第6話
拘束されて2日ほどたった。最低限死なない程度の水食料が与えられているのは幸いというべきか。それでも固いパンに僅かばかりの水では腹は膨れない。1日1度の食事は現代人には辛いものがある。
身体に力が入らないのは気のせいではないだろう。連続した馬車での移動と、精神的重圧がジリジリと体力を奪っていく。
この日は近くの水場に寄るようだった。さして幅は広くない川だ。水流も緩やかなもので、浅瀬であれば水浴びもできそうだった。
一団は足を止めると、必要な水を補給し始めた。テツたちは縄をほどかれ、仕事を手伝うように命じられる。当然のように、逃げ出したら容赦しない、と釘を刺された。
大量の水を運び入れる作業は重労働だ。万全とはいい難い体調のせいで余計に重く感じる。
ミコトやキョウイチ、スイといった能力者の面々は、ここにきてついに己の能力が扱えなくなっていることに気づいたようだ。こちらにとばされる前よりかなり落ちた筋力に愕然としている。
テツはその様子を複雑な心境で見ていた。彼らは決して超えられない壁として、長きに渡って立ちはだかっていた者たちだ。その彼らがいま、能力を失って四苦八苦している姿を晒している。名状しがたい感傷がテツを襲っていた。
「レギンス、おまえも水浴びしてこいよ。見張り代わってやるから」
見張り役の男に声をかけたのは、まだ青さを残す顔立ちの青年だった。愛嬌のある笑顔で、いまは軽装だが、鎧を着込めばれっきとした騎士に見えるだろう。
「んじゃ、頼む」
「おう」
交代した男は剣を抱き込むと、どっかりと腰を下ろした。
「ほら、サボってんなよ。キリキリ動け」
不躾に見ていたテツを怒鳴りつける。慌てて作業を再開した。
テツは10年間基礎体力作りをかかしたことがないから、この程度の労働なら我慢出来ないこともない。誰もが嫌がる基礎体力作りを趣味のごとく行っていたから、それをして変人といわしめていた事実がある。
「へえ、おまえ、かなり鍛えてるみたいだな」
農夫の筋肉の付き方と違うしな、と男は付け加える。
「あのヘンテコな剣も持っていたわけだし、剣術の覚えがあるのか?」
「たしなむ程度ですが」
テツは剣の腕について、どの程度戦えるのか見当がつかなかった。かつての大和では、考えるまでもなく底辺に位置していた彼だったが、この集団を見る限り、勝てるかもしれないが、負けそうでもある、という微妙な感想を抱いていた。
無論、死んだ道場生を切り捨てた男には勝てそうだとは、露ほども思えなかったが。
「おまえに比べて連中は使えないな。見ろよ、あのへっぴり腰」
「……」
特に能力を失った影響が大きいのは女子だ。気の恩恵を大きく受けていた彼女たちにとって、そのサポートがなくなるのは致命的といっていい。筋力などは以前と比べ物にならない。
あの女性剣士たちにいつも地面を舐めさせられていたといったところで、この男は信じるだろうか。テツはフラフラと頼りない様子の女性たちを流し見ながら思った。
「オレの名はポールってんだ。覚えとけよ、テツ」
「なんでぼくの名前を」
この男に名乗った覚えはない。訝しげに聞くと、
「シアはオレの女だからな」
なるほど、とテツは納得した。シアというのはシンシア嬢のことだろう。馬車で乗り合わせた食えない女性は、この男の恋人だったらしい。彼女からテツの名前を聞いたのだ。
下手なことをいわなくてよかった、と胸をなで下ろす。彼女から情報が流れていくのは確実だ。あまり相手に有利な展開になるのは好ましくない。
「真面目に動きゃ、あとで水浴びさせてやるって団長がいってたぞ」
「それはありがたいです」
まだこの地に来てから数日とたっていないが、公衆衛生の整っていた時代の輩たるテツからすれば、身体のにおいが気になっていた。時代的に衛生の観念に乏しいようで、現代人の感覚はあの男たちには理解できないだろう。
ポールのいうとおり、作業を終えた一行は水浴びを許された。しかし男女混合であり、馬車の乗り合わせのメンバーで済ませるという条件付きだった。
当然のことながら、女子の面々は異議を唱えようとしたが、
「野営の準備を早く済ませるぞ」
と、何気なしに剣をちらつかせる男―――――団長に文句などいえるはずもなく、テツたちは水浴びを強制的に混浴とされたのだった。
かつてであればピンク色のイベントとなったであろうヒトコマも、まるで通夜のように粛々と行われた。それでも男子諸兄の視線は女子の裸体に引き寄せられたし、ポールや他の男連中は堂々とその様子を眺めていた。
羞恥に頬を染めるのがツボであるのは世界共通であるらしく、彼らはニヤニヤと嫌らしい表情を惜しげもなく晒していた。
