回想録その一 意地悪王子のひとりごと
この話は、一話から十話までの回想録となっております。
・王子が若干キャラ崩壊を起こしています。お気を付け下さい。
・特定の人物に対して不快な表現が多々あります。苦手な方は逃げてください。
王宮の夜会には正直出たくなかった。
聞きたくもない世辞を聞き、踊りたくもない娘と踊り、たった一人だけ残された王家直系の王子として良くも悪くも好奇の目に晒される。
もう成人をしたという事もあり、後宮は開かれ何人かの娘たちが既にそこで暮らしている。そうであるにも関わらず、夜会の場での貴族たちは挙って自分の娘を紹介してくるのだ。選定から落された我が子を見初めてもらおうと必死である事は分かるが、それは返って逆効果だという事を貴族たちは分からないらしい。
俺は、俺の事を王子としてしか見ない女など願い下げだった。しかしそれを説こうとも思わなかった。
面倒だからというのが大半だが、心の何処かでは誰も聞いてはくれないだろうという諦めがあった。
夜会は貴族たちの情報収集の場だという話だが、俺はそういった事に関してあまり重要視されていない事も知っていた。
国政を担っているのは公爵だ。それ故に王子である俺にはご機嫌伺いの世辞ばかり言ってくる貴族たちも、公爵の前では必死に取り入ろうと媚を売る。
そういった光景を見るのも嫌だった。
俺が出なくても誰も困りはしない。貴族たちにとって公爵さえいればそれでいいのだ。公爵に気に入られれば、娘だって後宮に入れる事ができるかもしれないのだから。
俺の意思など最初から考慮される事はない。後宮の話も爺共が勝手に進め、勝手に娘たちを入れたのだ。その娘たちが俺の妃になる者たちだと言われようと、誰が、はいそうですか、と抱きに行くものか。
もういろいろな事が面倒だった。
だから公爵が夜会に出るなと言ってきた時も何とも思わなかった。
とはいえ、部屋でじっとしているのも退屈なので、夜風にでもあたりに行こうと部屋を出ようとしたら、近衛騎士が二人、扉の前に立っていた。いつもなら誰もいないというのにどうして今日に限って近衛騎士がいるんだと訝ったが、あまり深くは考えなかった。
扉から出られない事を知った俺は別の場所から外に出る事にした。
俺の部屋には王家の者しか知らない隠し通路の扉がある。この通路は公爵ですら知らない通路で、今では俺とセルネイしか知らない通路となっている。
この隠し通路はおかしな事に、出口が入口にならないという奇妙な通路だった。
部屋にある出入口は場所を変えないが、庭にある出口は様々な場所に移動する。出口が移動するという表現は何とも妙ではあるが、その表現が一番合っている。隠し通路を使うといつも出る場所が違い、出てきた出口はしばらくするとその場所からは消えてしまう。そのため別の入り口から戻る事になるのだが、幼い頃から使っている通路故に、庭の何処に出入口が移動するのかは既に分かっている。そのため、帰りに困る事はなかった。
そんな訳で隠し通路から外に出た俺は、夜会の音楽が煩く聞こえない程度の場所の木の上で一人夜空を眺めていた。
月を見ると母の瞳を思い出す。満月のような黄色い瞳をしていた母と同じ色の瞳で生まれた事を、俺は嬉しく思っている。
王家の人間は何故か自分の子供に自分と同じ色が出ない。王家の人間の瞳は、例がいなく王族の伴侶となった者の色を継ぐ。髪色はその限りではないが、やはりそれも王族側の色は継がず、伴侶となった者の血筋に発現している色を継ぐ。俺も例に漏れず、瞳の色は王家に嫁いだ母の色を継ぎ、髪色は母の祖父と同じ色を持って生まれた。
しかしながら、色を継がないとなると王家の血を継ぐ子かどうかを疑われるのではないかという考えが浮かぶが、どういう訳か、容姿に至っては王家の血を色濃く受け継ぐようで、俺は爺共に『国王陛下にとてもよく似ておられる……グスン』と盛大に鼻を啜りながらよく言われている。正直、鬱陶しい。
一応父の肖像画は残っているのでどういう顔だったのかという事は知っているが、似ているのかと問われても自分ではよく分からない。だが父に似ていると言われるのは、決して顔には出さないが、とても嬉しかった。
そうやって物思いに耽っていると、不意に近くから声が聞こえてきた。
「クロスフィード様。どうか一夜だけの戯れでもいいのです!」
その声は女のものだった。言葉から察するに、愛引きでもしているのだろう。
余所でやれと言ってやりたかったが、女が呼んだその名前に聞き覚えがあったため、咄嗟に息を殺して気配を窺った。
ずっと暗がりにいたからか、月明かりでも二人の姿がちゃんと確認出来る。俺は木の上にいるため、二人は俺の存在には全く気付いていない。それを良い事に、そのまま息を殺して女が相手をしているその人物に目をやった。
暗がりでその色までは正確に把握できなかったが、髪色が薄いという事は確認できた。木々の間から差し込む月明かりに照らされたその容姿は、男とは思えないほど美しく見えた。
「あれが、クロスフィード……」
俺はクロスフィードには会った事はないが、噂だけなら知っている。
『麗しの君』というおかしな二つ名を付けられ、令嬢たちからちやほやされている伯爵家の跡取り息子。
だがそれ以上に、クロスフィードには切っても切り離せない噂が纏わりついている。
クロスフィードの生家である伯爵家は、俺の父を殺した者の生家だ。クロスフィードはその者の甥にあたる。
「お、落ち着いてください。ちょ、待っ、服脱がないでください!」
二人の様子を眺めていると、突然女の方がドレスを脱ごうと釦に手をかけ始めた。するとそれを慌てた様子でクロスフィードが止めにかかる。しかしそれすらも逆手に取られ、女は嬉々としてクロスフィードに抱きついていた。
昨今の女はかなり大胆な性格の者が多いと聞く。それを今まさに目の当たりにしているという事態は、俺自身の中にある女に対するトラウマを思い出させた。
俺に女という生き物に対するトラウマを植え付けた張本人は、今後宮に入っている。しかもそいつが現時点での王妃候補だというのだから、尚の事後宮になど近付きたくはない。
アイツが女の皮を被った悪魔だと俺は知っている。それは比喩でも何でもなく、言葉の通りだ。
俺が高熱でゼーハー言っているにも関わらず強引に庭に連れ出し遊びにつき合わせる。平常時でも気分が悪くなり動けなくなるとその場に放置する。一番酷かったのは、俺が体調不良だと知っていて王宮の外に無理矢理連れ出し、本当に歩けないほどに体調が悪化した途端にその場に放置した挙句助けも呼ばなかった事だ。
あの時は子供ながらに本気で死を覚悟した。
通りすがりの少年に助けてもらえなければ、俺は今頃本当に死んでいただろう。助けてもらった当時は意識が朦朧としていたため顔すらはっきり覚えていないが、あの少年には本当に感謝している。探そうにも名前も顔も分からないという事で、未だに礼すら言えていないのが悔やまれるところだ。
しかしながら、一歩でも間違えば死んでいたような仕打ちをされたというのに、あの女はお咎めなしだった。それはあの女が国王代理の地位についていた公爵の娘だったからだろうと今なら分かる。しかし子供だった当時はそういった裏事情をあまり知らなかったため、どうしてアイツが怒られないのかと不満に思っていた。今でも不満だが。
