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最終話

 拍手したくなるくらいに洗練された動きだ、とテツは思った。そして何より美しい。戦いに美しさを求めるなど邪道だと思っていたが、考えなおすべきかもしれない。これまでに目にしてきたどれよりも完成された動きだった。


 能力の欠損などおくびにも出さない。確かに腹の底から響くような斬撃は失われていた。その代わりにミコトの剣はより正確に、精密に進化していた。いつの間に会得していたのだろうと不思議に思う。この姉のことだ、人の目のないところで黙々と励んでいたに違いない。


 盾で自身を覆うことが恥ずかしくなるほどだ。だがテツは、プライドなど煮ても焼いても食用にならないことを知っている。そんなものより実用性を取る。


 誰から何といわれようとも自身のポリシーに疑念を持つことはなかった。それがいまは、口でいわれたのでもなく、ミコトの行動によって非難されているように感じていた。不動だった心魂を揺さぶられたようで動揺する。精神に伴って身体のテンポを崩してしまい、疲労感は一気に跳ね上がった。


 集中力の途切れを見過ごして貰えるわけがなく、無情にも剣が払われる。奇策を用いて回収に成功したものの、体力はさらに奪われてしまった。


 朦朧とし始めた意識の端に、スパークが走った。ふたりは向かい合っている。こうしていると道場でのことを思い出す。足の裏に感じる冷たい木の床。汗の揮発する独特な匂い。防具を逸れた竹刀が肉を叩くときの鈍く、それでいて高い音。


 目の前にいるのはミコトだった。初めて出会ったときから変わらない強い眼差し。自分を導いてくれたその眼光に貫かれると、名状しがたい感情に駆られる。


 モノクロとカラフルがないまぜになった世界でテツは剣を振る。「いくぞ!」と意図しないまま、ひとりでに彼は叫んでいた。それに答えるように彼女の声がリフレインする。


 『―――――握りが甘い!』







 しっかりと握られた剣が振り下ろされる。ミコトは刀身を滑らすように受け流し、


 『身体の芯がブレてるぞ!』


 正中線を軸に回転させた見事ななぎ払いを避け、


 『腕を伸ばしきっちゃいけない!』


 切り上げからの連続技を、距離を取って空振りに終わらせる。ふたつの映像は、過去と現在を併存して再生されていた。過去の至らぬ剣とは対照的な現在の完成形。いや、発展形か。


 幼い少年に幾度となく注意してきた点はすでに見当たらない。ミコトのアドバイスを頼りに修正し改善する。少しずつ少しずつ自分の剣としていく。遠見テツは、貧欲に他者の力を己のものとしていくのだ。


 こうして、強くなっていったんだね。彼女はテツの剣の歴史を垣間見ている気分になった。剣士として致命的な欠陥を抱えていた少年は絶望的な状況でも諦めなかった。ただ自らの剣を信じていた。妄信していたといっていい。その純粋さが、ひたむきさがテツの剣を生んだのだ。


 危うい剣だと思っていた自分が恥ずかしい。彼の剣は余分な色がない。無色の剣だ。だからそのときどきによって様々な色に染まる。だってほら、いまはこんなにも澄んだ色をしているじゃないか。


 『どうしたんだ、テツ。つまらなそうな顔しちゃってさ。そんな顔するんじゃないわよ。全く、お姉ちゃんがいなきゃダメダメなんだもんな、君は』


 遠い昔の話だ。少年は成長し、大人の一歩手前に近づいた。もうミコトの手を借りずともひとりで歩いていけるようになった。混沌とした世界だって、彼ならば越えていける。これは確信だ。


 自分の手から我が子が巣立っていくような。彼は自分の子供ではないというのに、そんな思いに支配される。でも間違いなくこれは愛情だった。親から子への、姉から弟への、女から愛しい男への愛だ。


 向かってくる。その男の子が。逞しく成長したあの日の少年が。


 両手で抱きしめてやれなくて済まない、と彼女は言葉にせず詫びる。そうなった一端は自分の責任でもあるからだ。もっと何かできたのではないだろうか。できることがあったのではないだろうか。未練だと理解していても思わずにはいられない。


