第35話
大切な時間というのは、あとになってから実感するものだ。その渦中では気付けない。過ぎ去ったあとに思い返し、あれは運命だったとそうこぼす。
他愛もないお喋り。失恋した人間同士のギクシャクとした会話。それを懸命にとりなそうとする思いやり。そのどれもが淡い虹色をした記憶だ。太陽に反射して色とりどりに変わるシャボン玉のような。
その日は、確かに彼らにとって運命の日だった。遠見テツは、どんなに時が流れても風化することのない傷跡をその身に受けた。それは呪いであり祝福であった。後の人生さえ打ち据える威力を孕んでいた。
その運命の夜を回顧するたびにテツは思うのだ。姉さんは、草切ミコトはどのような心境でこの夜を駆け抜けたのだろうかと。
月明かりの夜だった。丸々と肥えた月は、その全身で恒星の光を反射している。自ら光り輝いているわけではないのに我が物顔だ。月は何かと神秘的な象徴にされやすい傾向があるが、草切ミコトからすれば俗っぽいイメージを抱かせる。特にこの世界の月―――――名称が何でも同じなのはどういうわけか―――――は、かつての世界のそれよりさらに巨体に見えた。
脱走の準備は日没を合図として粛々と行われた。自由への希望といった歓喜を彼らは醸成していない。もしかすると、地底墓地へ埋葬に行く神父の方がよほど陽気かもしれなかった。
キョウイチの刀は団長との戦いの際に破損しており使い物にならない。けれども思い入れのある愛刀を手放す気にはなれなかった彼は、荷物になるのを承知で持っていくことにした。その行動を誰も咎めなかった。彼の心境は痛いほど共感できたからだ。
闇夜に紛れての脱走をはかるため、荷物は最小限である。そして彼らの格好は道場着の袴の上から全身をすっぽりと覆い隠すマントを羽織ったスタイルだった。目立たぬことを最優先とするならば褒められた格好ではない。しかしながら3人に共通していたのは、この夜が正念場だということだった。運が悪ければ命を落とすことさえもある。そのような重要な場面だからこそ、道着をまとうのだ。騎士が戦場に赴く際に鎧を着込むように。
ミコトは協力者によって己の手に戻ってきた愛刀をなでた。どうやって傭兵団に気づかれず取り戻したのだろうかという疑問は残るものの、四六時中、団員が荷馬車を見張っているわけでもない。恐らく宴会の最中だとか、監視の目が緩む隙を狙って行われたに違いなかった。
無言のうちに進められた準備が整ったのち、誰からともなく彼らは顔を見合わせた。お互いに緊張感に満ちた表情である。決意を固めた面持ちであった。
2日間続いた宴会は夕方過ぎにお開きになった。これは実際に参加しているから確かな情報である。団員たちの多くが酔い潰れていたのも確認済みだった。まさに絶好のチャンスである。
沈黙が耳に痛かった。こすれ合う服の音が、羽蟲の舞う雑音のごとく耳障りだ。どのくらい時が止まっていたかは定かでない。その沈黙を破ったのはキョウイチの声だった。
「―――――行こうか」
彼らは頷いた。
部屋の扉を開けると、一日の熱量を失った空気が流れ込んできた。あらゆる生物が空気中の熱を使い果たしたように冷え冷えとしている。ミコトは首元が冷えないようマントの前面を閉じた。
ダグラスの手腕はかなりのもので、今夜城を警備している重要な兵士は買収済みだった。どんなに主君が優れていても、その末端まで同じだとは限らない。特にいま城を預かっているのは領主の娘である。付け入る隙は多分にあった。
薄明かりに照らし出された城内はしんと寝静まっている。予め人の少ないルートを割り出していた面々は、なるべく兵士と鉢合わせにならないよう進んでいく。先頭をヘレンが務め、もしも兵士と出会っても誤魔化せるようにしておく。彼女の格好は普段と変わりないままなので、夜中に用を足すために起きて迷ったなどと述べればいい訳がつく。