そうやってしばしトラウマ時代を思い出しながら二人の様子を眺めていたが、クロスフィードは相手の女に手を出す気はないようで、上手く言い包めて女を夜会の会場に帰していた。
そうして一人になったクロスフィードは面倒そうなため息をつきながら、帰りたい、などと呟いていた。
思えば、王宮の夜会に伯爵家の人間が来ているなど珍しい。伯爵家は公式行事にも滅多に参加しないと聞いていたが、今回の夜会にはどうして参加していたのだろうか。
そんな疑問が浮かんだが、俺にとってはそんな事はどうでもよかった。
俺は伯爵家の人間には会った事がない。伯爵家の現当主は母の近衛騎士をしていたというが、当主の兄は俺の父を殺した犯人だ。俺としても会いたいとは思わない。それにその息子であるクロスフィードにも会いたいなどとは思わなかった。
しかしこうしてクロスフィード本人を前にして思った事は、コイツを利用してやろうという考えだった。
俺がクロスフィードと対面した事がないという事は、クロスフィードの方も俺に会った事がないという事だ。互いに初対面となる訳だが、クロスフィードには俺に逆らえない事情を抱えている。それを盾に取ればクロスフィードは否とはいえない。俺から父親を奪った伯爵家には少なからず恨む気持ちを持っている。だからこそ、クロスフィードを利用してやればその気持ちも少しは晴れるだろうと考え、俺はクロスフィードに声をかける事にした。
結果から言えば、クロスフィードは予想通り俺に逆らう事はなかった。言われるままに翌日も俺の許にやって来たし、伯爵家の人間としては足を踏み入れる事すら躊躇われるだろう公爵家の夜会にも付いてきた。
しかしそれが俺の頭を悩ませる原因となった。
俺には『女嫌いの男色家』という噂がある。それは俺が自分で流した嘘だが、そうでもしないと後宮に行けと煩い爺共を黙らせる事ができなかった。だがそれも多少の効果しか発揮せず、効果抜群とまではいかなかった。故に偽の寵姫を作る事も考えたが、俺には残念ながら人脈もなければ女の知り合いもいない。それに何より、悪魔のような女を一人知っているだけに、女には死んでも頼み事はしたくなかった。
そんな訳で、俺はクロスフィードを女装させ、王子の寵姫に仕立て上げる事を思い付いた。
クロスフィードは俺に逆らえない。しかも、男だというのにその容姿は女のように綺麗だ。これなら誰が見ても納得する寵姫が出来上がるだろうし、クロスフィードは男であるため偽りの寵姫が見つかる心配もない。
実にいい考えだとその時は思っていた。
しかしそれが失敗だったと気付きはじめたのは、クロスフィードの女装姿を目の当たりにした時だった。
目の前に現れたのが誰であったのかを一瞬忘れた。それくらいその姿に見入ってしまった。
何を思うよりも先に、綺麗だと思った。
艶やかな藤色の髪に、澄んだ青紫色の瞳。まるで可憐な花を体現しているかのようなその立ち姿は、凛として美しかった。
贈ったドレスも髪飾りもとてもよく似合っている。ドレスを選んだのは俺自身だが、自分でもびっくりするくらいにそのドレスはクロスフィードに似合っている。本当に良くやった、俺! しかし髪飾りに『アイリスフィアの花』があしらわれた物を選んだのは大正解だったな。その髪飾りを付けているだけで俺のモノだと主張出来ている。実に満足だ。ん? 化粧もしているのか。俺は素顔の方が好みだったが、化粧をするとまた違った美しさになるのだな。本来化粧とは女が化けるために使う手段の一つだ、くらいにしか思っていなかったが、ここに来て化粧の偉大さに気付かされた気がする。しかしこれ程までに美しくなってしまうと、俺以外の男の視線に晒したくなくなってくるな。男共の不埒な視線に晒さると分かっていて夜会に行くのは如何なものか。ああでも、コイツとどうしても踊りたい。この美しさは俺だけの物にしておきたいが、思い切り身体を寄せて抱きしめる口実が欲しい。
と、そんな事を考えること数秒。何も言わない俺にクロスフィードが痺れを切らしたように口を開く。
「似合っていないと言いたいんだろう? もとから似合う訳がないのだから諦めろ!」
似合っていないなどと誰が言ったんだ。むしろ似合いすぎて怖いくらいだ。と言いたかったが、目の前の美姫が男である事を思い出して、照れ隠しに思わず、
「もっと胸を盛ってこればよかったものを……」
などと言ってしまった。
だが正直に言おう。
クロスフィードの胸の盛り方は完璧だ。
一般的に女は豊満な体つきの方が好まれるらしいが、俺は肉付きのいい女は嫌いだ。あの女がそうだから。
クロスフィードの胸は正に俺の理想が体現したかのような膨らみだった。あり過ぎずなさ過ぎないその絶妙な膨らみ加減に、俺の好みは知られていたのかと疑ったほどだ。
コイツは本当に男だろうかという疑う気持ちが浮かんでいた時、クロスフィードから『名を呼ばないで欲しい』と請われた。
本当は、お前の願いなど聞かない、とか、そうか名を呼んで欲しいのか、とか意地悪な事を言ってやろうと思っていたのだが、思いに反して口は全く動かなかった。
潤んだ瞳で上目遣いに見上げてくるなど、卑怯な……っ!
と、そんな本音など言えるはずもなく、願いは聞いてやるという意思を返し、言葉少なにクロスフィードと共に公爵家の夜会へと向かった。
クロスフィードは背を低く見せるためか、踵の高い靴は履いて来なかったようだ。俺としてもそれは有り難い。エスコートする女より背が低いとあっては格好がつかないからな。しかしそこにも一言余計な事を言ってしまい、クロスフィードに睨まれてしまった。
そんな顔も可愛いな、オイ!
などという感想を抱いた事は口が裂けても言える訳がない俺は、コイツは男、コイツは男、という言葉を呪詛の如く心中で繰り返し、必死に平常心を保っていた。
夜会の会場での事に関して覚えているのは、クロスフィードとの踊りが心躍るモノだったという大変心地よい思い出と、悪魔との踊りでクロスフィードの温もりを上書きされたという非常に最悪な思い出だった。
クロスフィードとの踊りはとても踊り易かった。
クロスフィードは男なのに女方のステップを完璧に踏んでいた。そのためクロスフィードも女方のステップを習っていたのだろうかと考えた。
男女両方の踊りを習得している者は少ないながらも存在している。それは踊りの講師であったり、教養としてついでに身に付けていたりと様々らしい。クロスフィードも何かしらの理由で両方の踊りを習得しているのだろうと考えながらも、俺の他にもクロスフィードと踊った男がいるのかと思うだけで何やら腹立たしかった。
そんな苛立ちを抑えつけながら、クロスフィードの腰を抱き身体を密着させると、その柔らかな感触に思わず頬が緩んだ。
抱いている腰はとても細くしなやかで、触れあう身体はとても柔らかく、心なしかいい匂いがする。
まるで神が性別を間違えてしまったかのような目の前の男に対して、俺は頭がおかしくなっていく感覚に襲われていた。
この女が欲しい。
睨みつけるようなその視線が堪らなくそそる。その視線が和らいだら心はもっと満たされるだろうか。ああ、笑ってくれないものか。願いを聞くと言った時ように微笑んでくれるといいのに。この女が後宮に入っているなら速攻で寵姫にするんだが。
と、考えたところでハッとする。
いやいや待て待て。これは女ではなく男だ! 俺と同じ男だ! 残念な事に男だ! 気を確かに持て、俺!
