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第34話

 適度なアルコールの摂取は、身体にいいときいたことがある。ならば、何も考えないでいられるようないまの状態は、まさにその身体にいい状態なのだろう。テツは煩わしさから解放された浮遊感を味わっていた。それはアルコールによってもたらされたものであった。


 テツの自室、というか宛てがわれた部屋にいるのはふたりである。宴会の残り物をちょろまかしてきたので、それをアリアと一緒に摘んでいる最中であった。


 ミコトとはあのあと、しばらく時間を共にした。心地良いとまではいえないものの、苦にならない絶妙な空気だった。お互いに離れづらく、そして近づきにくいのだ。触れたいと思っても、それ以上の接近は躊躇するような。


 酒宴の席は夕方にお開きになった。各々が解散していく中、最後まで握っていた手を名残惜しく手放さなかった。そのときのミコトはどこかいつもと違う気がした。具体的にいい表すことはできない。それでも、長年一緒だったテツには、姉のような彼女の違和感を手に取るように感じ取れた。


 何かあったのか、などという無粋な台詞を吐きかけて口を噤む。彼女の好意を無下にした自分が何様のつもりなのだろうか。何かあった? あったに決まっているではないか。そんなことにも気を使えない己に、テツは嫌気がさした。


 別れの言葉は沈黙だった。手に感じていた温もりが消え去ったとき、テツは雪山に放り込まれた錯覚に陥った。それは孤独という名の寒さだった。生まれてから長年に渡って慣れ親しんできた気候であるはずなのに。いつから自分はこんなにも弱くなってしまったのだろうか。


 去り際、彼女の右手の薬指に光る指輪を見た。テツがミコトに贈った品である。それを彼女が身につけてくれているのを実感して、テツはどうしようもない罪悪感と喜びを覚えた。感情の理由は明らかではない。けれど説明できない感情の奔流は、彼を氷のクレバスから救い上げてくれた。


 男って女々しいものだな、とテツは思った。きっと恋愛事に関しては、女性の方がずっと男なんかよりも得意であるに違いない。気持ちの切り替えの速さは、それこそ追いつけないほどなのだ。


 遠見テツは草切ミコトの想いを受け入れず、それと同時に2度目の失恋をしたのだ。自分でも身勝手な人間だと自嘲せずにはいられない。だがこれが最良なのだ。これしか道はなかったのだ。


 もしもミコトの告白を受け入れたとしても、そう長くはもたない。確信があった。誰よりも愛しているからこそ、テツは彼女を受け入れられない。遠見テツという剣は、傍らにいる大切な人間をも傷つける。徐々に広がっていく心中の震えとも取れる予兆に、名の知れない誰かが警報を鳴らしている。


 自分という人間が、別の何かに変わっていくような恐怖感があった。たちが悪いことに、その変化は快楽を伴った。脳髄を溶かすような快楽だ。恐怖を感じるたびに身体の深くが鈍く疼く。初めは気づかない程度に、そして段階を経るごとに逃れようのないまでに成長していった。


 剣は素晴らしい、離してなるものかという一面と、剣は恐ろしい、すぐにでも縁を切るべきだというもう一面がテツの中に併存しているのだ。危ういバランスの上に成り立っているそのふたつの石壁は、いつ崩れてもおかしくない。


 そして、遠見テツの心が崩れたとき、どうなってしまうのか自分自信にさえ予想がつかなかった。自分でない自分、なんて思春期の痛い想像である。想像、そうであればどんなによかったことだろう。


 だが実際に剣を握るたびに訪れる静寂を、あの腐敗した臭いを思い出すと恐ろしくてたまらないのだ。そのものが恐ろしい。同時に、それを受け入れようとしている知らない自分が恐ろしい。


 人間は変化を恐れる生き物だ。けれども進化する生き物でもある。だからこそ、洞穴の生活から脱して、天にそびえるビルに住まうまでに至ったのではないか。テツの抱えている「変化」は、果たして「進化」なのか、あるいは「退化」なのか。


 神ならぬ身のテツには、その判断はつきそうにもなかった。


 「浮かないお顔をしていますね」


 「そう見える?」


 小首を傾げたアリアにテツは苦笑を返した。その苦笑の中には、自嘲する意味合いが含蓄されているのはいうまでもない。なんとも卑しいことだ、と改めて思う。きっと自分は、己を蔑むことで平静を装っているのだ。そうでもしないといられない。あるいは、やさぐれたポーズを取ることでアリアに気にかけて貰おうとしているのか。いずれにせよ、いまの遠見テツが誰からも褒められたものではないのは明らかだった。


