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君が僕のシンデレラ

作者: 碧檎

 長い長い廊下に敷かれた鮮やかな赤い絨毯が足音を吸収する。赤い道の行き着く先は宮殿の大広間だった。

 その日、アンリエットは王宮の舞踏会へと足を運んでいた。この国の王子である、ラファエル殿下の誕生日を祝う為の舞踏会だ。

 そしてそれはラファエルの花嫁を選ぶための恰好の場となっていた。毎年恒例のこの行事。開催されるようになったのはラファエルが十三歳の頃からだからもう既に五回目となっていた。

 その度にアンリエットは多大な被害を被るのだ。それでも出席しないわけに行かず、いつも憂鬱な気分で参加する。

 公爵家の一人娘であるアンリエットは、幼い頃からラファエルと近しい距離で過ごして来た。父がラファエルの父の弟。つまり彼は従弟と言うわけだ。

 一つ年下の彼は、小さな頃から他人の前では王子の仮面を被っていた。いつだっただろう、アンリエットは、あまりにも自分の前と他の人間の前で彼の態度が違うので驚いてしまった事があった。

 アンリエットは彼の性格から性癖までよく知っている。彼女が知る彼は――正直、クズだ。そのはずだった。

 それなのに、彼は、客人に対しては、自分には向けた事の無いような――その名の通り天使のような微笑みを浮かべて、考えられないほどに丁寧な対応をするのだ。アンリエットはあまりに驚いて、客人が去った後、ラファエルの熱を測ってしまった。

 アンリエットにとって今のラファエルは最低の従弟であり、最低の幼馴染。

(昔は可愛い弟みたいだったっていうのに)

 アンリエットは可愛かった昔の彼を思い出して深い深いため息をつく。

 今日もそうだ。アンリエットは舞踏会の準備を終え、充てがわれた控えの部屋で寛いでいた時の事を思い出す。


 ふと慣れた気配に目を向けると、どこから入り込んだのか、いつの間にかラファエルが腕に大量の菓子を抱えてニヤニヤしていた。

「ほら、デブアンリエット。お前、これ好きだろう? 食え」

「デブですって⁉」

「ホントの事だろう? はん、なんだそのドレス。全然似合ってないぞ、肉がはみ出てる」

「――誰 の せ い な の よ !」

 そう叫びつつ、言われっぱなしが悔しくて、ラファエルの欠点を指摘しようと眺め回しても、彼の外見には非の打ちようが無かった。

 端正な顔立ちを、ひと際目立つ黒ダイヤのような漆黒の瞳が飾る。青年になりかけた少し固そうな頬に一房の絹糸のような黒い髪が影を落とす。日の光に輝く艶やかな黒髪は、アンリエットの同色の髪の数倍は柔らかそうだ。

 全く贅肉のないしなやかな体躯を包むのは、やはり漆黒の衣装。襟と袖に金糸で微かな刺繍が入っただけのシンプルなもの。全身黒尽くめの出で立ちは、遠くから見ても、一目で彼と分かる。

 天使の名を持つ彼なのに、その姿は悪魔のように魅惑的だった。

「うるさいのよ、あなた」

 結局悪口が思い浮かばず、アンリエットはそれだけ言う。

「それだけ太ってると、嫁の貰い手も無いよな」

 ラファエルは悪魔のように笑う。そして腕の中の菓子をテーブルにどさりと置いた。

 魅惑的な甘い香りが漂った。砂糖をたっぷり練り込んだ、焼き菓子の匂いだ。

 アンリエットはこっそりと生唾を飲み込む。

「ほら、我慢すんなよな。今更減量しても遅いって」

 ニヤニヤしながら、彼は箱からケーキを取り出して、包み紙を剥ぐとアンリエットにぐいと差し出した。

「い、要らないわよ!」

(このドレスを着る為にどれだけ我慢したと思っているのかしら)

 アンリエットは手を出しかけてぐっと堪える。ここ一月、ずっと我慢していた菓子。一つサイズを落としたドレスを着る為に。ここで一つでも口にしようなら、締め付けているコルセットがはじけるかもしれない。

「なんだ、食べさせて欲しいのか」

 彼は指先で滑らかなクリームを掬うと、アンリエットの口元に差し向けた。

「要らないって言っているでしょう!」

 ラファエルは嫌がらせのようにずっと菓子を送りつけて来ていた。高級店のクッキーにチョコレート。よりによってアンリエットの好物ばかりを。

 目の前にあるケーキも、街で噂の専門店のもの。クリームが絶品だった。ずっと食べるのを我慢していたのだ。鼻先をラファエルの指の上から漂う甘い香りが擦って、思わず喉が鳴る。

「プリンもあるぞ」

 彼は次々と箱からアンリエットの好物を取り出す。ケーキの箱は、今まるで宝箱のように輝いている。

「……どういうつもりよ!」

「ただの親切」

「どこが⁉」

 今日の舞踏会は、ラファエルの嫁探しでもあるけれど、アンリエットの婿探しでもあるのだ。

 アンリエットは、この日の為に両親から減量を強いられる。ラファエルの嫁探しが始まってから、毎年だ。ついでのようなその催しは、アンリエットにとって迷惑でしかなかった。

