03話 「岩のような卵」
二週間を終えてやっと退院することができた。
退院したその日、病院の前で花束を持って待ち構えていた男は花束を渡す際に彼に耳打ちする。
「退院おめでとう。あの件に関しては君も知っている人が来る予定だから、心配しなくてもいいよ。じゃあまた」
その言葉を言い残して一週間が経過した。
彼はその一週間いつもどおり学校に行って、いつもどおり授業を受けて、家に帰ってゲームをして過ごした。
そして、退院から八日が過ぎたその日の放課後、彼は行き着けの古本屋に足を向けた。
「お! 久しぶりー! チュ・ウ・ニ・くーん」
店の扉を開けて、入って早々そんな言葉を掛けられる。
「俺そんな名前じゃないです。もしかして三週間足らずで人の名前忘れちゃったんですか? 笹屋さんももう歳ですね」
本の積みあがったレジの机に肘を着いて、彼女は自らの眉をひそめる。
彼女の髪の毛はいつもどおり、あらゆる方向にはねていた。
「それは聞き捨てならないね。私はまだピチピチの二十代だし、アルツハイマーなんて発症しておりません」
彼は「はいはい」と流しながら、棚に並んだ本を眺め始める。しかし、全くと言っていいほど本の種類は三週間前と変わっていなかった。
「新しい本っていつ入るんですか?」
「そりゃあ古本屋なんだからさぁ。誰かが売りに来ないと新しい本が入るわけないでしょ? そんな事もわからないの? 馬鹿なのー?」
人を馬鹿にする笑みを浮かべる彼女がこの店を切り盛りしていて、毎月黒字を出しているようには到底思えない。
経営の状況など聞いたことはないので、赤字続きなのかもしれないが、彼女からは全くその雰囲気は感じられない。
副業でもしているのだろうか、と聞いてみようかとも思ったが、それよりも今気になるのは違うことだった。
「魔界の成り立ちが書いてある本ってどれでしたっけ?」
「ん? そんな本あったか……? うーん……」
先ほどのやる気のなさそうに肘を付いた体勢から一転、席を立ち上がって彼のいる本棚の方に向かい、彼の探している本を探す。
「ああ。これかな? 全文英語だし、馬鹿なお前じゃ、百年掛かったって読めやしないよ」
そうは言うものの、本棚から本を手に取ると、本を彼に渡して、自分のいつもどおりのポジションに戻っていく。
「辞書使えば内容くらいは……」
「無理だね。お前の頭には英語を読む為の文法がすっからかん。そんな状態じゃあ単語だけ分かっても読めないよ。だから、前から英語は勉強しとけって言ってたじゃないか」
そんな言葉を彼女の口から聞いたことがないと思いながら、手に持っている本を開いてみる彼だったが、全部英語で書かれているのを見て目眩がしてくる。
すると、珍しく彼が店にいる間に店のドアが開き、一人の女子高生が入ってきた。
「あ! もしかして魔界についての勉強してるの! 私もしたいんだけど良い本がなくて! その本貸してくれない?」
入ってくるなり、そう言い放つとずかずかと彼に近づき、彼の返答を聞く前に彼の持っていた本を奪い取った。
その人物は、三週間前にあの人のいない住宅地に姿を現し、龍に対して刀で応戦した女子高生だった。
「あ……空気の読めない女」
「そ、その呼び方はやめてよ! ちゃんと名前あるんだから! 私は彩音! 君は確か資料だとリョウ!」
彼の顔を指差しながら決めた彼女だったが、名前は違っていた。
「いや、良だから……」
あれー?」と言いながら制服姿の彼女は鞄の中をあさって、紙の束を取り出す。それを何枚かめくっていき、あるページでその手を止めた。
「ホントだ! これでツカサって読むのかー。へぇー」
「……なんで俺の名前がその紙束に書いてあんの?」
紙の束を鞄にしまおうとした時に、彼から奪った本を危うく落としそうになる彼女は、その質問に答えた。
「え? 聞いてないの? 私とツカサは今日からパートナーだから」
「……は?」
急にそんな事を言われても、意味が分からない。
「いやだから! 仕事のパートナー! あの時は初心者だった私も今じゃあ立派な中級者なのよ!」
彼が退院するときに、男の残した、彼の知っている人物と言うのは目の前の女子高生の事らしい。
全く頼りになりなさそうな彼女がパートナーと知って無意識の内に少し嫌な顔をした彼だったが、それを運悪く見られていたらしく、彼女の指が彼の頬をつまむ。
