第31話
昨日一日中眠ったおかげで、ずいぶんと楽になった。いつもと同じ時間帯に目を覚ましたテツは満足気に頷く。負傷した傷も順調に治ってきているようだ。元々それほど深くはない傷だったので、むず痒いような感覚を覚えてそう確信する。
部屋から出て最初に会った人物は城の兵士だった。見るとまだ若く、テツより少し歳上といった程度である。その兵士はテツの試合を見ていたらしく、しきりに彼を褒め称えてきた。「よくもまあ健闘した」「おれたちなんか遠くからでもブルっていた」と早口にまくし立てる。それに曖昧に答えながら装備を返して欲しいと告げると、快く了解してくれた。
兵士に引き連れられ城の通路を行く間中、すれ違う人間に声をかけられたり肩を叩かれたりした。想像以上に顔が知れ渡っているようだ。内心苦々しく思いながらも、愛想笑いで誤魔化すしかなかった。
ある部屋の前で待っていてくれと頼まれ、待つこと数分。テツの装備―――――とはいっても剣くらいしかないが―――――を携えた兵士から受け取り、きちんと握力が戻っているのに安心する。これならば、いまから剣を振っても大丈夫だろう。
テツは彼らの修練場を自分も使っていいかたずねた。素振りをしたいんです、というと、兵士は偉く尊敬の眼差しで「大丈夫でしょう」と太鼓判を押した。あそこは誰でも使用していいとされているし、あなたなら咎められることもないはずだ。いやあ、それにしてもやはり強者の貫禄というべきか、努力を怠らない姿はさすがだなあと思いますよ。そう一人合点で納得してしまう彼に答えるすべを持たなかったテツは、礼をいって退散することにした。
団長と死闘を演じた中庭は、早朝ということもあって人影はまばらだ。もう少しすれば朝練の人間も増えてくるのだろう。テツは視線を寄越してくる人たちに目礼して返す。それから固まっていた筋肉を解すべく柔軟体操を始めた。
一日中こんこんと眠ったせいもあって、身体は酷くなまっていた。いつもの倍の時間をかけて身体の点検を行う。特に筋を痛めないよう気をつけた。
うっすらと汗ばむ頃には大分調子を取り戻していた。それに満足して、いよいよ素振りを行おうと思う。
そのとき、背後から声をかけられた。振り向くと、見慣れた服装でなく、運動しやすい服をまとったガーティがいた。彼女は白色系で統一された七部ほどの上下を着ていた。さすが貴族というべきか、そんな服であっても気品を感じられるのだから感心してしまう。
「邪魔してしまったかな」
「いいえ。そのようなことは」
すぐにでも立ち去って欲しい本音を微塵も感じさせないスマイルでテツは答えた。
ガーティは「それはよかった」と微笑んだ。これまでとはずいぶんと違う反応である。顔さえも見ようとはしなかった当初とは雲泥の差だ。面倒事が次から次へと訪れるテツは泣きそうになった。
「目を覚ましたと聞いてね。まさか起きてすぐに剣を振りにくるとは思わなかったがね。よほど努力家とみえる」
「そんなことはありません。ただ単に日課をこなそうと考えただけです。これをしないと身体がにぶってしまいそうになるんですよ」
冗談めかしていうと、彼女は豪快な笑い声を上げた。
「それを努力家というのだ。なぜだろうな、君のように腕の立つ人間は努力を努力と思わぬ節がある。常人なら尻尾を巻いて逃げ出す修練を楽しんでさえいるようだ」
しげしげと身体中を観察されるものだから、テツはむず痒くなった。その視線から逃げるように口を開く。
「ガーティ様も修練をなされに?」
「うむ。その途中で貴殿のことを耳にしてな。これは挨拶せねばと思い足を運んだわけだ」
気さくな様子で話しかけてくるガーティの声には人を惹きつける魅力があった。なるほど、人気のあるわけだ、とテツは実感する。彼女に親しく話しかけられれば、男は元より女でも好意を持つに違いなかった。
「とと。長々と話しかけてしまって済まない。身体を冷やしてしまうな。貴殿さえよければ、少々見学させて欲しいのだが」
「……そんな大層なことはしませんよ? 素振りをやろうと思っていたので」
構わないという彼女を追い払うわけにもいかないテツは、見学を許すしかなかった。誰かに見られてというのは非常にやりづらい。できることなら帰って欲しいところだが。
彼女にぶぶ茶漬けでも出したら効果はあるのだろうか、などと取り留めもなく思考しながら剣に手をかける。
いつもと同じようにやって来る冷たい感覚。隣で息を呑む気配が感じられたが、それに興味を示さないテツは剣を抜き放った。
目をつむって一昨日の試合を思い出す。ゆっくりと、精密に。その場の空気さえも再現しようと試みる。あのとき感じた恐怖感。それから屈辱感。思い出したくないような負の感情さえも飲み干さなければ意味はない。
何もない空間に現れる幻影。否、テツからすれば実像と変わりなく、それは紛れもない団長の姿だ。その姿と自分を重ねる。相手は団長であり、遠見テツだ。彼に向かって剣は振り下ろされる。当然に跳ね返される一撃。団長の追撃。それを受けて、なるべくそれを模倣した剣を再度返す。
さながら団長に教示されているようなものだ。実際の彼は絶対にしないだろうが。
それは素振りというよりは型の稽古だった。初めは確かめるように。そして徐々に滑らかに。より優れた剣を己のものとするために最適化して取り込んでいく。その一連の動作は、机上でクロニクルが描かれていく過程に似ていた。
テツの素振りは半時ほどで終わった。一切他のものが目に入らなかった視界が開けると、顔を上気させたガーティがいた。
クールダウンのため、ゆっくりと身体を動かしていると、
「見物料を、払ってもよいくらいだな……」
「はい?」
「いや、素晴らしいものを見せてもらった。貴殿の剣は、先の試合でも並外れていたが。そうだな、言葉では表しにくいが、何か可能性といったものを感じさせる剣だった」
抽象的過ぎていまひとつ要領を得ない感想である。ひとりで完結してしまうガーティのいい分はよくわからなかった。取りあえず礼をいう。
彼女は頬を血気盛んに赤く染めたまま、「わたしも急に身体を動かしたくなってきたぞ。まるで貴殿の熱をうつされたようだ」と腕をぶんぶん振り回していった。いまにも走り出しそうな彼女は、別れの挨拶もそこそこに、張り切り勇んでどこかへ行ってしまった。
「朝から元気な人だなあ」
元からやんちゃな性格なのだろう。女だてらに剣を振るう人間はそういった性格が多い。テツの道場の女子たちも、例にもれず一本筋の入ったご婦人ばかりである。
剣をおさめたテツは、汗を流すべく城内に戻る。どこかで拭き物を借りなければならない。
そのとき、彼の立ち位置を雲の影が通過した。気になって空を見上げると、他のものに比べてやけに暗い雲だった。雨雲か、と首をひねる彼をよそに、その雲は嘲笑うようにゆっくりと空を流れていった。
結局、その雲は雨を降らせることはなかった。もちろん、あとには何も残らなかった。