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回想録その二 幸運王子のひとりごと1

 この話は、十一話から十七話までの回想録となっております。


・王子が若干キャラ崩壊を起こしています。お気を付け下さい。

・特定の人物に対して不快な表現が多々あります。苦手な方は逃げてください。

 俺は今幸せの絶頂にいる。いや、ここが絶頂ではないだろう。この先もっと大きな幸せが手に入るかもしれない。いやいや、かもしれないじゃなくて、絶対に手に入れて見せる。


 クロフィは女だったのだから!


 俺の不憫な少年時代を考慮して、神が俺の人生に盛大な贈りものをしてくれたに違いない。それくらい今でも信じられず、興奮が冷めない。


 クロフィは女だった。

 間違いなく女だった。

 喜ばしい事に異性だった。


 もう叫びながら走り回りたい衝動に駆られているが、走り回ると十中八九倒れる事は必至なのでやらないが。






 事のはじまりは、俺の一言だった。


 この国には『レイヴァーレ』というかなり古くからある童話があるのだが、その初版本をセルネイが持っていると漏らした事がきっかけで、クロフィとアレクがそれを見たいと言い出した。

 二人が同じ色の瞳をキラキラさせて、借りて来てくれ、と暗に告げている様を目の当たりにしてしまえば、俺としても二人のために借りて来てやろうという気持ちになった。


 クロフィとはまだ半月ほどの付き合いで、アレクとの付き合いもふた月くらいだ。まだそれほど長い付き合いという訳ではないが、思えば、俺は二人に結構世話になっている。

 俺が返せる事があればいいが、今は本を借りてくるという些細な事しか出来ないのが少々悔しい。俺は王子なのに、王子としての威光など星の瞬きよりも小さいというのが現状だ。今の俺は些細な事しか出来ない子供と同じだのだ。


 王の座を継ぐのは俺である事は承知しているが、現状公爵に王位を簒奪されそうな勢いであるというのは、王宮に務めている者なら誰もが知っている事だ。俺なんかより公爵の威光の方が王宮では強い。王宮内だけに留まらず、この国全体で見てもそうだろう。公爵は国王が亡くなってから二十年もの間国王代理として国を纏めてきたのだから。


 俺だってちゃんと王子としての教育は受けてきた。故に、それなりには政の事も分かっているつもりだ。だが俺は未だに国政には関わってはいない。それは誰もが国政に王子である俺が参加する事を望んではいないからだ。

 俺は、子供の頃は病弱で床にいる事が多い少年時代を過ごしてきた。それ故に、もうすっかり健康体になったというのに、爺共は無理をさせたくないという名目で俺を政に関わらせようとしない。

 正直な話、俺はそれでもいいと思っていた。面倒な事はしたくないと思っていたため、自分を取り巻く環境に不満を持ちつつも、どうでもいいと思っていた事は否定しない。今だって何もせずに小屋に入り浸っている日々だ。傍から見れば俺はダメ王子として見られている事だろう。

 しかし俺は政に参加しようとは思っていない。今さら俺が出張ったところで煙たがられるのがオチだ。それなら今のままでいいと思った。

 クロフィやアレクと一緒にいるのは結構楽しい。それなら現状を維持していた方が俺としては楽しく過ごせるだろうと思っていた。


 まあそんな訳で、二人の願いを聞いてやろうとセルネイを探しまわりながら庭を走り回っていたのだが、俺は早く見せてやりたいと思う気持ちが逸り、自分の体力なさを完全に忘れていた。


 子供の頃から身体を動かす事がなかった俺はビックリするほど基礎体力がない。普通に生活する事に関しては全く問題ないのだが、激しい運動をすると息切れで死にそうになる。冗談抜きで。

 基礎体力を強化すれば問題なくなるのだろうが、生憎、俺は運動が苦手だ。進んで基礎体力の強化などする訳がない。


 しかしながら、現在進行形で自分の基礎体力のなさを呪っている。息苦しくて本気で死にそうだ。


 自分の体力のなさを忘れて庭を走り回り過ぎた。俺は子供か!? と自分でツッコミを入れてしまいたいくらいだが、今はそれどころではない。

 動けなくなり膝をついたその場所は、残念な事にあまり人の来ない脇道だった。運よく見回りの近衛騎士に見つけてもらえればいいが、現在周りに人の気配など全くない。


 ああダメだ、頭がクラクラしてきた。


 酸素欠乏により視界まで悪くなってくると、ますますもうダメだと諦めてしまいそうになった。

 しかしその時、俺を呼ぶ声が聞こえた。誰だと思ったが、今の俺にそれを確認する余裕などない。そのままゼーハーと荒い息を繰り返していると、不意に俺の背に誰かの手が添えられた。近くに誰かがいると分かると、俺は助けを求めるようにその人物に視線を向ける。


 視線を先には心配そうに顔を覗き込んでくるクロフィがいた。


 もうクロフィが女神に見えて仕方がなかった。いや、クロフィは男だから神と形容した方が正しいのか。まあそんな事はどうでもいいが、見つけてくれたのがクロフィであったことに俺は喜びを感じたが、それどころではない俺は言葉もろくに返せなかった。

 しかし話せないながらも、クロフィがずぶ濡れである事だけは確認できた。雨など降った記憶はないのにどうして濡れているのかさっぱり分からなかったが、俺の記憶はそこで一端途切れてしまった。


 次に気がついたのは、何故か詰所にある医務室の寝台の上だった。どうしてこんなところにいるのかさっぱり分からなかったが、記憶がなくなる寸前クロフィに声をかけられた事を思い出し、きっとクロフィが助けてくれたのだと俺は思った。しかしどうして詰所なんだと考えて、そう言えばあの場所は王宮殿より詰所の方が近かったなと思い出す。クロフィはきっと俺の事を考えて近かった詰所の方に運んでくれたのだろう。


 俺はそう考え、クロフィの姿を探しながら寝台をおりた。


 寝台の傍にクロフィはいなかったが、俺を放置するほどクロフィは薄情ではない。きっと近くにいるはずだと思い、名を呼びながら寝台の目隠しとして立っている衝立の向こう側に出ると、そこにクロフィに姿はあった。


