第39話
遠見テツが、剣を握った。彼はミコトの言葉に揺れ動かされていた。もしかしたら、という淡い期待があった。自分の誘いに乗ってくれるのではないか。けれども、それは彼の剣に拒まれた。
差し出した手を血の滲むくらいに強く握り締める。爆発しそうになる感情の発露を抑え込むように。まるで塗り固められた空気の中をもがくように、ゆっくりと手を引き戻す。
いままで、誰かを本気で憎んだことはなかった。あの団長でさえ、だ。そのミコトが人生において初めて心の底から憎んだ。破壊し尽くしたいと願った。剣だ。あの剣さえなければ、遠見テツはここまで呪われることはなかったのに。
周囲の空気を巻き込んでいく感覚がした。熱量が急激に奪われ、氷のクレバスに突き落とされる錯覚。それを目の前の青年が発しているなんて考えたくはなかった。
軽く俯いた顔は無表情にも哂っているようにも見える。彼にはこんな表情は似合わない。遠見テツという人間を汚される気がして、ミコトは泣き出したくなった。自分の中に勝手に作り上げたイメージだったとしても、それは彼女からすれば真実であったのだ。
月光を反射させたテツの剣は美しかった。白光には血の匂いなど感じさせない。彼の剣はすでに少なくない人間を斬っている。刀身には斬り捨てた人々の血と脂が染み付いているはずだ。なのに彼の剣は、ミコトを魅了してやまない。唾棄すべき相手であるのに、彼女の奥底にある燻りを再燃させ、虜にしようとする。
あの剣に血肉を捧げたい―――――そんな生命の原理に反した行動を取りそうになる。誘惑を断ち切るため、抗うためにミコトは刀を抜く。こちらに来てからてんで触っていなかった愛刀だ。脱走する際に持ち出せたのは奇跡的というほかなく、協力者がいなければ実現しなかったに違いない。
張り詰めた弦を斬ったような音だった。鞘口から解き放たれた愛刀はその身を夜の帳に晒す。草切ミコトという人間は、それを皮切りに剣士へと造り変わる。日常と非日常の顔を持つのは遠見テツだけではないのだ。そして戦いに身を置く者だけが複数の顔を持つわけでもない。人間の誰もが多くの顔を持ち、仮面を被って生きている。それはごくありふれたことなのだ。
愛する人間と殺し合う。相反する感情はミコトの心を寸刻みにしていく。一秒ごとにすり減る自分を自覚しながらも、これでいいと愉悦の笑みを浮かべる。彼と殺し合うのに悦楽など感じてたまるものか。思う存分わたしを犯すがいい。傷つけるがいい。この苦痛こそがわたしの愛の証なのだから。
奇をてらう構えは不要だった。剣に忠実であれという父の教え。どんなに高みに登っていっても基本を忘れてはならない。
この世界に飛ばされ、能力を失ってから何もしなかったわけではない。かつての力を取り戻すことは不可能なれど、少しでも改善しようと努力を続けていた。おかげで身体の調子も悪くない。テツと剣を合わせるのに無様な姿を見せることは避けられるようだ。
「一緒に踊った夜のことを覚えてる?」
「ええ」
「わたしには、踊りなんて柄じゃないなって思ってたんだけど、悪くなかったわ。凄く楽しかった。好きな人と手を合わせて、一緒になって飛び跳ねるの。ステップもバラバラで、たまに転びそうになる。それがどうしようもなく楽しかった」
かつての輝いていた思い出を振り返るようにミコトはいった。ふたりの共有された記憶。できれば、テツにとっても楽しいものであればいいな、と彼女は願った。
「けれどね、本当にお似合いなのは、やっぱりこれなのかなって。可愛い服よりも道着。綺麗な花束よりも刀」
そこに自分を卑下する感情はなかった。女として生まれてきたことなど些細なことだった。剣士としての自分に誇りを持っていたからだ。恋に敗れ、普通の女の幸せを逃すことになっても構わない。なぜなら、それでもなお語り合うことができるからだ。剣を合わせることを通して。テツと魂を激突させることを通して。それは究極の語り合いといえるのではないだろうか。
「以前はテツから誘ってくれたよね。だから今回はわたしの番だよ。―――――さあ、一緒に踊りましょう?」
わたしの手を握ってくれなかったことは悲しいけれど、まだ諦めてはいない。彼の手をわたしが握ってみせるのだ。
このふたりっきりの舞台の上で。