 アリアの透き通った瞳の光がテツを貫いた。たまらず、テツは視線を逸らす。声に出さないまでも、無言で責められている気がした。どういうわけか、少女の瞳はいつだって目の前の罪を顕にしているように思えた。彼女の無垢な光がそう思わせるのだろうか。


 「らしくありませんよ、テツさま。あなたはこんな風に悩む方ではなかったはずです。悩みを認識しても、それを己と切り離して俯瞰できるはずですよ」


 「買いかぶり過ぎだよ。そんな、超人みたいなことができるわけがない。もしも、そんな風に見えていたとしたら、きっとアリアの勘違いなんじゃないかな。ぼくはいつだって後ろ向きなんだよ。褒められたりしても、素直に喜べないしね。だからよくいわれる。『おまえはひねくれてる』ってさ」


 テツはミコトにも冗談ながら、同じことをいったのを思い出した。彼女はジョークだとでも受け取ったのだろうが、それはある意味真理だといえた。自身でも弁えている歪みだ。直そうとしても直せない。馬鹿は死ななきゃ直らないというけれど、自分は死んだあとも捻れたままなんだろうな、と彼は想像する。


 「悩まない人間などいるもんか」


 「なら」


 アリアは音も立てずに胸元に滑り込んできた。蛇の動きを思わせる動作だった。テツはそのガラスの瞳に囚われたように微動だにできなかった。


 「なら、人間でなくなればよいのでは?」


 こんなにも大人っぽい顔つきだっただろか。薄暗くなった部屋の中で浮かび上がる少女の白面は艶かしい。ときおり覗く桃色の舌が魔性を帯びている。


 強張ったテツに彼女は巻きついた。ムードのない表現方法だとしても、それが一番相応しい。小さく、冷たい手に顔をなでられると痺れるような寒気が走った。脊髄から全身の末端まで駆け抜けていく。アルコールによる酩酊なのか、彼女の魔性によるものなのか、まるで判別つかない。


 「先にテツさまが振るわれた剣。団長さまとの一戦は素晴らしいものでしたのに。わたしはまだ若輩者ですが、あの一戦が只事でないことは、いわれるまでもなく理解できました。恐ろしく、そして美しかった……」


 何かに耐えるように身体を震わせたアリアは、テツから身を起こし、己を抱きしめた。向きあう形で馬乗りにされていたテツはアリアの頬が上気しているのに気づく。ほう、と息をついた彼女は、下から彼を覗き込んだ。


 なんて目をするんだ、とテツは瞠目する。女が男に向けるような誘いの色ではない。テツという存在そのものを欲し、飲み込まんとする情念だ。恐ろしいまでに相手を求める炎が、少女のサファイアの中で揺らめいている。


 「迷われてもいいのです。けれど、テツさまはそれに囚われてはならない。歩みを止めてはならない。転ばされてはならない。テツさまは、迷いを斬り捨てねばならない。テツさまは」


 そこでアリアは口を噤み、茶目っ気に溢れた調子で「騎士さまは」といい直した。


 「何せ騎士さまは、剣そのものなのですから」


 「剣、そのもの―――――」


 そうだ。いままで幾度ともなく考えてきたことだ。遠見テツは剣を愛している。狂愛しているといっていい。だが剣は意味を持たず、ただ主の手足として相手を殺人する。誇りも理想も意味をなさない。団長だっていっていたではないか。意味を求める事自体が無意味なのだと。


 ただ、「剣」として鉄から打ち出された存在。それなのに、なぜ自分はこれほどまでに魅入られてしまうのだろう。無意味でも確固として存在する剣に、どうしようもないほどの激情を抱く。それはきっと、剣は己に欠かすことのできない、魂の一部だと無意識に認めているせいではないのか。


 ならば鈍色の剣であろうとすることに何の戸惑いがある。煩いを、感情を切り離せるからこその剣である。例えるならば、いまのテツはまるでナマクラだ。それがいいことなのか、悪いことなのかはともかく、人間、遠見テツとしても味を落としているといっても過言ではない。