 しかしその姿には多大な問題が発生していた。


 クロフィはどういう訳か上半身裸だった。いつもは隠れているその肌が透き通るような白さで目眩がしそうになったが、見惚れている場合ではないと自分を叱咤する。そんな事は後回しだ。今はクロフィの胸部に布が巻かれている事の方が重要だ。


 ここは詰所の医務室だ。クロフィは俺を助けるためにここに運んでくれたのだと思っていたが、クロフィも怪我を負っていたため詰所の医務室に来たのだろうか。布が胸部を覆っているという事は、転んで怪我をした程度のものではない事が知れる。では酷い怪我でもしてしまったのだろうか。その白く美しい肌に傷が残ると考えただけでも目眩がする。


 そう考えるが早いか、俺は上着(何故か騎士服)を持って固まっているクロフィに勢いよく詰め寄り、その腕を掴んだ。すると胸部の布は緩んでいたのか、不意に解けてしまった。


 俺は目の前の光景に絶句した。

 なぜなら、解けた布の向こう側に、完璧な膨らみだと絶賛した『それ』が本物としてそこに付いていたからだ。


 クロフィの胸には、男にはない膨らみがあった。


 それを確認したのはおそらくほんの僅かな一瞬だけだ。しかし俺はクロフィの胸の膨らみをしっかりと見た。そして目に焼き付けた。永久保存版として。


 クロフィは咄嗟に解けた布(俺は包帯の類だと思っていたが、おそらくサラシだったのだろう)と一緒に胸元を腕で隠し、すぐに俺に背を向けしゃがみ込んでしまった。


 その真白い肌の背が少しばかり震えていた。


 しかし俺は申し訳ないがそれどころではなかった。一体目の前で何が起こっているのか訳が分からず混乱した。


 クロフィは男だろう? 伯爵家の跡取り息子だろう? 俺と同じ性別なんだろう? 何故胸が膨らんでいるんだ? それは男にもあるものなのか? 俺にはそんなもの付いて無いぞ。いや、俺以外の男にはあるのか? いや待てよ。あれは胸筋だったという可能性が……ある訳ないだろう! あんなに柔らかそうな胸筋があるか! あれはおそらく、きっと、十中八九、いやいや絶対に、女のそれだ!


 と思い至ると、俺は興奮のあまりぶっ倒れた。






 そんな訳で、ここで冒頭に戻る訳だが、俺は喜びのあまり小躍りしたい気分だった。


 クロフィは女だった。紛う事なき女だった。

 クロフィの母君よ、クロフィを正しい性別で産んで頂いて本当に感謝する!


 もう俺はこの世の全てに感謝する勢いで浮かれていた。

 やったああああ! と叫びたい気持ちを抑えながらクロフィに向くと、クロフィは俺とは逆で暗い表情をしていた。


 クロフィはずっと伯爵家の跡取り息子として生きてきたのだ。そこにはそれなりの事情があって、クロフィもそうせざるを得なかったのだろう。それなのに、おそらく一番知られてはいけないであろう王子(おれ)に『実は女である』という秘密を知られてしまったのだ。クロフィからすれば、これからの事を考えて気が気じゃなかった事だろう。


 それなのに俺はクロフィが女であった事実に喜ぶだけで、クロフィの事情など全く考えてはいなかった。

 謀って申し訳なかったと謝罪するクロフィを前に、俺は己の事しか考えていなかった自分を恥じた。


 どうやらクロフィが女だとして知っているのは両親と使用くらいのようで、誰にも言わないでほしいと請われ、俺はそれに躊躇う事なく了承を返した。


 クロフィが女だ、などと誰が公にするものか。クロフィが女であると知られてしまえば、どこぞの馬の骨とも知れない男が近寄って来る事は必至だ。夜会の会場でドレス姿のクロフィを目の当たりにした男共の視線が不埒なモノだった事を考えれば、尚の事、クロフィを守るためにこの秘密は守りとおさねばならない。

 決して、俺以外の男に目を付けられないようにするため、とか、俺のものにするまで邪魔が入らないようにするため、とかではないぞ! 俺はクロフィのために秘密を守るんだからな!


 そんな事を思いつつも、クロフィが女だと判明した事で、これから心置きなく自分の妃にするための計画を練ろうとは思っている。クロフィが女だったのだから当り前だろう。


 しかし俺は、クロフィが女であっても伯爵家の跡取りだという事を忘れていた。


 貴族家では跡取りとなる男子がいない場合は入り婿を迎える事が一般的だ。大抵は跡取りとなる息子が生まれるまで子作りするとか親戚から養子を迎えるとかするらしいが、それも叶わず娘ばかりがいる家では入り婿を迎えて家を存続させていくのだ。


 伯爵家もその例に漏れず、子供は娘のクロフィだけ。今の伯爵家に親戚と呼べる者たちはおそらくいないと言える。二十年前の事件の折、伯爵家と懇意にしていた貴族たちは挙って手を切ったというし、現伯爵家当主は二人兄弟だったという話だから近しい親戚はいないだろう。奥方の方はどうなのか分からないが、クロフィが男として生きている現状を見れば、何処からも養子を迎える事など出来ない状態なのだろう事は一目瞭然だ。

 俺の母からの情報によると、クロフィの母君は生まれつき身体が弱く一人産めただけでも奇跡だったという。俺としてはクロフィを産んでくれただけで多大な感謝の念を抱いている訳だが、欲を言えば、クロフィの弟も産んでもらいたかったと思った。切実に。


 現状クロフィは男として生活している訳だから堂々と婿を迎える事ができないはずだ。という事は、秘かに婿を迎える事になるのだろう。貴族たちの縁談は親が決める事が多いと聞く。クロフィもまた親が相手を決めるのだろうというのは理解できる。理解は出来るが、納得はできない。

 俺は、父が良い人を見つけてくれるかもしれないとか何とか言いだすクロフィに、全力で断れ、とつい声を荒らげてしまった。


 ああ心配だ。俺以外の誰かとクロフィが一緒になるなど考えたくもない。クロフィの隣は俺の場所だ。誰にも譲らん。絶対にな!


