第3話
草切の流派では真剣も扱う。無論、竹刀と真剣では勝手が違うから、竹刀では敵なしという者であっても、真剣を持たせれば話は違ってくる。もっとも、現代において表立った真剣試合は禁止されているので、おいそれと切った貼ったということは行われない。
それでも、一般人には知られない領域で、真剣試合は行われることがあった。
草切の道場では、真剣で斬り合うことはない。せいぜいが居合練習を行う程度である。普段とは異なった修練であるため、道場生にはなかなか人気があった。もちろん、刃物を扱う危険なものであるため、みなもふざける様子はない。
道場生には、古くから家が剣術家である者が多いため、自前の刀を所持しているのも少なくない。彼らは居合練習をする日、こうして自らの家に伝わる刀を持参してくるのである。
昔とは異なる状況とはいえ、武術に携わる人口が多い今日では、正式な申請さえしていれば刀剣類の所持も比較的容易に行える。とはいっても、一般人が気軽に手に入るような値段ではないので、当然テツは自分の刀を持っていない。
まるで自らの誇りを示すように腰の愛刀をなでている道場生たちを、テツは不思議そうに眺めていた。
「やあ、テツ。おまえの刀はうちで貸すから、そんなに物欲しそうに見なくてもいいんじゃないかい?」
「相変わらず、ぼくの気持ちとはかすりもしない提案ありがとうございます」
草切の刀剣類が保存してある蔵の前に道場生は集まっている。その中でもミコトの存在感は生き生きとしている。騒がしいのが苦手なテツでも、彼女の明るさは嫌いではなかった。
純白の道着を身にまとっているミコトの腰には、重量感を感じさせる一振りがおさまっている。まるで身体の一部のように自然体だ。
気を扱う剣士にとって、剣とは身体の延長ともいわれる。自分の気がスムーズに流れるかどうか、それは古くからの命題とされてきた。その点、彼女の愛刀は一心同体ともいえる相性の良さを感じさせる。
「それにしても、相変わらず陰気な顔してるじゃないか。生理?」
「いっぺん脳神経外科にでもいってみるのをおすすめしますよ、ミコト姉さん」
本気で脳神経がやられているのでは、とテツは心配する。この人は平気で下ネタに走るから始末に負えない。
「いきなり失礼なやつだな、君は。こんな健常な人間、そうそう見つからないわよ」
えへん、と胸を張るものだから、ただでさえ目のやりどころに困るテツは目線を逸らす。そのせいで嬉しそうに口元を緩めたミコトには気づかない。
取り繕うように、
「ミコト姉さんが昔から頑丈なのは知っていますよ。なんとかは風邪をひかないといいますし」
「まあ、あれだね。美少女は風邪ひかないんだよ」
「せめて美女にしてください。あなたとっくに成人してるでしょうに」
げんなりして指摘すると、怒って反論してくるかと思われた当人は喜色満面でテツの言葉を反復する。「美女か……」にへへ、と初めて告白された中学生のように頬を赤くする。
「お姉さん、美人だからね。テツみたいな男の子の視線独り占めにしちゃっても無理ないかなっ」
「もう少しお淑やかなら、いうことないんですけど」
「いやいや、駄目だよ! わたしには彼氏ちゃんがいるんだ。そんな迫られても、テツとは一緒になれないよ……」
「そんな間男的な役割を期待されても困ります」
何いってんだ、あんた、という視線を投げかける。ミコトはどういうわけか、多少残念そうに「あ、そう」と頬をポリポリかいた。
こんなふざけたノリであっても、草切ミコトはこの道場でも屈指の実力者である。気を扱う人間ならば、男女の身体能力の差はあってないようなもので、むしろ能力のコントロールは女性の方が先天的に優れているといわれている。
チラチラと視線をよこす周囲を鬱陶しく思いながら、あまり構ってくれるな、とミコトにアイコンタクトを飛ばす。だが、受信した当人は、まるでわかっていないのを全身で表現するように小首を傾げた。
「それにしても、せっかくの真剣日和だっていうのに、なんでテツはそんなテンション低いのかなあ」
そういうミコトは確かに普段より五割増しでテンションが高い。
「男の子なら燃えるシチュエーションだろ? ずっしりとした真剣の重量感。精神の奥底を映し出すような鈍色。鞘から放つときの透明な音色」
