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7話 雄弁は銀ですか?

 『沈黙は金』などと口を噤んでいては、会話は上達しない。言語習得に必要なのは、『雄弁』です。

 だから、私はあっちこっちを示しては、子守りの女の子を見上げる。いまだに『これは何ですか?』という言葉を覚えていないので、身振り手振りでアピールする。

「ヂェグァタージャオシー」

 これは、私が示した中庭の飛石に対する答え。長い言葉ではないけれど、幾つかの単語が繋がっているようなので、どれが『飛石』を指す語なのか判らない。

 しかし、ここで諦めてはいけない。もう一押しするために、再度手を振ってみる。この国では例えそれが物であっても『指差し』はタブーらしいので、お行儀良く手を使って示す。

 もっとも、今の私が身に纏っているのは指先まで覆ってしまうほど袖の長い民族衣裳なので、手を振るというよりも袖を振っているという方が正しいのだけれど。

「タージャオシー」

 おおっ、成功したよ!今度は解った。飛石は、

「たーじゃおしー」

 忘れないように、自分でも発音してみる。呂律が回っていないのは、幼児なのだからご愛敬。

「ア」

 ふいに女の子が驚いた声を漏らしたので、彼女の視線を辿ってみると、

「ぐーぐ!」

 謎の美少年が外出から帰ってきた。大げさに『謎』と言ったけれど、彼が私と血縁なのかどうか不明というだけだ。そもそも私の家族と一緒に暮らしているのだから、怪しい人物である訳がない。

 よちよち歩きの幼児に可能な限り急いで、帰宅した少年をお出迎えにいく。ところが、私はまだ『お帰りなさい』の挨拶を会得していない。

 どうしよう…。私が困っていると、

「ニーフゥイライリョ!」

 私の横に並んだ子守りの少女が、さっと両手の袖口を胸の前で合わせて会釈をした。それを手本に、私も倣ってみる。

「にーふいらいりょ!」

 あいにく日除けとして被っていた帽子に付属しているヴェールが邪魔になり、しぐさも発音もたどたどしかった。

 先に帽子を脱いでから挨拶すべきだったかしら。ああ、でも。それじゃあ、今度は帽子が荷物になって所作の邪魔になるか…。

「ウォフゥイライリョ」

 少年はまともに挨拶できない幼児に対しても礼儀正しく挨拶を返してから、私達の傍を通り過ぎていく。

 私の方は『ただいま』と『お帰りなさい』って結構似た言葉なのだなぁと考えつつ、ちょっと図々しい気持ちで彼の後ろをついて歩く。

 追い出されるのを覚悟のうえで少年に続いて入った部屋は、たぶん彼の自室なのだろう。彼は机に荷物を置いて、腰の剣をはずした。私も子守りの少女に帽子の紐を解いてもらいながら、少年の様子を横目で見遣って疑問を抱く。

 剣を身につけて出かけるなんて、何処に行っていたのだろう?

 少年は学校へ通っているものだと、私はてっきり思い込んでいた。

 あるいは、刃物で自衛の必要があるほど外が危険なのかもしれない。そこまで予想をして、ぞっとする。なまじ治安の良い国で育った前世の記憶が残っているため、普通の人々が日常的に武装する国というのは恐い。

 内心おびえていた時、少年が手に持った本に目を奪われる。

 古風な手綴じの書物のタイトルは、『百家姓』。

 途端に、さっきまでの恐れは吹き飛んでしまった。

姓名しんみん!」

 数少ない中国語の知識を頭から引っ張り出して、私は思わず手を伸ばした。

 見せて、見せて、見せて~!

「イー?ジゥニャン、ウェイシェンムァ?」

 私の言動に少年は驚き、次いで訝しげに尋ねてくる。

 …あ、まずい。これって、文字が読めない筈の幼児が見せる反応としては、すっごい不審だ。

 でも、いまさら隠したところで、ボロは無かったことにはならない。だったら、いっその事。

「じぅにゃん、姓名しんみん。ぐーぐ、姓名しんみん媽媽まーま姓名しんみん爸爸ばーば姓名しんみん

 派手にやらかしてしまえ!