 だから受け止めなければならない。この終焉を。できることならもう少し華やかなものであればよかったのだけれど。


 抱きとめる両手の代わりに剣を天に突き立てる。突き進んでくるテツに、抱擁の代わりに剣戟を与えるのだ。それが彼らの現実だった。


 渾身の一撃だった。それを示すようにテツは咆哮していた。剣を突き立てるために水平に構え、地面を滑空する。その姿は一振りの剣だった。手も足も用を成さない。あるのは相手を斬り裂く刀身だけだ。


 全力で受けて立つ。ミコトは後に一雫も力を残さないつもりで刀を振り下ろす。その刃は愛する人の肉を裂き、骨を断つことになるだろう。それでも手加減はしない。そんなものはテツに対する侮辱だった。


 自分の方が速い。そう悟っても迷わない。その先に来たるべき未来があると信じているからだ。


全てを置き去りにした時間の中で、テツの目は少しも諦めてはいなかった。


 そうだ。それでこそ、遠見テツだ。どんなに圧倒的な差があっても諦めない。諦めるという言葉さえ忘れたように我武者羅に。そうしてこれまで歩んできたのだ。


 テツは速度を緩めない。目先に刃が迫っているというのに、まるで恐怖を感じさせない。ただそこにある事実を認め、彼は加速する。それは僅か一歩に過ぎない。その一歩が、この限られた世界において爆発的な加速となって現れる。


 ミコトは気づいた。この体捌きは見たことがある。先日の団長との模擬戦でのものだ。テツが団長に敗れた際の、団長による一連の動作。それを己の血肉にしたというのか―――――。


 盗むことと、自分の技とするのでは全く違う。必要なときに、必要な動作ができなければ意味はないのだ。それをテツは完璧にこなしてみせた。団長から受けた傷を取り込んでみせたのだ。


 最後の一手がこれか。彼女は苦笑する。これだからこの子はまだまだなのだ。女性との踊りの最中に他の男の一手を繰り出すとは。まるで女心を理解しちゃいない。


 だが感嘆する。その潔さに。命をかけた瞬間にこの手を繰り出してみせる豪胆さに。


 彼女は己の全てをもってテツの剣を受け止める。これはきっと愛なのだろう。常人には理解されないかもしれない。けれどきっと愛なのだ。草切ミコトという存在で彼を、遠見テツを受け止める。


 さあ、終幕だ。







 ノイズが走る。自分と、自分でないものとの世界に綻びが入る。相手は遠見テツの顔をしていなかった。どこまでも愛しい女性、草切ミコトの姿をしていた。


 彼女を愛している。けれど己の剣はその人を貫いていた。深く突き立った暴力の塊は皮膚を、肉を、内蔵を貫き、赤い刀身を彼女の背中からのぞかせている。


 シンプルだった世界は大きく歪んでいた。少しでもバランスを崩せば全てが崩壊してしまうように頼りない均衡を保っている。


 重なり合った身体は抱擁の形を取っていた。力なくテツの肩に寄りかかったミコトは、口元から赤い血潮をこぼれさせている。明らかに致命傷だった。


 ミコトの刀身はテツの肩口を数センチ斬り裂き止まっていた。十分な速度を得られなかったために骨を断つことができなかったのだ。その手から彼女の愛刀が力なく失われた。一度主の身を案ずるように鈴の音を鳴らせると、地面に横たわって彼女は沈黙した。


 そのまま崩れ落ちようとするミコトの身体を支える。ゆっくりと抱きとめた彼女は苦しげに咳き込んだ。その身の中心に剣が突き立っているのだ、苦痛は想像を絶するものがある。


 うっすらと瞼を開けた彼女の呼吸は辛うじて行われているという程度だった。刻一刻と死の淵に向かっている。それでも強がって儚い笑みを浮かべてみせた。


 殺し合いの先に訪れる終焉だった。テツは覚悟していたつもりだった。自分が敗北し死ぬ姿を。あるいは勝利し彼女が死ぬ姿を。脳裏に描いていた想像と寸分も違わない状況だというのに、彼の脳は現実を拒否しようとしていた。なぜだろうか。きっと自分の死は簡単に受け入れることができそうなのに。