自分の想いに思い切りツッコミを返しながら、俺はクロスフィードの色香(別に本人はそんなつもりは全くないのだろうが)に酔いそうになっている己を必死に保とうと努力していた。
しかしながら、夢のような時間、もとい、曲が終わり足を止める。夜会の客からは拍手をもらったが、そんな事は俺には関係なかった。
踊りも踊ったし、目的は達成された。後はこの場から速やかに退場して終わりだ。それに何より、じろじろとクロスフィードを見ている男共の視線が疎ましい。
そんな事を考えてまたハッとし、何を考えているんだと己を叱咤するが、心の中はずっと悶々としたままだった。
さっさと帰ろうと中央から移動すると、そこには悪魔が待っていた。
この先は思い出したくはないので以下略だ。
誰が何と言おうと以下略だ。
そうして帰る口実を作るために一芝居をうち、無事公爵邸を後にした。
帰りの馬車の中で、クロスフィードが俺の身を案じるような発言をしたので、一瞬凄まじく嬉しいと思ってしまった。しかしずっと不満げな顔をしていたというに、どうしてここに来てそうやって気遣うような事を言うのか理解出来なかった。
そしてふと気付く。
コイツも媚を売る奴らと同じなのだ、と。
そう思ったら、一気に気持ちが冷えていった。クロスフィードはやはり罪を背負った家の人間なのだと蔑みの気持ちさえ浮かんだ。
「今さら俺に媚を売るつもりなのか? 先程の咄嗟の演技といい、よくやる」
そんな悪態を吐いてみれば、クロスフィードは予想に反して抗議の言葉を口にした。
「私の母も体の弱い人だから、辛そうにされると心配せずにはいられないんだ。それが誤解を招く行為になるとは思わなかった。もう心配するような言葉は言わない」
それだけ告げるとクロスフィードは口を閉ざした。
クロスフィードは俺に媚びるためにそれを言った訳ではなかった。もし媚びようと思うなら、先の言葉を返してきたりはしない。
本当に俺の事を思っての発言だったのだろうかと思い、クロスフィードにチラリと視線を向ければ、男とは思えないその姿で少しばかり視線を落していた。
その姿に何故か胸がチクリと痛んだ。
「……悪かった」
謝罪の言葉は意外にあっさりと口から出てきた。その事に俺自身も驚いたが、別に訂正しようとは思わなかった。
そして先程の事は演技だったと説明すると、クロスフィードは安堵するように微笑みながら、よかった、と言ってくれた。
不思議な気持ちだった。
会って間もないというのにクロスフィードは俺の事を案じてくれた。それが嬉しくて、心の中がほっこり温かくなるような感じがした。
『王子』としてなら皆が俺の身を案じるが、俺を『俺』として案じてくれる者などもうセルネイ以外にはいないのだと思っていた。しかしクロスフィードは媚を売るでもなく俺の身を案じてくれた。もしかしたらその裏に何か思惑があったのかもしれないが、それは俺には分からない。だがクロスフィードの微笑みには、嘘ではないと思えるだけの優しさを感じた。
こうして夜会への参加は目立った不測の事態もなく終わったが、俺は次の日から悶々と頭を悩ませる日々を送る事になる。
クロスフィードが王宮に来ない。
初対面時、『明日から俺の許に来い』と言ったのに、夜会の日を境にクロスフィードは俺の許にはこなかった。
俺は夜会での女装姿のクロスフィードが目蓋の裏に焼きついており、どうしてもそれを消す事が出来なかった。故に、クロスフィードの男装姿を見ればちゃんとクロスフィードを男として認識できるのではないかと考えていた。いや、アイツは男であるからして、男装という言葉自体がおかしいんだが。
そんな事はさておき、俺はクロスフィードが来ない日々をただ悶々と過ごしていた。
今日は来るだろうか。
今日こそ来るだろうか。
そうやって小屋で待ち続ける日々の中で、俺はどんどん苛々を溜めこんでいった。
どうして俺がアイツを待たねばならないんだ。
どうしてアイツは俺をこれ程までに待たせるんだ。
しかしながら、そうやって苛々していても小屋に人影があると思わず足が速まり、その人影がセルネイだと分かると落胆し、アレクだと罵った。
アレクに対しては悪い事をしたと今では反省している。
しかし苛々が募る一方で、もしかしたらクロスフィードは王宮に流れている噂を知って怒っているのではないかという考えも浮かんでいた。
公爵邸での夜会以降、王宮内では王子の寵姫が現れたという噂でもちきりだった。爺共があの娘は誰だったのかとしつこく聞いてこようが、当然俺は女装したクロスフィードが誰かという事は言わなかった。俺は最初からクロスフィードを偽の寵姫にする事が目的だったため、誰がその正体を明かすものかと頑として口を割らなかった。すると俺が何も言わない事で偽の寵姫は童話の『花の娘』に準え、『花の君』と呼ばれるようになった。
花と形容するとは上手い事を言うな、と余裕ぶっこいていた自分を今は思い切り殴り飛ばしてやりたいと思っている。
クロスフィードを利用した事をアレクに言い当てられた俺は、その時初めてクロスフィードの立場から今回の事を考えてみた。そして自分が如何にクロスフィードに対して残酷な仕打ちをしてしまったのかにようやく気付いたのだ。
これではあの女と同じだ。俺は自分がされて苦痛を感じていた事を俺自身が他者にしてしまった事に大いに打ちのめされ、落ち込んだ。
俺はなんて事をしてしまったのだろうか。これではクロスフィードが俺の許に来ない事も納得できる。俺だってあの女から逃れながら生きてきたんだ。クロスフィードも俺に会いたくないからきっと来ないんだ。
そうやって、イラついたり反省したり、モヤモヤした気持ちを抱えながらクロスフィードが来ない日々を五日過ごした頃、偶然アレクと庭にいる姿を目撃してしまい、俺は溜まりにたまったいろんな感情が一気に溢れ出してくる感覚に襲われた。
しかし一番強く浮かんで来たのは、どうして俺がいないところで二人は一緒にいるのかというモノだった。
アレクはもともと厳罰行為をしていたところを俺に見つかり、仕方なく俺の傍にいるだけの騎士だった。
まあ近衛騎士団が詰めている棟に勝手に忍び込んで過去の事件記録を漁っているところを見られたとなれば、それが脅迫ネタになる事くらい誰にだって分かるだろう。それを見越してか、アレクは俺が王子だと知りながら言いたければ言えと啖呵を切った。俺は脅してやろうとは考えていなかったが、この騎士は俺を王子として見てはいない事を知り、興味が湧いた。だから俺が事件記録を見せてやる代わりにアレクは俺の傍にいる、という提案を持ちかけた。
その頃には既に俺自身が男色家だという噂を流していたので、その噂に拍車がかかればいいというような軽い気持ちでそう提案してみたのだ。