幸いにも夜警の兵士はそう警戒している様子もなかった。みな退屈そうに決められた時間が過ぎるのを待ち望んでいるようだった。
これならばうまくいくのではないか―――――そう彼らが思い始めたとき、出会ってしまった。一番出会ってはいけない種類の人間、傭兵団員に。
それは一瞬の出来事だった。顔を認識したとき、相手は知り合いに向けるような自然な表情だった。それはミコトたちの寝間着にしては不相応な服装を確認すると険しく豹変する。
相手は、セブンス傭兵団員ポールは帯剣していた。ミコトたちにとってはこれ以上ないほどに都合の悪い状況だ。彼が肌身離さず剣を持っているのは傭兵という職業ゆえか。防具は身にまとっていないとしても、慰められるほどでもない。
迷っている暇はない。ミコトは初めて殺意を持って抜刀した。相手は手練である。殺さないよう手加減して無効化するなどという器用なことはできそうになかった。
白銀の煌きにポールは素早く反応した。動揺も一瞬で埒外に追いやったのはさすがだった。一番の脅威であるミコトに反応したのもだ。だが、不幸なことに彼はひとりだった。どんなに剣の腕がよかったとしても、後ろに目はついていない。
水袋に包丁を突き立てたような音がした。ある程度の外皮、その中にある水分質な身。それらを貫く音だ。ポールは自身の胸から付き出した刃の切っ先を信じられないような目で見つめた。それはミコトたちも一緒だった。まるで彼の胸内から自然とナイフが生えてきたようだった。
彼を刺し貫いていたのはヘレンのナイフだった。彼女はただの侍女ではない。本職とまではいかないものの、荒事もこなすことができる。ゆえに主であるティアの傍に侍っていたのだ。主の危機に彼女は行動を起こした。そこにはポールへの慈悲も憐憫もない。ただの障害として彼を排除しようとした結果だった。
それでも最初に冷静さを取り戻したのは他でもないポールだった。彼は口から吐血しながらも挑戦的な目付きは崩さなかった。おれを舐めるな、そう彼の目はいっていた。
すでに刀身を晒していた剣を彼は逆手に持った。そして誰もが表情を凍らせている中で、躊躇もせずに、自身を貫いた。
何を、とミコトは戸惑い、そして気づいた。ポールの執念に恐怖を抱いた。彼は自身を刺した背後の相手を殺すために貫いたのだ。自分ごと、ヘレンを。
スローモーションのようにふたりは倒れ落ちた。その衝撃で剣からヘレンの身体が離れる。腹部の辺りを真っ赤に染めた彼女は、意識はあったものの明らかに重症だった。ティアが脇目もふらずに駆け寄る。
その様子を呆然と見送りながら、ミコトは虫の息のポールに近づいていった。すでに肌の色は蝋のように白くなっている。彼の生命の炎が消えかかっている。医者でない彼女であっても理解できた。
ひゅー、という空気の漏れる僅かな呼吸音が生きていることを示す証拠だった。二箇所の傷口からはおびただしい血液が失われていく。目の前で知り合いが死のうとしている。それも自分たちの所作のせいで。
手がひとりでに小刻みに震えた。身体中の筋肉が萎縮して正常でいられない。ミコトもスイもキョウイチも、失敗を、犠牲を覚悟していたはずなのに、実際はこんなものだった。
小さく、ポールの口が動いた。耳をすまさなければ聞き取れないくらいの小声だった。それでも、彼らには雷鳴のように鳴り響いたように感じられた。
自分たちだけで逃げ出すのか、と彼は哀れみさえ感じさせる声色でいった。アイツも報われないな、とも。
それっきりポールは動かなくなった。永遠に。心臓は止まり、やがて全身が死んでいく。彼は人間からただの肉塊になった。あとは化学反応によって腐食していくだけだ。
数分にも満たない悲劇だった。あるいは、喜劇だった。考えられないことではなかったのだ。こういった犠牲を生むことは。それでも彼らには想像力が欠如していた。覚悟が足りていなかった。そのせいで集団は機能不全に陥ってしまったのだった。