 ミコトを斬った。その事実が遠見テツを破壊しようとしている。外部からの力にはびくともしなかった精神が内部崩壊を始めようとしている。頭の中に古新聞を詰め込まれたような不快感に襲われていた。思考は定かでなく、酷く耳鳴りもしている。


 彼女の身体から流れ出る血液がやけに映えていた。


 テツは色を失ったミコトの顔を見下ろしていた。抱きとめている身体からは体温が少しずつ失われていく。どうして自分は愛しい人の死んでいく様を黙って見ているのだろう。僅かに動く脳の端っこで彼は思った。


 テツを見る瞳はどこまでも穏やかだった。自分を殺す相手に向けるような目ではない。その優しさに、あたたかさに、彼は己の胸を掻き毟りたくなる。倫理や道徳といったものの彼方にある大きな力の塊が彼を絶叫させた。このまま叫び、死んでしまえたらどれほど楽だっただろうか。そうすれば見たくない映像を見ないでいられる。それは逃避だ。最も愚劣な行動だった。彼方からもたらされた臆病の闇光が彼を貫いていた。


 そのテツを慰めたのは他でもないミコトだった。死相の浮き出た顔で微笑する。彼女が失われてはならない。都合のいいことだ。けれども彼は心の底から思った。こんなのは、あんまりだと。


 死ぬべきは自分だったのだ。ミコトと剣を合わせ、死力を尽くしながらも常に考えていた。無意識は日常的に語りかけ、それを無視してこのときまで生きていたのだ。その囁きは正しかった。


 自分に比べ、彼女の命はあまりにも尊い。それをわかっていながらもテツは抗えなかった。剣に。この自分の全てともいえる剣に。そいつはしぶとく生きることに執着し、呪いのように成長を続ける。剣だ。この憎むべき、それでいて愛しい殺人の申し子。


 伝えたいことは山ほどあった。なのに口から出る言葉は意味を成さない呻き声だけだ。いつから自分はこんなにも不良品になってしまったのだろう。対岸のどちらにも行けずに、彼我の境界さえも確定できずに彷徨う亡霊だ。こんな人間がなぜ生き残らなければならないのだろう。


 ミコトは責めもしなかった。恨みもしなかった。ただ訪れた結末を受け入れていた。舞台は閉幕し、踊り手たちは姿を消した。残されたのは、打ち捨てられた熱狂の名残だけだ。


 蒼海の空に点在する雲の狭間から光の柱が突き立てられる。その淡い光に誘われるように命の息吹は弱まっていく。駄目だ、とテツは嘆願する。連れて行かないでくれ、とも。けれども天空の光は優しく、残酷であった。ちっぽけな人間の願いは聞き遂げられない。この世界において、かつての世界において、繰り返されてきた現実だった。


 「……泣くなよ、少年。君は、いつだって、涙を我慢してきたじゃないか」


 ミコトのか細い声に指摘されて、初めてテツは自分が泣いていることに気づいた。


 「自分で殺しておいて涙するなんて、なんとも、倒錯した愛情表現じゃないの」


 己の血にむせ返りながらも軽口を吐くのは、彼を心配させまいとしているからだろうか。最後の一瞬まで弱音を吐かない気概があった。苦しみも悲しみも、全て抱えていくのだと。


 ミコトは血に濡れる唇をなぞり、救いを求めるように腕を差し伸べる。その手は答えようとしたテツの両手を通り過ぎて、彼の唇に辿り着いた。赤い、滴りを感じる。その血潮の滾るような熱を感じる。


