第25話
「貴族様のお城の中を見れたんだろう? いいなあ、テツは」
懐かしい曲調の音楽が奏でられている。団員や女たちが手にした楽器からは、陽気なテンポのメロディーが絶え間なく鳴り響く。声がかき消されないよう、いくらか意識しながら、大きく口を開いてシンシアはいった。
現実とはまるでかけ離れた感想に、城から帰還したテツは胃の痛い記憶しか思い出せないので盛大に顔を顰めてみせた。
「緊張しちゃって見物どころじゃなかったですよ」
「そうそう。高価な物がいっぱいあった部屋なんか、生きてる心地がしなかったわ」
テツとミコトは声を揃えて、あまり楽しいものではなかったことを主張する。テツは根っからの一般庶民であったし、家が剣術道場だったミコトの実家も質実剛健な生活をしていたのだ。城での経験は、そんな彼らの価値観の遥か彼方にあった。
少しも楽しそうでないふたりの意見をきいたシンシアは、「そんなもんかい」とよくわかっていない表情を浮かべた。実際に見てみないとわからない事柄である。留守番だった彼女には実感が沸かないのも無理はなかった。
夜の帳が降りて、傭兵団の駐屯地には焚き火が起こされている。十分とはいえない光量でも、ほのかに照らされた雰囲気は格別である。見慣れた人口の明かりとは一味違った空気をかもし出している。
音楽に合わせてステップを踏む姿がちらほらと見受けられる。踊りに縁のなかった面々が、傭兵団の女たちに踊り方を教わっていた。アリアやサツキも思い思いにロボットダンスを披露している。
ぎこちない動作に笑いを誘われる。アリアがテツに気づいて手を振った。それに答えてやると、俄然やる気を出した彼女は真剣な表情でステップを踏み始めた。けれども努力は直ちに報われるはずもなく、ロボットから操り人形に変わった程度の違いしかなかった。
「なんとも味のある踊りをするんだね、アリア嬢は」
「見ようによっては独創的といってもいいんじゃないかな」
意地悪な意見は聞こえるとまずいので、小声で交わし合う。
傍らのミコトは踊りに混ざらず、テツの隣でコップを傾けていた。ときおり思い出したように、スイと踊る弟にヤジを飛ばす。赤面して俯く弟の姿に、性悪な姉は心底満足した格好をした。
「……なんて意気地の悪い性格ですか」
「褒め言葉と受け取っておくよ」
「残念なことに、耳鼻咽喉科は近くにはないんです。ミコト姉さんのビョーキは治せそうにもありません」
テツはゲテモノ料理でも出されたような声を上げた。
「なんでわからないかなあ。これはコミュニケーションの一環だよ。仲睦まじい姉弟間のね」
ぱちくり、と下手なウインクをしてミコトはのたまう。
「キョウイチはクール気取ってる悪癖があるからね。こうして調子崩してやった方がいいのさ」
「そんなことしなくても、キョウイチとスイは上手くやってると思いますけど」
まじまじと幼馴染を観察しながら、
「お似合いのカップルじゃないですか」
「なあに? 仲のいい幼なじみカップルに嫉妬かい? ひとりだけのけ者されちゃあ、ズッコケ三人組メンバーとしては、寂しい限りだもんねえ」
「いつの間にグループ名が決まっていたんですか。そんな愉快なネーミングのトリオにはなりたくないですよ。腐れ縁なのは否定しませんけど……」
小・中・高と幼馴染と顔を付き合わせ続けるのも珍しいことではないだろうか。世間一般では、男2人に女1人の幼なじみはドラマにされやすいが、そういったドロドロ愛憎劇を繰り広げた経験はない。そもそもがキョウイチとの間には絶対的な差があったわけだし、スイが自分のような人間に惹かれるとは想像すらしたことがなかった。それどころか、テツはキョウイチに憧れて友人になったのだ。始まりの記憶は、いまになっても忘れたことがない。
「そうなの? スイってば美少女じゃない。おっぱい揉みたいなあ、ふとももスリスリしたいなあ、とかエロい妄想しないわけ?」
「……しませんよ」
「うっそだあ! ぜったい嘘だあ! テツってばムッツリスケベだから口に出さないだけでしょ」