「みなさん、早く、脱出を」
激痛に呻きながらもそう急かしたのはヘレンだった。力のない様子で、ティアに肩を貸されている。主に面倒をかけていると自覚しつつも、成すべきことを成そうとしていた。
「で、でも、ヘレン、怪我してるじゃないか」
キョウイチは彼女に駆け寄って傷口の具合を確かめる。服は赤黒く染まっており、詳しくはわからない。だが剣で貫かれた傷が軽症でないのは子供だってわかることだ。
「わたしは、だ、大丈夫ですから。いざとなったら、置いていって、頂いても構いません」
「そんな!」
「キョウイチ様、ヘレンの覚悟なのです。もちろん、わたくしだってヘレンを見捨てたくありません。だからこそ、いまは脱出を最優先に考えてください……!」
誰よりもヘレンが心配であるはずなのに、ティアははっきりとした口調で窘めた。自身よりも幼い少女の悲壮な覚悟にキョウイチは声を詰まらせる。唇をかみしめ、力強く頷いた。
弟の姿に正気を取り戻したミコトは、携帯していた荷物から布を取り出す。負傷したときのために持ってきたものだ。まさか城内にいるうちから使用することになるとは思ってもみなかった。
やらないよりはいいという手付きでヘレンの傷口を止血する。その際、彼女は痛みに呻いても声は上げなかった。凄まじい精神力だとミコトは思う。もしかしたら、逃げ切るまでもつかもしれない。そんな希望を抱かせる。
応急処置が終わった。幸いにも、いまの遭遇は大きな音を立てなかったおかげで城内の誰にも気づかれていないようだった。深夜という時間帯も彼らに味方をしていた。そう考えると、ポールとの鉢合わせは極大の不幸だったとしかいいようがない。
ヘレンが負傷したために移動速度が極端に落ちた。馬上で彼女が死亡する可能性もある。怪我人を馬に乗せたくないが、状況が許してくれそうもない。
ポールの亡骸を背に歩き出す。ミコトは最後に一度だけ振り返った。彼のことは嫌いではなかった。むしろ好きな方だった。そんな彼を死なせてしまったことに胸の張り裂けそうな罪悪感が襲ってくる。シンシアの顔が浮かぶ。一生、恨まれるんだろうな、とミコトは絶望した。
そしてポールが最後にいった言葉。
―――――アイツも報われないな。
グ、と歯を軋ませる。頭の中で教会の鐘の音のように彼の最後の言葉が反響する。それは何度も何度もミコトを打ちのめした。
正しくないことをしているという自覚はある。だがこうするしかないのだ。こうすることでしか、自分も、テツも、団長の手から逃れることはできないのだ。だがそれは、草切ミコトの身勝手ないいぶんだ。殺された人間には、いい逃れのいい訳でしかない。だから、ミコトは謝らない。ともすれば謝罪の形を作りそうになる己の口を戒める。傭兵団員はミコトの仲間を殺し、ミコトは傭兵団員を殺した。そう、それだけでいい。
テツを救う。そのためなら、殺すことだって躊躇わない。その刃を向ける相手が、草切ミコトや遠見テツであったとしても。
ミコトは城からの脱出をはかりながらも予感があった。確信とさえいえるものだ。これまでの団長の行動からも読み取れるものだ。
団長は遠見テツを打ち直しているのだ。模擬刀から、人を斬り裂く殺人用の実剣へと。戦に参加させ、村を襲わせ、少しずつ基礎を造りあげていく。そして先日の死合いによって完成は間近となった。
今回の脱走は、その最後の仕上げに利用されるのだろう。だが思い通りになんてさせるものか、とミコトは決意する。想い人を、あんな悪魔の手に渡すものか。そうでないと、テツはこれからの人生を返り血にまみれて生きることになってしまう。
あんたの思惑に乗ってあげたんだ。最後くらいは勝たせてもらう。わたしの命は、そのためのものなのだ。いままでに亡くなった道場生の顔を思い出し、彼女は誓った。