「ちょっと、もっと近くに寄りなさいよ」
髪から水を滴らせたスイが頭の痛くなる台詞を吐く。
「……ぼくの聞き間違えか? どうでもいいから、あまり近寄らないでよ、エッチ」
「え、っ、それはあんたの台詞じゃないでしょ! あの男たちに裸見られるのが我慢ならないのよっ」
「別に、いまさらだろ。あとで犯されるかもしれないんだし、いまのうちに慣れときなよ」
その未来はありえなくもないので、悔しそうにスイは黙り込んだ。
「そんなズケズケという? 最低ね、あんた」
「あんまりいいたくないけど、犯される可能性はぼくらだって同じだ。衆道って言葉知ってるかい?」
知らない、と首を降るので親切丁寧に教えて差し上げると、スイは顔を真赤にして「嘘でしょ!?」と驚愕した。
大声をあげたせいで一斉に注目を浴びたスイは、縮こまってテツの影に隠れる。
「だから、あまり近づくなよ」
「だって……」
自身の源であった能力を失ってから、彼女たちは臆病になってしまっていた。力づくで襲ってくる男を撃退できない、という事実が重くのしかかっているのだ。
圧倒的な力をもつ相手を恐れるのは当然のことだ。生まれてこの方、そういった連中ばかりを相手にしてきたテツには痛いほどわかっていた。
「ふう。大丈夫だよ、スイ。大丈夫」
触れるか触れないかの微妙な距離だった。スイの肌は陶磁器のように白く、彼の目から見ても美しかった。河川の水は冷たすぎるほどだったが、近くにいる彼女の体温がそのぶんリアルに感じられるようだった。
幼い頃。
まだ能力による優劣を思い知らされる前は、テツとキョウイチの後ろをスイは無邪気に追いかけていた。テツは幼いながらも、女の子は守らなければならない、なんていう時代錯誤な使命感がなかったこともないし、彼女の手を引っ張っていくのは自分たちの役目だと信じていた。
それが成長していくにつれ、彼女は守られるだけの存在ではなくなっていた。いつの間にかテツ以上の、もはやどうやっても敵わない力を手に入れていた。
かつてはその事実が悔しくもあったし、情けなくもあった。だが能力者の強大さを思い知らされるにつれて、そんな感情は消失していった。良くも悪くも、彼は世界の常識という枠に取り込まれていったのである。
この世界では能力は使えない。そもそも、『気』という概念が存在していないとテツは踏んでいる。自分たちを襲った面々が、戦闘において必須の概念であった『気』の匂いを一切させないのはありえない。
スイたちは力を失った。いままでずっと共にあった力を失った衝撃は、いかほどのものだったのだろう。テツはやり切れない思いになった。もしも自分から、そう、剣を握る握力や筋力が失われてしまったとしたら。そのショックは計り知れない。
不安になるのは仕方がないといえた。自分が全く影響のないだけに、彼女たちの怯えや不安が際立って見えた。
「ねえ、テツ」
それは自己防衛のための仕草なのだろうか。上目遣いで保護欲を刺激する声色だった。
「もしものときは、助けてよね」
「それはぼくじゃなくて、キョウイチにいうべきだと思う」
「そ、そうかもしれないけど」
ちょっと憤慨した、というように、
「女の子が助けを求めてたら、助けるべきでしょ。紳士として」
「紳士として」テツは未確認飛行物体を目にした科学者みたいな調子で反復する。理解できない単語を一時脳内で観察研究してから、結局わかりませんでした、とレポートの結論に書き上げ、
「何をいってるんだ、スイは」
この少女に紳士は必要なかったのだ、少なくとも2、3日前までは。それがいま、何をトチ狂ったのか、テツに紳士性を求めている。
彼は失望を感じていた。能力者たちは、彼からすれば大きな壁であり、敵であり、憧れの存在だったのだ。己には超えられないひとつ上の存在だったのだ。
その「殿上人」が、自分の加護を求めるなんて。
「……」
深い虚無感が襲ってくる。テツの10年間を否定する闇だった。憧れの人物に裏切られたのだ。それはいままで感じたことのない痛みだった。
能力者たちに、自らの弱さを笑われても悔しくはなかった。それは正真正銘の事実だったからだ。彼は事実を笑われて憤慨するようなプライドを育てていなかったし、あの世界の常識として「能力者には勝てない」という真理が働いていた。
―――――ぼくは異世界に来てしまったのだ。
世界が変わり、真理が変わり、能力者の意識も変えた。大きすぎる変化から取り残されたテツが感じたのは、静かな孤独感だった。
遠見テツが異世界に迷い込んだという事実を付きつけられたのは、まさにこのときであった。