 「ぼくは人間だよ、アリア」


 「ええ。かもしれません。人間であろうとする者は、きっと人間として生きられるはずですから」


 「……何とも辛辣な言葉だよ」


 まるでぼくが人間ではないみたいじゃないか。テツは口元を歪める。アリアが求めているのは、「剣」としての遠見テツなのだろう。だがそれだけではない。人間としての生き方も望んでいる。


 偉く難儀な要求である。両方の性質を兼ね備えることの難しさを、彼女が知らないはずがない。その上で欲しているのだとすれば、呆れるほど豪胆な性格をしている。海中から引き上げた魚に、徒競走をさせようとしているようなものだ。


 異常に身を置き続けた人間は、日常に戻るのが難しい。アフガン帰りの米兵のごとく、銃を握っていたその手で、買い物の料金を支払うことに堪えようのないギャップを覚えてしまう。切り替えのできなくなった戦闘者は、戦場ではなく、日常で自壊していき、守りたかったものに殺されるのだ。


 自分がそうならないとなぜいいきれようか。誰よりも剣に近づいたテツが、人間でいようとするのは滑稽ですらある。それでも、迷わないでいられるようになってしまったら、切り替えも同じく行えないことを意味するのではないか。


 「ぼくは大層なものじゃない。ただの人間だ。取るに足らない存在なんだ。キョウイチみたいな能力はないし、スイみたいな能力がない。ミコト姉さんみたいな能力がなければ、無能力者のように能力はない。ただの言葉遊びだよ。自虐的な人間の鬱憤晴らしさ。意味なんてないんだ。けれど、けれども」


 いつの間にそうなったのか、テツには思い出せない。気づいたらこうなっていた。生きていたら錬られていた。だから、剣の打ち手は不明のままだ。きっと自分だけでないし、環境だけに求めることもできない。様々な要素が相まって、遠見テツという剣を創り上げたのだ。


 「けれども、ぼくは、剣でもあるんだ」


 それは己に確認するために呟かれたようだった。あるいは、誰とも知れない者に宣言するためでもあった。この確認の儀式は、テツが人を殺めた者として生きていくのに必要な儀式だった。殺人に意味を持たない剣であっても、テツにとっては意味のないわけがない。そのパラドックスに対抗するために必要だったのだ。


 団長はいっていた。「そんなものに意味はない」と。けれどもテツにとっては違う。テツにとって、意味のないものなど存在しない。だからこそ、いままでにありとあらゆるものを吸収して、剣は切れ味を増してきたのだから。


 草切ミコトはいっていた。「テツの剣は団長の剣に似ている」と。ある意味では正しかった。見渡す世界に意味を持たない団長と、世界を二分して捉えるテツとの類似した雰囲気だ、狂気だ。けれども、その芯柱にあるものは、どこまでも乖離した景観だった。


 いまならわかる。


 遠見テツと、団長とでは全く違う。素人には、刃物がまるで同じように見えるがごとく、どこまでも人間である者たちには区別がつかないのだ。


 区別がつくとすれば、それは、他ならぬ剣の人でなければならない。凶器として、武器として振るっている者には辿り着き得ない、人間としての剣だ。


 「―――――ぼくは人間だ。そして剣でもある」


 「武器になろうとする人間はいます。だけど、人間であろうとする武器はあり得ません。なぜなら武器に意志はないからです。でも、中にはテツさまのような方もいる。意味を求めずに殺人し、殺めたあとに意味を受け入れる方がいる。わたしのお母さんを殺したときのように。それはきっと苦しく、辛いことなんだと思います。だからこそ、失くしていく命に意味が与えられるのではないでしょうか。わたしは思うんです。弟はわたしのために失われました。けれどもそのことに意味はなかったのではないかと。ずっと、ずっとそう思っていました。だけど、テツさまがお母さんを殺し、そして埋葬してくださったとき、わたしは思い知ったのです。意味がないわけがないと。そう思っているのは自分だけでしかないと。意味はいくらでも後付けすることができます。本人の意志なんて関係なく、半ば身勝手に押し付けるのです。それだからこそ意味がないのだと。失われた人にとっては何の意味もないのだと。そうして、わたしは沈黙していたのです。作動しなかったのです。けれども、それが間違いだったと気付かされました。テツさまによってです。騎士さまによってです。行動のない事象に意味を持たせられるわけがないのです。自分勝手だからと、相手を無視しているからと、何もしないことこそが愚かなのです。偽善なのです。なぜなら、相手が存在していようが、いまいが、意味の後付けに変わりはないからです。わたしと、わたしでないものとが乖離している限り、初めから意味のあるものなど存在していないのです。意味は何もないところから生まれてくるものではありません。わたしが、わたしでないものに、後から与えるものなのです。それには必要な前提があります。なければならないものです。それは『関係性』です。人と、人との関係性です。これがあるからこそ、わたしたちは生きていくことができるのです。意味を、持つことができるのです」