 けれど、アンリエットが既に適齢期を過ぎかけている事は、彼女も分かっていた。さすがに十九になろうと言うのに嫁の行き場が決まっていないというのは、自分でも情けない。

 アンリエットの身分なら、引く手あまたのはずなのに、とんと縁談が無いのだ。それもこれも自分の外見のせい。アンリエットには分かっていた。ラファエルの言う事はおそらく真実だった。

(――私が太っているから)

 アンリエットの今の体重は、身長が頭一つ違うラファエルとほぼ同じだった。

 しかし、アンリエットだって昔から太っていたわけではない。最初の舞踏会は今よりも三サイズほど細いドレスを着ていたはず。

 アンリエットは思い返す。次の年にはそのドレスは着れなくなり、彼女は身長が伸びたのだと自分に言い訳した。その次の年は身長が伸びていないというのに、前の年のドレスが着れなくなった。とても気に入っていた、淡い桃色のドレスだった。

 さらに、その次の年はもう淡い色のドレスが着れなくなっていた。余計横幅が広く見えるためだった。

 そして今年は――。去年よりもサイズが上がってしまい、もう濃い茶色のドレスしか着るものがなくなってしまった。こんな地味な色のドレスは、若い娘は誰も着ない。

 アンリエットはラファエルとケーキを交互にギロリと睨む。そして辛うじて保っていた冷静さをかなぐり捨て、遠慮なくラファエルを罵った。

「あなたのせいよ」

「なんで」

「あなたが菓子を送りつけるからでしょ!」

 最初は不審に思いつつも喜んでいた。ラファエルが持って来てくれる菓子は、どれもとても美味しかった。でも一年後に、桃色のドレスが入らなくなって、ようやく気がついた。――彼の行為は好意ではなく、手の込んだ嫌がらせだったと。

 それと同時に縁談の数ががくりと減った。両親は焦った。アンリエットもこっそり焦った。選ぶ立場の彼女だったのに、選ぶ事が出来なくなって来ていたのだ。

 順風満帆だった彼女の人生はそこから狂い始めたように見えた。

 彼女はいつしか菓子の虜になり、それをやめる事が出来なくなっていた。両親は彼女から菓子を取り上げたが、気がつくと彼女の傍にはいつも菓子があった。それは――ラファエルの仕業だった。


 数刻前の記憶に浸りながら、アンリエットは壁際でひっそりと広間の様子を眺めていた。

 少し離れたところでラファエルが広場の女の子を物色している。ここ数年で見慣れた光景だ。

(――あの、クズ)

 アンリエットは心の中で口汚く罵る。

 彼女をこうして日のあたらない場所に押し込めておいて、自分は縦横無尽に舞踏会の舞台を渡り歩く。あの外見に騙されて泣いた女の子は数知れないことも、アンリエットはよく知っていた。

 彼は普通なら見るはずの顔や胸を見ず、じっと少女達の足下を見つめていた。きらびやかなドレスがダンスに合わせてひらひら舞うと、布の隙間から時折美しい靴と、足首がが覗いた。

 彼はフェティシスト――街の者が言うように俗っぽく言い替えれば足フェチだった。

 その性癖に気がついたのは、奇しくもアンリエットがその被害者だからだ。

 思い出しかけてアンリエットは赤面する。過去の嫌な思い出を振り払うために頭を振った。

 ラファエルはアンリエットに向かって微かにいつもの笑みを向けると、一人の少女の方に向かって足を進めた。

『お嬢さん、お名前は?』

『サ、サラと申します!』

 上ずった声を上げた少女は空色のドレスを着ている。壁に背をつけた心細そうな様子は、広場に堂々と陣取って王子に虎視眈々と狙いを定めている少女達よりも遥かに目を引いていた。

 小麦色の髪に青空のような瞳をした華奢な少女。ラファエルの眼鏡に適っただけあり、足も随分細そうだった。

『あ、あの、どなたかとお間違いなのでは』

 サラという少女は、自分に声がかかることが信じられないらしい。おどおどと自信がなさそうな様子は微笑ましいくらいだ。

『僕はね、少しでも多くの女性と知り合っておきたいんだ。あとで後悔するのは嫌だからね。君のことは今日、初めて見かけたから』

 低く甘い声が広場に響く。彼が獲物を落とす時の決め台詞だ。

 彼は、笑顔と甘い言葉で惚けてしまった少女をダンスに誘っている。きっと踊って足を踏ませるのだ。何度この光景を見た事だろうか。

 呆れつつため息をつくと、アンリエットの前に言葉が落ちた。

「あの……一曲お相手願えませんか」

 声にはっとすると、一人の男性が目の前でアンリエットの様子を窺っていた。若い男に優しく微笑みかけられ、アンリエットは一気に顔を赤くする。外に出ないアンリエットには出会いがないため、男性に対する免疫がなかった。ラファエルはもちろん男性の類に入っていない。

 恥ずかしがりながらも喜々として頷こうとして……止めた。

「も、申し訳ありません……少し気分が優れなくて」

 本当は元気が有り余っていた。しかし――

 アンリエットは引き攣れそうになっている脇腹の生地を右手でそっと隠す。

 彼女は結局ケーキの誘惑に勝てなかった。今踊れば、きっと布地が弾けてしまうだろうと思えた。

(あの、クズ)

 あっさり去っていく男性の背中を眺めながら、アンリエットは再び罵った。

 広間の中心では、黒い影が少女の足下にかがみ込んでいた。

 毎年の恒例行事がささやかに行われているのを、アンリエットは盛大なため息をつきながら見つめていた。

(ああ、面倒だわ)

