第4話
努力すればいつかは報われると、幼い頃は信じていた。物語の中の人物は、たとえ才能がなくとも努力を続け、ついには天才を打ち倒す。敵が強大であっても、諦めなければいつかは越えていける。
自分に才能はないと最初からわかっていた。それでも、努力すればきっとどうにかなるはずだ、と彼は信じていた。
世の中は平等である、なんていう文言は憲法の条文の中にしか存在していなくて、現実には劣化した残りカスのようなものしかない。幼き日の彼の心中は穏やかではいられなかったが、それを黙って受け入れるほど人間ができてはいなかった。
才能がないならば、人より何倍も努力すればいい。天才が1とかからず成したものを、10かかっても成せればいい。そう考えていた。
だが、世界の仕組みは彼の想像以上にわかりやすいものだった。
努力だとか、才能だとかは、そもそも『気』という力を扱えない彼には問題にすらならなかった。スタート地点が違っていた。同じ土俵にすら立っていなかったのだ。
能力者には勝てない。それは絶対的真理だった。ルールから道具に至るほぼすべての事柄は、能力者による運営を前提に定められていた。差別などという代物ではない。それが当然のことなのだ。世界の大多数からすれば、それはただの事実なのであって、差別というより区別だった。
だてに剣を毎日振っていただけあって、剣筋は目を見張るものがあった。背格好は少々剣術には向かないほど大柄であったが、俊敏さも持ち合わせていた。だが、能力をもたないゆえに、彼はただの変わり者でしかなかった。
同期にやられ、後輩にやられ、男にも女にも等しく敗北し続けた。そしてそのうちに、彼もようやく理解した。
―――――ぼくは勝ち負けを考えてはならないのだ。
剣を振るうのは勝つためではならない。前提から間違っているのだ。真剣でもって、刺身のツマを切るようなものだ。用途が間違っている。
剣を捨てることは考えもしなかった。無心で竹刀を打ち下ろしている時間は彼の宝物といえる時間だった。
悔しさも、能力を持てない無力感も、気づけば大人になっていたように、どこかに置き忘れていた。
立会いのたびに相手にもされないで打ち倒される。火照った打ち身と、冷たい地面の感触はもう数えきれないくらい経験したものだった。肌をくすぐる緑の葉と、どこか懐かしい湿った土のにおい。身体から根が生えたような気がしていた。大気の塊をその身に受けているはずなのに、重たさなど感じない。どこまでも空は透明で軽やかだった。
クソったれな青空だ、とテツは思った。
同時に跳ね起きて辺りを見回す。テレビで見たことがあるような片田舎の一本道だ。舗装されておらず、軽自動車が一台通れるかどうかという横幅しかない。
違和感を覚えている。テツが慣れ親しんだ自然とは微妙に違う感覚。見慣れているはずの太陽も、今日は他人の空似であるように見えた。
周囲にはテツの他に巻き込まれた道場生が点在していた。彼を含めて男5名に女5名。バランスよく巻き込まれた人数が欠けることなく見受けられるのは、喜ぶべきなのだろうか。
そうともしないうちに、数人が呻き声をあげて覚醒し始めた。
「……」
状況はまったく掴めていないが、一番近くに倒れているミコトの頬を軽く叩く。何回か繰り返すとようやく彼女は目を開けた。
数瞬ばかり情報を整理するように辺りを見回したあと、狼狽した様子で彼女は口を開く。
「な、何があったのよ……?」
「……」
「ここはどこ? なんでこんな所に」
同じように混乱する様子で道場生が集まり始める。その中にはキョウイチの腕に縋りつくスイの姿もあった。みな一様に互いの顔を宇宙人でも見たかのように見合わせている。中には混乱して声を荒げる女子もいた。
テツはそんな中で、自分でも嫌になるくらい冷静を保てていた。じっと右手を眺めてみる。あの訳のわからない渦にのみ込まれる直前、ミコトの手を取った右手だ。己の一部を大罪でも犯した罪人を見るような心持ちで観察する。
隣ではいよいよ状況に耐えられなくなったのか、口論が始まっていた。ミコトとキョウイチが中心となって必死に宥めようとしているが、如何せん、このときばかりは普段のリーダーシップも発揮できないでいた。彼ら自身も状況が掴めず混乱している身だ、集団ヒステリー気味になっている場をおさめるのは酷な話だった。
何の得にもならない怒鳴り合いに加わる気になれないテツは、分をわきまえているといわんばかりに集団の端でいっぱしの遭難者気取りの顔をしていた。
少なくとも、この場が草切道場の付近でないことは明白だった。あの付近の地理は、10年来の往復によって自然と頭にインプットされている。周囲2、3キロの範囲であったなら、裏山に寝転んでいたとしても自分の位置はわかるはずだ。