 それを見届けた彼女は満足げに呟いた。


 「口付けだ―――――間接、だけど。わたしたち、らしいだろ、テツ」


 腕は、下ろされた。それっきり、ミコトの腕は動かなくなった。瞼も、口元も、心の鼓動も。ずっと一緒だった向日葵みたいな笑顔も。それっきり、動きを止めた。


 舞台は閉幕し、照明は落とされ、客は足早に劇場を去っていった。


 役者は消えた。音楽は途絶えた―――――けれども、金属が打ち合わされる音は鳴り響いている。







 東の空から太陽が昇るのをアリアは静謐な感傷で眺めていた。テツが追討に向かってから数刻、白んでいた空は茫洋な海に転じていた。この世界の朝は早い。もうしばらくすれば多くの人間が動き始める時間帯だ。


 傭兵団はテツを見送ったまま、一夜を過ごした。それも全員でだ。アリアにはそれが異様な光景に映っていた。普段の扱いを考えれば、どうやっても分不相応ではないか。まるでテツの帰りを待ちわびているかのようだった。


 団長の下に駆け寄る。アリアはこの男が理解できなかった。軽薄な態度を垣間見せることもあったが、それはブラフだとわかっている。あるときは意味深な態度で答えをはぐらかす。またあるときは何も存ぜぬと愚者を装う。そんな真意をまるでのぞかせない様子は人間味を欠いていた。


 あ、あの、とアリアは呼びかけた。


 「テツさま、遅くないですか。応援を向かわせた方がいいのでは」


 元から多勢に無勢である。質問したのは、無茶な要求を突きつけた団長に対する当て付けでもあった。


 団長は面白くもなさそうに眉尻を下げ、


 「あるいは、死んだのかもな」


 「そ、そんな! テツさまは強いんです。あの人たちに負けたりしませんっ」


 「どんなに剣の腕がよくても、数人がかりで攻められたら捌ききれん。そんなものだ」


 彼はどこまでも現実的だった。期待もしていなかった。数式から解を得ようとしているだけだ。下地を整え、誘導し、あとは当人次第だ。生きるも、死ぬも。そういった環境から生まれる者に価値はあるのだ。


 少女は打ちひしがれた表情を浮かべた。


 「そんな……約束が違います」


 「約束?」


 「テツさまたちの観察をして、そうすればテツさまの傍にいさせてくれると。テツさまにも便宜をはかってくれるといったじゃないですかっ」


 流れを操作するには情報がいる。それも当人たちに気づかれないよう手に入れられる情報がいい。団長が目をつけたのがこの少女だった。彼女は幼いながらに賢明だ。密偵の真似事くらいやってのけられる。


 団長はキョウイチたちの脱走計画には初めから気づいていたのだ。それをあえて泳がせた。


 あまりにもできすぎていたのだ。発覚することなく協力者に会い、協力を取り付け、内通者を得て、その者たちに手はずを整えさせる。彼らに装備を用意させる。これだけの行動を取れば、余程の馬鹿でもない限りは気づくというものだ。


 念には念を入れてアリアに監視をさせた団長は、彼女の働きを評価している。彼女のおかげで段取りもスムーズに運ばせることができたからだ。幼い少女には、キョウイチたちも警戒心を緩めるしかなかったようだ。ほぼ筒抜けとなった情報は大いに役に立った。


 「そうだったな」


 「なら」


 「だがそれは、小僧が約束を守ったときの話だ。獲物を一匹も狩れずに戻ってきたときは別なのだよ。腰の剣は飾りではない。こちらからしても予想外の損害が出ているのだからな」


 ポールの死をいっているらしかった。団員さえも消耗品のごとく口にする男を見て脱力する。彼には何をいっても無駄だ。アリアは不安にのみ込まれそうになっていた。


 こんなときはどうすればいいのだろう。テツにきいておかなかったことを彼女は後悔した。彼ならばきっとアドバイスをしてくれたに違いないのに。


 無事を祈るべきだった。だがそれは誰に? 何に? テツは人同士の戦いに赴いたのだ。空に、地に、川に祈っても意味はない。村では自然を崇めてきた。そのときは思わなかったが、アリアは初めて自然の頼りなさを感じた。彼らは途方もなく強大であるがゆえに、ちっぽけな人間の願いなど意に介さないだろう。


