01話 「空気の読めない少女」
高校一年生の夏。
理系か文系かを決める紙。理系と文系の真ん中にある点に丸をつけて提出した瀬口良は職員室に呼ばれ、担任の教師とともに会議室での二者面談が行われた。
まず、良が尋ねられたのは、きちんと親にその紙を見せたのかということ。
それは彼もきちんと行っていたことなので首を縦に振った。
次に尋ねられたのは、親と理系か文系かを相談したのかということ。
これも行っていたので、首を縦に何度も振った。
そして、最後に尋ねられたのは、親と決めた方向をこの紙に記したのかということ。
これは行っていないので彼は首を横に振った。
明らかに修正液か何かで理系の方に丸がつけられているのを無理やりに消した跡が残っていたため、教師は自分で書き直したのだろうと彼を問い詰めた。
「なんで、理系って決めたはずなのに書き直したりしたんだ?」
「いや……そこまで深い理由は無いですけど……」
その発言に少し頭にきたのか、軽く頭を一発叩かれる。
今度は叩かれないような発言をしようと心に決めた時、教師から次の質問が飛ばされた。
「お前は将来何になりたいんだ?」
その質問に彼は逡巡した。
将来何になりたいのだと言われても、子どもの頃にテレビであっていたヒーローになるという夢以外は自分の将来について考えた事はない。
このまま、適当に生きて、適当に仕事をして、適当に死ぬ。
それが将来やりたい事と言えばやりたい事ではあった。
だが、今教師が求めている回答はそんなものではないはずだ。技術者とか医者とか弁護士とか教師とか、具体的なもののはずだ。
だったら、具体的なものを言ってやろうじゃないかと意気込んだ結果、彼が口走ったのは自分でもひねくれていると思うくらいの回答だった。
「――――勇者です」
一瞬、時が止まったのかと錯覚するくらいに二人とも黙り込んで、目を大きく見開いた教師が次に行った行動は嘆息だった。
「ニートにでもなりたいのかお前は?」
ニートになりたいと聞こえなくもない発言だが、彼の“勇者”という単語は少しだけ現実味を帯びてはいた。
今、世界中で奇妙な事件が多発している。
大きな怪物に押しつぶされたような車や巷では鎌鼬と呼ばれている、鋭利な刃物で真っ二つに切断された人の遺体が発見されたり、建物や壁が大きな鉤爪のようなもので切断されているような事件もあった。
政府が自衛隊を動かすにまで事態は悪化してきている。
今やっと普及し始めている人間型のロボットがやったのではないかとも噂されているが、ロボットの製作会社であるARM-R社はそれを否定している。
また、数々の事件は人間が行ったと言うには度が過ぎており、世間やメディアでは怪物や宇宙人のような未確認生物の仕業ではないかと騒がれている。
そんな中、ある民間会社が魔界の魔物たちを倒す勇者を募集しているという噂が話題を集めていた。
「もっと現実を見ろ! お前の言う勇者ってのは最近ニュースになってる会社が募集してるヤツのことを言ってるんだろうが、あんなのは真っ赤な嘘だ!」
「でも、その根拠はないでしょ?」
彼の発言は的を射ているがだからこそ、教師にとっては皮肉にしか聞こえない。
「お前、土曜日は空いているな? お前の両親にも確認取るから」
その瞬間、親も交えた三者面談が決定した。
土曜日の午前中で終わるはずの学校の放課後に一人残された瀬口良は母親と教師とを交えた三者面談を行った。
教師が親に電話した時点で、教師と二人きりで話した内容は親にも伝わっており、その夜はこっ酷く叱られた。
もう既にこれ以上変な発言はしないように釘を刺されており、彼自身も大人しくするつもりだった。
「ニートになるつもりはないんです!」
先日の質問に答えていなかったと思い、自宅警備員になる意思はない事を示す。
「じゃあなんで勇者って言ったんだ? そういう悪を倒すような職業に就きたいのか? それなら、警察や自衛隊、救急隊だってある」