周りの全ての物質を置き去りにした瞬間だった。お互いの目には相手はしか映らない。その他の何事も消失した世界。肌に感じていた冷ややかさも、汗も、どこかに置き忘れてしまった。もはや監視の目も意味を成さない。ただふたりだけになった舞台が幕を上げた。
遠見テツのスタイルはもはや大和式とはかけ離れている。何せ得物はショートソードであるし、もう一方の手には防御用の盾が携えられている。それであるのに、足さばきや間の取り方の節々に大和の剣術特有の動きが含まれている。
相手の呼吸を読み合って間合いに入り込もうとする。しかしながら互いに知り尽くした仲であるのでそれも困難を極めた。特にミコトは能力に頼らない戦闘は初めてである。以前のように力押しの効かない状況だった。能力者にとっての最大のアドバンテージが使えないのだ。予想以上に神経をすり減らされることに内心驚愕せずにはいられない。
能力を持たなかったテツは、この命を消費する作業を絶対的強者相手に行っていたのだ。その困難は筆舌に尽くしがたいものがある。そして同時に理解する。この、テツに圧倒的不利な状況が彼の剣を育んだのだと。
相手は盾を備えているが鎧はまとっていない。刀でも十分に致命傷を与えられる。それは向こうにとっても同じことだった。能力の加護は一切ない。文字通り肌を晒して戦いにのぞんでいる。
テツの足先が間合いに入った。刀を得物とするミコトの方が間合いは広い。かといって安易に斬り込めば、盾で防がれ、剣に貫かれるだろう。彼女は盾持ちの相手と初めて相対することになったが、その攻めづらさは想像以上だった。初手を防がれる、それを考えるだけで戦術の幅が一気に狭められる。
先に攻めさせるべきだ。そう判断したミコトは間合いに入ってくるテツを見送った。じりじりと距離を詰めてくる感覚に動き出しそうになる。喚き出しそうになる。だが歯を噛み締めてじっと耐える。ここで誘いに乗れば一撃で終わってしまう。それだけは避けなければならない。
相手が動かぬことを悟ったテツはギアをいきなり変化させた。少しでも集中力を途切れさせていたら反応できなかっただろう。長くはない剣の振り下ろし。それを正直に受ける真似はしない。いまのミコトにとって体格差は絶対的なものだ。まともに刀の腹で受ければ真っ二つに折れてしまう。
ほぼ同時に動いた彼女は斜め前方に逃れた。初撃をかわされた相手の目に動揺はない。それを見ておかしくなる。こっちは限界まで神経をすり減らしてのぞんでいるというのに、相手はさも当然のように捉えている。テツの脳裏に描かれている自分と現実の自分のギャップに笑い出しそうになってしまった。だからこそ落胆させられないな、決意を新たにする。
回避動作はそのまま、彼女はコマのように回転して胴をなぐ。まとめ上げられた後ろ髪が遅れて続いて、まるで舞のようだった。
テツは振り下ろしの直後だったので回避を諦めた。元からそのつもりで携えていた盾に身代わりをさせると、刀身は盾の半ばまで埋没する。木製の盾の強度は高くない。ゆえに簡単に刃先がめり込むのだ。
そのことが何を意味するのか一瞬で悟ったミコトは無意識に蹴りを放っていた。相手を倒すためのものではない。逃れるためのものだ。柄を握る力を弱めず、一気に後退する。そのかいもあって、後方への力任せな推力は、盾による拘束からの離脱を果たさせてくれた。あのまま刀を取り込まれたままであったなら、すでに勝負は決まっていただろう。
冷や汗を流す暇もない。テツはさせるものか、と追従してくる。勝負の流れは確実に遠見テツの方へ向かっていた。
―――――押されている。
ミコトは口元を歪める。それは恐怖からではない。歓喜からだ。凄いぞ、少年。よくぞここまで。相対して初めて感じるテツの強さ。道場の端で、ひとり孤独に剣を振っていた少年がここまで強くなった。それがとても嬉しくてならない。斬り殺される恐怖感など、この歓喜に比べるべくもない。
鋭く眼前を睨み、刀を返そうと意志を込める。それに反応したテツは身を引いた。実際には動作していないのに、まるで剣戟を避けたような素振りだった。彼女の殺気に反応したのだ。
それになぞるように攻める。タイミングをずらして襲ってきた剣戟にテツは虚を突かれたようだった。態勢を崩している。
攻守が入れ替わる。リズムも共に変化する。まるで踊り手が変わったように。
一撃に力を入れ過ぎないで連続して放っていく。右袈裟切り、連続しての切り上げ。そこからの唐竹割り。息をつかせぬ連続攻撃だが軽いために必殺とはならない。それでも受け損なえばぱっくりと肉を斬られる。