 長い、長い独白だった。それはきっと、アリア自身が自分にいい聞かせるものでもあった。彼女をずっと縛り付けていた弟の影や、両親の影に光を投ずる答えだった。その答えは自ら導きだした解ではなかった。ましてや、テツに一方的に与えられたものでもなかった。


 テツにより提示され、アリアによって計算され、ふたりによって導かれた答えであった。


 「これもきっと言葉遊びなのでしょうね―――――テツさまの剣は、斬り捨てるだけじゃない。意味を、関係性を、つなげる可能性を秘めた剣なのです」


 「そんなものが、あるのかな。この世界に。いつだってぼくは剣をもって斬り捨ててきた。それは劣等感だったり、恐怖心だったり、恋心だったりした。そんなぼくが、『つなげる』剣を振るえるんだろうか」


 「振るえますよ。わたしが保証します。だって、他ならぬわたしをこの世界につなぎとめてくださったではないですか。足元が定かでないわたしを、あなたは剣でつなげてくださった。意味を授けてくださった。わたしがこうしてお側にいることが、その何よりの証拠ではないですか」


 アリアはそういってテツを抱きしめた。体格差のせいでちぐはぐな感覚を受けるけれど、テツにとってその抱擁は何よりも現実的だった。彼女の吐息、少し早めの鼓動、いまにも折れそうな華奢な腰。その全てがテツに安らぎを与えてくれる。


 恐る恐るテツは抱き返す。間違ったら怪我をさせてしまいそうだった。自身の半分もない身体は熱を持っている。生きていくための燃え盛るような熱だ。こんなにも小さな身体の中に、彼女は命を、意味を内包している。それはとても素晴らしいことに思えた。そんな彼女に、大切に思われていることが誇らしかった。きっと、テツはアリアに意味を与えたけれど、彼女によっても意味を与えられたのだ。


 ―――――人間の剣であれ、と。


 アリアは優しく、母のようにキスをした。テツは口付けられた箇所を手で押さえる。とてもあたたかい。まるで彼女から想いを、愛情を与えられたかのようであった。


 「『本当の』キスは、まだわたしには早すぎます。修行不足といったところでしょうか」


 「なるほど、違いない」


 テツは茶化すようにいうアリアに答える。少女は己を誰よりも自覚している。そしてテツの気持ちも理解している。これは彼女なりの、精一杯の反攻なのだろう。


 やり遂げた表情のアリアが、勢いよく抱きついてきた。それを受け止めて、なんか小動物らしさに磨きがかかっているな、と感想を持つ。そんなことをいったら怒られてしまいそうだけれども、この感想はむしろ好意的なものなのだから勘弁して貰いたい。


 顔をしばらく埋めたあと、か細い声でアリアはいった。


 「ひとつ、約束をして貰えませんか」


 「なんだい?」


 「……もしも。もしも、テツさまを裏切ったならば。裏切ったならば、どうか迷わずに剣を振るってください。テツさまの剣を、成し遂げてください。それがきっと、テツさまにとっても、最良となるはずです。だから、約束してください」


 彼女はテツを見上げた。力強い眼光だった。ガラスの輝きは、プリズムのように様々な光を携えていた。


 「剣は裏切りません。裏切るのは、いつだって人間です。テツさまは、相手が何であろうと、誰であろうと、剣をもって終わらせてあげてください。それが相手にとっても最良となるはずです」


 アリアの言葉は突飛だった。ともすれば脈絡のない話で、理解の範疇にはなかった。けれども、その真摯な訴えかけはテツの疑問を追いやった。彼女の語る言葉には力があり、テツの進むべき道を照らし出した。


 「その倒すべき相手が誰であったとしても。もちろん、わたしであったとしても。わたしでなかったとしても」


 振るってください、と彼女はいった。そして、愛してください、とも。


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