ああ、ああ、と身体をくねらかす姿はお世辞抜きで色っぽい。頬を上気させた彼女の目は、どこか違う世界を見ているようにとろけている。
おかげで、その空気に当てられた男性剣士は気まずそうに離れていく。テツもできることなら、こんな無機物に欲情するような特殊性癖を抱えた人間とは一緒にいたくない。
「今日は刀を思う存分に愛でられる、またとない日なのよ! なのにテツったら」
顔をずい、と近づけてくる。どうしたらこんないい香りがするんだろうか、とテツは考える。まつ毛の長さまで確かめられる距離だ。それでも、ここで引いたら男が廃る、というひとりルールでもって、彼は逃げるわけにはいかなかった。
「待ちに待った彼女との初体験! 初々しいいふたりは彼氏の家でついに結ばれる。だというのに、肝心の男の剣がたたないっ。ああっ、おれのバカチン! あそこがたたないだけに」
「全然うまくないです」
剣の素晴らしさを説いてるはずなのに、まったく違う方向に話がそれている気がしてならない。それを指摘するべきだろうが、したところで馬の耳に念仏だろう。
「その話はミコト姉さんの実体験ですか?」
「ばっか。んなわけないでしょ。わたしの初体験はつつがなく平穏無事に事無きを得たわよ。大した波乱もなく」
「かわいそうな彼氏さん……」
少なくとも男にとって、好きな人との初体験はそう軽く扱われて嬉しいわけがないだろう。まだ見ぬミコトの彼氏に憐憫を感じてならないテツである。
どうでもいいような話をしているうちに、辺りには人数が増えてきていた。スイとキョウイチの姿もある。ふたりともすでに帯刀しているようだ。
「刀か」
何気なしに呟く。
「ぼくは西洋刀の方が好みなんですけどね」
そもそも気の扱えないテツにとって、頑丈さよりも切れ味に重きを置いている刀は命を預けるに値しない。もしも彼が刀でもって、能力者の一撃を受けたとしたら、そのまま両断されるのがおちである。
刀身をへし折られないように流し受ける技法もあるのだが、そんな高等技術ができるのは相当な熟練者でなければならない。そもそもの問題として、一撃が視認できるかどうかの問題なのである、彼にとっては。
その点、頑丈さを念頭に置いた西洋剣は気質に合っているといえた。何より、ショートソードならば、盾も扱えるのがなんとも憎い。一撃の重さを求めても意味がないので、手数と防御の堅さを極めるべきだ、とテツは考えている。
そんな現実主義な趣向が気に入らなかったのか、ミコトは不満顔だ。彼女のように気を十分に扱えれば、刀は切れ味良し、耐久性良しの敵知らずの魔剣にもなる。しかも彼女の腕ならば、斬鉄すら可能になるのだ。
「美術的な美しさがあるのは同意できますよ。特にミコト姉さんの得物は業物ですし」
真剣を用いた演舞は絵になりますよ、と褒める。「えへへ、ありがとう」と彼女は満足顔である。どうやら話題を逸らすことに成功したようだ。この御仁は刀のうんちくを語らせたらきりがないのだ。不毛な口頭戦闘が始まるのを阻止できたのは僥倖だった。
「ん、どうやら人数も集まってきたようだね。当家の刀を借りたい者はついてくるように」
歴史的な文化財としても価値がある蔵の扉を開ける。外見はすでに見慣れたものではあったが、内部を目にすることができる機会は少ない。そのため、蔵には用のない人間も好奇心で中を覗いていた。
テツは最後尾について行く。
蔵の中は薄暗く埃っぽい。しかしこのかび臭い雰囲気が好きだった。歴史を感じさせる古び方だ。ささくれた柱の一本一本に膨大な時間が眠っているのだと思うと、自然と頭がさがる思いがした。
順次に練習用の刀を受け取って、蔵から出て行く。初めは浮かれていた輩も、この辛気臭さに当てられて逃げるように後にする。なんとも情緒がない連中だな、とテツは少しばかり呆れた。
「ほい、テツのはこれね」
ずしりとした重量感を感じる。刀は好かない、と漏らした彼であっても、間違えば命を奪うこともある鉄の塊を手にすれば慎重にならざるを得ない。それと同時に興奮してもいる。
現金なものだよな、と苦笑すると、見透かされたのか、ニヤケ顔のミコトがいた。
なんとなく気に食わなかったので、ノーコメントで去っていく。後からは「テツも男の子だねぇ、うんうん」という嫌らしい声が追ってくる。