相手の息の乱れがあった。まだ打ち合って数合ともないが、真剣による実戦の与える疲労感は、ただ向かい合うだけでも蓄積される。殺し、殺されるかもしれない。その現実が彼らを常に苛んでいるのだ。テツの半分覗く瞳からは苦痛の念が感じ取れる。消耗しているのは自分だけではないのだ。その事実に苦笑する。それを余裕の笑みと捉えたのだろうか、悔しげに剣を振り払われる。仕切り直すための剣だ。
だが草切ミコトはそうもさせない。横薙ぎにされた剣をすくい取る。苦し紛れはいただけないな、テツ。口には出さずに苦言を呈する。
絡め取られたテツの剣が空中に舞った。オレンジ色の光を煌めかせて飛んでいく。それを認めて、ミコトは夜が明けてきていることに気づいた。
無手になった己の右手を茫然と見つめている。テツはすぐさま正気を取り戻すと自身の身体を盾で覆い隠した。ミコトは不快げに顔を顰めた。まるで弱気な姿勢に、喝を飛ばしたくなる。
「もう諦めたっていうの!」
「まさか」
返事は突進だった。突撃兵のごとく身を固めた彼は、一直線に向かってきた。なんて無謀、そう眉をひそめると共に、先手を取られたことに気づく。考えさせる暇を与えないためにはうまい手だったかもしれない。何せ、自分ならば、あのまま突きを放つこともできたのだ。その一撃は、木製の盾を貫くこともできただろう。それに守られるテツの身体ごと。
体格の差を活かして吹き飛ばすつもりか。そう推測してとっさに避ける準備をする。得物を失って自暴自棄になったのだろうか。そうであれば次の一手で終わらせるべきだ。
だがテツは予想外の行動に出た。目の前で盾を思い切り投げ放ったのだ。
「うわっ」それを回避したミコトの反射神経は褒められて然るべきだ。それでも避け損なった一部が左腕を強打した。痛みに顔をしかめつつも怯まない。完全に丸腰となったテツにはすでに後がないのだ。
この隙に剣を拾うつもりか。そう判断した彼女は、間髪置かず剣の飛ばされた方に向かおうとし、まるで反対に走り抜けるテツとすれ違った。
目を見開くと、テツと視線が合った。そこから感情は読み取れない。オレンジの陽光が彼の顔の半分を照らし出していた。ゆっくりと流れていく映像は錯覚なのだろう。それでもミコトはずっとその絵を堪能していたかった。互いの死力を尽くしあう決闘。そこには日々のわだかまりも男女としてのもつれも存在していない。剥き出しになった命のぶつかり合いだけが舞台を支配する。
条件反射で対応しようとした彼女の足がもつれる。バランスを崩した身体は無様に転がった。その間に遠回りのルートを走りきったテツは剣を拾っていた。
呻きつつ立ち上がる。ミコトは顔に張り付いた髪の毛を鬱陶しく振り払った。自慢の髪だったが、このときばかりは斬り捨てたい衝動に襲われた。
「急がば回れとはよくいったものね……」
軽口を吐いたつもりだったが、うまくいかなかったようだ。すでに場の空気は熟していた。互いにあと数合で勝負は決まるという予感があった。
盾なんて無粋なものはなくなった。その事実に満足する。だって盾があるとテツの姿が見れないじゃないか。
心臓の刻むビートが酷く耳障りだった。零れ落ちた汗の粒が光の玉となって落下していった。ライトアップされたのは、ふたりっきりの踊りの舞台。観客はいない。あるのは踊り手だけだ。はっきりとお互いの顔を確認できる光量がもたらされた。清々しい朝の幕開けだった。だというのに、ふたりの舞台は幕を下ろそうとしている。なんて皮肉だろうか。
剣術道場での立ち会いのように背筋をしゃんとさせて向き合う。懐かしい風景だった。ずっと昔にあったひとこまだった。それはもう、このときを逃したら、永遠に失われるものだ。
天上からは青、紫、緋色のベールが下ろされている。そのグラデーションをバックにしたテツの姿は幻想的だった。自分の姿もそう見えていれば最高だな、とミコトは思う。
いくぞ、と彼は叫んだ。けれどもその叫びは音として認識されず、彼女の記憶を刺激する小さな真鍮製の鍵となった。開け放たれた扉から、ずっと見守ってきた少年の写真が風に乗って舞い落ちてくる。
青年の遠見テツを目視しつつも、もうひとつの視覚が少年の遠見テツを映し出す。カラーと白黒で表現された世界は、息を飲むほど素晴らしい世界だった。