 でも、と少女は思う。例え万物がわたしの願いを聞き遂げなかったとしても、同じ空の下で戦っているのならば、きっと想いは届くはずなのだ。


 それは自然な動作だった。心を静めるために目をつむった。想いを包むように両手を組んだ。彼女は軽くうつむき、跪いた。


 ―――――それは祈りの姿だった。


 アリアに珍妙なものでも見るかのような視線を向けている団員たち。その中で、サツキだけが驚愕した眼差しをしていることに彼らは気づいていなかった。


 信じるということ。それは辛く、不確かだ。けれど待つことしかできない人々は、信じることで己も戦っている。


 やがて、音が聞こえた。旅立ちのときの姿が蘇る。アリアは弾かれたように立ち上がった。遠方から現れた、その姿を見間違えることなどあり得ない。安堵のあまりにへたり込みそうになった。


 ゆっくりと彼は姿を明白にする。その馬上にいるのはひとりではなかった。アリアは呆然と口を開いた。意味を成さない音が彼女の口から零れ落ちる。


 負傷したのだろう肩口を止血したテツは、帰還の喜びも嬉しさも見せなかった。みなの前まで辿り着くのに永劫のときを過ごしたように思える。彼に支えられている女性の身体の力はなく。そこには失われた命の代わりに残された残滓だけがあった。


 彼は下馬する。クリスティナに手伝って貰い、その骸を大切そうに抱き上げた。花嫁を抱くように、そっと。


 美しい。そう思ったのは間違ったことだっただろうか。アリアは目の前を通り過ぎていくふたりを見送る。彼らには完成された美があった。嫉妬さえ覚える程の。


 静寂に支配された道程を、テツと彼女は進む。アリアは以前の後悔を思い出す。あの人とテツさまの間には不思議な絆があった。それは愛とも呼べるものだ。そのことに嫉妬した。けれども想いを打ち明ける暇もなくあの人はいなくなってしまった。


 もう、一生あの人には敵わないのかもしれない。アリアはそう悟る。死んでしまった人にはどうやっても勝てないのだ。団長の思惑に乗せられ、儚く散っていった彼女は。自らの命を犠牲にして、あらゆるものに勝利した。


 団長は気づいているのだろうか。剣は鍛え上げられた。けれども全てが彼の思惑通りにいったわけではないことに。







 「残りはどうした?」


 「逃げられました」


 ねぎらいの言葉も帰還を喜ぶ言葉もない。目的を十分に達成できなかった者に対する強い失望が感じられた。団長は電子部品の検品でもするようにミコトの骸に目をやり、それが完全に鼓動を止めているのを確かめる。


 「わたしは最低でもふたりは殺れといった」


 それは確認の儀式であった。テツに与えた条件を再度確認し、罰の執行を行うためのものだ。団長から放たれる殺気は本気であることを示している。シンシアたちが声をなくし、団員たちは諦めたように目を閉じた。


 これから殺されようとしているテツは、その様子を俯瞰して見ていた。視界は広く、高かった。すると人間のちっぽけさが際立って見える。恐怖はなかった。嵐のあとに訪れた凪のような静寂が彼を包んでいた。


 テツと団長の両者の間に、小さい影が割り込んだ。その影は頼りない両手をしっかりと広げて抵抗の意思を示していた。団長の手にかかれば、軽く吹き飛ばされるのは彼女自身も理解していることだった。


 アリアは目の端に涙を堪えながら団長を睨みつけていた。殺気にやられた両足は震えている。いまにも倒れこみそうな彼女は、それでも懸命に絶対的強者への抵抗を続けた。


 「無駄なことをする。貴様ごと斬っても構わないのだがな」


 「無駄じゃありませんっ。わたしにとっては、無駄なんかじゃない! テツさまは、強いんです。立派なんです。……わたしの、騎士さまなんです」


 軽く鼻を鳴らした団長は剣を手に取った。大剣を携えたその姿を前にして茫然と見上げるアリア。視界に入り切らないくらいだった。まるで山を前にしているかのよう。


 そのとき、冷え切ったアリアの身体に感じるあたたかさ。振り返り、テツになでられていることを知った彼女は、今度こそ涙を溢れさせると、彼に力一杯抱きついた。


 「この女性に、阻まれました。名をミコトといいます。彼女はぼくの姉弟子で、剣の師匠ともいえる方です。ぼくはこれまで彼女には一度も勝ったことがありませんでした。それは剣に限った話ではありません。彼女はぼくの姉であり先生だったんです」