 そうしてクロフィの事を少し知り、俺は迎えに来た主治医と共に王宮へと戻った。


 王宮に戻り、俺は大人しく自室の寝台に横になっていた。しかしクロフィが女であった嬉しさで興奮状態が冷めず、上掛けに包まりながら、ふふふ、と気味の悪い笑い声を漏らしていた。


 俺は今日という日を決して忘れない。今日はとても素晴らしい日だ。いっそ記念日にしたいくらいに最高の日だ。


 クロフィは女である事を知られてしまった事をあまり良くは思っていないようだったが、俺としてはクロフィの秘密を知った事に喜びを感じている。これからはもうクロフィが男だと悩まなくていいのだ。むしろ女であったのだから、心置きなく想っていいのだ。ああ嬉しい。本当にうれしい。俺が如何に喜んでいるのかを誰かにぶちまけたいところではあるが、クロフィと俺の将来のために秘密は絶対に漏らすわけにはいかない。だから一人でその喜びを噛みしめ、ふへへ、と自分でもドン引きな笑い声を上げ続けた。


 そうやって一頻り幸せを噛みしめていると、ふと何か忘れているような気がして起き上がった。そして庭を走り回っていたのはセルネイに童話の初版本を借りるためだったと思い出した俺は、寝ている場合ではなかったと寝台から出た。


 約束は約束だからな。二人のためにもセルネイから初版本を借りなければ。


 俺は隠し通路から再び庭に出てセルネイを探した。

 王宮の庭は広大だ。生まれてからずっとこの王宮で暮らしている俺ですらその全てを把握しきれていないほどには広大だ。そんなだだっ広い庭にいるたった一人を見つけるのは至難の業だった。


 そんな訳で、全く見つからない王宮庭師の姿に、何処にいるんだ、と愚痴を零しはじめていた頃、ふとアレクの姿を見つけた。


 俺から見たらその背しか見えなかったが、どうやらアレクの正面には誰かがいるようで何事かを言い合っていた。しかしその雰囲気が今にも私闘に発展しそうな勢いだったので、アレクにしては珍しいなと思いながら、とりあえず止める事にした。


 声をかけ近付いてみれば、そこにはクロフィもいた。だがクロフィはアレクと対峙している近衛騎士のすぐ傍にいた。どういう事だ。

 俺はその近衛騎士の顔を見た事があるような気がしたが、誰だったかまでは思い出せなかった。名乗られてようやくその近衛騎士が、近衛騎士団長の補佐官であるエミルディランだという事を知った。しかし今は性悪補佐官の名前などセルネイの植物談義よりどうでもいい。

 性悪補佐官は俺が現れた途端、俺から遠ざけるようにクロフィをその背に隠し、しかも「僕がクロスと親しい間柄だからと言って殿下に何か不都合がありますか?」とかのたまいやがった。許せん!


 俺のクロフィと親しい間柄だと? 誰の許可を得てクロフィと親しくしてやがるんだコイツは! というか、クロフィも少しは否定しろよ!


 クロフィは気に食わないその性悪補佐官の背に庇われたまま事の成り行きを見守っている状態だ。俺はその事にも腹が立ち、一刻も早く目の前の性悪補佐官からクロフィを取り戻そうと試みたが、性悪補佐官は一向にクロフィをその背から出そうとはしなかった。忌々しい。


 しかしその時、この場にいる者以外の声を聞いた。建物の角に立っていたクロフィの様子を見るに、クロフィの側面、つまり俺から見たら建物が邪魔で見えないような位置から誰かが声をかけてきたようだった。声をかけてきたというのは語弊があるかもしれない。なぜならその声音は誰が聞いても忌々しいというような色を含んでいたのだから。声をかけてきたというよりは、排除しようと挑んできたという方が正しいのかもしれない。

 しかしながら、その対象者がクロフィである事に俺はこの上なく怒りが込み上げてきた。俺のクロフィを貶めるような物言いをしているのは誰だと、思い切り顔を怒りに歪めながらクロフィの許に向かおうとした。しかしその進行は性悪補佐官に阻まれ、足を止めたその瞬間にアレクに羽交い絞めにされた。ご丁寧に口まで塞がれるというおまけつきで。

 その間にもクロフィは誰とも知れないバカ野郎に貶められていく。


 どうしてアレクまで俺の進行を阻止するんだ! この二人は一体何を考えているんだ! どうして助けず傍観しているんだ! 薄情者め!


 と、心の中で二人を罵倒していると、とんでもない言葉が耳に届いた。


「ずぶ濡れにされてもしぶとく王宮を歩きまわれるなんて、お前雑草並みに神経図太いんだな」


 確かにクロフィは俺を助けてくれた時に全身が濡れていて、今は濡れた服の代わりにアレクと同じ黒い騎士服を着ている。その原因はクロフィが魔法を誤って使ってしまっただけだと聞いていたというのに、『ずぶ濡れにされた』とはどういう事だ。

 そうやって抵抗していた行動を一切止めてクロフィを凝視していると、更に、


「いっそ服を燃やしてやろうか? 裸にされればいくらお前でももう外を歩きまわれないだろう?」


 と、そんな声と共に下卑た笑い声が聞こえてくる。そんな耳障りな嘲笑を聞きながら、俺は何故クロフィがずぶ濡れだったのかをようやく理解した。


 クロフィは、今クロフィと対峙しているそのバカ野郎にずぶ濡れにされたのだ。伯爵家の人間だというだけで。


 クロフィが居た堪れないというように服が入っている包みを胸の前で抱きしめている。その姿がとても痛ましくて、俺の胸はズキリと痛んだ。

 クロフィを助けようと思い、再度アレクの腕から逃れようともがいてみたが、俺はその腕を振り解く事が出来なかった。


 そうこうしている内に、クロフィはとりあえずこの場から立ち去ろうとしたようで、俺たちがいる方向とは別方向に足を進めていく。しかしそんなクロフィに思い切り小石がぶつかった。