そんな訳で、当時渋々ながらも承諾したアレクは、今では何故か俺の世話を焼いてくれている。もっと反抗的に噛みついてくるかと思っていたのだが、予想が外れて俺としては肩透かしを食らったような感じだった。しかし何かと気にかけてくれるアレクの存在は、決して嫌ではなかった。
アレクは根っからの世話焼きな性分を持っているようで、クロスフィードもアレクに対してはとても親しげに見えた。
しかしながら、クロスフィードがアレクと親しくしている事も面白くないし、アレクがクロスフィードと親しげなものムカついた。
そんな事を考えながら、五日ぶりに見るクロスフィードに嫌味をたっぷりと乗せた言葉をかけてやれば、どういう訳か安心された。
何が何やら訳が分からなかったが、無事でよかった、と安堵の息を漏らしているクロスフィードを前にしては、溢れ出したモヤモヤとした感情も一瞬で吹き飛んでしまった。
やはりクロスフィードは本当に俺の身を案じてくれている。そう思ったら、五日間俺の許に来なかった事など些細な事だと感じた。
クロスフィードに会えた事でこれからの事をちゃんと話しておこうと考えていた訳だが、それを邪魔したのは俺が嫌いなあの女だった。
クロスフィードは花壇の花が燃やされていた事に対して物凄く居た堪れないというような感じだった。
『花の君』である自分のせいで花壇の花が燃やされているのだと、責任を感じていた。
花壇の花が燃やされているのはクロスフィードのせいではない。全てはあの頭の悪い女のせいだ。
あの女はセルネイが大切にしている庭を我がもの顔で穢している。俺も止めさせようと何度も忠告したというのに、あのバカ女は一向にそれを理解しないのだ。
社交界では地上の女神だ何だと言われているようだが、あの女が女神だというのなら、この世の人間は全て神だ。女の皮を被った悪魔が社交界では男共にちやほやされているというのだから、世の中頭の狂った男しかいないのだろうかと本気で考えてしまう。同性として嘆かわしい事だ。
あの女を伴侶にするくらいなら、俺は喜んで男色家への道を選ぶ。だからさっさと後宮から出て生贄でも探せと言ってやりたい。
それくらい俺はあの女が嫌いだ。女という生き物が全て女の皮を被った悪魔に見えるのは全部あの女のせいなのだ。
たった一人だけ欲しいと心から想った女は残念な事に男だったくらいだ。俺は女が嫌いだと思うあまり、新たな境地に踏み込んでしまったのかもしれない。
とか思っている内に花壇を燃やしているあの女を発見し、三人でそれを、うわぁ、というような目で建物の陰から眺めた。
俺としてはあの女を視界に入れる事すら御免被りたかったのだが、クロスフィードがあの女の奇行を止めたいと言ったから、俺も協力しようとついてきた。
俺とアレクはずっと花壇の件でセルネイからただならぬ圧力をかけられていた。それは当然と言えば当然だ。俺がはじめた噂のせいであの女は花壇を燃やすという何とも呆れる行為を繰り返しているのだから。
あの女が誰に嫉妬しようと勝手だ。いや、アレクとクロスフィードがその対象になってしまうのは許せないが。とにかく、俺たちに被害がなければあの女がどうなろうと知った事ではない。しかしあの女が俺に対して未だに所有物概念を持っていたというところにおぞましさを感じた。
あの女は俺の伴侶になれば王妃になれると思い込んでいる。頭が悪いと思っていたが、ここまで愚かだったのかと嘆きたくなるほど、その考えは浅慮だ。
もし万が一、いや億が一、いやいや兆が一……。いやもう本当に考えたくはないが、何かの間違いであの女が俺の伴侶になってしまったとしても、俺はあの女を王妃になど決してしないと断言できる。あの女が国母になどなった日には俺の代で国が滅ぶ。
まあそんな話はどうでもいいが、いやよくないが、とにかくセルネイの堪忍袋の緒が切れる前に何とかしないと、それこそ世界が滅んでしまう。
そんな事を考えながら、あの女の奇行を眺めつつクロスフィードの質問に答えていると、最悪な事にセルネイに見つかってしまった。
いつも笑顔を絶やさないセルネイのいつも通りの表情からは殺人鬼並みに恐ろしい雰囲気がダダ漏れだ。俺でも滅多にセルネイが怒っているところなど見た事がないというのに、いきなりこんな凶悪な笑顔を見せられてしまったクロスフィードはとても憐れだと思う。クロスフィードは恐怖のあまり声さえ出ないのか、あわあわと口を戦慄かせながら逃げ腰になっていた。セルネイに声をかけられた時など、返事よりも先に悲鳴を上げたくらいだ。
しかしセルネイに『花の君』が誰かという事が知られていた事実にはクロスフィードと共に俺も驚いた。なぜなら今回の作戦はセルネイには話していなかったからだ。
セルネイがどうして『花の君』の事を知っているのかはよく分からないが、この王宮庭師はその事に関しては本当にどうでもいいという態度をとっていた。というより、花壇を燃やすあの女の奇行を止めさせる事しか頭にないようだった。
正直な話、セルネイが本気を出せばあの女の奇行は止める事ができる。しかし、たとえセルネイが大切にしている庭に関しての事だとしても、原因は俺にあるのだから俺が何とかしなければと思っていた。しかしそれも尽く失敗に終わっているというのが現状だ。
俺たちで何とかする、と宣言してしまったが、正直、俺には良い作戦など浮かんではいなかった。クロスフィードは偵察だと言っていたため、この場であの女の奇行を止める事は出来ないだろう。しかしクロスフィードの後押しの言葉のおかげでセルネイから怒りが少し遠退いた。
「わ、私たちで解決しようとしている事は本当です。ですが少し確認したい事があるので、今回は私一人で止めて来ます」
一人で止めるから誰も出て来ないで欲しいと言って、クロスフィードは単身であの女の許へと向かっていった。
俺はその背を見送りながら、とてつもない不安に襲われていた。
あの女は伯爵家を酷く蔑んでいる。それは父を殺された俺のためという訳ではなく、単に周りがそうだから自分もそうしているくらいの残酷さで疎んでいるだけだ。まああの女が俺のためを考えるような人間だったなら、俺は何度も死の淵を彷徨う事はなかっただろう。
あの女は自分より格下だと認識している者に対しては何処までも残酷な事ができる悪魔だ。あの女は昔からそうだった。頭はすこぶる悪いというのに、大人たちに取り入る事にかけては天才的な能力を持っていた。それ故に、俺は何度もあの女のせいで死にそうになったというのに、あの女は後宮に入ったばかりか今では王妃候補の筆頭だと言われている。それは俺が殺されても構わないと言っているような暴挙であるにも関わらず、誰も何も言わない事には怒りすら覚える。
あの女が纏めているという後宮は今頃悪魔の巣窟になっている事だろう。俺は生贄になるつもりはないから、そんなところに足を踏み入れるつもりは毛頭ない。