 「それで? 倒した者の実力が高かった。だから納得しろとでも?」


 「あなたが納得できる答えを提示しろといわれれば、こう答えるしかありません」


 テツは抱き上げている彼女を愛おしそうに見つめ、その瞼がもう二度と開かれないことを自身に刻みつける。彼女を殺したのは他でもない自分であることを刻み込む。それは呪いであった。あるいは、彼女による祝福だった。


 「彼女は、ぼくの大切な女性―――――初恋の人です」


 それをきいた団長は、耳に入った聴覚情報を十分に吟味したあと、少しずつ顔を歪めさせ、堪えきれずに盛大な笑い声を上げた。いままでに見たことのない感情の発露だった。思いっきりに顔を歪め、腰を折り曲げて笑い転げている。手にしていた剣も地面に突き立ててしまっていた。


 テツの目は冷静に団長を眺めている。傍から見れば、恋人の死を汚されているようにも思えなくない。けれどもテツは、怒りは湧いてこなかった。なぜ怒る必要があろうか。彼女を殺した罪は真実なのだ。それは責められるべきものだ。嘲笑われるべきものだ。団長がテツに与えているのは、ごく正当な断罪であったのだ。


 ひとしきり笑い、満足したのか居住まいを正した団長はテツに向き合った。


 「その女はテツ、貴様の剣の師匠なのか」


 「はい」


 「そして初恋の女だと」


 「はい」


 「そして愛してもいたと」


 「はい」


 団長はひとつひとつ再確認していく。アゴに手を当て、検分していく様は実に楽しげだった。アリアは見ていて気分が悪くなった。昆虫の手足をむしり取るような団長の悪意をまざまざと見せつけられているからだ。それでも、テツを見上げると、彼は力強く受け答えしていた。悪意に負けていなかった。悪意を受け止め、それを欠片も投げ出しはしなかった。


 「そんな女を、貴様は斬り殺したのか、テツ!」


 「―――――はい」


 「素晴らしい!」と団長は叫んだ。喜悦に歪んだ表情は悪魔的なおぞましさがある。シンシアたちや団員たちが凍りつく中、テツだけは真っ向から彼に立ち向かっていた。大きく開かれた顎門を前にして、一歩も後ろに引かなかった。


 粘りつくような視線だった。自分を捕食しようとする圧倒的強者。そんなものを前にしているのに、なぜ落ち着いていられるのだろう。テツは自分でも不思議だった。


 そのとき、背中に、胸に熱を感じた。ミコトが最後に与えてくれた、あの熱を。はっとして振り返るが、もちろんそこには誰もいない。


 彼女はもういないのだ。腕の中に眠る骸は肉の塊でしかない。彼女を彼女たらしめていたものは失われてしまった。いや、テツが奪ってしまった。それなのに、脳の奥深くに反響する音を感じている。


 「認めよう、テツ。おまえは期待に答えた。剣に与えられた責務を全うした」団長は突き立てられていた長剣を手にし、テツに向かって掲げた。「抜け、剣士よ。我らが同胞に迎えよう」


 剣を抜け。その意味するところは、愛よりも友情よりも剣を優先することだった。両腕にはミコトの骸が抱えられている。これでは剣を手にすることはできない。つまり、彼女を地面に残し、剣を取らねばならないのだ。


 「もう大丈夫だ。離れていな」テツは静かにいった。不安そうなアリアに頷いてやる。


 彼女は両手を握りこんだまま離れていった。ずっと視線は離さなかった。彼女は不安だったのかもしれない。儚く微笑むテツはどこか気薄で、おぼろげだった。


 テツはミコトを地面に下ろした。その様子を団長は満足げに眺めている。彼女の頬をひとなでし、テツはその場所を離れる。


 世界の一日が始まっていた。鳥は空を泳ぎ、1日の餌を探しにいく。魚は水中を飛び、本能に従って上流へと向かう。様々な生命の営みが繰り返されていく。もちろん、人間だってその繰り返しの中を生きている。