ハイテンションで追求してくるミコトにげんなりして助けを求める。その先ではポールとシンシアがいちゃついていた。砂糖を吐きそうな空気にやられたテツは、まな板の上の鯉のような気分になった。どうやっても、ミコトのエロトークからは逃げられないらしい。
「ほら、想像してみてよ。落ち込んだ様子のスイがテツに相談を持ちかけてくる。『ねえ、ちょっといいかな……』テツは真剣に相談事に乗ってあげるの。真摯な態度に気を許したスイは不安な心情を暴露して潤んだ瞳を向けてくる。『優しいんだね……』いい雰囲気のふたり。そのまま距離は縮まって重なるふたりの影。ああ、許されぬ恋路。スイの変化を察知したキョウイチがテツに詰め寄る。『何か隠し事してるんだろ?』激しい剣幕にテツは観念して、スイとの関係を白状する。『ぼくがいけないんだ……』口論になる男たち。殴り合い、罵り合い、やがて力尽きて両者は仰向けに寝っ転がる。『やるじゃないか』『君こそ』爽やかな表情のふたり。諍いを克服したふたりの親友は強い絆で結ばれる。それは禁断の恋の始まりだった。スイを巡る三角関係は薔薇の香りをかもし、それに誘われた美しき青年、ポールさんが参戦し、愛と憎しみのスクウェア……!」
反論を許さぬように一気に喋り抜けたミコトは、一仕事やり遂げた後の汗を拭って、
「どうよ?」
「姉さんがどうにもならない悪食だというのはわかりました」
冒頭部分に覚えがなくもないテツはひやりとしたが、最後にはついていけないジャンルにまで手を出される始末である。少々姉貴ぶんの正体に疑念を持つ内容だったのはいうまでもない。
「だが悪くないストーリーだったな。劇作家にでもなれるんじゃないか」
感心した様子のポールが会話に混じってくる。彼の正気を疑う発言に、テツはこの世の終わりが来たような顔になった。
「別にテツを狙ってるわけじゃないから安心しろ」
「ふう」
「ほう」
安堵のため息が二度つかれる。テツが目を寄越すと、その当人は明後日の方向を向いていた。
「仲のよろしいこって」
息のあった様子を見て、ポールは苦笑いをした。
「ところでテツ、おまえ、昼にガヴァン副長と仕官の話してただろ?」
気を取り直すように話題を変えるポールにありがたいと思いつつ、テツは「うん」と返事を返す。
どうやらポールは仕官に賛成であるようだった。マーソン伯を後ろ盾とできれば、不安定な生活ともオサラバできると力説する。
ポールのいうことも最もだ、とテツは前置きした。
「一番問題なのは、既に存在している組織との軋轢だよ。傭兵団が後から重要なポジションに割り込んできたって考える連中が必ず存在する。彼らからすれば、傭兵団なんて害虫みたいなものだよ。仲良くやろうなんて、天地がひっくり返っても思わないんじゃないかな」
「だがガーティ様のお墨付きがあるんだぞ」
「……ガーティ様は確かにやり手だけど、部下の全てを掌握しているわけでもないと思う。主の方針に反感を抱いても不思議じゃない。ポールも覚えてるだろ、あの後ろに控えてた男のこと」
ポールは眉根を右手で揉みほぐして、「あの男か」と呟いた。
「陰険な野郎だったな。確かに、あれは何か腹に一物抱えている雰囲気だった」
やれやれ、と彼は意気消沈した。大分今回の提案に乗り気だったのだろう。根無し草である傭兵団員からすれば、飛びつきたくもなる一大事である。彼でなくとも、期待してしまうのは無理もない話だった。
「騎士ってのも、悪くはないと思ったんだけどな……」
ポールは遠い過去を省みているようだった。ブルーの瞳は少年が夢見ていた光を残している。きっと、遠くない昔には、剣を掲げた騎士姿の己を夢想したことがあるに違いなかった。
パートナーの項垂れた格好に我慢ならなかったのか、隣で様子をうかがっていたシンシアは「いつまでもうじうじするんじゃないよっ」と強引に彼の腕を取って踊りに繰り出した。呆気に取られたようであったが、気を取り直した彼も吹っ切った様子で踊り出す。