それはさて置き、あの女は相手を慮るという心を持たないため、全てが自分中心に回っているのだと勘違いしている愚か者だ。そんな女の前にクロスフィードが立つという事は、悪魔の生贄になる事と同義だ。
そうやってクロスフィードの身を案じながら彼らの会話を聞いていたが、会話の最中にクロスフィードが庭の逸話を知っている事を知った。
王宮の庭は花畑を見た事がないという『花の娘』のために『守護者』が整えた庭。
この話は王家に伝わる、というか、王家の者は皆王宮庭師からその話を聞くのだ。
王宮庭師は気紛れで、自分が気に入った人間にしかこの話を聞かせない。王家の人間はほぼ確実に王宮庭師からそれを聞くが、外部の者が王宮庭師からそれを教えてもらえるというのは、非常に稀な事だった。
ちなみに、あの女も庭の逸話は知っているが、それは王宮庭師から聞いた訳ではなく、単に偶然耳に入ったくらいの些細な話だけだ。あの女は今でもその話の真実を知らないし、この先もそれを知る事はない。
そんな訳で、俺も王家の人間という事でセルネイからその話を聞いた訳だが、クロスフィードは一体誰からその話を聞いたというのだろうかと疑問が浮かんだ。
お前が教えたのかというような疑問を乗せた視線をセルネイに向けてみたが、セルネイは自分じゃないと首を振った。しかしセルネイの表情には何処か懐かしいというような色が見てとれたため、この王宮庭師はクロスフィードがどうやって庭の逸話を知ったのかを知っているようだった。
しかしそれを聞こうとした瞬間、パン、とまるで手を叩いた時のような音が辺りに響いた。何事だと慌ててクロスフィード達を窺うと、あの女がクロスフィードの顔を硬い扇で叩いたのだという事を知った。
その後、悪魔のような形相でクロスフィードを罵っていたあの女を目の当たりにして、俺は一気に頭に血が上った。
気付いた時には怒声を上げ、クロスフィードの許に向かっていた。クロスフィードの傍まで行くと、何で来たんだ、というような視線を向けられたが、そんなモノは無視だ。今は目の前の悪魔を断罪する方が先だ。
俺は無駄だと分かってはいたが、愚かな行為はやめろと窘めてみた。しかし案の定、この愚かな女には話が通じなかった。
本当に同じ言語を使っているのかさえ疑わしくなるほどに話が通じない。いっそ悪魔と話していると言われた方が納得できるくらいにこの女との話は噛み合わない。昔から。
この女と話しているだけで頭が痛くなり苛々が溜まっていく。早く目の前からこの女を排除したいと考えていると、クロスフィードから声がかけられた。
「お話の最中に申し訳ありませんが、殿下に少しお伝えしたい事がございます」
こんな状況で何を伝えたいんだと思いながらクロスフィードに向くと、何やら考えがあるような感じだったので、俺は言ってみろと言葉を返した。
するとクロスフィードは花壇が燃えていた件を利用し、見事に奇行を繰り返す女を追い込んでいった。俺も便乗して止めを刺してやると、目の前の女は見るからにうろたえ、視線を泳がせていた。
正直、心がスッとした。
先程まで見下していた相手にあっさり言いくるめられている目の前の女の動揺ぶりが堪らなく愉快だった。あ、いや、ざまあみろ、くらいに止めておこう。とにかくクロスフィードのおかげで俺も悪魔のような女に止めを刺す事ができたんだ。クロスフィードには感謝の念しか浮かばなかった。
これでもう庭の花壇が燃やされる事はないと思うと、それだけで気持ちが晴れ渡るようだった。
あの女からようやく離れる事ができ、アレクとセルネイの許に戻ると、クロスフィードも初めは何で出てきたんだと不満そうだったが、俺自身があの女の行動が許せなかったのだと知ると、気遣ってくれてありがとう、と礼を言ってくれた。
俺が出ていった事によりクロスフィードの計画は台無しになってしまった事は俺自身も分かっていた。しかしそれでも、俺はクロスフィードの綺麗な顔を叩いたあの悪魔が許せなかったのだ。
俺の行動は浅はかだったと言わざるを得ない。クロスフィードの機転がなければ、これからも庭の花壇は燃やされてしまった事だろう。それをあの場で食い止める事ができたのは、クロスフィードのおかげだった。
礼を言うのはこちらの方だというのに、ありがとうと言って微笑むクロスフィードの顔がまともに見られなくて、思わず顔を逸らしてしまった。
その後、庭の逸話を何処で知ったのかと聞いてみれば、クロスフィードは俺の母から聞いたという衝撃の事実を告白してきた。
母がクロスフィードに会っていたというのは初耳だった。もしかしたら幼い頃は王宮に来ていたのかと聞いてみたが、そうではないと返された。しかし王宮に来たというのは事実であるようなので、どうしてその時に会えなかったのだろうかと悔しく思った。
しかしそんな気持ちもクロスフィードが別れ際に言ってくれた、また来る、という言葉で吹き飛んだ。
その言葉がとても嬉しかった。俺には友人と呼べるような者はいなかったから、次に会うという約束のようなその言葉をもらったのは初めての事だったのだ。
ふと、夜会の帰りに俺がその言葉を言っていればクロスフィードは俺の許に来てくれたのだろうかという考えが頭に浮かんだ。
俺としては初対面の時の言葉で継続を示したつもりだったのだが、それは俺からの一方的な言葉でしかなく、クロスフィードの意思は全く無視していた。
相手にその意思がなければ約束というモノは成立しない。
そういった事を後になってからしか気付けない自分が歯痒いが、今はクロスフィードから次に会うための約束をくれたのだから、俺がその言葉に意思を返せば約束は成立する。だから俺は躊躇う事なくそれに言葉を返し、俺はクロスフィードとまた会う約束をした。
その日の夜、何故か俺は眠る事が出来なかった。
初めて友人と約束を交わした事に嬉しさを感じ、気持ちが高揚していたのだと思う。いや、クロスフィードを友人と言っていいのか良く分からないが。いやいや、次に会う約束をしたのだからもう友人と言っていいだろう。うん、きっと俺たちはもう友人だ。共に敵を討ち取った戦友だ。
そんな訳で、クロスフィードも小屋に入れてやろう、とか、クロスフィードも本は好きだろうか、とか、いろいろ考えていたら既に外が明るくなっていた。
一睡も出来なかった訳だが、俺は至って上機嫌だった。なぜなら、もうクロスフィードが来るか来ないかで悩まなくてもいいからだ。
また会う約束をしたのだから、クロスフィードは必ず王宮にやって来る。
俺はそう思っていた。
その日はアレクが城門の警備の任があるから来られないという事だったので、俺は一人で小屋にいた。まあアイツは騎士だから任務優先になるのは仕方がない。それでも合間を縫って様子を見に来てくれるのだから、アレクは結構まめな奴だ。
アレクという話し合い手もいないという事で、俺は小屋で読書をしながらクロスフィードを待っていた。しかしクロスフィードは昼を過ぎても俺の前には現れなかった。
