第22話
草切キョウイチが遠見テツと出会ったのは、小学生の頃であった。初めての登校日、見慣れない教室では、新入生たちはこれから通うことになる学校に興味津々の様子だった。キョウイチも例にもれず、知らない顔ばかりに囲まれている不安感と、これからの学校生活に胸を踊らせていた。
やがて担任が教室に現れ自己紹介を済ますと、キョウイチたち新入生も自己紹介をすることになった。みなに注目されているという緊張感は、名前と顔を覚えるために四苦八苦しているうちに、どこか遠いところへと消え去っていた。
当たり障りない無難な挨拶を済ます。残念なことに、近くの席以外の者の名前は、初日だけでは殆ど記憶に残らなかった。おそらく他の子供も同じだろう。誰も彼も初めての顔合わせで、一気に何十人もの名前を覚えられるはずがなかった。だから、遠見テツの名前もあとになって知ることになる。
学校生活も始まってしばらく経つと、各々が仲のよいグループ同士で集まることになる。キョウイチは席の近かった子供とよく遊んでいた。しかしながら、彼はいつも物足りなさを感じていた。運動は彼がいつも一番であった。勉強も周囲の子供が頭を悩ませる中、彼は大した労力もせずに習得していった。
どうしてみなは、あらゆることに手こずっているのだろう。幼心にキョウイチは不思議でならなかった。もっと効率のいいやり方があるのに、そうしない。しかも親切心で教えてあげると、迷惑そうな顔をする。
彼は聡明であったから、あまり出しゃばるとみなに敬遠されることを知っていた。だからトップの位置を占めつつも、威張ったりすることはしなかった。家が厳格であったおかげかもしれない。いつの間にか、彼は教室の中心人物になっていた。
キョウイチくんは凄いねえ、とよく褒められた。けれど彼は、その言葉に何の感慨も抱かなかった。それは単に、「いちおくえん」と書かれた値札の貼られた壺を見て、周囲の人間が「高価だねえ」「凄いねえ」と感心しているようものなのだ。相手も別に、彼の何を知っているわけでもない。表面上からしか人は判断できない。他でもない、彼自身もそうだったのだから。
年上の大人たちと話している方が気楽だった。同年代の子供と話していると、彼らとの間に齟齬が生じている気分になる。得体の知れない不安感が沸き上がってくる。それはきっと、彼らが悪いのではなくて、自分に問題があるのだ。
姉に相談すると、似たような経験を彼女もしたことがあったらしい。けれどそれは一過性のもので、大きくなるにつれて解消されると諭された。
キョウイチはその言葉を信じて、もやもやする心中を抱えながら生活を送っていた。
そして遠見テツと知り合うきっかけが訪れる。それは学校の運動行事がきっかけだった。
スポーツというものは、個人競技でもない限り、ひとりがずば抜けていても勝利を得ることは難しい。クラスのみなはキョウイチの活躍に期待していたが、彼ひとりの力では如何ともしがたく、クラスは結局敗退することになる。
そのときに感じたのは、みなの失望感だった。キョウイチがいるのならば勝てるという幻想に取り憑かれていた彼らは、まさか敗退するとは思ってなかったのだろう。口には出さないまでも、居心地の悪い空気になってしまった。
他の子供と違っていたのは、そのことを理不尽だと思いつつも仕方がないと考える思考を彼が持っていたことだ。全く子供らしくないといえた。悔し泣きしているクラスメイトの方がずっと健全に違いなかった。
学校からの帰り道、いつもならばクラスメイトと帰る道を、彼は「用事があるから」と別のルートを通っていた。少し気まずい雰囲気が残っていたし、彼も気分転換をしたかったからだ。
自宅は剣術の道場を開いていて、住宅街を抜けた先の辺鄙な丘向こうにあった。キョウイチが歩いているのは、遠回りになるルートで、用事がなければ絶対に通らない道筋だった。
普段と異なる風景は、沈んでいた彼の心をいくらか癒してくれた。まるで探検しているようにきょろきょろと目を周囲にやりながら、あの家の犬は大きいとか、三角屋根の面白い家があるとか、様々な発見をしながら進んでいった。
カーブミラーに映る自分の顔が、明るいものになっているのを確認する。こっちに来て正解だった、とキョウイチは満足した。
しばらく行くと、小さな公園が見えてきた。砂場とブランコが唯一の遊具で、他にはベンチすらなかった。とてもではないが、子供たちの好奇心をくすぐる造りをしていない。