 そうだ。今までの事などまだ序の口だった。アンリエットが迷惑を被るのは、これからが本番なのだ。


 単なる従弟なら放っておけば良い。しかしラファエルはあれでも王子だった。将来あの身に国を担うのだ。火遊びもそろそろ止め時だった。

(私、なんでこんな事をしてあげてるのかしら)

 アンリエットは情けなくなる。本当に放っておければどれだけ良いだろう。しかし放っておけば、近々彼は告発され、その身分も何もかも失う事となる。そしてきっとその火の粉は自分たちにも降り掛かるだろう。

 今王位を継げるものはラファエルの他にはアンリエットしかいない。アンリエットに野心があればもっと違ったかもしれないが、彼女は王位が手に入ると聞いても、自分にのしかかる重圧を思って憂鬱になるだけだった。

(王位? そんな面倒なもの、私には必要ない。私のような平凡な女には荷が重過ぎる。私はただお嫁に行って夫となる人を支えるような、普通の幸せを手にしたいの)

 彼の趣味は、父も、そして王である伯父も知らない。彼は両親の前でも非常によく出来た王子だった。彼のしようとしている事を知っているのは、ラファエルの本性を知るアンリエット一人だけだった。

(面倒ね。でも一言忠告しにいかないと。未然に防げるならそっちの方が楽なのだから)

 アンリエットがラファエルのところへ自分から向かう事は滅多に無い。

 それは、彼が何かやらかそうとする、その時だけの珍しい事だった。



「ああ、待ってたんだ」

 アンリエットが部屋に入るなり、ラファエルはそう言って微笑んだ。彼のほっとしたような表情を、アンリエットは訝しむ。

「どうして?」

「毎回止めに来るから。今回もだろうと思ってね」

「分かってるのなら、もうやめなさいよ。記者が嗅ぎ回ってるのだって、知ってるでしょう。新聞だって、小さいながらにも記事になってるわ」

「止めろ? 嫌だね。俺は足の綺麗な娘を妃にする。つまり、足を見なければ、妃を選べない。妃選びには必要な事だろう?」

 アンリエットは思わず顔をしかめる。将来の妃をそんな理由で選ぶ従弟が情けなくてたまらない。彼はアンリエットの表情を見て、妙に嬉しそうに続けた。

「それとも何か? お前は俺が妃を娶るのを邪魔しようっていうのか? ……そうか、本当は俺の事好きなんだろう?」

 ラファエルはニヤニヤ笑う。

「そんなわけ無いでしょう⁉」

 どうして、この男は。アンリエットの前だけで、こんなにもどうしようもないのか。

(どうして私の前では、他の女の子の前で見せるような、優しい素敵な王子の仮面を被ってくれないのよ!)

 必死で泣き声を飲み込むと、低く醜い声が出た。

「あなたは相当な馬鹿よ」

 まるで呪いのように響いた言葉にも、ラファエルは肩をすくめただけだった。

「馬鹿で結構」

 子供の喧嘩みたいだ。もうこれ以上言っても無駄だと、アンリエットは思った。こういうクズは一度痛い目に遭わないと分からない。

「もう二度と警告なんかしてやらない。今度は後始末もしてあげない。行けば良いわ――捕まればいいのよ! そうして、私が王位を継ぐわ」

 アンリエットの言葉にラファエルは目を見開いた。

「お前が?」

「ええ」

「無理に決まってるだろう。お前、俺が継ぐと思って何の勉強もしてないくせに」

「賢くて立派な夫を選ぶからいいわ」

 そんな人が自分の元に来てくれるか分からないが、王位を継ぐのなら権力目当ての男が現れてくれるかもしれない。もう幸せな夢を見るのはやめよう、アンリエットは覚悟した。

 しかし、アンリエットが腹をくくったとたんに、ラファエルはひどく動揺しだした。王位の事が気になったのか。それとも自分の趣味を手伝ってくれた便利な女が消えて困っているのか。

 アンリエットは身を翻して部屋を去る。彼女にとってはもう、どうでも良い事だった。


 *


 郊外の別荘は〝彼の趣味〟の為の屋敷だった。周りに民家は無く、水車小屋だけがぽつぽつと散在する。周りには小麦が青々と波打つ畑が広がっていて、時折鳥の声が微かに耳に届いた。

 野薔薇で出来た垣根には、色とりどりの花が咲き乱れている。しかしその中にたたずむのは、王宮とは比べ物にならないほど古い粗末な建物だった。造り自体も村里の農家にしか見えない。所有者であるラファエルは、わざと目立たない屋敷を手に入れさせたのだった。

 屋敷の一室には、淡い桃色のドレス、ストッキングに、美しいガラスの靴。選んで来た少女に身につけさせて鑑賞するために取り揃えたものがずらりと並べられている。

 それを見ると心が沸き立つはずなのに――。いつもとは違い、ラファエルはの気分は全く乗らなかった。


 ガシャンという音と共に、テーブルの上にあった茶器や、茶菓子が床に散乱する。ラファエルは今、ひどくむしゃくしゃしていた。

 アンリエットと喧嘩などいつもの事だと言うのに。さっきの彼女の顔が瞼の裏をちらついてどうしようもなくイライラした。

 一つ年上の従姉は昔から面倒見が良かった。それがここ数年、彼女はラファエルに構わなくなった。淑女レディとしてはしたない、両親にそう言われたという事は知っている。彼女も年頃で、いつまでも子供のようにラファエルと遊んだりするわけにいかない。そう言われたものの、まだまだ子供の彼はなんだか納得いかなかった。