何故来ないだ。
俺は裏切られたのか。
そう思うと、イラつくよりも悲しくなった。
まだ来ないと決まった訳ではないからもう少し待ってみよう、と気持ちを切り替えてみたが、時間が過ぎていくごとに気持ちは塞いでいった。
そんな時、道具を取りに来たセルネイに声をかけられたため事情を話してみた。するとセルネイは苦笑交じりに、「会いたいなら会いに行けばいいのに」というような事を言って来たので、俺はその言葉に衝撃を受けた。
俺はどういう訳かこの場でクロスフィードを待たないといけないのだと思い込んでいる節があった。しかし待たなくても自分から会いに行けばいいのだという事が分かると、悩んでいた自分がとても滑稽なモノに感じた。
友人なのだから家に訪ねて行っても不自然ではないだろう。だったら俺がクロスフィードに会いに行けばいいんだ。
そう思ったらこの場にいる時間すら惜しくなり、すぐさま行動を開始した。
王宮を抜け出す事は簡単だった。
なぜなら城門の警備をしていたのはアレクだったから。
王宮には東西南北に一つずつ門があり、南門が正門となっている。しかし南門が全開する事は滅多になく、また、北門に至っては開かずの門となっているため、俺ですら開門した所を見た事がなかった。ちなみに詰所の裏門は詰所に入るための門なので、騎士くらいしか利用していない。
そんな訳で、王宮の門は東西の門からの出入りが通常となっており、門は詰所の騎士たちが警備している。警備の騎士たちがいると出て行くのも少々骨が折れるのだが、その日は運よくアレクが西門の警備についていたため、アレクの協力で外に出る事に成功した。
外に出た俺はとりあえず馬車で伯爵家の近くまで連れて行ってもらい、多めに金を渡して、この事は内密にというような事を御者の男に告げた。コレが買収という行為だと思うと少々心苦しくなるが、それでも俺が王宮の外にいるという事はあまり知られたくはなかったため仕方なかった。しかし御者は、客の情報は一切漏らしませんから安心して下さいと丁寧に営業用の笑顔で言葉を返してきた。どうやら御者は俺が王子だという事に気付いていなかったようだ。俺は滅多に公の場に顔を出さないから当然と言えば当然なのだが、何故だか胸がモヤモヤした。
しかし俺を送ってくれた御者は本当にいい奴だったようで、年頃なんだから好いた女に髪飾りでも買ってやれ、というような事を言って通常料金以上の金は受け取らなかった。
世の中には人を騙して金を取る奴もいるというのに、この御者の勤務態度は実に素晴らしいものだと俺は感動した。次に馬車を使う時もこの御者を指名するとしよう。
そんな御者とのやり取りの後、俺は伯爵家へと足を踏み入れた訳だが、それは正面からではなく、無断で入らせてもらった。
伯爵家当主は王子の訪問を良くは思わない。
そんな事を出掛ける間際に『守護者』から言われてしまえば、事実その通りなのだろうと疑うことなく思った。だから申し訳ないと思いながら無断で忍びこませてもらった。
折角ここまで来たのだから門前払いは御免だった。
しかしながら、伯爵家の邸は予想外な事に誰もいなかった。
開いていた窓から入らせてもらったが、邸の中に入っても人の気配が全くなく、使用人の姿さえ見えなかった。
確かに伯爵家は二十年前の事件から表舞台に現れておらず、没落しているというような話を聞いた事があったが、まさか使用人すら雇えないほどに困窮していたというのだろうか。
そんな事を考えながら廊下を堂々と闊歩してみたが、やはり誰とも会わなかった。
階段を上りながら、もしかしたら偶然皆が出払っているだけなのかも知れないと考えて、それではクロスフィードに会えないではないかと気付く。本当にそうであるなら来た意味がないと思いながら廊下のド真ん中で頭を抱えていると、不意に一つの扉が開かれるのを目撃した。俺は慌てて近くの扉を開いて中に入った。
俺が入った部屋はあまり物が置いてなかったため、使われていない部屋だという事を知る。部屋の中に誰もいなかった事に安堵しながら扉の傍で廊下側の気配を窺うと、部屋の前を誰かが通り過ぎていく気配がした。少しだけ扉を開けその姿を確認すると、その後ろ姿はクロスフィードのものだった。
ちゃんといたのか、と安堵しながらその背を見送り、姿が完全に見えなくなると、俺はその部屋から再び廊下に出た。そしてクロスフィードが出てきた部屋へと向かった。
その部屋は、簡素な意匠の調度品がいくつか置いてあるだけの質素な部屋だった。貴族の邸に行った事などないため比べる基準が王宮になってしまうのは仕方ないが、それでも本当に爵位ある貴族の邸なのかと疑いたくなるほどにその部屋は慎ましいものだった。
しかし、この部屋がクロスフィードの部屋なのかと思うと、それだけで感慨深いものがあった。
邸に招待したりされたりするのは友人同士ではよくある事なのだというのは知っている。しかし俺には無縁なのだと何処かで思っていた事も事実だ。俺は王子という身分を持っている。それがどういうものなのかなど、もう子供ではないので分かっているつもりだ。しかしそれでもこうして友人の部屋に来たという事実は俺の心を躍らせた。
ふと窓辺にある卓に視線を向けると、そこには読みかけと思しき本が一冊置いてあった。クロスフィードが読んでいたものなのだろうかと手に取り読んでいると、クロスフィードが戻って来た。
しかしおかしな事に、クロスフィードは一度扉を開けたというのに、中には入らず扉を閉めた。何をやっているのだと首を傾げながら俺が扉をあけて入って来いと告げると、絶叫された。
何でここにいるのだと聞かれたから、俺は「来ないから会いに来た」と事実を告げた。するとクロスフィードからは「昨日会ったばかりだろう」と返された。
そこで俺は気がついた。
確かにまた会おうという約束は交わしたが、『いつ』という部分が欠けていたという事実に。
何てことだ、そんなところに落とし穴があったとは。
約束というモノを交わすにはまだまだ経験値が足りないようだと俺はその時痛感した。
そんな事を考えながら俺の突撃訪問に驚いているらしいクロスフィードの慌てぶりを眺めていると、扉が叩かれ外から声が聞こえてきた。どうやら他にも人はいたらしい。
クロスフィードの対応から侍女である事は分かったが、クロスフィードは俺の存在を全力で隠そうとしていた。まあ別に構わないが、少しばかり淋しい気がする。
しかし侍女との会話で一つ良い事を聞いた。どうやらクロスフィードは家では『クロフィ』と呼ばれているらしい。
女のような愛称だな、とか、男にその愛称はどうなんだ、というような考えは一切浮かばなかった。むしろ何てピッタリな愛称なんだと感動した。そしてこれからは俺もそう呼ぼうと決意した。本人には嫌がられたが。