そういうつもりで勇者と発言したわけではないが、うまく否定する方法が思いつかないので黙り込んだ。
すると、その様子を見かねた教師は救いの手を差し伸べるように口を開く。
「まあ、まだ高校一年生なんだ。将来を決めなくても、文系か理系かを決めるだけでもいい」
理系を選べば将来に直結してくると言っていたのは果たしてどの教師だったか。
その二つの選択肢しかない時点で、彼は不満に思っていた。
しかし、その不満も口にすれば非難を浴びるのは自分だと分かっているので、ここでも彼は口を閉じた。
嘆息する教師は母親の顔を見て愛想笑いすると、彼の方を向いた瞬間に真剣な表情になった。
「わかった。お前はまず理系か文系か決める前に勉強しろ。話はそれからだ」
教師のその発言に母親は大きく頷いて、主題であった文理選択の問題は何も解決しないまま、三者面談は終わりを告げた。
母親に勉強しろと急かされるも適当な返事をして、家に帰るや否や勉強する気にもなれずにゲームに励んだ。
将来の夢、目標なんて持っていないのは自分の他にも大勢いるはずである。
持ったところで夢や目標どおりに行くのは一握りの人間だ。つまり、その為に費やした努力が認められるのも一握り。そこには何の収穫もありはしないのだ。
だから、彼はこうしてゲームをしている方が楽で楽しいと思うし、将来についても考える気になれない。
自分より優れている人など沢山いる。
ゲームの世界の方が幾分か現実世界よりも楽。だから、彼は今が話題とは関係なく、勇者と答えたのかもしれない。
自分の人生に関してやる気の無い自分。このまま自分は落ちぶれていくのだろう。
そう悲観していると、自然にゲームのコントローラーが手から離れていった。
テレビ画面に、格闘ゲームの自分の操っていたキャラクターが敵にボコボコにやられ始める。
ゲームをするやる気すら起こらなくなった彼は天井に目を向ける。
狭い空間。広い世界に行こうにも自分には経済力も知識も何もありはしない。
「俺はこんな世界……自分に飽き飽きしてる。繰り返すだけの日常で、平和を手にした瞬間に減少していくような人の人生に興味が無くなった」
「お前さあ……“チュウニビョウ”って言葉知ってる……? その典型がお前だよ」
これ以上のない冷たい声でそう呟く人はこの古本屋を経営している笹屋という女性だった。
外見は特に気にならない性格なのか寝癖の付いた髪の毛を自由奔放にさまざまな方向へとはねさせている。しかし、化粧は薄くしており、それでも彼女は素材が良く、綺麗だった。
初めてここを彼が訪れた時には憧れるような女性だったが、話しているうちに幻滅していった。
そんな彼女の言葉に彼は嫌悪感丸出しの表情で答え、彼女の座っている、無造作に本の積み上がった机の方を睨みつける。
「だったら、こんな辺鄙なとこでこんなへんな本売ってる笹屋さんは俺より“チュウニビョウ”ってことでいいですかね?」
棚に綺麗に並んであった本の中から一冊、英語で題名の書かれた本をとって、彼女に見せ付けると、彼女は机の上にあった眼鏡を掛けて、本を凝視する。
「ふむふむ」と言った後に英語で題名を読み上げたが、彼の頭では理解できなかった。
「辺鄙な場所っていうのは都会から離れている所を指すからねぇ。ここはそんなに離れてもいないし、それは日本語の使い方としては間違ってるかな。正しくは、『こんな人通りの少ない細い道に中古の本屋さんを開いているお姉さんは』って感じ?」
「人通り少ないって分かっててなんでこんな場所で……?」
眼鏡を外しながら、愚問とでも言うかのように女性はその発言を鼻で笑った。
「客がこの店を選ぶんじゃない。私が客を選ぶんだ。こんなところにあれば、本当に興味持った変人しか来ないからねー。君みたいな」
「はいはい。どうせ俺は変人ですよー」
「いじけるなよー」という彼女の言葉は無視して、彼は手にとっていた本を開いてみると、その本文は全て英語で書かれており、頭痛を発症しそうなのですぐに本を閉じて、元の棚に戻した。