 俺はその残酷な光景に目を見張るばかりで、エミルが建物の影から誰が石を投げたのかを確認していた事など気付きもしなかった。


 クロフィが去り、下卑た笑い声を上げていた奴らの声も遠退いた頃、ようやくアレクは俺の拘束を解いた。

 言ってやりたい事は山ほどあったが、俺は何よりも先にその場から走り出し、クロフィを追った。


 クロフィは小屋へと続く林の前で立っていた。俺はその背に思わず声を上げ、飛びかからんばかりの勢いでクロフィに詰め寄った。

 本当は慰めの言葉を言いたかったというのに、口から出てくるものは怒りの言葉ばかりだった。


 俺はクロフィに対して怒っていた訳じゃなかった。クロフィに対して酷い仕打ちをした愚か者どもに激怒していたんだ。だのに何故クロフィに怒鳴ってしまったのか。


 俺はそれをすぐに後悔する事になる。


 アレクとエミルからクロフィの現状を少しばかり聞いた。

 俺だってクロフィを取り巻く状況を知らなかった訳じゃない。だが、これ程までに酷いとは思っていなかった。

 エミルに俺がクロフィを公然と助ける事はクロフィの首を絞める事になると言われ、クロフィもそれを否定しなかった。


 全ては二十年前の事件が原因だった。


 クロフィが謂われなき中傷を受けている事も。

 俺自身が伯爵家の恨んでいると思われている事も。


 言い返せばよかっただろうと言う俺に、クロフィは情けない姿を見せてすまないと言って泣いた。自分ではどれだけ言い返したいと思っても言い返す事は出来ないのだと、悔しそうに言いながら。

 俺はそんなクロフィの姿を見て、とても酷な事を言ってしまったのだと反省した。


 クロフィが何を言われようと何も言い返せないのは、自分の伯父が国王を暗殺したという事実があるからだ。それを背負う伯爵家の跡取りだからこそ、クロフィは悔しいと思いながらも言い返す事が出来なかったのだろう。


 一体今までどれだけそうやって罵られ蔑まれてきたのだろうか。俺はそんな事とは露知らず、先程クロフィに小石を投げ付けた者たちと同じように、初対面のクロフィに酷い事を言ったのだ。それがどれ程クロフィにとって辛いモノであるのかを考えず、俺は本当に最低な事をしていたのだ。

 これでは俺も先程のバカ共と同じだ。本当に俺は愚かでバカだった。あの時に戻れるのなら、クロフィとの出会いをやり直したいくらいだ。

 しかしそれはもう叶わないモノだと知っている。だからこそ、これからのクロフィは俺が守ると心に誓った。


 だが現状それが難しい事も俺は知った。


 俺とクロフィの間には目に見えない壁があった。俺はクロフィと一緒にいたいのに、その行動はクロフィを苦しめるものになってしまう。ではどうすればクロフィの傍にいられるのだろうか。

 それは今の俺には分からなかった。


 そんな事を考えていると、アレクとエミルの会話が耳に付いた。二人はどういう訳か親善試合の話をしているようで、エミルはアレクに出場選手にならないかと持ちかけていた。

 この場で何故親善試合の話になっているのか理解出来ず俺は二人に問いかけてみると、エミルがしれっとさっきのバカ共に報復すると言った。


 何かおかしくないか? アレクとエミルはクロフィの現状を知っていて『静観』という選択を選んだのだろう? 薄情な奴らだという考えは変わらないが、俺だってその選択の理由は理解した。それなのに『報復する』とはどういう事か。どうやってあのバカ共に仕返しをするというのか。


 エミル曰く、先程俺たちは建物の陰から出なかった事で、あのバカ共は俺や性悪補佐官にあの厳罰に値する行為を見られた事実を知らない。故に、あのバカ共の知らないところで心置きなく報復のための行動を起こす、というのがエミルの考えだった。さすがは悪名高いと噂の補佐官だ。考える事がエグイな。

 しかしその考えには俺も大賛成だった。エミルの計画内容は良く分からんが、エミルはクロフィに好意的みたいなので悪いようにはならないだろう。クロフィに好意的なのは気に食わないが。


 そんな訳で、計画を実行に移すべくやって来たのは、騎士団長レイヴンリーズの仕事部屋だった。


 エミルは親善試合を丸ごと使ってあのバカ共への報復を考えていたようだ。そのため、レイヴンにも協力を要請しようと考えたのだろう。しかし話を聞いていくと、何やら俺が思っていた事とは違う方向に話が進んでいるような気がして首を傾げた。

 エミルに聞くのは癪だし、アレクは立ち位置的に遠いし、クロフィに訊くのは格好悪いし……と、考えていたが、結局俺はクロフィに声をかけてみた。しかしどうやって聞けばいいものかと悩んでいると、クロフィはそんな俺の事を察してくれたのか、計画内容を教えるのではなく俺が知らない情報を教えてくれた。それは俺が自分で答えを見つけられるようにというクロフィなりの気遣いなのだと思った。

 俺の矜持が傷つかないようにとのその配慮に、俺はこの上ない感謝の念が浮かんだ。クロフィは淑女としても完璧な人物だ。これほど俺の妃として相応しい人物はいないだろう。


 今すぐ嫁に来い、クロフィ!


 とまあ現状そんな欲望に塗れた事を考えている場合ではないので、俺はクロフィにもらった情報から今回の事をあれこれと考えてみた。そしてエミルディランが考えている計画の内容をようやく把握した。


 要は、『王子の騎士になれる』という餌と囮となる詰所の騎士たちを使って近衛騎士たちの不正を暴こう、というのが今回の計画内容だった。


 エミルはクロフィを貶めた近衛騎士を断罪するついでに近衛騎士団内の不穏分子も排除しようとしていた。そこまで考えていたとは、なんて恐ろしい奴なんだ。

 しかしこの計画は、選手にならないかとアレクに持ちかけていた時点でエミルは既にこれを考えていたという事になる。ほんの短い時間でここまで計画を立てられる補佐官の頭の回転の速さには正直驚いた。


 近衛騎士団長の補佐官であるエミルディランはとても優秀で、二十三歳という若さで既にその頭角を現していた。爺共の中にはその才能を国のために使ってくれればいいものをと嘆く者すらいるくらいだ。それくらいエミルの才覚は優れているらしい。