その公園に人影があった。背は高くなく、キョウイチより一回りほど小さかった。その影は一心に足でボールを操っていた。彼の目から見ても不器用なもので、サッカーというよりは、ボールによる人間遊びといった方が無難だった。けれど集中力は本物らしく、公園内に入っていっても、一向に気づく様子はない。
足をもつれさせたその子供が転ぶ。ボールは逃れるようにキョウイチの下に転がってきた。そのときになってようやく気づいたのか、「あ」と間抜けな声を上げたのだった。
近くから見ると、キョウイチはその子供に見覚えがある気がした。記憶の引き出しを引っ張っていると、その子供がクラスメイトであることに気づく。だが名前がとっさに出てこなかった。彼にしては珍しいことだった。
「あの、ボール……」
その子供は、人質を取られた母親のような表情だった。悪いことはしていないのに、何か過ちを責められている気分になったキョウイチは、釈然としないままボールを手渡した。
受け取り、「ありがとう、キョウイチくん」とその子供はいう。「う、うん」とキョウイチはどもりながら返答した。こちらは名前が思い出せないというのに、相手は知っているとなると罪悪感を覚えずにはいられない。
そんな心境を読んだのか、
「ぼくは遠見テツだよ。何度か話したこともあるよ」
「そ、そうだっけ。ごめん、名前覚えてなくて」
ううん、と遠見テツは首を振る。自分も人の名前を覚えるのが苦手だから気にしない。そういって苦笑した。
テツは口数が少なかったけれど、驚くほど的確な受け答えをした。こちらのいいたいことを汲んで、期待する答えを返してくる。同い年のクラスメイトたちとは、一線を画した思考力を持っているようだった。
ならばなぜ、こんなにも目立たない立場にいるのだろう。キョウイチは疑問に思った。確かに、自身の能力を誇示し過ぎるのは、人間関係を築く上でいい影響を与えない。それでも、人には「他人からよく見られたい」という欲求が少なからず存在するはずだ。だから人間は着飾るのだし、褒めてもらうために勉強やスポーツを頑張る。もしも行った行動に何の反応も返ってこなかったとしたら、果たして人間は努力を続けられるのだろうか。
その点、テツの行動は奇妙の一言につきた。運動音痴というほどではない。サッカーも、まだあまりやったことがないだけで、遠くない内に上達することが見て取れた。
他愛もない話をしながらも、テツはボールを蹴ることをやめなかった。まるで見えない相手とボールを取り合っているような錯覚がした。キョウイチは彼に、説明のしようがない感覚を覚えた。それは、自分とは違った得難いものをもっている彼に対しての羨望とも取れるものだった。
夕焼けの公園は静寂に満ちていて、遠くで鳴くカラスの声だけが響いていた。飽きずに淡々とボールを蹴る姿は、無声映画のようであって、いつまで見ていても飽きさせない。
熱心に観察するうちに、テツの姿が一瞬、自分の姿と重なって見えた。首を傾げる。キョウイチは、サッカーをしている己の姿を第三者視点から見たことはなかった。それなのに、テツの動き、それは紛れもなく自分のものを真似たものだった。
勘違いかもしれないと思いつつも、キョウイチはさりげなくたずねてみることにした。
すると、返ってきた答えは予想通り、キョウイチの動きを真似ているというものだった。ドリブルの上手さだとか、フェイントを入れるタイミングだとか、意識して行っていないことにまで彼は言及していた。そして少しでも覚えているうちに、自分もできるようになりたいと語った。
褒められているようでむず痒い思いがした。キョウイチは、このクラスメイトがお世辞でも何でもなく、自らの向上のためにキョウイチを手本にしていると知って誇らしい気持ちになった。それはいままでに感じたことのない感情だった。
口先だけでない、行動を伴ったテツの憧れは、その真剣さを通じて余すことなく伝わってきた。
「教えてあげようか?」
遠慮がちにきいてみると、尻尾でも振っているかのように満面の笑みでテツは頷いた。彼は素直で、実直だった。そのぶん、黙っているときは仏頂面だった。そのせいで気難しい子供だと思われがちであったテツを、キョウイチは気に入っていた。
サッカーはなかなか上達しなかったけれど、根気強く教えていくうちに、目を見張る成果を上げることができた。彼はいわゆる、大器晩成型の人間らしかった。身につけるのは遅いのだが、一旦ものにすると、付け刃でない確かな運用をしてみせる。
それ以来、キョウイチとテツは一緒にいることが多くなった。大体は、キョウイチの後ろをテツが追いかけていた。それが彼らのスタンスであった。泣き言もいわず、後を追いすがってくるテツを尊敬さえしていた。大げさにいえば、彼らは補完し合う関係だったのだ。