 だからラファエルは結局、自分から彼女にちょっかいをかける事にした。

 最初はお高く止まった彼女の鼻を明かしてやるつもりだった。

 ちょっとした好奇心で靴まで隠れる長いスカートを摘まみ上げたら、彼女はびっくりするくらい赤くなって、泣きそうな顔をした。そして、彼の元から逃げ出したのだ。当時お気に入りだった、特注のガラスの靴を片方残して。

 彼は驚いた。なぜなら、少し前まで――といっても一年は前だが――彼女は普通に足首の見えるスカートを穿いていたのだから。今さら足を見られたくらいであんな顔をされるなんて想像もつかなかった。

 しかし、そのとき見た足の輪郭と彼女の表情はあまりに衝撃的だった。ストッキングをつけた滑らかな肌。柔らかな輪郭は、少女の頃のアンリエットの棒のような足とは全く異なり、ひどく官能的なものだった。ラファエルは、女性が年頃になって足を隠す理由を知り、そのとき以降、女性の足の虜になってしまっていた。

(――アンリエットが見せてくれれば、俺がこんな風に危険を冒す必要は無いんだ)

 アンリエットが彼を止めにくるたびに、そんな言葉が喉元まで出かかるが、過去の苦い思い出がそれを止める。

 一度そのようなことを言ったら、すげなく断られたのだ。おまけに軽蔑の眼差しまでついて来た。

『夫になる人以外に見せるわけにはいかないの』

 その言葉がなぜだかひどく腹立たしかったのだけ覚えている。自分より先に結婚しようというのが気に食わなかったのかもしれない。

 だからそれを邪魔しようとした。彼女に菓子を送りつけ、縁談の話を聞こうものなら裏で工作して潰した。

 アンリエットは実に都合よく太った。最初の舞踏会で着た、淡い桃色のドレスが似合わなくなるほどに。桃色は彼女に一番似合う色だった。あの色が似合う間は危険だと、ラファエルは何となく思っていた。

 そして、彼女は今年はとうとう茶色の地味なドレスに身を包み、目立たぬ壁の花となった。これで当分はダンスも出来ず、他の男の誘いもない。

 ラファエルはその結果に満足していた。

 そして自分は新しい獲物を得て、晴れ晴れした気分でいつもの趣味を楽しんでいるはずで……。

(それなのになぜだ)



 呼び鈴の涼やかな音が鳴る。やがて侍従が少女の到着を告げ、彼は気分を変えようと立ち上がり庭に出た。薔薇の香りが咽せそうなほどに漂っていた。

「やあ、よく来てくれたね、サラ」

 彼女は舞踏会と同じ空色のドレスを着ている。少しだけスカートを持ち上げて、礼をすると、足元の白い皮靴が日の光に輝いた。

「あ、あの時は、足を踏んでしまって、申し訳ありませんでした。大丈夫でしたでしょうか? もう痛みませんか?」

「全く平気だよ。あのおかげで探し物が見つかって、僕はすごく嬉しかったんだ」

 ラファエルは獲物を前に、艶やかな笑みを浮かべた。

 後ろに隠した手の中にはガラスの靴があった。アンリエットが残した小さな靴。この靴を履きこなせる女性をラファエルはずっと求め続けている。

「これを、履いてくれないか?」

 ラファエルはサラに椅子を勧める。そして腰掛けた彼女の足元に膝を付き、手元の靴を差し出した。幼子が履くような小さな靴。誂え物に、ぴったりと合う女がいない事は頭の隅では分かっている。しかし、これは趣味を始める儀式のようなものだった。

(没頭しよう。いつものように)

 ドレスを着せて、足先を覗く。そして、恥ずかしさに赤くなる少女の顔を見る。

(そう、あのときのアンリエットのような――――)

 ラファエルは微笑みかける。しかし少女は今にも叫びだしそうな、恐怖に戦いた顔をしていた。



「くそっ」

 悪路を跳ねる馬車の中、ラファエルは悪態をつく。

 初めての敗走だった。何もかもうまく行かない。今までにない事に、ラファエルは混乱していた。

『――僕のサラに手を出すな!』

 未だに少年の怒鳴り声が耳に残っていた。

 あと少しというところで、サラはラファエルの元から逃げ出して、助けに来た男に奪われた。記者に知らせると脅された。それは本当かもしれない。――アンリエットも気をつけろとそう言っていたではないか。

 王家にとって一番怖いのは、醜聞が広まり、世論が王家を責め立てる事。

 サラの恋人らしき男は怒っていた。つまり、今度は金を握らせて黙らせようとも無駄だろう。

 それもこれもアンリエットのせいだ。ラファエルはそう思う。

(あいつが、あんなことを言うから。捕まれば良いなどと言うから)

 今まで、ラファエルが無茶をすれば、アンリエットが助けてくれた。

 その構図が崩れていた。だから失敗した。

(好き放題して来た、ツケが回って来たのか)

 ラファエルは笑った。

 彼は失脚し王位を継げず、アンリエットは賢い夫を迎えて、女王として国を治める。彼女には無理だ。彼女は補佐する事には長けている。ラファエルが失敗した時にこっそり後始末をつけてくれるように。