 しかしそれを本人に訊ねてみれば、エミルは本当に嫌そうな顔つきになり、官吏など御免だと言い切った。公爵の執政に手を貸す気はないと。


 エミルはどうやら公爵をあまり好意的には見ていないらしい。それはクロフィの生家である伯爵家を公爵が疎んでいる事にあるようだが、どうもそれだけという訳ではなさそうだった。


「誰がこの国の安定を――」


 そう何かを言いかけたエミルの言葉はレイヴンに遮られてしまったが、この国に関わる何かを知っているような感じはした。だが俺は政に関わっていないため、エミルが言いかけた言葉の意味を理解する事は出来なかった。


 まあ俺としては、そんな事よりクロフィが俺の騎士姿を楽しみにしているという事実の方が重要だった。

 毎年、身体を壊すといけないという理由で親善試合は病欠扱いだったが、今年は是が非でも参加せねばと意気込んだ。







 しかしながら、俺は今回の事で二つだけ大いに気に食わない事実がある。


 一つは、エミルがクロフィの婿の座を狙っているという事実だ。


 あの男はクロフィを男だと認識していると言うのに婿になると躊躇いもなく言いやがったのだ。

 何だアイツは。本物の男色家なのか。

 と思ったが、どうもそうではないらしく、相手がクロフィだから婿になるとのたまっているようだった。


 なんて事だ! 俺のクロフィに早くも魔の手が! クロフィは将来俺の妃になるのだから、たとえ昔からの顔見知りだろうが何だろうがクロフィは渡さん! 絶対にな!


 俺はあの変人からクロフィを守るという新たな使命を胸に刻み、早急にクロフィを手に入れるための計画を練らなければと意気込んだ。


 そして気に食わないもう一つの事実は、王宮での夜会に直前になって参加できなくなった理由だった。


「少し前に王宮で夜会が開かれたでしょう? クロスは殿下に挨拶をするためにその夜会に来ていたんですよ? 知ってましたか?」


 そんな事を告げるエミルの言葉に、俺はその意味をすぐに悟った。


 王宮の夜会に俺は参加するはずだった。だが直前になって公爵に参加を取り止めにされた。その時はいつもの事だとあまり深く考えてはいなかったが、思えば、あの日は部屋の前に近衛騎士まで立っていて勝手に外には出られないようになっていた。それにあの日の夜会には伯爵家の人間も参加していたのだ。俺はその事を全く知らなかった。庭でクロフィを見た時、どうして王宮の夜会に伯爵家の人間が参加しているのだろうと思ったが、ここに来てその理由を知った。


 それらの事から考慮すると、今回の事に通じるモノが見えてくる。

 そういう事だったのかとようやく理解できると、自分の置かれた状況がクロフィと一緒にいられない原因なのだと思い知った。


 俺はこうなって初めて、自分が何もしてこなかった愚かさを呪った。






 こうして計画は実行に移された訳だが、俺にはこれと言ってやる事もなかった。『親善試合に勝てば王子の騎士になれる』という嘘の噂が流すにあたって、俺はそれを否定しない、もしくは、思わせぶりな態度をとる、という事でエミルに指示されていた。だがまあ俺に直接それを聞きに来る奴などいなかったから、俺は剣の鍛錬をするため詰所に入り浸っていた。


 いくら病弱な少年時代だったといっても、王族として嗜み程度には俺も剣術を習っていた。だが強いのかと問われれば、はっきり言って大した事はないとしか答えられない。現に詰所でアレクに剣の相手をしてもらったが、俺はアレクの足元にも及ばなかった。アレク曰く、詰所にはもっと強い騎士がたくさんいるらしく、アレクほどの剣の腕があっても強さで言えば中の下くらいだという事だった。

 詰所の騎士たちの殆どが実力で騎士となった者たちばかりだ。強者揃いだとは知っていたが、詰所の騎士団の実力は相当なのだと初めて知った。まあ騎士団長からしてバケモノだと言われるほどの剣豪なのだから、その部下たちが弱いとあっては笑い話にもならないだろう。


 そんな訳で、俺はアレクに頼んで剣の相手をしてもらっていた訳だが、何故かエミルも面白がって俺の相手をしに来たりもした。

 エミルは、詰所の騎士団長と同様に剣豪と称されている近衛騎士団長の息子だ。エミルも父の名に恥じぬ剣才の持ち主のようで、一度剣を打ち合ってみたが、俺はいいように遊ばれただけだった。ムカつく。もう二度とエミルとは剣の稽古などしない。絶対に。

 エミルに、剣の打ち合いを見るのも勉強になるんじゃないかと言われ、じゃあアレクとエミルで模擬戦をしてくれと頼んでみたが、俺はそれを頼んだ事をすぐに後悔した。

 あの二人は俺でもドン引きするくらい互いに負けず嫌いだった。模擬戦は最早、模擬ではなく死闘となり、果ては、お前ら戦場で戦ってんのか!? とツッコミたくなるような闘志を剥き出しにして戦っていた。たまたま偶然レイヴンが通りかかってくれなかったら、俺はあの二人の屍を見る事になっただろう。それくらい凄まじい戦いを目の前で繰り広げてくれた。そこまで頼んでないのに。

 まあ戦い方の参考(?)にはなったと思う。たぶん。


 そんな事がありつつ、クロフィにいいところを見せたいがために詰所に通っていた訳だが、俺はふとしたきっかけでおぞましい噂を耳にしてしまう。


 王子が詰所で鍛錬しているのは、親善試合に出るにあたって、レイラキアにいいところを見せたいからだ。


 と、そんな訳の分からない噂話をしている侍女たちの会話を偶然聞いてしまい、俺は死にも勝る恐怖で身を震わせた。


 誰があんな女のために剣の鍛錬などするものか。悪魔討伐の鍛錬ならするかもしれないが、あの女ためにという理由で俺が動く事など断じてない。あの女のためになど小指の先ほども動かしたくないわ! 俺がいいところを見せたいのは後にも先にもクロフィだけだ! 一体誰がこんなおぞましい噂を流しやがったんだ! 見つけ次第厳罰に処してやる!