「ん? 読もうとしたんじゃないのか? せっかく面白そうな本を手に取ったと思ったのにー」
彼がせっかく元に戻した本をもう一度手にとって寄こせとばかりに右手突き出した。
しょうがなく、彼女の指示に従って本を彼女に渡すと一ページずつめくり始める。
「この本には魔界の成り立ちが書いてあるんだよ。魔界は龍、獣、霊の三種類の生物が存在して、それぞれの国に独立してる。その三つともが王政で……――――君は人の話を聞かないか」
彼女がその本から彼の方に目を移すと、彼はもう既に棚に並んでいる他の本に目がいっていた。
「何か言いました?」
「……はぁー……勇者になりたいなんて言ってたのに、なんで私のこんな話を無視するのかねぇ」
やれやれと言わんばかりに両手を頭の後ろへともっていき、伸びをする彼女は、彼と目が合った。
「そんな事本気で言うわけないじゃないですか。あれは単なる……」
言葉を詰まらせる彼に彼女は元の棚に戻せと本を突き出してくる。
「なら、大人しく勉強するのが将来の君の身のためだ。さっさと家に帰って勉強しな」
「今のたった一人の客に対してその言葉は無いっしょ! 分かりましたよ! 帰ればいいんでしょ帰れば!」
突き出された本を奪い取って、元の場所に戻すと、眉間にしわを寄せながら大きな足音を立てて、店の出入り口に向かう。
「帰るだけじゃ駄目。ちゃんと勉強しなよ?」
その言葉を彼は無視して店の扉を勢い良く開けて、勢い良く閉めた。
彼女の残した最後の言葉には従わないにしろ、大人しく家に帰るのも気が引けるので適当にぶらぶらと歩く事にした。自分の知らない町を歩いて、気を晴らそう。
決めたはいいが歩いているだけだと自分の人生を悲観し始めるかもしれないので、イヤホンで音楽を楽しみながら歩く事にした。
歩いていくうちに自分の知らない風景になっていく。
そして、三十分くらいしたところで彼はその足を止めた。
片方のイヤホンを外して周りを見回すが、全く知らない土地だ。
心配しなくとも科学の発展した今では携帯電話で自分の位置情報を調べる事ができる。
しかし、携帯電話は圏外で、頼みのGPSも使えなかった。
周りを見れば住宅地。こんな所で携帯電話が圏外になるはずはない。
「おかしいなぁ……」
頭を掻きながら音楽を楽しむ気にもなれずに、もう片方のイヤホンも外した。
携帯電話が壊れた可能性も考えたが、もう少しねばってみようと、圏外からアンテナの一本でも出ないかと歩き回る。だが一向にその気配はなかった。
圏外であってもGPSは使えるはずなのだが、GPSも壊れているようだった。
(仕方ない……誰かに聞くしかないか)
これ以上歩き回っていても前には進めないと思った彼は、目についた一軒家に住んでいる人に聞いてみることにする。
綺麗なまだ建てられて二年も経っていないであろう一軒家のインターホンを押した。
『ピンポーン』
お決まりの音が鳴り響き、その後、静寂が辺りを包み込む。
(いないのかなぁ……?)
寝ていたり、大音量で音楽を聴いていたりする可能性もあるのでもう一度、インターホンを押してみたが、反応はなかった。
三回目を押すと流石に迷惑に思われそうなので、他の家をあたることにする。
次はさっきの家と同じ時期に建てられたであろう、隣の一軒家のインターホンを二回押した。しかし、反応はない。
(こっちも留守……)
こうして一軒、また一軒と同様に反応がなかったのでどんどん訪ねる家を変えていくうちに、夕日はもう既に沈みかけ、空は赤と青の綺麗なグラデーションになっていた。
一体、どれくらいの家を訪ねただろうか。数えてはいなかったが、既に二十軒は超えていた。
「町内会の旅行か何かで、皆いない……? そんなのありえねえよ」
尋ねるのをやめた彼の心の中に段々と誰もいない事への不信感ではなく、苛立ちが芽生えだす。そして、その苛立ちは行動になって現れた。
「こんな俺の相手なんてもう誰もしてくれないってこと? へー……そういうことか……――――誰か出ろやぁあああああああああああああああああああああ!!!!」