ここでいい返したところで口舌の争いに勝てるとは思っていない。そのまま無視をして出口を目指す。戦略的撤退である。
蔵の入り口付近は、外の空気と蔵の空気との汽水域だ。妙に生温かい気配を感じ、背中が粟立った。
「どうした?」
蔵の出入口付近でスイと談笑していたキョウイチが問う。
「え、いや。なんか急に寒気がしてさ」
「やめてよ、そういうの。ただでさえ薄気味悪いのに」
彼氏の家の蔵に対して散々な酷評だとは思うが、スイの感想には全く頷ける。
草切家の蔵は、荘厳な歴史観を感じさせると共に得体の知れない不気味さも併せ持っている。知覚できない力を操る能力者には特にそう感じさせるのだろうか、スイはいつもより元気のない様子だ。
「戦乱を生き抜いたボロ蔵だ。嫌っていうほど人間の歴史を見てきたんだろうさ」
幼い頃から見慣れているせいもあって、キョウイチは蔵に大した興味を持っていないようだった。
生きているわけではない。だが、物も99年と使えば魑魅魍魎に化けるという。長きに渡って人の営みを見てきた蔵も、何かしら宿っていても不思議ではない。
その中で、ひとり、テツは悪感が収まらず困惑していた。傍目にもわかるくらい顔を青くしている。すわ、ただごとではないと気づいた面々が心配する。
「どうしたんだ、本当に。体調でも悪いのか?」
「ミコト姉さん……わからないけど、やばい気がする」
足早に蔵から離れていく。あまりの剣幕に周囲の道場生はハトが豆鉄砲をくらったような顔をして、それから馬鹿にし始めた。暗いのが苦手だか何だかと思われたのか、これ幸いにと毒を吐く。
本格的に気分が悪くなってきたテツは地面に膝をついた。冷や汗が止まらない。
「テツっ、休んだ方がいい」
慌てて介抱しようと近づいてくるミコトの背中の向こうで、空気が揺らいだ。
形容しがたい音がした。よく小学生のときに聞いたような音だ。下敷きをくの字に曲げたあと、反発して戻るときに発せられる、あの間の抜けた音。
あ、と口に出したときにはすでに遅い。空間を捻るようにして歪は広がっていく。蔵のそばにいたキョウイチとスイたちは一瞬でのみ込まれてしまった。異変に気づいた道場生が悲鳴をあげて逃げ出していく。
道場からは、騒ぎを聞きつけた年配たちが出てくるも、すでに手の出しようがない。人智を超えた現象が起こっている。みな呆けたように立ち尽くしてしまっている。
「あ……」
いままさに、ミコトまでものみ込まれようとしていた。彼女の身体半分は空間の渦に巻き込まれて跡形も無い。それでも生命活動に支障はないのか、恐怖に染まった目で己の身体を見つめている。
少しの間。
目が合った。テツがいたのは境界線といえる場所だった。これより先に行けば、あの渦に巻き込まれるのは確実だ。現に、すでに道場生が少なくない数姿を消した。
目が合っている。懇願するような目だ。普段のおちゃらけた姿からは想像しにくいが、この人は傷つきやすいし、寂しがり屋な性格をしているのだ。ずっと一緒に剣を学んできたテツにはわかる。
助けられない。そう彼の脳が判断している。すでに半分以上のみ込まれている。いまから助けに行っても遅い。
助けられないのだ。
だというのに、自然と足は動き出していた。
「なんだよ、これ。意味わかんないよ」
見捨てるべきだ。普通そう考える。現に彼以外、誰も助けようとする人間はいない。当主はどうしたんだ。親が頑張らなくてどうする。いつも威張っている連中はどうした。能力を使えば、ぼくなんかよりもよほど効率よく助け出せるはずだ。いつもぼくを馬鹿にする連中はどうした。いまこそ勇気を示すときじゃないのか。
差し出された手を握る。白い雪のような肌をしている。剣を握るには相応しくない。
潤んだ瞳を向けられる。そんなんじゃない。自分はそんなつもりで助けようと思ったわけじゃない。ただ、なんだ。ただ勝手に身体が動いてしまったのだ。頭では見捨てるべきだと考えて、身体は躊躇せずミコトを助けに走っていた。
くそ、救えない馬鹿だ、と自分を罵る。どちらか一方なら良かったのだ。助けるなら、全身全霊で助けて、見捨てるなら悪逆非道に見捨てるべきだったのだ。なのにこうして中途半端にも手を握ってしまった。
この馬鹿野郎、とあらん限りに自分を罵倒した直後、テツは巨大な力の渦にのみ込まれていった。