キョウイチが実家で教えている剣術道場にテツを誘ったのも自然の流れだった。そこでは新たにスイを加えた3人となった。彼らは小学生のうちから熱心に修練に励み、大人たちからも目をかけられていた。
だが、大きな、良くない転機が訪れたのは中学校に上がってからのことだった。
この世界において当たり前に存在する『気』という力。それを遠見テツは全く扱えないことが判明したのだ。それは日常生活においては支障のないことであっても、剣士としては致命的であった。
中学生の年齢になると身体も出来上がってくるので、能力の開発が修練に含まれるようになる。その過程でテツの欠陥が判明した。全くの無能力というのは稀なことで、キョウイチの父である当主も、姉のミコトも驚愕を禁じ得ないようだった。
テツは、自身の欠陥を知っても、表情を変えなかった。彼の心中を知れないキョウイチであったが、その長い付き合いから、落胆していることはうかがい知れた。ただ、それを微塵も感じさせないだけだった。
無言で自身の手のひらを見つめ、それから手を前方に付き出したテツは、ゆっくりと拳を握りしめた。理不尽に対する挑戦のようにも見えた。姿のない相手を見定めているようにも見えた。
かける言葉がないのはみな同じであった。スイなどは、「テツはやめちゃうのかな」と寂しそうにいっていた。けれどもキョウイチだけは、根拠のない確信があった。あいつはこんなことを気にするはずがない、と。
その予想は的中した。能力の欠陥が判明してからも、テツは道場に通い続けた。試合をすれば、連戦連敗で、周りからは変人と馬鹿にされても剣を置かなかった。スイは見ていられないと、やめるよう説得した。テツが彼女のいうことを聞かないのを悟ると、周囲の人間と同じように彼を罵った。そのたびに苦しげな表情をするスイを慰めているうちに、キョウイチとスイは付き合うことになった。
唯一の救いとなっていたのは、姉の存在だった。ミコトはテツを気にかけ、いつもお気楽な雰囲気で話しかけ続けた。その攻勢に白旗を上げたのか、テツも彼女を受け入れた姿勢を見せるようになる。
姉の存在をこのときほど頼もしく思えたことはなかった。そして、テツに対して言葉にしようのない畏敬を覚えている自分に困惑していた。
昔から、あらゆることに対して、諦めることをしなかったテツを尊敬していた。けれど、今回の件はキョウイチの理解を超えた領域の出来事だった。
能力を扱えないということは、これから先、テツは能力者に一方的な剣を振るわれることを意味するのだ。誰が好んで、雨のような剣戟に身を晒し続けるというのだろう。剣術が勝者と敗者を創りだすのだとしても、それは負けるために剣を取るのではない。いつか勝つために素振りをし、型を覚え、立ち会いの稽古を行うのだ。
ならば、テツは―――――遠見テツは、絶対に勝利できない剣に、何を見出すのだろう。
キョウイチの心中に、怖気のような、得体の知れない感情が巣食った。それは徐々に成長していった。テツに対する侮辱だと感じながらも、払拭することはできなかった。同じ感情を抱いたからこそ、スイを始めとした人間が、テツを攻撃していたのだと遅まきながらに理解した。
人間は、理解できないものを恐れる。
過去の回想から気を取り戻したキョウイチは、罪悪感と恐怖心とに襲いかかられ、吐き気に口元を押さえる。
慌てて狼狽するスイとティアに大丈夫だと告げながら、ままならない自身の感情を鬱陶しく思わずにはいられなかった。どうしておれは、テツを信じてやることができないのだろう。姉のようにテツを励ましてやることができなかったのだろう。
いつも、そう思うたびに、テツのあの目を思い出す。
一方的に打ち込まれ、痣を作りながらも、失われない目の奥の輝き。歪んだ笑みを作る口元と、鈍い光を放つ瞳が語るのは、怒りや憎しみといった、ありふれた感情ではなかった。
ああ、とキョウイチは失われた日々を懐古した。
それに伴って、心の中の大切なページが抜け落ちていく感覚がする。それは少しずつ、やがて音を立てて落丁していく。遠見テツに対する好意、嫉妬、哀れみ、畏れ。そんなものが目の前を過ぎていく。
おれには、もう教えてやれることがなくなってしまったのだ。疼くような寂しさが心中を支配した。キョウイチが悟ったのは、友との決別、そして友への裏切りだった。
だが許せとはいわないよ、テツ。キョウイチはかたく目をつむった。自己保身的な謝罪の言葉は、テツの嫌うもっともな行為だからだ。彼はそんなものに価値を見出さない。その代わり、遠見テツが望むとしたら、きっと―――――。