 俺はおぞましい噂を耳にしながら、全力で聞かなかった事にして五日間を過ごした。

 だが、その噂を鵜呑みにしたあの女が公爵本人に俺の親善試合参加を要望したようで、俺は難なく親善試合に参加できる事になった。

 親善試合に参加できる事は有り難いが、あの女が噂を鵜呑みにしているという事実に多大な不安が残る。後々面倒事に発展しなければいいが。


 そんな心配をしつつ俺は親善試合当日を迎えた訳だが、実を言うと、俺は親善試合に参加するのは初めてだったりする。観覧は数回した事があったが、実際に模擬戦に出るのは初めてだった。

 クロフィにいいところを見せたいという思いも確かにあるが、自分自身が親善試合を楽しみにしているという事も否定できなかった。


 王族の試合は親善試合の前座の試合として最初に行われる試合となっている。俺は試合の準備やら何やらで、結局試合の前にクロフィともアレクとも会えなかった。エミルには会ったが、その時はエミルもまだクロフィには会っていないという事だった。だが見に来ると言っていた以上来る事は間違いないため、俺はきっと何処かで見てくれていると信じて試合に臨んだ。


 結果を言えば、俺は用意された相手には勝った。


 俺の相手となったのは近衛騎士団から選ばれた騎士だった。しかし何度か剣を打ち合ってみたが、コイツ本当に騎士か? というほど歯応えがなかった。俺は試合が長引くだけ不利になるので(体力がないから)、早々に勝ちを取りに行った。

 呆気ない試合となってしまったが、とりあいず勝てたので良しとする。後でクロフィに試合の感想を聞いてみよう。うん、そうしよう。


 そうして俺の試合が終わり、次はいよいよ本試合となる。

 初戦はアレクの試合なので、俺は観覧席には戻らず、近衛騎士たちの控え席の近くでアレクの試合を観戦した。


 闘技場の真中に選手たちが入場してくると、観客たちが歓声を上げた。その煩いまでの歓声を聞きながら、俺はアレクの入場を眺めていた。


 しかしながら、俺はアレクの様子が少しばかりおかしい事に気が付いた。


 アレクの表情には一切の余裕が見えなかった。緊張しているのかとも思ったが、どうやら違うらしい。アレクは入場してきた瞬間からかなり機嫌が悪かった。一体何があったのかと思ったが、アレクの相手はクロフィを貶めた奴だから当然だろうと思った。だがアレクは俺でも見た事がないくらいに怒っているようだった。そこまでクロフィの事を思っていたのかと思うと少しばかり面白くないが、アレクはクロフィが女だとは知らないため好意のような感情で怒っている訳ではないと思い直し、アレクの試合を見守る事にした。


 アレクは何やら相手の騎士から何事かを言われているようだったが、歓声が煩くて相手の騎士が何を言っているのかは聞こえなかった。だがアレクの表情が見る間に怒りに歪む様を見るに、騎士らしからぬ言葉を相手の騎士が言ったのだろう事は容易に想像できた。アレクも相手の騎士に何かを言い返していたようだが、やはり周りが煩くて聞こえなかった。


 試合開始の合図が鳴らされ試合がはじまると、一瞬で決着はついた。


 アレクは開始の合図と同時に相手の剣を弾き飛ばし、あろう事か思い切り殴り飛ばして相手を気絶させてしまった。

 親善試合は騎士団同士の試合故に、剣で勝つというのが大前提なのだ。だが俺には、アレクが敢えて相手を殴り飛ばしたように見えた。


 アレクは剣でなく素手で相手を負かしてしまったので、アレクの試合は無効となった。本来なら反則と見なされて負けてしまうところだったが、今回は裏事情の事もあり、団長たちの温情で無効試合となったのだ。


 結果的に見れば、アレクは試合に勝てなかった。だが相手を当初の予定通りぶっ飛ばす事には成功した。

 アレクは試合に勝つ事より、相手をぶっ飛ばす事にのみ全力を注いでいたような感じだった。俺としても、相手が言葉通りにぶっ飛ばされる様を見られて胸がスッとした訳だが、アレクはどうしてそんな試合にしたのだろうか。少し気になる。


 そんな事を考えながら、残りの試合を観戦し、無事に親善試合は閉会した。


 俺は終わると同時に着替える事もせず、クロフィに会いに行った。小屋にいるだろうかと思い、一旦詰所の方に向かっていると、そこでアレクとエミルの姿を見つけた。

 騎士たちは後片付けやら何やらの仕事がまだ残っているというのにどうして二人がここにいるのだろうかと思い声をかけようとしたら、エミルがいきなりアレクを殴り飛ばした。俺は何事だと足早に二人に近付くと、アレクはバツが悪そうに視線を逸らしてしまい、エミルはそんなアレクを睨みつけながら静かに激怒しているようだった。

 一体何があったのかと問いかけてみれば、クロフィがアレクを狙った刺客の刃を受けたのだと聞かされた。


 俺は一瞬頭の中が真っ白になった。

 足元が崩れ去るような感覚に襲われ、目眩がした。


 アレクの話によると、クロフィと共に闘技場を目指していた時に刺客に襲われ、アレクを庇ったクロフィが刺客の刃を受けてしまったという事だった。

 エミルは、自分はまだやる事が残っているから後で行くと言い残して、闘技場の方へと戻っていった。

 その場に残った俺は、掴みかからんばかりの勢いでアレクを罵った。


「お前がついていながらなんて様だ! クロフィは……っ」


 女なんだぞ! と言いかけて咄嗟に口を噤む。


 この事はアレクにだって知られてはいけない。クロフィの秘密が公になれば大事になる事くらい俺にだって分かっている。だからこそ、一緒にいるアレクにだってこの秘密は伝えてはいなかった。

 だがアレクは俺が何を言いたいのかを分かったようで、クロフィが女である事を知ってしまったと俺に告白してきた。俺がその事を知っている事実はクロフィから聞いたのだという事も付け加えて。