 少年は半信半疑ながらも身を屈め、本を開いて見せてくれる。すかさず、ページの適当な箇所を手で叩いて、

「じぅにゃん、姓名しんみん。ぐーぐー、姓名しんみん媽媽まーま姓名しんみん爸爸ばーば姓名しんみん

 わざと馬鹿のひとつ覚えっぽい感じで繰り返す。

 これは(題字の意味を理解した上での行為じゃありませんよ)、という私なりの演技だ。どんな漢字を見ても『姓名シンミン』を唱えていれば、さっきのは単なる偶然だと思ってくれるのじゃないか、と期待してのパフォーマンスである。

 この時の私には『百家姓』が中国人の姓を書き記した経典だという知識がなく、実は中身の漢字も全て『姓』に該当することを知らなかったのだ。

 幸いにも運命の女神がそんな私を憐れんで味方してくれたらしく、

「デュシーウォデュシン

 少年が示して教えてくれた漢字は『文』の一字。とりあえず、これで彼の姓が判明した。

「ぐーぐ、姓名しんみん。じぅにゃん、姓名しんみん媽媽まーま姓名しんみん爸爸ばーば姓名しんみん

 私は駄目押しのつもりで台詞を繰り返して、それが何かを全く解っていない振りをする。

「ウェン。ウォシンウェン

 ところが、美少年が真剣な顔で念押しをしてくるのに逆らえず、私は気押されて復誦する。

「ぐーぐ、うぇん。じぅにゃん、うぇん媽媽まーまうぇん爸爸ばーばうぇん

 それでも一応は(意味を理解せずに暗誦してるだけだもん)という体裁で、ひたすら繰り返してみた。すると、

「ブ、デュシーニーデュシンシ」

 今度は『聞』という漢字を示されて、私は小首を傾げた。

「デュシー妹妹メイメイデュシン。ウェン。ニーシー聞姓ウェンシン

 ええっと、これはつまり、私の姓は『聞』ということですね!?

 じゃあ、目の前のウェン少年と私は兄妹ではないということだ。

「ニーデュ媽媽マーマシーチャンシン

 ウェン少年はさらに追い打ちをかけ、私の母親の姓を示す。その文字は『チャン』。

 中国人は夫婦別姓なので、私と母親の姓が違っていても変ではない。しかし、ウェン少年と私の両親の姓が異なるということは、要するに彼は赤の他人だ。

 …いや、待て待て。こう決めつけるのはまだ早い。父親の姉妹の息子という可能性もある。

 とは言いっても、平凡な容姿の父親と美形のウェン少年を並べたところで、二人の血が繋がっているようには全然見えない。

 私が頭を抱えて悩んでいると、ウェン少年は溜め息を吐いて本を片付けた。どうやら幼児には難しすぎると判断して、これ以上のことを教えるのは諦めたらしい。

 それから後は、ウェン少年が屋敷の女主人に帰宅の挨拶を述べに行くついでに私も連れていき、そのまま母親の手に引き渡されて終わった。

 ところで、その間ずっと私達と一緒にいた子守りの少女は、ほとんど空気のような存在になっていた。但し、かなりお熱い空気であったが。

 どうも彼に恋をしているみたい。十一、二歳くらいの少女がキラキラと瞳を輝かせている様子は、とても可愛らしい。

 なので、黙って見守っていようと思います。頑張れ!

注)百家姓:中国に存在する姓を重複なしで並べた経典。但し、「百」「終」は最後を「百家姓終」で結ぶため重複している。北宋の時代からあるというが、誰の著作か不明。宋の国姓は「趙」であったため、趙から始まっている。並べ方は語呂の良さで並べてあるという。学びやすく、覚えやすいため中国では言葉を覚えるための基本的な経典とされている。

2013.6.7

2013.6.12子守りの少女の年齢設定を変更しましたm(_ _)m

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