あれでなかなか息の合ったパートナー同士なのである。テツは阿吽の呼吸で軽快にステップを踏んでいる彼らを、眩しいものでも見るかのように目を細めて見た。
ふたりのなり初めは物騒なものであったらしいけれど、その辺の夫婦よりかよっぽど仲睦まじい。先入観だけでは、人間関係を到底語り尽くせるはずはないのだ。
テツは耳に慣れてきた音楽を口ずさむ。すると、腰の横に置いていた右手に添えられる感覚がした。それはひんやりとしていて、尚且つあたたかみのある手のひらだった。
みなは踊りに夢中になっている。その喧騒から外れる位置に腰を下ろすテツとミコトには、あまり注意を払っていないようだった。もしかしなくても、普通でない雰囲気に突入していることを意識せずにはいられない。
あれほど茶化していた様子はどこへやら、無言で手を絡ませてくるミコトを振り払えずにいた。何か大きな力に押さえつけられていて、身体の自由が効かない気がした。心臓の鼓動は優しくないビートを奏でている。
「……」
「……」
口の中が乾いていて、唾液を飲み込む音がやけに大きい。
パチ、と目の前の焚き火がはぜる音がした。
それを待ちわびていたかのように、ミコトは距離を詰めてきた。あっという間にふたりの間にあった空間は消失する。息遣いさえも感じられるほどだ。テツは口を開きかけ、いうべき言葉が見つからずに空を仰ぐ。
陽気な音楽が遠くに聞こえている。人の笑い声や話し声が、得難いバックミュージックとなって彼らの心を揺さぶった。
テツの右肩には、かすかな重みが感じられる。彼女の甘い香りと、黒髪の柔らかさがくすぐったい。それでも無言を貫く男に焦れたのか、非難する目付きを彼女は向けてきた。
泣き笑いの表情を浮かべてテツはいった。
「冗談にしちゃ、たちが悪いです」
「―――――冗談なんかじゃない。こんなときまでふざけたりしないわよ」
ミコトは少し傷ついた様子だった。
「でも、ミコト姉さんには……」
「軽い女だと思う? 少しくらい遠距離だからって、違う人を好きになってさ」
皮肉げにいうミコトに、答えられず黙り込む。恋人たちの間に存在する距離は果てしない。それはきっと、ありふれた恋や愛といった感情では超えることのできないものだ。希望では太刀打ち出来ない大きな壁が、絶望的に道を阻んでいる。
どうして非難できようか。明日をも知れぬ身であるのは、テツだって同じことだった。近くにぬくもりを感じたい。寂しさを紛らわしたい。そう考えることは、至って間違えた考えではない。
このまま彼女を受け入れることが正しいのだろう。人間としても男としても、目の前で打ちひしがれる女性を慰めるべきなのだ。優しい言葉をかけてやるだけでもいい。そっと抱きしめてやるだけでもいい。
けれども、遠見テツという人間は、そんな常道の行動をよしとしない種類だった。自分自身でさえ、おかしな人間であると自覚している。自覚しながらも、もう修理はできないのだな、と諦観にも似た心境になっていた。
だからせめてもの償いに、テツは彼女の額に口付けた。親から子への親愛を示すような、優しい口付けだった。
予想外の行動に赤面した彼女は、額を押さえて恨みがましい目を向けてくる。口元はへの字に曲がって抗議を主張している。感情のタガが外れかけているのか、若干涙目である。
さて困った、とテツは明後日を向いて誤魔化すしかない。額にキスとは、我ながら二十歳過ぎの女性にするようなものではなかったかもしれない、と猛省する。自分が外人ならば絵になったのだろうが。
猛り狂う感情を整理するように「うー」と処理音を発生させていたミコトだったが、やがて収まりがついたのか、深い溜息と共に激情を取り下げてくれたようだった。それでも満足ならないらしく、テツの右腕は彼女にがっちりとホールドされてしまっている。万力よろしく締め付けられて、彼の右腕はギブアップ寸前であった。
「このヘタレ」
ごもっともな意見であった。テツはいい訳も反論もせずに、ミコトの口撃を受け入れざるを得ない。