現在の見慣れない一本道とは一度も出会ったことはない。空気の匂いも、日の光もよそよそしい感じがしてならない。
だが、なんとか説明しようと思えば説明はできる。
―――――要するに、非科学的な状況に陥ったのだ、ぼくたちは。
非科学的な渦に巻き込まれたのだから、非科学的な状況に放り出されただけの話であった。普段から理不尽な力に翻弄されてきた彼からすれば、有り得ない状況とはいえなかった。むしろ、あの不気味な空間のねじれに巻き込まれたというのに、五体満足で生存していることに感謝せねばならないだろう。
つれづれと、芭蕉のごとく思いを巡らせていると、興奮気味だった集団は一転、悲壮感溢れる空気をかもし出していた。どうやら、自分たちがどこか遠くの場所に飛ばされたのだと気づいたらしい。近くに民家は見えないし、そもそも母国であるかすら怪しい状況だ。
女子数名はハラハラと固まって涙を流している。卒業式とは違って意味でやり切れない気持ちだ。キョウイチと男数名は深刻な顔で太陽の位置がどうたらと話している。
「テツ、一応聞くけど、おまえ携帯は持ってないよな」
練習の前だったらそれもあり得たかもしれないが、さすがに道着の中に携帯を忍ばせるほど携帯依存症ではない。どちらかといえば携帯嫌いである方だ。
持っていない、と首を振ると、連中はさして落胆もせずに興味を失ったようだった。あの様子からするに、誰も連絡手段を持ち得ていないのだろう。
みながみな、道着と刀一振りという、サバイバルするには場違いな出で立ちである。陽が高いとはいえ、このままでは野宿するはめになるかもしれない。しかしながら、野宿をするには適していないアイテムの充実ぶりだ。
「とにかく、人を探そう」
まとめ役であるキョウイチがいうと、みなが同意する。そんな中、テツは自然と付かず離れずの距離を保って見ていたから、男子のひとりが面白くなさそうに顔を歪めているのを見つけてしまった。
あいつか、とどこか納得できる気分で内心納得する。いつもキョウイチと反目する傾向がある男だ。実力的に申し分ないのだが、少々気性が荒い。実力主義が色濃い世界ではあるが、自分より強いからといって相手を全肯定するわけでもない。
男子は元より、女子にも頼りにされているキョウイチが気に食わないのだろう。翻って、自分の人望の無さに気づいていないのは致命的だった。これではただの嫉妬でしかない。
誰もが黙々と足を進める。テツは自然と列になって進む一団の真ん中に位置するスピードを保って歩いて行く。
視界には、ゆらゆらと揺れるスイの後ろ髪が映っている。気のせいか、いつもより精彩を欠いているように見えた。
「……スイ、調子でも悪いの?」
「別に、何てことない」
なぜわかったのか、という顔をして、すぐに顰め面になる。
「こんなわけのわからないことになってんのよ。誰だって疲れるでしょ」
「そうだね」
「そういうあんたは普段と同じような顔してるのね」
皮肉げにいうものだから、これだけいえれば心配するほどでもないか、とテツは思った。
が、話をしているうちに、他の人間も同様に疲れた表情をしているのに気づく。
能力者は身体のポテンシャルを引き上げることができる。いくら精神的なショックが続いているとはいえ、この疲れ様は異常に思えた。普段から、彼らをつぶさに観察してきたテツだからこそ、本当に疲労にやられているのだと察した。
前方の集団にいるミコトに目を向けると、やはり釈然としない顔をしている。のどに小骨がささったような、違和感を覚えつつも正体が知れないもどかしさを感じているように見える。
「体調? 悪くはないはずだよ。でもなんというか」
同様の質問をしてみると、案の定の反応だった。
「ダルいというか、身体が重いというか……妙な気だるさを感じるのよね」
ミコトは手を握り締めながらいった。
同様の症状は、見る限り全員に等しく現れているようだった。しかし程度の差はあるようで、ミコトのように不快に感じている者もいれば、指摘されて初めて気づく者もいた。
何か感染症にでもやられたのか、と勘ぐったが、当のテツ本人には症状がない。
歩みを止めるわけにもいかず、そのまま集団と共にしながら、彼らとの相違点を考えてみる。
考えられる原因は、ひとつしかない。―――――能力の有無だ。
だがどういうことだろうか、と下唇を噛む。彼らの気を扱う能力はいわば加護のようなものだ。有利に働きこそすれ、悪影響を及ぼすことは万に一つもないはずなのだが。