 それを聞いてますますイラつきが増したが、今はクロフィの許に行くのが先だと思い直し、俺はアレクと共にクロフィがいる詰所の医務室へと向かう事にした。


 医務室の寝台ではクロフィが静かに寝息を立てて眠っていた。

 刺客の刃には神経を麻痺させるような毒が塗られていたらしく、刃を受けた当初、クロフィはろくに身体を動かせない状態となってしまったらしい。


 それを聞いた俺は、眠っているクロフィを前にとてつもない不安に襲われていた。


 このまま目覚めなかったら。

 このまま逝ってしまったら。


 そんな良くない考えが頭に浮かび、俺は必死にクロフィの名を呼びながらその身体を揺すった。するとクロフィはちゃんと目を開け、俺に視線を向けてきた。俺はその事に安堵し、ちゃんと俺の事が分かるかと問いかけてみた。しかし返って来た言葉は『アイリスフィア王子殿下』といういつもとは違う呼び名だった。


 いつもは『アイリス』と呼んでくれるのにどうして今さら敬称を付けるんだ!? もしかして毒のせいで記憶が消えてしまったとでも言うのか!? なら俺との出会いも忘れてしまったのか!? あ、いや、出会った当初の辺りは忘れてもらっても構わない。あの時の俺はクロフィに酷い事を言った最低野郎だったからな。その辺りは消えて良し。だがその後の伯爵家訪問の事は絶対に忘れないで欲しい。クロフィと距離が近くなった出来事でもあったんだぞ!? どうか忘れないでくれ! 俺と一緒に寝台で語り合っただろう? 一緒に寝ただろう……ハッ! そうだ! 俺はクロフィの寝台で一緒に寝たんだった! 寝たと言っても言葉の通り同じ寝台で一緒に眠っただけだが。それでも俺にとっては素晴らしい体験だった事には違いない! ああ、もっとあの時クロフィの隣を堪能しておけばよかった! ……っとそんな事を考えている場合ではない! 今はクロフィの記憶が失われてしまったのかという問題が……。


 とか何とか考えながら焦っていると、クロフィに『アイリス』と名を呼ばれ、とりあえず落ち着けという言葉をもらった。


 俺はいつも通りに名を呼んでくれた事に一気に安堵感と嬉しさが込み上げて来て、思わすクロフィの身体を起こして抱きついてしまった。踊るために身を寄せた時と同じように、その身体は柔らかくて抱き心地がとてもよかった。相変わらずいい匂いだし。

 そんな不埒な事を考えていたら、クロフィから悲鳴が上がった。どうやら負った傷が痛んだらしい。俺は咄嗟に身を離して詫びたが、クロフィは痛そうに顔を歪めていた。本当に申し訳ない。


 しかしながら、女の身で身体に傷が残ったら辛いだろうと思っていたが、クロフィは事もあろうに「傷が残ったらアレクに責任をとってもらう」などと言ったのだ。


 俺は頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じ、言葉の意味を頭が理解しようとしなかった。全力で聞き間違いだと思う事にした。


 何故アレクに責任を取らそうとする!? 責任なら俺が取ってやるから今すぐ嫁に来い!


 と、本気で言ってしまいそうになった瞬間、衝立の向こう側から誰かを殺しに来たのかと問いたいくらいの殺気をダダ漏れにしたエミルがやって来た。

 エミルはどうやらクロフィの責任を取ってもらう発言の辺りから聞いていたようだから、クロフィが女だから云々の辺りは聞かれなかったようだ。危ない危ない。


 エミルはクロフィに対する責任の取り方に付いて剣の柄に手をかけながらアレクに迫っていたが、俺はそれを止めようとはしなかった。

 アレク、短い間だったが世話になったな。くらいの勢いで俺はアレクを見送ろうとしていた。だがそれを止めようとしたのはクロフィだった。まあ当然だろう。クロフィは優しいからな。


 そんなやり取りの後、クロフィは俺の騎士姿が似合っていると言って褒めてくれた。自分ではよく分からないが、クロフィが満足そうに俺の事を見ているから大変満足だった。だがアレクやエミルにも「騎士は格好いい」などと言って騎士服が似合っていると言っていたので、これからは本気で普段着を騎士服にしようかと考えている。


 まあそんな事はさて置き、試合の事もクロフィに話した辺りで、試合中にアレクが相手と何を話していたのかという事をエミルが聞いていた。俺は何を言っているのか聞こえなかったが、どうやらエミルはその内容を少しばかり把握しているようだった。

 俺もエミルに便乗して、相手からの挑発に何と返したのかと視線だけでアレクに迫った。するとアレクは観念するように、友人に怪我をさせやがって、というような事を言いかけて止めたのだと白状した。それを聞いて感極まったのか、クロフィが突然泣き出した。泣き出したと言っても、その綺麗な瞳を潤ませただけに過ぎない。だがそれだけでも面白くなく、俺はアレクに射殺さんばかりの眼光を向けた。それはエミルも同様だった。どうでもいいが。


 そうやって少しばかり四人で話していたが、アレクとエミルが医務室を出て行ってしまうと、俺はクロフィと二人きりとなった。


 二人きりとなり、俺はクロフィに王宮での夜会の事を話した。


 俺は謝罪の意味も込めてクロフィにその時の事を話したというのに、クロフィは自分のせいでと俺の事を案じてくれた。離れようとするクロフィの手を咄嗟に捕まえると、その手は俺の手なんかよりずっと小さくて、とても温かな手だった。


 情けない奴だと思われてしまうかもしれないが、俺は俺自身の現状についてクロフィに話して聞かせた。

 俺は今まで何もしてこなかったのだから、愚かな王子だと思われても仕方がない。俺がのうのうと生きてきたその裏で、クロフィは伯爵家の人間として蔑まれて生きてきたのだから。

 きっと俺が伯爵家に対して何かをしていれば、クロフィの周りの環境も少しは変わっていたのかもしれないのだ。母が伯爵家を庇護していた事は子供ながらに知っていた。しかし俺は母の死後、それを引き継ごうとはしなかった。

 何もせず、ただ時間の流れのままに生きてきた自分が、今ではとても恥ずかしい。俺が何か行動を起こしていればクロフィともっと早くに出会えていたのかもしれないし、クロフィが近衛騎士たちに酷い事を言われた時に助ける事ができたのかもしれない。