 きっとラファエルが王となり、国を治める時にでも、彼女が傍にいれば彼は失敗を恐れずに大胆な政治を行う事が出来る。――だが、自分が主となり治めるのであれば、荷が重過ぎる。

 どうすればいい。

 相談相手はもういなくなった。自分の愚かさが彼女を去らせたのだ。

 彼は窮地に追い込まれ、それを解決するすべを持たなかった。

 ラファエルは膝の上で頭を抱える。

 膝の上で組んだ彼の手の中には、とっさに掴んで持ってきたガラスの靴だけが残っていた。祈るようにそれを握りしめると、なぜか、もう片方の在処が気になった。

 

 *


「え? 何ですって!」

 アンリエットは侍従からその知らせを聞いて飛び上がった。

(ラファエルの行動が記者に、ですって?)

 それはまずい。捕まった方がまだマシだった。今までだって、ラファエルが残した証拠をアンリエットが憲兵に金を掴ませてもみ消して来た。もちろん、少女達へもこっそりと賠償も行って来た。……全てアンリエットの個人的なお金を使って。

 彼女は小さくはあるけれど領地を預かっていて、両親から管理も一部任されているのだ。その金をラファエルの為にこっそり使って来た。

 今回は後始末を自分でやりなさいという意味で突き放したけれど、記者となると話は別だった。王家の威信に関わる。それは、まずい。

「話を聞くわ。ラファエルにそう伝えて」

 しかし、アンリエットの予想に反してラファエルは相談しようとしなかった。部屋に閉じこもって出て来ない。どうやら自暴自棄になっているようだった。代わりに一緒にいた侍従が詳しい話を教えてくれる。

 先日の舞踏会でラファエルの標的となった少女サラ。彼女を危機から救った少年が記者に情報を持ちかけると言っているらしい。もしかしたら少女はラファエルをおびき出すための囮だったのかもしれない。王子を脅そうなど、大した度胸だ。

 アンリエットは感心する。その度胸はラファエルに少し分けてやりたいくらいだった。

 となると、やはり今まで通りに行くとは思えない。もうささやかなお金では解決できないだろう。下手すれば国庫に手を出すことになりかねない。それはきっと失墜の始まりだ。

(じゃあ、手を変えるしかないって事ね)

 アンリエットは脇に置いていた上着を手に取ると、侍従に声を掛ける。そうして体に似合わない素早い仕草で立ち上がった。

「出かけるわ、用意して」


 **


 一人の少年が井戸の前に佇んでいた。さほど大きくないが住みやすそうな家の間の小さな井戸。石造りの台の上に座って、新聞を大きく開き、今日の記事を隅から隅まで読みあさる。

 そこに小麦色の髪をした少女が駆け寄って来た。

「アンドレ」

 その声に少年は新聞から顔を上げた。新聞に隠された赤い髪が鮮やかに景色を彩った。

「ああ……サラか」

「ねぇ……本当に記者に話を持っていくの?」

 少女の青い瞳が心配そうにアンドレの顔を覗き込む。小麦色の髪が一束背中から流れ落ち、はらりと風に揺れる。

「当然だろ。君、被害者のくせにどうしてそんなにのんびりしてるんだ」

 アンドレは呆れたような声をあげる。

「んー、でも被害って言っても、アンドレの受けた被害の方が大きいじゃない。あ、やられっぱなしが悔しいって訳ね?」

 そう言いつつサラはアンドレの左頬の大きな絆創膏をそっと指先で撫でた。それは、先日変態王子から彼女を助けた時の勲章だった。彼女を助けるときに王子に一発殴られたのだ。

(サラは何も分かっていない)

 アンドレはぐったりする。

 昔から彼女はそうだった。鈍い。鈍すぎる。なにしろあの事件が起こるまで――十六年もの間、アンドレの気持ちに気がつかなかったくらいなのだ。

 アンドレが殴られた事などこの際全く関係ない。問題は、あの王子がサラに目を付けて、その足を触ろうとした事だ。

(僕でさえ触った事が無いのに)

 アンドレはそれが悔しい。アンドレだって健康な十六歳の男として、サラの足に興味はある。あの王子の気持ちもまったく分からない訳ではない。ただ、その標的がサラだという事は全くもって許せない。

 彼女に触れて良いのはアンドレだけだった。鈍い彼女は自分が魅力的な少女だという事も知らない。彼女とは同じ学校に通っているが、明るく健康的な彼女は何処に居ても目立つ。物怖じしない瞳は晴れた夏の空のよう。小麦色の髪は日の光を受けて金色に輝く。

 これほど日の光の中で輝く少女というのも珍しい、アンドレはそう思う。

 だからこそ、舞踏会で王子がサラに目を付けたという話を聞いて、ひどく不可解になった。彼女はおそらく室内では普通の少女なのだから。

 その勘のおかげで、今回サラを奪われずに済んだものの、アンドレはこのままにしておくほど優しくもなかった。

(見てろよ、しっかり返礼させてもらうからな)

 アンドレは今、新聞に投書するための準備をしていた。

 なにしろ相手は権力者。庶民のアンドレが下手に憲兵に訴えようとも、握りつぶされるのがオチだった。考えた末、アンドレは彼らの弱点を衝く事を思いついた。

 武器は昔から大事にとっておいた古新聞の記事。『足の事件に要注意』という珍しい記事が気になったのは、よくよく考えると、毎年サラが舞踏会舞踏会とうるさい時期に発生していたからだろう。アンドレはそれらを地味にスクラップしていたのだが、頭のどこかで結びつけていたようだった。

