくる。
「やっぱり異常はないよ。石頭でよかったね」
「ホ、ホントに幽霊……?」
「そだよー。初めて見た?」
彼はベッドの上で寝そべったまま頷く。
「魔界には三種族の生物がいる。獣、龍、そして霊。霊の中でも一番下の部類が私たち、幽霊なの。私ももう幽霊になって二十年ちょっと。十歳で死んだから体は成長しないでずっとこのまま」
「俺は死んで二年くらいしか経ってねえ」
少女を退けるようにして彼の顔の横に割り込んできた男は顔を彼に近づけてくる。
「そんな俺でも、“勇者”っていう種族の悪魔性くらいは知ってんだよ! てめえらは魔界の全ての生物を生き物だとは思っちゃいねえ。俺たちでさえ脅威の対象として狩りまくる!」
サングラスで男の表情はよく分からないが、口調と声色で怒っているのは分かる。しかも、それは憎悪のような根深い怒りのようだ。
「じゃがお前たちも分かっているんじゃろう? アヤネのような勇者がいるということを」
その声は部屋の入り口の方から聞こえ、少女と男もその方向を見る。
「きょ、局長!?」
男が声を上げるのと同時に彼の腹の上に何かが乗ってきた。
「この男の子はまだ勇者になって間もなく、狭間におった魔獣しか殺したことはないそうじゃよ。そう言うた後に、アヤネはすぐに寝てしまったがのう」
彼の腹の上に乗ってきたのはまだ一歳くらいであろう赤ん坊で、男と同じように黒いスーツにサングラスを掛け、そして、老人のような話し方をする。
「わしもこの年齢で死んでしまってな。こっちの世界で老人に言葉を習ったから、こんな言葉遣いなんじゃ。すまんのう」
一方的に謝られても反応に困ってしまうが、腹の上に乗った子どもはすぐに話を変えた。
「アヤネと仕事のパートナーになった君は非常に幸運じゃよ。彼女はちゃんと魔界のことを熟知しておる。それに、彼女は勇者の中では“最強”じゃろう」
「え? アヤネが最強……?」
そんな風には全く見えなかった為に言葉を繰り返したが、子どもはそれを無視して自分勝手に続けていく。
「幽霊にとっては“英雄”とも称されるほどの彼女じゃが、そんな彼女でも対応しきれない事態が起きようとしておる」
子どもは少し間を置くように、口を閉ざした。それは何か深刻な事を口にしようとしているかのようだった。
それにしても、彩音が最強で英雄とは一体どういうことなのかさっぱり分からない。
彼の声など聞く気のない腹の上に乗った子どもからは何も聞けそうにないので、彼女と会った時にはきっちりと問い詰めてやらなければならない。
「今は魔界の王は龍王じゃが、その龍王の卵が先日盗まれたそうな。龍王は怒っておる。このままでは卵を探す為に他の種族を滅ぼしかねん」
「卵が……ねえ……」と他人事のように呟いた彼の記憶に何か引っかかる。
(卵……?)
最近聞いたことのある単語だ。
それは誰の口から聞いたのだろう。そう。彩音だ。
『これって龍の卵だよ!』
彩音が彼の目の前で岩を触りながら言っていた。
岩のような卵。それを持って行ったのは、黒縁眼鏡のムカつく野郎とイケメン。
これは言った方がいいのだろうか。だが、自分を拘束するようなヤツらに情報を与えるのは嫌だ。
「もし、卵を盗んだ犯人が勇者じゃったとしたら……――――龍王は人間界を潰しにかかるかもしれんのう」
だったら尚更、こいつらには言うべきじゃない!