 俺はクロフィの傍にいる事によって彼女自身を苦しめてしまう現実を知った。しかしそれでも、俺はクロフィの傍を離れたくなかった。


 だから俺は決意したんだ。

 クロフィと一緒にいられる状況を俺自身が作ろうと。


 しかし、俺にはエミルのような頭の良さはないし、アレクのような察しの良さもない。同い年のクロフィですら俺より何倍も賢いと言うのに、俺だけが何も出来ない子供と同じだった。

 俺は皆よりずっと後方を歩いている。俺は何もしてこなかったのだから当然だ。俺はまず、ずっと先の方を歩いている皆との距離を縮める事からはじめないといけない。いや、その距離を縮める事は難しいだろう。だが、これ以上離されないようについて行く事くらいはしないといけない。俺だって何も出来ない訳じゃない。まずは出来る事からはじめていこう。


 俺はそう思い、ちゃんと一緒にいられるようにするからとクロフィに告げた。


 握る手に力を籠めると、クロフィを見つめた。クロフィも俺の方に顔を向けている事を認めると、夕焼けに染まるその顔が、とても綺麗に見えた。


 自分を取り巻く環境を変えるのは、きっと時間がかかるだろう。それでも絶対に何とかしてみせる。俺はクロフィと一緒にいたいし、この先の未来を生きたいと願っている。だから俺の――。


 俺の妃になって欲しい。


 そう告げようとしたというのに、わざとらしいクシャミにその言葉を遮られてしまい、ちゃんとクロフィに伝える事が出来なかった。


 俺はちゃんと理解している。そのクシャミが十割の確率でわざとだという事を!


 今の俺がそれを言える立場ではない事くらい分かっている。分かってはいるが、ちゃんとした約束が俺は欲しいんだ。そうじゃないと、クロフィは他の男のものになってしまうかもしれない。クロフィだって年頃だ。もう縁談話だってあるかもしれない。考えたくないが。

 だから今の内に約束しておこうと思ったのに、王宮庭師にそれを阻まれた。そんな約束を交わす事すら今の俺には資格がないという事なのだろうか。落ち込む。


 しかしながら、クロフィは話が中断されたと言うのに、窓から顔を覗かせたセルネイと至って普通に挨拶を交わしている。


 俺は今物凄く重要な話をしていたんだぞ! もっとそういったところを察してくれ!


 と、心の中で訴えてはみたが、クロフィには俺の頑張りは通じていなかったようだ。クロフィは色恋沙汰に関しては極度に鈍感らしい事を知ると、俺はこの先の苦労を少しばかり思った。


 そうやって直接的な言葉を言えなかった恨みを視線に乗せセルネイを睨んでいると、仕方ないな、というような視線が返って来た。そしてセルネイは二日後にあるという近衛騎士団長の生誕の宴の話をクロフィに振っていた。


 俺はそれがセルネイからの助言だと受け取った。


 俺を取り巻く状況を変えるためには、まず公爵を何とかしない事には話がはじまらない。言い方は悪いが、俺は現在公爵に管理されている状態だ。俺の動きは公爵に制限されている訳だから、そこから何とかしなければならなかった。

 しかし俺には公爵に対抗し得る味方など一人もいなかった。せいぜい『守護者』が俺の側にいると言うだけで、現状俺は一人だ。そんな状況の中で誰が一番味方になってくれる可能性があるかと考えると、それは現在では公爵家と全く交流がない伯爵家くらいだろうと思い至った。


 公爵と懇意にしている貴族たちは、言ってみれば公爵に睨まれる事を恐れている者たちばかりだ。現に公爵家に睨まれてしまえば、伯爵家の二の舞いになる事は目に見えている。それが分かっていて公爵に敵対しようとは誰も思わないだろう。しかし伯爵家は既に公爵家から疎まれているため、今さら敵対しようがどうしようが気にしないだろう。いや、今までひっそりと生きてきた訳だから、公爵と敵対して首を絞める事になるのは御免なのかもしれないが。


 申し訳ないが、今はその辺りは考えない方向で話を進めて行こう。


 とにかく伯爵家を味方に付ける事ができれば自然とクロフィも俺の側に付く事になる。俺と伯爵家が懇意になる事で、クロフィを妃に迎えやすくなる。


 なんて事だ! 伯爵家を味方に付ける事は、素晴らしい事が目白押しじゃないか!


 俺はその時、伯爵家を味方に付ける事を即決した。


 しかしながら、俺が伯爵家の人間と正面切って会いに行く事は現状不可能だ。今まで当主とすら顔を合わせた事がなかったと言うのに、今さら簡単に会えるとも思わない。王宮での夜会の件から見ても、公爵は俺が伯爵家の人間に会う事をかなり嫌っている。だとすると、俺が伯爵家に接触する事を公爵はどんな手段を使ってでも阻止する可能性がある。

 公爵の目を掻い潜り、傍から見てもそれが不自然にならない面会するにはどうしたらいいのか。


 その答えが、近衛騎士団長の生誕の宴に参加する事だった。


 近衛騎士団長並びに一般騎士団長は伯爵家当主と今でも懇意にしているという話は俺も知っている。この三人は下っ端騎士時代からの友人だと言うし、二人の騎士団長たちが公爵とあまり折り合いが良くない事も知っている。

 セルネイがクロフィに宴の話を振ったところからみても、その宴には伯爵家も招待されている事は間違いない。だとすると、この機を逃す手はないだろう。


 そう考えていると、それを察したのかクロフィに「来る気か?」と訊かれた。クロフィの、来るなよ、と言わんばかりのその声音に、俺はかなり気落ちしてしまったが、それを悟られないように「俺は招待されていない」と返しておいた。


 クロフィの言いたい事は分かっているつもりだ。俺がその宴に参加してしまえば、伯爵家はもちろん近衛騎士団長たちにも迷惑がかかる事だろう。それが分かっているのに『王子(おれ)』の参加は誰も望まない。たとえ俺が何の下心もなく近衛騎士団長を祝うために宴に参加しようとも、状況が状況なだけに誰も歓迎などしないだろう。

 しかしそれが分かっていても、俺はその宴を利用させてもらおうと考えた。迷惑だと分かっていても、俺にはその選択肢しか今のところはないのだから。






 こうして親善試合を使った俺たちの計画は幕を閉じた訳だが、俺としてはこれからが本番だった。


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