 まずは事件の記事から被害者の名前、住所、被害の状況、それらを抜き出して、本人達に直接話を聞くのだ。もちろん事件が事件だけに具体的な名前などは書いていない。だが、行間を読めば分かる事も多かった。それに……

「サラも協力してくれるよね?」

 彼女もれっきとした被害者だった。

「うーん」

 何を悩む事があるのだろう。すぐに是の答えを聞けると思っていたアンドレは、不思議に思って問う。

「どうした?」

「あんまり気乗りしないなって」

 サラは俯いて足下の石を二つ三つ蹴った。石が転がり道へと躍り出る。やがて彼女はちらりとアンドレを睨み、言う。

「アンドレも鈍いわよね」

「サラに鈍いって言われたくないよ」

「じゃあ、女心が分からないって言えば良い?」

「……」

 その青い目にいたずらっぽく見つめられて、アンドレは珍しくやり込められた気になる。それが分かればどれだけ毎日が楽な事か。

「どういう事だよ?」

「そういうのって噂になったら困るのよ。……せっかく決着がついてるのに、後から色々勘ぐられたら辛いじゃない」

「勘ぐる?」

「じゃあ、アンドレだったら、もしあなたが助けに来なかったとして、……あたしが何も無かったって言って信じてくれるのかしら?」

「……」

 そこまで言われてようやく思い当たる。そうか。アンドレは王子を告発する事に躍起になって被害者の気持ちなど考えていなかった。

 記事には『綺麗なドレスを着せられて、足を覗かれた』とだけ書かれていた。残虐な事件が多い中、妙な話だと思って頭に残っていた。それ以上は無いと言う事だが、あったと考える輩がいてもおかしくない。それは年頃の娘にとっては大きな瑕になりかねない。

 反省するアンドレの耳にひっそりとしたサラの独り言が届いた。

「お年頃なのに、そんな風に思われて男の子が寄って来なくなっちゃったら困るもの」

「え?」

(どういう意味だよ?)

 アンドレが思わず睨むと、サラは首をすくめた。

「アンドレなら理解があるし良いけどね、もし恋人が理解の無い人だったら困ると思うのよ」

 さらりと言われた『恋人』という言葉でアンドレの気分は随分マシになる。

(そうそう、分かってれば良いんだ。……あれ? でもよく考えると、なんだか微妙。どうとでもとれそうな。……本当に分かってるのか?)

「ねえ、サラ――」

 真意を尋ねようとしたアンドレの耳に女性の高い声が響く。

「あの。ちょっとよろしいかしら」

 振り返って目を見開いたアンドレの手から新聞が落ちる。――信じられないほどの美人がそこには立っていたのだ。



 女性の名はアンリエットと言った。

 真珠色の肌の上、絹糸のようなさらさらの漆黒の髪が風に揺れる。彼女は髪を指に絡めながらそれを形の良い耳に掛ける。手は指先までレースの手袋で覆われていた。こぼれ落ちそうに大きな漆黒の瞳が日の光を反射して黒ダイヤのようだった。

 アンドレは脇腹をつねられてはっとした。サラがちらりとアンドレを睨むと女性に向かって尋ねる。

「一体どんなご用件です?」

 心無しかサラの口調に険がある。アンドレはまだ女性をじっと見つめていた。彼女の立ち振る舞いを見る限り、かなり高貴な家柄と伺えた。服は流行の最先端を行っているのか、新聞のゴシップ欄から抜け出した女優かなにかのようにひどく洗練されていて、その裾に縫い付けてある繊細なレース一つだけで、サラが今着ている普段着一着くらいは仕立てられそうな気がした。

 ――それにしても、サラと比べるとぽっちゃりしているものの、とにかくかなりの美人だった。もしも痩せていれば直視できないかもしれない。美女は太っていようと、やはり美女だ。アンドレはそんな風に感心した。

 アンドレが心の中で唸っていると、サラが再び脇腹をつねった。

 アンリエットはサラに向かって尋ねる。

「あなたはサラね? あの……先日、王子殿下に――」

 そこまで言ってアンリエットは口ごもる。心無しかその顔が赤い。

「あぁ……その事ですか」

 サラも釣られたのか赤くなって答える。

「あの。そちらが、あなたを助けてくれたと言う?」

 アンリエットはアンドレをちらりと見る。サラはアンドレに断りも無く彼を紹介した。

「ええ、アンドレと言います」

「ええと……私、今日はお願いがあって」

 アンリエットが切り出すと、アンドレは一転して厳しい表情を浮かべる。いつか来ると思っていた。だからアンドレは急いでいたのだ。流されて終わりなど、とんでもない。それなりに決着は付けさせてもらうつもりだった。

「……和解しろと?」

「ええ。理解が早くて助かりますわ」

「――あなたは? 王子殿下のなんなのです」

 アンドレが尋ねると、アンリエットは小声でこっそりと囁く。辺りを気にしているようだった。

「殿下の従姉ですわ」

「えっ⁉ あぁ! そう言えばとっても似ていらっしゃる!」

 サラが驚いて飛び上がる隣で、アンドレは記憶をたどった。従姉となると、現王弟の娘? つまり、とんでもない身分となる。たしか王子には兄弟がないから……何かあれば王位を継ぐかもしれない。