考え事をしながら道なりに進んでいくと、前方に影が見えた。ようやく人と遭遇できるようだ。先頭を歩いていたキョウイチは「おーい!」と腕を振って呼びかけている。他の面々もどこか安堵した表情をしていた。少なくとも、人間がいることだけは確かなようだ。
人影は騎乗しているようだった。砂埃をあげて二騎が近づいてくる。
「馬、だと……?」
「いまどき、馬?」
同じように疑問に思ったのか、ミコトとテツの声がかぶる。現代世界において、いまだに馬を交通手段として利用している地域は限られてくる。昔ながらの伝統をいまに残す場所か、途上国くらいではないだろうか。
目の前で馬の手綱を操り、ふたりの男はテツたちを見下ろした。
明らかに外人だとわかる風貌だった。筋肉質な身体を鎖帷子や部分鎧でおおっている。髪はくすんだ金髪で瞳は青い。コーカソイド特有の出で立ちだった。
異様な雰囲気の外人に当てられたのか、空気が一転してマイナスに転嫁した。
「あ、あの」
「……」
キョウイチの呼びかけには答えず、代わりに腰の剣をふたりの男は抜き放った。くもった鉄の色だった。一瞥して、剣本来の用途に使われていたことが理解させられる。ところどころ欠けた刃が冷たい死の匂いを漂わせている。
友好的でないことは一目瞭然だった。だが、刺すような殺気に当てられた一同は言語を発することすらできない。彼らは剣士であっても、本来の得物は竹刀である。腰に備えている剣は実用には使えない。
「武器を捨てろ」
よどみなく発せられたのは警告だった。僅か一言。余計な単語を一切含まない命令は、これ以上なく平易な構文である。
気圧されながらも、キョウイチは刀を抜くべきか迷っているようだった。人数の利では優っている。腐っても草切道場の筆頭だ。無抵抗で半身たる刀を捨てるわけにはいかなかった。
無言の時間が過ぎる。そうしている間に後続が追いついていた。騎士らしき五騎に、荷馬車が二台。あっという間に取り囲まれてしまう。それでも10対7と人数は勝っているが、すでに道場生のほとんどが戦意を喪失させていた。
テツは片手をあげて、そっと腰の刀を地面に下ろす。
「おいっ、テツ!」
キョウイチの咎める声がするが、
「下手な真似はしない方がいいと思う。こいつら、なんか普通じゃない」
「く……」
それは彼も同意だった。剣を合わせるまでもなく、ひしひしと実力は感じられる。それと同時に、こちらに対する悪意もだ。
捕まったらいけない。それは確実だ。だが、この場を切り抜けられる可能性はほぼ無に等しいと直感している。
「そういいなりになるなよ、臆病者!」
いい放って刀を抜いたのは、キョウイチを敵対視していた男子だ。さすがというべきか、豪胆というべきか、物怖じしない様子で構えている。
「逆らわない方がいいよ」
「無能力は黙ってな。こいつら、只者じゃなさそうだが、おれだって……!」
張り詰めた空気。ひとりの男が地に足をつけた。
180センチはゆうに超える巨漢だった。筋肉隆々としている。それでいて馬から下馬する体捌きは軽やかなものだった。
テツは偶然にもその男と目が合った。合ってしまった。
「ひっ」
心臓を鷲掴みにされた気がした。なんなのだ、あの目は! 腐ったドブ川のように濁っている。そして恐ろしいまでにねっとりとした視線だ。身体の皮膚を丁寧に剥がされていく錯覚に襲われた。嫌な汗が止まらない。テツはいままでこんなおぞましいものを見たことがなかった。
自分はあまり性格がよろしくない、と自覚していたが、この男はそんなレベルの話ではない。関わる者すべてを不幸にするような腐臭を放っている。それに比べれば、かつてテレビで見た犯罪者のなんと生優しいことか。
腰を抜かしたテツに興味をなくしたのか、その大男は酷くゆっくりとした動きで刀を抜いた男子の目の前に立つ。
「なんだ、やるっていうのかよ。いいぜ、あい―――――」
血飛沫が舞う。肩口からななめに斬り下ろされた剣は、寸分違わず仕事を遂げた。不敵な笑みを浮かべた男子の上半身が滑り落ちる。切り口からは、まだ湯気を立てる身体の構成物が溢れ落ちた。
長い沈黙だった。それから、思い出したようにめいめいが悲鳴をあげ、吐瀉物を撒き散らし、へたりこんで失禁した。
「それで」
意味がわかるのがかえって不幸だった。これで言葉が通じなければ、言語的恐怖は味あわなくて済んだというのに。
テツには男の声が、人の発するものだとは到底思えなかった。思いつく限りの毒物を煮込んだ鍋がボコリ、と吹立つ映像が脳裏をかすめる。耳にしているだけで正気が失われていくようだった。だというのに、そのテノールの声色は聞く者の注意を惹きつける魔性があった。
「それで、他に意見のある者は?」
逆らえるはずなど、なかった。