 剣の柄に手を触れる。鋭敏になる感覚。分かたれる世界。けれど、色を失っていたかつてとは明らかに異なる点があった。自分でないもの、テツでない人間たちが色鮮やかに彩られていた。その生命の息吹を魅せつけるような極彩だった。それらは容赦なく彼の罪を責め立てる。


 その極彩色こそが、草切ミコトの遺した色だった。


 胸を裂く痛みに苦笑する。これでいいのだ。大切な人を殺し、どうして無色でいられようか。この苦しみこそが愛の証だ。


 剣を抜く。彼女を殺した剣は、変りない鈍色を放っている。愛おしく、憎らしい剣だ。それを掲げられた団長の長剣に打ち合わせる。


 ガラスのように澄んだ音色だった。幾多の命を屠り、これからも血肉を啜る殺人の申し子たちは、皮肉なほどに美しい外形と声色を兼ね備える。それに魅入られる人間は後を絶たない。


 団長は一瞬だけ表情に疑問符を浮かべた。テツの剣が以前と違って見えたからだ。だがそんなことはありえない、とすぐに疑問を打ち消した。全ては計画通りに進んだのだ。鈍らは見事に殺人剣へと昇華してみせた。己の大切な者を殺すことによって、それも自らが選択することによって。


 しかし、彼の疑問はある意味正しく、ある意味間違っていた。遠見テツの剣は変化していた。生まれ変わっていたともいえる。テツは愛する人を殺した。それによって、決して消せることのない呪いを受けた。呪いは剣を蝕み、殺し尽くした。そして、生まれ変わったのだ。


 草切ミコトの身体を殺すことによって、呪いを受け。草切ミコトの心を救うことによって、祝福を授かった。


 彼女を殺したテツは、彼女を永遠に得たのだ。離れることのない、自身の一部分として。


 団長には決して見ることのできない姿だった。彼らが剣を掲げるのをアリアは離れた位置から見守っていた。その目には、テツのその身に重なるようにして寄り添うミコトの姿が映っていた。


 「ようこそ、我がセブンス傭兵団へ。新たな剣を我々は歓迎する」


 団長の声。テツは、彼を憎らしいとは思えなかった。訪れた結末に至った責任は、自分のものでもあるからだ。


 掲げられた剣を見て思う。あのとき、ぼくは差し出された手を握るべきだったんだろうか、と。そうすれば、異なる結末になっていたに違いない。そこには「明るい未来」なんていう眉唾ものがあったかもしれない。


 けれども、ぼくらは選んだのだ。この結末を。自らの意志で、誰によるものでもなく。ならば生きていくしかないではないか。それが残された人間の責務だと思うから。


 テツは悟った。これからも、自分は生き続けるのだと。愛する人を殺してもなお、歩みを止めることは許されないのだと。


 遠見テツは踊り続ける。舞台の幕が下ろされても。観客がひとりもいなくなっても。そのパートナーがいなくなっても。


 刃と刃が打ち合わされ、奏でられるのは愛の金属音。その旋律に合わせて、くるくる、くるくると彼は踊り続ける。


 その身に遺されるのは、一振りの剣。


 彼女を片手に、ひとり、異世界でテツは踊り続ける。






<THE END>


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― 新着の感想 ―
[一言] ここまで一気読みするぐらい没頭しました……。とても美しい物語でした。
[良い点] もう何年も前に読んでから、このラストシーンがずっと心に残っています。 久しぶりに作品を読んでみて、やっぱり言葉に表せないものを感じました。 良い悪いではない人の心を描いた作品だと思います。…
[良い点] この最終話、ラストシーンがただひたすらに美しい。 何度も読み返す名シーンです。 [一言] できればこの話を削除したりはせず、なろうのサーバーが残る限り永遠に残してほしいと思います。
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