「今嫌な顔したー!」
「ごめんごめん……!」
謝った瞬間に彼女の指は彼の頬から離れ、赤く腫れた頬を見て彼女も満足げな表情を浮かべる。
すると、レジの机に頬をつけてダラダラとしている古本屋の経営者が、気だるそうに口を開いた。
「へー良かったじゃん。勇者になれて」
全く心のこもっていない声のその言葉に彼は首を傾げる。
今日彼は勇者と言う単語を一言も発していない。なのに、彼が勇者という仕事に就いたことを彼女は言い当てた。
「……もしかして笹屋さん勇者の仕事知ってたんですか?」
「あー……うん。まあそんなとこー」
曖昧な返事をする笹屋を問い詰めようとする彼だったが、それを遮るように彩音が彼の手を引っ張って店の外に一緒に連れ出した。
「うわ! おい! いきなり何すんだよ!」
「『何すんだよ』って決まってんじゃん!」
彼女は笑みを浮かべながら言った。
「お仕事」
「お仕事」と言ったって、急に先日遭遇したような大きな龍と病み上がりなのに戦わなければならないという状況は避けたい。
まずは見学をさせてもらえないかな、と思っていた矢先に彼女は彼にある物を渡す。
「……ナニこれ……?」
「ナニって見ての通り刀だよ!」
彼女の言うとおり、彼が渡されたのは黒くて細い一本の刀だ。
こんな武器を渡されたと言う事は、自分も戦えと言うことなのだろうか。
戦えと言われても、彼はゲーム以外で刀など使ったことはなく、それにこんな細い刀で皮膚が硬い鱗のようなもので覆われた龍を倒せるとは思えない。
しかし、彼女曰く、そんな心配はする必要がないらしかった。
「その刀って魔界の貴重な素材でできてるからー! ダイヤモンドよりも硬いんだよー? 今日は私が倒してるの見てるだけでいいからさ! 護身用と思って持っといてー」
今日は戦わなくてもいいというのを聞いて、一安心した。
それにしても、こんな細い刀がダイヤモンドよりも硬いとは驚いた。どうやって加工しているのか気になったがそれよりも、気になることがあった。
この刀があの龍の硬い鱗のようなものを斬ったというのであれば、彼女の話は信じられなくもない。だが、龍を斬った時に彼女は龍の頭の上にまでその身体を跳躍させて、刀を振り下ろしていた。
それは人間では成しえないであろう跳躍力だった。
オリンピックにでも出れば、金メダルは確実である。
「この刀も利益で、あんなに跳んでたのも利益ってこと?」
彼の言う「あんなに跳んでた」に思い当たる節がなく、少し考えてからあの時の事だと気づいた彼女は曖昧に頷いた。
「……う、うん。そうなの」
何かを隠しているような彼女の様子には気がつかず、彼は次の質問を投げかけた。
「それと……笹屋さんってナニモノ?」
「ナニモノって普通の古本屋さんのお姉さんだよー。まあ、魔界の事に詳しいのだけは“普通の”じゃないけど」
魔界に詳しい一般人と言うのはあのスーツに眼鏡の男の言葉から、いてはいけない存在のはずだ。
「普通の一般人が魔界について知ってるなんてありえるの? そんな情報管理で大丈夫なのかよ」
彼女から手渡される鞘に刀身を戻す。
その質問に彼女なりに答えてくれた。
「魔界に実際に行った人がね。その体験を本にして出したりする場合があるんだって。でも大概はもみ消されるらしいんだけど、ごく稀に出回ったその本が笹屋さんの古本屋に売られたりするって」
「ふーん……でも、今から俺たちその魔界に実際行くんだろ?」
彼女は首を横に振った。
「今日は行かないよー。てか、多分、行く事なんてないと思う。魔界とこの世界の狭間で仕事するわけだしー。行きたいと思ってたとしても――――絶対に行かない方がいいと思う」
急に彼女の言葉が冷たくなったような気がした。
魔界とこの世界の狭間と言うのはこの前の人のいない住宅地の事だろう。だが、男は魔界に行って利益を獲得すると言っていた。
彼女と男の話には齟齬がある。
彼女が魔界には行かないと言うのなら、彼もそうしようと思った。
「行ったら帰ってこられなくなるからね。仕事場で迷子になるのだけは気をつけて!」
にこりと笑うその表情には彼への警告も含まれていた。
苦笑いでそれに返すと、彼女は「ついて来て!」と言って、歩いていく。
彼女の言葉通り彼は彼女の背中を追いかけた。