 頭が冴えて来て、それに伴いアンドレの緊張が解けて来る。

「なぜあなたが。和解とおっしゃるのであれば、王子殿下自らいらっしゃるのが筋では?」

 アンドレの大胆な態度に隣のサラはとうとう固まってしまった。アンリエットはアンドレの態度を珍しそうに眺め、そうして言った。

「……ごめんなさいね。本当にあの子はこの事になるとどうしようもなくて。いえ、でもね? 普段はとっても立派にされているのよ?」

(どうだか)

 アンドレは心の中で悪態をつく。

(それにしても、何だ、この美女は。『あの子』って、まるで王子の保護者じゃないか)

「ああ、まあそんな事言っても説得力が無いわね。仕方ないわ。私もね、実は、今回ばかりは頭に来てしまって。だから、サラ。あなたに相談があるの」

「なんでしょう?」

 サラが無邪気に尋ね、アンドレも答えを待った。そして、返って来た答えは、サラとアンドレの予想を遥かに超えていた。

「お詫びになるか分からないけれど……あの子の妃になっていただけないかしら。きちんと責任を取らせていただきたいの」


 アンリエットは必死だった。もうそれしか丸く治める方法が残っていない、そう思い詰めていたのだった。

「知ってらっしゃると思いますけれど、あの子、足の綺麗な子が好きで……。普段から豪語しているの。『俺は足の綺麗な女性を妃にするんだ』って」

「え、あの、えっと、……ええ⁉」

 サラは目を白黒させ、アンドレは顔を真っ赤にしてむっつりと黙り込んだ。その手がプルプルと震えている。

「あなたに要らぬ瑕を付けてしまったのですもの……責任を――」

 アンリエットがそこまで言った時だった。アンドレが突然サラを抱きしめ、唖然とするその唇に自分の唇を押し付けたのだ。

「――――――⁉」

 往来の人々が立ち止まり、野次を飛ばす。その中心に立ち尽くす影が三人分。

 やがて、バチーンと痛々しくも乾いた音がしたかと思うと、アンドレが後ろに尻餅をついた。

 アンリエットは一体何が起こったのか分からず呆然とする。展開にまるでついて行けなかった。

 アンドレの右頬に真っ赤な手の形が浮かび上がる。彼の左頬には絆創膏があり、顔に傷が無い場所がなくなってしまった。彼は殴られたと言うのに、サラではなく、アンリエットを鋭く睨んで、言い放つ。

「――――責任は、僕がとる事になっている‼」

「何言ってんのよ、このバカ‼ ヘンタイ! 節操無し!」

「!」

 アンドレはぐっと言葉に詰まり、項垂れた。かと思うと、アンリエットを睨んで、

「そんな提案飲むくらいなら、まだ和解した方がマシです。今日のところはお引き取りください」

 丁寧に、しっかりとそう言った。その水色の目が少し涙目に見えたのは、張り手のせいなのかなんなのか……。

「あ、ああ…………」

 アンリエットは生唾を飲み込んだ。

(えっと、これは、今、何か申し込みをなさったのではなくって? 彼女の方は気づいてないみたいだけど)

「ちょっと、どこ見てるのよ! なんとか言いなさいよ!」

 サラが激怒したまま、アンドレに詰め寄る。アンドレも負けていない。

「君は僕をなんだと思ってるんだ! なんだよ、キスくらいさせてくれよ! だいたい君は――」

 知らず足が後ろに一歩下がってしまう。二人は、そのままなんだかとても恥ずかしい喧嘩を始めてしまい、面白がった野次馬がどんどん集まって来ていた。

 アンリエットはひとまず人目を避けるため、身を翻して建物の脇に置いておいた馬車へ戻った。

 どうやら彼女は何も知らずにとんでもない提案をしてしまったようだった。よくよく考えると、少女の危機を救う男と言えば、恋人と相場が決まっている。そういう事に疎いという自覚はあったが、アンリエットはあまりの自分の鈍さに改めて愕然とした。

「私ったら……なんて鈍いのかしら」

 馬車の扉を開けながら、思わず口から飛び出した言葉に、なぜか聞き慣れた声が被さる。

「そうだな」

 目を上げると、馬車の中にはラファエルがいた。

「!」

 その漆黒の瞳が馬車の中からアンリエットを睨みつける。

「なに人の縁談を勝手に進めてるんだ。俺の気持ちも聞かないで」

(ラファエルの気持ち?)