そうしてようやく二人でゆっくり話ができると思っていたら、クロフィ(呼ぶと決めたのだからこれからはクロフィいでいいだろう)から怒涛の質問攻めにあった。俺はそれにちゃんと答えていた訳だが、クロフィは俺の答えに一喜一憂していた。
侍女が持ってきた茶は、本当はクロフィのために用意された物だろうと分かっていたが、くれと強請ってみたら、少々渋られたが茶の用意をして俺にくれた。嬉しかった。
クロフィが用意してくれた茶(実際に用意したのは侍女でクロフィはそれをカップに注いだだけだが)を前に少しばかり感動していると、手を出さない俺を気にしたのかクロフィから毒見しようかと声がかけられた。
俺の父は毒殺されたらしい。それをクロフィも知っているのだろう。だから俺が茶に手を出さないのは毒が入っているかもしれないと疑っているからだと思ったようだった。
クロフィの気遣わしげな視線を前に、俺はさっさと茶を呑まなかった自分を呪った。
俺は別に毒が入っているとかはあまり気にしない。幼い頃から薬漬け(誤解を招くような言い方だが病気がちだったため薬を毎日のように飲んでいたというのは事実だ)の日々を送っていたためか、そういったモノに関しての耐性は常人よりある。薬の類も今の俺には殆ど効かないため一度病気をすると少々厄介なのだ。しかしどういう訳か毒に対する耐性もついてしまったようで、多少の毒くらいは飲んでも平気だったりする。
飲んでいたのは確かに薬だったはずなのだが、どうしてこんな体質になってしまったのかは自分でもよく分からない。その辺りは医師でも良く分からないと言っていたため、あまり深くは考えないようにしていた。万が一、薬だと思って飲んでいたモノが毒だったのだと聞かされた日には、俺は今後の王宮での飲食が一切出来なくなるだろうから。
そう考えてみると、俺の少年時代は壮絶だったのかもしれない。あの女の事もあるし。
そうやって茶を飲みながら菓子を頬張っていると、クロフィが伯爵家に来る事に対して抵抗はなかったのかと聞いてきた。
俺は一瞬どういう事だと首を傾げそうになったが、クロフィが二十年前の事件の事を言っているのだという事に気付き、何とも言えない気持ちになった。
俺は伯爵家に来たわけではなくクロフィに会いに来ただけだというのに、クロフィは俺が伯爵家に来た事に対して困惑しているようだった。
正直、俺だって二十年前の事件で父を亡くした訳だから、その事件に対して思うところはある。クロフィに会うまでは伯爵家を疎んでいた事も否定しない。だが俺は母から伯爵夫婦の話を良く聞かされていたため、伯爵夫婦に対しての恨みはそれほど持ってはなかった。
クロフィは伯爵家の人間故に俺に対して負い目があるのだろう。出会った当初、それを盾にとって強引にクロフィを利用したのは俺だ。俺は本当に最低だった。こんな最低な俺をクロフィは気遣ってくれたというのに。
俺はどうしたら曇ってしまったクロフィの表情を晴らす事ができるだろうかと考え、正直に、嫌なら来ない、と告げてみた。するとクロフィは途端にキョトンとした顔になり、次の瞬間には嬉しそうな顔をした。俺はそんなクロフィの表情に嬉しさを感じ、咄嗟に照れ隠しとして、
「何だ? ニヤニヤして。気色悪い」
などという壁に頭を打ちつけたくなるような言葉を告げてしまい、大いに落ち込んだ。しかしクロフィはそんな言葉にさえも嬉しそうに微笑んでいた。
ああもう本当に可愛いな、と悶絶したい衝動を必死に押し殺しながら、気を紛らわせるために焼き菓子を頬張った。
どうしてクロフィは女じゃないのだろう。どうして男なんだろう。いっそどうして俺が女じゃなかったんだろうとさえ思う。
『アイリスフィア』という名に相応しい女であれば、クロフィと一緒になれたかもしれないのに。いや、待て。やはり俺が男でクロフィが女である方が好ましい。俺は男としてクロフィが欲しいんだ。
と考えてハッとする。
俺はもう引き返せないところまで来てしまったのかもしれない。もうクロフィが男でも女でもどちらでも良くなってきている。重症だ。
とはいえ、俺はクロフィと共にいると心が安らぐのを感じていた。
魔力の相性がいいと人間関係も良好になると聞く。もしかしたら、俺とクロフィの魔力の相性は良いのかもしれない。いや、きっと抜群の相性の良さに違いない。絶対そうだ。
夫婦間であれば魔力の相性によって夫婦生活も変わってくるという話も聞いた事がある。そういった事にも魔力の相性が関わってくるというのなら、尚の事魔力の相性が抜群のクロフィは俺の伴侶に相応しいというのに。何故お前は男なんだ。
クロフィの母君よ、何故クロフィの性別を間違えて産んでしまわれたのだ。
そんな独り言を頭の中で繰り返していたら、クロフィと会えた事にホッとしたのか、俺は途端に眠気に襲われた。
そういえば昨夜は一睡もしていなかったなというような事を思い出した辺りからの記憶が飛んでいる。
聞くところによると、俺は眠くなると凶暴になるらしい。俺自身はその辺りの記憶が飛んでいるため、自分がどういう行動をとってしまうのかなど知らなし分からない。今までそんな癖など全く気にしていなかったが、今ここに来てその癖を早急に直しておけばよかったと後悔した。もしクロフィに良からぬ暴言でも吐いていたというのなら、俺はもうクロフィに顔向けできなくなる。
そんな事を考え焦りもしたが、その後もクロフィからは何も言われなかったので、何事もなかったのだろうと今ではホッとしている。
そんな訳で、いつ寝てしまったのかさえ覚えていない状態で目が覚めてみれば、見知らぬ部屋にいた事に少々混乱した。
寝ぼける頭では上手く状況を把握できず、この場所が何処かという事さえすぐには思い出せなかった。
知らない場所に一人で放置されるのはとても怖い。それはあの女に置き去りにされた記憶があるからだった。
俺はあまり王宮の外には出た事がなかったため、すぐそこに王宮の門があると言われても辿り付けないほどには道を知らなかった。それなのにあの女は動けない俺を放置して自分だけ帰りやがったのだ。当時七歳だった俺は、見知らぬ場所に放置され歩く事さえ儘ならない状態で、死の恐怖に襲われていた。それ以上に知らない場所にいるという恐怖で半狂乱状態だったのだ。まともに考える事すら出来ず、ただ怖いと泣いていた。
そんな時、『どうしたの? 大丈夫?』と一人の少年が声をかけてくれたのだ。
「アイリス? どこか具合が悪いのか?」
寝台の上で膝を抱えて座り、その膝に顔を埋めていると、不意に近くから聞こえてきた。少しだけ顔を上げると、寝台脇にはクロスフィードがいた。
ここがクロフィの部屋だった事を思い出した俺は、過去の記憶を思い出して震えている自分がこの上なく情けなく思えて、咄嗟に「何でもない」と返した。
