第37話
手元の小さな灯りでは数メートル先も見渡せない。しかも路上の状態も良好ではないので細心の注意を要求された。なるべく遠くへと逃げなければならない一方で、落馬なんてしたら目も当てられない。思ったよりも距離を稼げない事実に彼らは焦り始めていた。
漆黒の闇は距離感を麻痺させて、彼らの忍耐力を削っていく。焦燥感はジリジリと冷静さを奪いながら身を焦がし、追っ手が見えているわけでもないのに精神的圧迫感は増す一方だった。
ヘレンの容態が芳しくないのも懸念事項だ。簡易の止血では限界がある。早急に適切な処置を施さないと命が危ない。本人は強がっているものの、その顔には死相が見え始めていた。
本来の計画ならば、追っ手がかかったとしても逃げ切れる算段だった。ポールの死体を隠す暇がなかったせいで脱走の発覚も早まってしまい、その分、彼らに与えられた時間は少なくなった。
全力疾走でないとはいえ、馬だって夜通しで走破できるとはいい難い。下手に潰してしまっては後の移動手段がなくなってしまうのだ。
状況は悪くなっても好転することはあり得ない。ミコトは自分が殿を務める他ないと感じていた。追っ手が複数であれば瞬く間に突破されるだろうが、彼女の予想からしてそれはないだろう。追っ手はひとり。間違いなく、遠見テツが任される。
極限まで研ぎ澄まされていた感覚が僅かな気配を拾う。聴覚や周囲の空気、それらの微弱な変化を彼女の五感は察知した。キョウイチたちも遅れて気づいたようで、険しい表情を向けてきた。
「どうする?」
舌を噛まないよう注意した話し方なので聞き取りにくい。それはお互い様なので文句はいっていられなかった。
「わたしが殿を務める。もともと、このために話に乗ったようなものだから」
「姉さん……」
キョウイチは悲痛な様子を隠そうともしなかった。姉を残していくというのに、どうして平静でいられようか。できることなら、「おれが残る」という言葉を吐き出したい。けれども、ミコトに対して、その言葉に意味がないことをキョウイチは理解していた。彼女は提案を絶対に受け入れないし、最初から自分たちと姉との目的は異にしていたのだから。産まれてから長いときを共に過ごした姉の姿を見て、姉もまたひとつの想いを胸にこの夜にのぞんだのだと気づく。
バラバラになった仲間、バラバラになった心。誰もが手を取り合いたいと願っていたはずなのに、自分たちはこうして砕け散ろうとしている。どうしようもない後悔が湧き上がり、それを苦渋と共に無理やり呑み干す。後悔する資格などない。あるとすれば、受け入れる覚悟だけだ。
「迷ってる暇はないわよ。死にかけの人もいるんだし。わたしの弟なら、彼女も含めて救ってやりなさい」
穏やかに述べるミコトに、キョウイチは力強い目の輝きで答えを返した。そしてそのまま前方へと出ていく。姉弟の別れは簡単なものだった。それ以上の飾りなど必要なかったのだ。姉も、弟も、それぞれが決して弱くないことを知っている。だから信頼して任せるだけだった。
速度を落とし後退するミコトの眼前をスイが通り過ぎていく。「ミコトさん!」放たれた叫びに笑って返してやる。「キョウイチを頼んだわよ」そういうと、しっかりとスイに伝わったようで、一度頷き、前を見据えて彼女は離れていった。
なんとか付かず離れずを維持している最後尾はティアとヘレンである。ティアが乗馬できるおかげで、ヘレンとの相乗りを可能にさせている。ティアが馬を操り、彼女に抱きつくようにヘレンは身を任せていた。
「ご武運を、ミコト様」
「運が必要なのは、わたしじゃなくてあんたたちだよ。―――――幸運を」
いけ好かないヤツだったけど嫌いじゃなかったかな、と去っていくふたりの後ろ姿を見て思った。脱走を唆した張本人ではあるが、彼女たちがいなくともそのうち弟は何か行動を起こしたに違いないとミコトは確信していた。
速度を落としきらずに、なるべく停止するまでの時間を稼ぐ。自らの役割はきちんと果たすつもりだった。
さあ、来なさい。わたしを追ってくるのよ。これから敵として相対するというのに、ミコトはデートの待ち合わせのように心弾ませていた。自分でもおかしいと思う。きっとテツだけでなく、自身もこの世界に来たせいで変わってしまったのかもしれない。
草切ミコトは、一度テツの告白を断っている。昔の話だ。初々しい少年からの愛の告白を彼女は気持ちに嘘をついて断った。当時は無能力であったテツとの関わりを快く思わないのが草切の家だった。父と母はそんなこともなかったが、自分のせいで両親が親戚中から肩身の狭い思いをするのは嫌だった。恋人と自分さえよければいい。そんな覚悟で愛を貫くことができるほど世の中は甘くない。社会は他人との関係性をもって成り立っているのだ。
それに、そのまま付き合うのはテツのためにもならないと考えた。能力者とそうでない人間とは違い過ぎる。能力の関係ない付き合いならばいい。けれども彼が剣を志す以上、ずっと付いて回る現実だ。実家が剣術の名家であることは、それなりの義務を彼女に課している。愛があれば全てうまくいく、そんな妄言を吐けるほど彼女は一途ではいられなかった。
あのとき、テツの告白を受け入れていたならば、何か変わっていただろうか。ミコトはそう後悔する。彼は剣に取り憑かれるようなこともなく、ひとりの男の子として、自分を守ってくれていただろうか。
すでに過去は過ぎ去って跡形もない。残ったのは逃亡者としての草切ミコトと追っ手としての遠見テツだ。ならば受け入れるしかない。この現実を。
蹄の地面を叩く音が間近に迫る。どんな顔をすればいいのだろう。自分は情けない顔を晒してはいないだろうか。手鏡がないのが悔やまれてならない。
ミコトは後方を振り返った。