 そんなもの、アンリエットはよく知っているつもりだった。

「な、だって、あなた、足の綺麗な子が好きなんでしょう? それであの子はお眼鏡にかなって……」

 ラファエルは盛大にため息をつく。そして馬車の入り口で立ち尽くすアンリエットの手を握ると、馬車の中に引きずり込んだ。

「お前も鈍いけど……俺も相当鈍かった」

 狭い室内に二人。今までいくら二人きりになったとしても、ラファエルを何も意識していなかったアンリエットだったが、今その距離の近さに妙に胸が高鳴った。

 彼の低い囁きが耳元で響くような気がして、顔が赤らむのを止められない。

「なんで……気に入らないんだろうってずっと不思議だった。いくら綺麗な足の娘を見つけても、何か違った。だから五年も探し続けた」

 いつもとは全く違う様子にアンリエットは戸惑った。この男はクズのはずだった。それなのに。

(一体、ラファエルは何を言おうとしているのかしら)

 待ち受けるアンリエットの耳に、続けてとんでもない言葉が響く。

「おれはずっと身代わりを求め続けてたのかもしれない。……本当はお前の足が見たかっただけなのかもしれない」

 ラファエルはそこで、手のひらの上の靴をアンリエットに見せた。それは、彼女が昔お気に入りだったおもちゃのようなガラスの靴。太ってしまってもう履けなくなったけれど、彼女の部屋の片隅には、片割れが今も大事に仕舞ってある。

 それに想いを馳せるアンリエットに向けて、ラファエルは続けた。

「確かめても、いいか?」

(――いいわけないでしょう!)

 アンリエットは叫びたかった。しかし、靴を見て、迂闊にも封印していた思い出を思い出してしまったのだ。彼の言葉を。そしてそれに対して自分が言った言葉を。


『アンリエットが見せてくれれば、他の女の足なんか見なくていいのにな』

『ば、バカ! 夫になる人以外に見せるわけにはいかないの! あなたもそういう相手はきちんと自分で探しなさいよね!』


 おどけた口調。でも瞳が真剣な色をたたえていて。怖くなって反射的に誤摩化すように言った言葉。

(――――まさか)

 アンリエットは急に思い当たった。


(まさか。それが原因なんて、言わないでしょうね?)


 アンリエットの問うような視線に、ラファエルがにやりと笑う。

「俺、自分でも気がつかなかったけど……結構傷ついてたみたいなんだ。――昨日、じっくり考えた。思い出すのが嫌で、ずっと考えないようにしてたけど、考えてみた。そうしたら、どう考えてもそれしか答えが無かった」

 そこでラファエルは大きく深呼吸をした。

「俺は、お前が好きらしい」

 アンリエットは目眩がした。

「だから……賢い夫を迎えるとか、俺に足の綺麗な妃と結婚しろとか……言わないでくれ。俺、……お前を……いや」

 突然だった。ラファエルはアンリエットの前に跪いて、彼女の手を取った。まるで、お姫さまにするかのような、優雅な仕草で。

「あなたが欲しい。私の妻になっていただけないか」

(――この男は、一体誰?)

 アンリエットは目を白黒させる。クズの顔が仮面だったのか、それとも今一時的に王子の仮面を被っているだけなのか。

 アンリエットは何と答えて良いか分からず、時間を稼ぐ。

「え、ええと、だって、私達、従姉弟じゃない?」

「従姉弟なら問題ないだろう? 知っているはずだ」

 どうも調子が狂っていた。断れば良いのだ。だって、この男は……クズなのだから。アンリエットを太らせて、デブと呼ぶ疫病神。

「あなた、太った女は嫌いなのでしょう。だから、細い女の子を必死でさがして……」

「お前を太らせたのは……他の男に目を付けられたくなかったから。女の足を見たかったのは、お前が見せてくれなかったから。わざわざ危ない事をしたのは、そうすればお前が俺のところに顔を見せるから。……全部お前を手放したくなかったからだ」

 真摯な言葉が胸を抉る。見た事も無いようなその姿に、不覚にも胸がときめくのが分かる。

(ひょっとして、責任を取らなければいけないのは……私なの? だって、今日のラファエルは随分、まとも。まるで憑き物が落ちたかのようで……)

 彼は昔の可愛らしい弟のような彼に戻っていた。

「返事は? アンリエット」

 アンリエットに残された選択肢は少ない。ラファエルに少なくさせられていたのだ。

(バカ、今それを聞くのは、ずるいわよ! どっちにしろ、私、痩せないとお嫁に行けないのだから!)

 アンリエットは心の中で叫ぶ。

 そうだ、やはり、ラファエルには仕返しをしなければ気が治まらない。

「――私、痩せるわ」

「え⁉」

 ラファエルは動揺をみせた。アンリエットはふふん、と笑う。

 そうだ。そのくらいの期間、返事を待たせても良いはずだ。アンリエットの自信はラファエルのせいで地に落ちている。今なら、たとえ誰が彼女を嫁にと言っても受け入れてしまうほどに。

 だから、自信を取り戻して、その時に改めて答えを出す。アンリエットはそう思った。

「痩せて、――賢くて優しい、素敵な人と結婚するの」

 つまり、今のままのあなたとは結婚しないわよ? こっそりと釘を刺すアンリエットに、ラファエルは「賢くて優しい、素敵な人か」と、苦笑いを浮かべた。

「手始めに……謝りに行って来るよ、あの二人に」

 ラファエルはそう言うと、馬車を飛び出す。

 長い黒髪が彼の背中で踊り、羽根のように見えた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 謎かけのような足フェチの理由が好き、の気持ちに辿り着く、巧妙な話運びが最高でした。近くて気づけない幼馴染みで従兄弟な二人。王子と姫という設定の妙が楽しかったです。 [気になる点] 痩せた姫…
[良い点] 全部が良かったよ♪ [気になる点] 無し♪ [一言] 君が僕のシンデレラ大好きです!
2012/05/24 19:21 山岡くるみ
[一言] 脇役の方が盛り上がって、しらけて残念でした。短編なので、 もっと主人公達に焦点をあてて欲しかったです。 面白かったのに……。
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