するとクロフィは気遣うように何か食べるものを持ってくると言って踵を返した。俺は一瞬置いて行かれるという恐怖に苛まれ、咄嗟にクロフィの髪を掴んでその行動を阻止した。するとどうやら力加減が出来なかったようでクロフィが悲鳴を上げた。振り向いたクロスフィードは若干涙目だった。申し訳ない。
そうしてクロフィは俺の願い通りこの場に留まってくれたが、何故か再度どうして来たのだと質問された。
俺はちゃんとクロフィに会いに来たと言ったはずなのだが、伝わっていなかったのだろうか。もしかしたらクロフィは俺が来た事に迷惑しているのだろうか。
そんな事を考えながら最初に言った言葉を再び告げてみると、
「すまない。アイリスが突然来たから驚いていただけなんだ。私には訪ねて来てくれるような友人はいないからね。アイリスの訪問は、実は嬉しかった。これは本当だ」
というような事を言ってくれた。
俺の訪問を嬉しいと言ってくれたのだ。それだけで来た甲斐があったというモノだろう。しかし俺も嬉しい気持ちになったというのに、どうして俺は素直にそれを言えないのか。
俺は妙な事を口走ってしまうかもしれないと無意識下で怖れているとでもいうのだろうか。まあクロフィの寝台に二人で乗っている訳だから欲情しないとも限らない訳だが……待て待て、落ち着け、俺。男に欲情した日には完全に退路が塞がれてしまうぞ。クロフィは友人として傍にいるだけだ。そこを踏み越えてはいけない。男同士なのだから。
と、煩悩退散と頭の中では念じていたが、それを顔に出すことなくクロフィと少しばかり話をした。
クロフィの名前も花の名前である事を教えてもらった。
この国では女児に花の名前を付ける事はよくある事だった。しかし男児に花の名前を付ける風習はない。クロフィは男に相応しい名前を選ばれていたから良かったものの、俺はどういう訳か女のような名前の花を選ばれてしまった。
俺の名前は母が付けた訳だが、母曰く『約束だったから』という理由で俺の名前は決まったらしい。その約束というモノが何であるのかまでは教えてもらえなかったが、はっきり言って俺はこの名前がずっと嫌いだった。
母にはその事を言った事はないが、セルネイにはずっとその事を愚痴っていた。しかしあの王宮庭師は、いつかきっとその名前を好きになるよ、とか何とか言って俺の事を軽くあしらっていた。
しかし今まさにその時のセルネイの言葉が現実となった。
クロフィの名前の元となった花は黄色い花が咲くらしい。それを聞いた俺は、黄色い瞳で生まれた事をこの上なく感謝した。俺の色を持つ花の名をクロフィが持っている。それだけで何故だか嬉しくて頬が緩んだが、それだけではない事に俺は気付いた。
俺の名前の元となった花は青紫色をしている。その色はクロフィの瞳の色と同じ。俺たちは互いの色を持つ花の名をそれぞれ持っていた。
黄色の瞳を持つ俺は、青紫色の花が咲く『アイリスフィア』。
青紫色の瞳を持つクロフィは、黄色い花が咲く『クロスフィード』。
何とも不思議な感じがするが、俺はそれだけでクロフィとの距離が一気に近くなったような気がした。
俺はこの名前で良かったと心から思った。たったそれだけの事でと言われるかもしれないが、俺にとってはそれだけでよかった。
俺は嬉しさのあまり、夜会でのクロフィは誰よりも美しかったとつい漏らしてしまい、慌てて、本当は女なら良かったのにな、というような余計な一言を付け加えてしまった。分かっている、俺はバカだ。
案の定、少々気に触ってしまったようで、クロフィは頬を膨らまして顔を背けてしまった。その横顔が可愛いくて思わず凝視してしまった事は幸い気付かれなかったようだ。よかった。
そうやって話を続けていると、クロフィも家の事情で縁談に関しては少々苦労している事を知った。しかしクロフィ曰く、相手は誰でもいい状態なのだそうだ。なんて羨ましい。いや、事情が事情なだけに羨ましいと思うのは不謹慎だと分かってはいる。分かってはいるが、強制的に相手を決められてしまっている俺からすれば羨ましい以外の感想など浮かばなかった。
しかしながら、どうして誰でもいいという状態なのにクロフィは女ではなかったのだろうかと、しつこいと言われようが考えてしまう。誰でもいいなら俺でも良かったという事なのに、どうしてクロフィは男なんだ。もしクロフィが女だったら、何の問題もなく後宮に入れるというのに。今のクロフィがそのまま女だったなら、魔力量はかなりのものだというし伯爵家の娘という身分もある。完璧だ。
とか考えたあたりで二十年前の事件の事を思い出し、それが不可能である事を思い出した。とはいえ、クロフィはもともと男だからこの話はあくまで仮定の話でしかないという事も思い出し、俺は悲しくなった。
世の中思い通りにはいかないものだな。
俺はその後、クロフィに公爵家の夜会の件を謝罪した。クロフィはその事に関して多少なりとも怒っているだろうと思っていたが、予想に反して、自分だけの『最愛』を見つけろ、と言ってくれたのだ。なんて良い奴なんだろう。
しかし俺はそんな良い奴を今でも利用し続けている。それは今さら止める事が出来ないからだ。
寵姫はいなかったと言うのは簡単だが、俺がそれを言ってしまうと偽の寵姫だった者は王宮に混乱を招いたとか何とかいう理由を付けて罰せられてしまうのは目に見えている。俺がいくらその者を庇っても、今の俺では公爵たちの決定を覆す事が出来ない。悔しいが、それが俺の現状だ。
今だって見つかるかもしれない危険の中、クロフィは生活しているのだ。これ以上クロフィに迷惑をかけない為にも、クロフィが俺の偽寵姫だという事は是が非でも隠し通してみせると俺は心に誓った。
夜中、話している最中に眠ってしまったクロフィの寝顔を俺は今見つめている。
同じ寝台に横になっている訳だが、大人二人が寝ても平気なほど寝台は広いため窮屈ではない。
俺は手を伸ばせば容易に届く距離にあるその綺麗な寝顔を飽きることなく見つめていた。
決して隣に無防備なクロフィがいて興奮しているから眠れないとかそういう事ではない。昼寝をしてしまったから眠くないだけだ。絶対そうだ。
そうやって眠気がやって来ない為にクロフィの寝顔を見つめている訳だが、どうしてもコレが男の寝顔だなどとは思えなかった。
そっと手を伸ばして顔にかかっていた髪を払ってやると、クロフィが眠りながらくすぐったそうに笑った。そんな一挙一動が可愛すぎて、抱きしめていいかな、とか不埒な考えが浮かんでしまった。
「女ならよかったのにな……。お前となら、一緒になりたいと思えるのに」
友人として生きていく事も確かに出来る。
だが俺はどうしてもクロフィが欲しいと思ってしまう。
無理だと分かっていても諦める事ができない。
ならばいっそクロフィが言うように、本物の寵姫になり得る女を探してみようと少しばかり思った。
なあ、クロフィ。
俺は、愛する誰かを見つける事ができるだろうか。
俺は、これからもお前と友人でいられるだろうか。