彼女の歩幅よりも彼の歩幅の方が大きいのでついていくのは簡単だった。
「にしてもリョウはあの時、よく狭間に入ってこられたね! 普通の人は入れないって聞いてたのに」
「リョウじゃなくて、ツカサね……まあ、俺が普通の人じゃなかったってことなんじゃね? “特別な人間”的な?」
彼の冗談に彼女は腹を抱えながら笑う。
「アハハハハッ! それはないよ! だって、リョウって見た感じ、ごく普通の人だし、頭も良くなさそうだし、スポーツもできなさそう!」
その言葉は彼の心にグサグサ刺さる。
「なんかお前と話してると死にたくなるんだけど……それにお前の方が俺より馬鹿だろ」
「えへへ、褒めてる?」
「いいや」
そんな他愛もない会話をしているうちに魔界とこの世界の狭間に辿り着いたらしく、周りがやけに静かになった。
多くの住宅が並んだ場所のはずなのに閑散としている。
「危険だから人がいないってのは分かったんだけどさ。なら、ここら一帯に住んでた人はどこ行ったの?」
「……さあ、引っ越したんじゃない?」
答えるのに間があったが、特に気にする事もなく、彼女の背中を見ていると、旧に彼女は足を止めた。
彼女が足を止めた理由は前を向けば、彼女よりも身長の高いので、目視する事ができた。
「岩……?」
彼の呟いたとおり、彼の身長と同じくらいの縦幅に、横幅は両手を広げたくらいの長さの、大きな岩が二人の目の前に存在していた。
気がかりなのはこんなにも大きな岩なのに、この岩の目の前に来るまでその存在に気が付かなかった事だ。
道を曲がった直後に現れたわけでもない。何故なら、二人はこの岩に至るまで、五十メートルほどの道を直進していたからだ。
「これ……岩じゃないかも……!」
岩に飛びつくように近づいて、じっと見つめながら両手で表面を触りだす彼女を、頭がおかしくなったのではないかと思いながら彼はその場に突っ立ったまま、彼女の行動を見ていた。
「これって龍の卵だよ! 生で見るのなんて初めて!」
卵と言われてみると、岩のように尖った角を削っていけばそんな形に見えなくもなかった。
しかし、これが卵と言うのなら、親のお尻から出てきた事になる。
そう考えると彼はツッコまずにはいられなかった。
「これが卵って……こんなモン、ケツから出してたらたまったモンじゃねえよ」
「バカヤロー! これは普通のまーるい卵の上に岩を貼り付けていって卵を守ってんの! そんな事も知らないなんてバカだよ!」
この地域で一番馬鹿な高校の制服を着ているお前にだけは馬鹿と言われたくないと思ったが、口には出さずに、龍の卵とやらを眺める。
どう見ても岩にしか見えないそれは空から降ってきたようで地面のアスファルトが少し抉れていて、その破片が辺りに散らばっていた。
空から降ってきたということは二人がこれを目にする直前に振ってきたとも考えられるが、こんな大きなものが落ちてきたのなら、そんな音が全くしないと言うのはおかしい。
つまりは二人がこの付近を通る前にこの卵は空から降ってきたということになる。そこにあったにもかかわらず、二人はその存在に気づけていなかった。
そんな事が現実ではあり得るのか。また、魔界ではあり得るのか。
「なあ……一部の空間を見えなくすることって利益でできたりすんの?」
「できますが? それが何か?」
後ろから男性の声が聞こえ、二人は同時に後ろを振り返った。
黒縁眼鏡を掛けた細身の男を見て、良は自らの眼を大きく見開く。
その原因は男子高校生の着ている制服にあった。それは自分と同じ高校の制服だった。
しかし、そんな事など気にする素振りも見せない男は二人を交互に睨みつけると、良の横を通って岩に近づいた。
「人の利益に手を出そうとするとは感心できないな」
「こんな道のど真ん中に置いとく方が悪いだろ?」
良の言葉に首を傾げる。
「俺はちゃんと隠したつもりだったんだが……どうやらお前らに破られたらしいな」
未だに岩を触り続けている彩音を鋭い目つきで睨みつける。すると、彼女は尻尾を巻くようにして小走りで良の方へと近づいて、その後ろに隠れた。
「俺も今は忙しいからな。それに冷静だ。穏便に済ませたい」
男が好戦的ではない事に安堵したのも束の間、男の提案は到底受け入れられるものではなかった。
男は右手を二人に突き出すと同時に提案した。
「五万円だ。それで手を打とう」
「は?」