「鈍感っ、唐変木っ、意気地なしっ。何とかいったらどうなんだよ、テツ」
ぼくが女性に疎いだけのヘタレであったなら、どんなに素晴らしいことだっただろうか、と思わずにはいられなかった。そうすれば、遠見テツという人間は、強引にでも腕を引っ張ってくれる彼女と共に歩むことができただろうに。
しかしながら、いまこの場に存在する遠見テツは、草切ミコトをもってしても修正できない。最早彼女とは同じ道を歩むことはできそうにない。それは途方もなく悲しいことだった。そして、その事実を淡々と受け入れてしまう自分は何なのだろう。まるで自分が人間そっくりの人形になってしまったかのようだった。
埒があかない。彼女はいった。確保していた獲物の腕をむんずと掴み立ち上がる。そして音楽が流れる舞台の中心へと歩みを進める。
テツの抗議などお構いなしだった。挑む目付きにたじろぐと、ミコトは憮然とした声色でいう。
「踊りだ。そう、踊るのよ」
「はい?」
「わたしと踊りなさい。難しいことなんか考えられなくなるくらいに。ただ無我夢中に」
タン、と彼女はステップを踏み始める。テツはそれに合わせて動き始めるしかなかった。もともとこの手の踊りは、型なんてあってないようなものだ。音楽に合わせ、リズムに乗って踊ればいい。
突如乱入したテツとミコトのペアに周囲は沸き立った。触発されたのか、既に踊っている面々も、俄然やる気になって熱が入り始める。それが奏者にも伝染して、アップテンポの音楽はさらに勢いを増した。
最初は遅れがちだった呼吸も、しばらくすると重なり合ってくる。その調子だ、とパートナーの目はいっていた。
両腕で抱擁し、見つめ合う形でふたりは踊る。聞こえてくる歓声と、すぐ傍に感じる相手の吐息。この世界には、もうお互いしか存在しない錯覚に陥る。みなに囲まれながら、どこまでもふたりっきりの世界。
踊りなさい、と彼女はいった。
テツは熱に浮かされながらも、相手の力強い瞳やすっきりした顔立ち、流れる栗色の髪の一本一本まで手に取るように感じることができた。
踊りなさい、と彼女はいった。わたしのことしか考えられなくなるくらいに、とも。
彼女の手は柔らかかった。決してゴツゴツとしていない。彼女の手はあたたかかった。決して生命を感じさせぬ冷たさではない。彼女の手は優しさに溢れていた。決して生命を奪う鋭利さを秘めてはいない。彼女の手は愛に満ちていた。決して死を連想させる鋼ではなかった。
くるくる、と踊る。
彼女は心底楽しそうに跳ねる。踊る。ステップを踏む。
ああ、とテツは思った。ミコトの優しさが身に染みていた。彼を思って、彼女は踊りに誘ってくれたのだ。おぼろげに感じる不安を察知してくれた彼女が、どうしようもない人間を最後まで見捨てずにいてくれたのだ。こんなに嬉しいことはなかった。
なのに、思わずにはいられない。
がさついた灰色のグリップを。抜き放つ際の甲高い金属音を。日の光を照り返す鈍い鉄の煌きを。
遠見テツは、剣を思わずにはいられない。
これは愛なのだろうか。そんなはずはなかった。ならば執着なのだろうか。そんなこともなかった。だったら逃避なのだろうか。それならば簡単な話だった。
遠見テツにとって、剣は全ての始まりであり―――――その結末でもあった。
ああ、と不出来な自分を嘆かずにはいられない。どうしてミコトを受け入れられないのだろうか。彼女は幸せになって欲しいと思うし、幸せにしてやりたいとも思う。その気持に突き動かされる自分を夢想し、それは素晴らしいことだと確信する。
そのビジョンの前に、墓標のように立ちふさがるものがある。剣だ。剣なのだ。こいつと出会ってしまったせいで、彼は遠見テツという人間に製造されたのだ。
これほどまでに熱い身体を感じているというのに、彼はある絶望に打ちのめされた。呻き声が漏れないよう必死に取り繕った。瞳から悟られないよう、全身全霊をかけて。
遠見テツは踊れない。もう、彼女とは踊れない。
もう、誰とも踊れないのだ。