彼の叫び声は紺色に支配されつつある空に鳴り響いた。
誰も彼の声に反応する者はおらず、寂しく彼の身に風が吹き込んだ。
「いや、この大声に反応してこないってホントに誰もいないの? マジで? 嘘やろ? 誰かー」
段々と世界に見捨てられて、一人取り残されたような気がしてきて、悲しくなっていく。
空からは赤い色は消えて、闇が支配しつつあった。
日が出ている時はそうでもなかったが、日が落ちた途端に気温がどっと下がったのか、寒気を覚え始めた。
「誰かー……」
見知らぬ土地でやっと人が姿を現した時、一人泣き出しそうな彼の目がそれを捉えるのにそう時間は掛からなかった。
「あ、あの! すみませ――――」
そう声を掛けようと、駆け出そうとしたが、彼は思いとどまった。
目で捉えた女性の横顔は怯えているような表情をしており、何か怖いものでも近づいてきているのか、ゆっくりと後ずさりしていた。
刃物を持った男でも目の前にいるのかとも思ったが、彼女は少し上の方を見る形で、何かを見上げているようだった。
人間と言うよりは大きな動物を見ているような様子だ。例えば、熊のような。
しかし、その正体は動物と言うよりも怪物で、それを見て彼は笑うしかなかった。
「ハハ……なんだよあれ……映画の撮影でもしてんのか? それともこの町のゆるキャラ? リアルすぎんだろ……」
大きな鉤爪で地面に皹を作り出し、二本足で立っているそれは鱗のようなもので全身を覆っている。
紅黒い色で輝くそれは彼女の身長の倍以上ある大きさだった。
首の長いそれは彼が今まで漫画などで見てきた龍とそう変わりはなかった。
彼女を見下ろしている龍は彼の存在には気づいていないようで、ただ、彼女だけを見ている。
数々の不可解なニュースが彼の頭を過ぎるのと同時に、その首謀者が目の前の化け物なんじゃないかという考えとそれを否定する考えが交錯する。
化け物を目の前にした瞬間、これが現実世界に存在するとは認めたくなかった。
恐怖が彼の心を支配していく。
女性を助けなければならないという使命感よりも逃げたいと言う気持ちの方が勝り始め、彼はそっと足音を立てないように後方へとじりじり下がっていた。
「お! 見た事ない顔! おーい!」
唐突に女性の声が聞こえ、それが聞こえた先である左側を見ると、片手を上げながら走ってくる制服姿の女子高生がそこにはいた。その可愛い制服から同じ学区の中でも一番馬鹿な高校だと分かる。
「初心者? ねえもしかして初心者だったりする? 私も初心者なんだよー!」
そう言いながら彼女は彼の元まで来ると、両手を膝の上に乗せて息を整える。
そんな彼女にどう対応していいか分からない彼は固まった。そして、ゆっくりと正面に向き直ると彼の方に顔を向ける女性と紅黒い怪物の姿があった。
「グァアアアアアアアアアアアア――――!!」
龍の嘶きはその場にいた三人の体を強張らせるには十分すぎるほどの大きさだった。
彼と襲われそうになった女性はその嘶きの後、黙ったままだったが彼の隣にいた女子高生は口を開いた。
「あっ! もしかして取り込み中だった? ごめん! 私いっつも空気読めない女ってよく言われるの!」
能天気に話し出す女子高生は彼女の言うとおり、空気の読めない女だと思った。
「確かに……全然空気読めてねえ……けど――――」
彼女の登場で、龍にも女性にも存在がばれてしまった今、逃げるのは虫のいいことだ。
「――――おかげで俺みたいなクズは死んで、生きるべき人が生きる。俺があのでかい怪物を足止めする。その隙にお前はあの女性連れて逃げろ!」
この時、彼は自分の死亡フラグが立ってしまったとそう思った。
「え、あ、うん。わかった!」
最初はその発言に動揺した彼女だったが、拳を握り締めて了解した。
震える拳を強く握り締め、震える足を一歩また一歩と動かして龍の方に近づいていく。
(くそ……! このままじゃ足止めになんねえだろうが……!)
ゆっくりにしか動かない自分の太ももを殴りつける。
「ウォオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアア――!!」
そして、彼は自らの拳を振り上げながら龍に猪突猛進を決行した。
長い首は空高く真っ直ぐに飛びており、彼の振り下ろした拳は龍の胴体に当たる。
しかし、その重い龍の体が動く事はなく、逆に彼の右拳は硬く鋭い鱗によって切られ、血があふれ出ていた。
「早く!」
彼がそう声を上げるのと同時に、女子高生は怯えていた女性を連れて彼の後ろへと下がっていく。
後は彼女たちが遠くに逃げるまで、目の前の怪物を足止めすればいいだけだ。
彼の拳を胴体に受けたままの龍は動こうとはせず、これなら自分も逃げられるかと思った矢先に、彼の頭の位置で止まっていた鋭い鉤爪の両手が動き出す。
咄嗟にその動きを見て右腕を引いて、後ろに下がった彼だったが、龍の鉤爪は彼の右腕の肉を抉り取っていた。
骨も見えるんじゃないかというくらいに深く抉られた右腕から大量の血が垂れ落ちる。
そんな彼を様子見するように左手の鉤爪に彼の肉を付けた龍は動きを止めている。
自分の今の右腕の様子を見たらショック死しそうだと思いながら目を背け、段々と息がし難くなっていく。
額からは原因不明の汗が噴出し、心臓の鼓動が速くなって行くのが分かった。
彼をそうせしめているのは目の前の存在に対する恐怖だった。
右腕の痛みは尋常ではなく、立っているだけでもやっとな状態の中、静かに佇む化け物の存在。恐怖しないわけがなかった。
そして、彼は目を背けていた自らの右腕の状態を見てしまう。
深く抉られた右腕から溢れ出た血が水溜りのように地面に溜まっていく。
それを見た途端に彼は生きるのを諦めようとそう思った。
(そうだ……あの時点でもう、自分から死亡フラグは立ててたじゃないか……!)
そう思ったのだが、体が震えだす。生きたいと願う体は小刻みに震える。
死にたくない。
(俺は……もう何のやる気もないんだから、ここで死んでもいい……)
死にたくない。
(その時点でもう、死亡フラグが立ってたんだ……)
死にたくない。
(でも……なんでこんなに……――――)
「――――死にたくないんだ……!」
涙が溢れ出し、地面の血溜まりに垂れる。
こんなにも“生”にしがみつこうとする自分が惨めで仕方がなかった。
「ウォオオオオオオオオオ――――!!!!」
叫んで自分を惨めと思う気持ちを振り払おうとする。
逃げたっていいじゃないかと、惨めでいいじゃないかと、かっこよく死のうなんてそう思うこと自体が彼には似合わない。
後ろを向いて左腕だけを勢い良く振りながら、全速力で走る。
だがその瞬間、バッドで殴られたような大きな衝撃と痛みが背中に走り、バランスを崩した彼は地面を転がった。
うつ伏せの状態で停止した彼の目が段々と近づいてくる化け物の存在を捉える。
同時に、自分の周りに大量の血が広がっていっているのが分かった。
瞼が重くなっていくのを必死に堪えながら左腕に力を入れようとするが、体は起き上がらない。なんで起き上がらないのか。それは背中が龍の鉤爪によって抉られたからだ。
「あ……が……」
それでも起き上がろうとするが無理だった。
「おわっ……た……――――」
「――――終わってない!」
その声は彼のうつ伏せになっている地面の真上から聞こえてきた。その声の正体は先ほど、女性を託した女子高生だった。
彼の上を飛び越えたのであろう女子高生はそのまま、龍の頭上から両手で握った黒い刀を振り下ろして、龍の左腕と左脚を斬り落とした。
苦しい叫び声を上げる龍に対して、女子高生は間髪を容れずに黒い刀を振い、その首を斬り落とそうと、何度も何度も刀を振るう。
そうして、何度も斬られた首が宙を舞い、体から噴き出す赤い色の血が彼女に降り注ぐ。
重みのある龍の体が地面に突っ伏すのと同時に、彼の倒れているほうを振り向く女子高生。
にこりと笑うその姿は彼の目には死人を狩る死神のようにしか見えない。
「だいじょーぶ?」
彼女のその質問に頭に血が上っていないのにもかかわらず、イラッときてしまう。
死にそうで、意識を保つだけでもやっとの状態で大丈夫なはずがない。
「おま……ホント……空気読めてねえ……」
人生で最期になるかもしれない発言をこんなどうでもいいことにさせやがって、と彼女を恨む前に彼の意識は底なしの闇の中に消えていった。