第2話
掃除自体は手馴れていたこともあって時間はかからなかった。予定通り、完全に日が落ちるまでに終わらせると、帰り支度を始める。手を洗うついでに身体も軽く水で拭いたから、汗の不快感はそれほどでもなかった。
道着をまとめてナップザックに入れる。
あとは道場の使用が終わったことを報告すれば終わりだ。
さすがに空腹で目が回りそうだった。しかも母屋から流れてくるうまそうな料理の匂いがさらに追い打ちをかける。
断食をする修行僧のような心持ちでテツは母屋へと向かった。報告するべきは草切の家の人間である。10年も通っていることもあって、テツはすっかり顔なじみだった。
珍しいことに、能力者主義が多い旧家の中において、草切の人間はテツを差別したりはしなかった。それはひとえに、幼少から目を見張るほどに鍛錬に明け暮れる彼の姿を知っているからだった。
才能はない、と自覚しつつも動じない姿は、気を扱うエキスパートとして名高い草切をしてうならせるほどであった。
純和風の建物は威風堂々としていて見応えがある。こんな家に住めたら毎日鍛錬三昧なのにな、とテツは羨ましく思う。彼の家はなんてことない平凡な家なので、満足に動き回れるような庭などなかった。剣を振りたくても、そのスペースがないのだからどうしようもない。一度、部屋の中で素振りを行っていたら、畳をすり減らすわ危険だわと、家族の怒りを買ってしまった。それ以来、テツの家では素振り禁止になっている。
中庭を望める廊下を進んでいくと、前から見覚えのある人物が歩いてきた。
肉食獣のようなすらっとした体つきに、栗色の髪を邪魔にならないよう背中に流すように赤いヘアバンドでとめてある。テツに気づいたこの家の長女、草切ミコトは人好きのする笑顔で「よう」と手をあげた。
「テツはまだ練習してたんだね。お姉さんは感心だよ」
「こんばんは、ミコト姉さん。道場の掃除が終わったんで報告にきました」
そういうと、ミコトはのどに小骨が刺さったかのような表情を浮かべる。
「あれ、確か今日はテツの当番じゃないだろ?」
「最後まで残ってたのがぼくだったんで」
「……また押し付けられたのか。ったく、あいつら」
とっちめてやらなきゃな、と息巻く彼女に苦笑する。
「そんな気にすることでもないですよ。掃除だって鍛錬のうちです」
ミコトは目元を手で覆って、「かあーっ」と親父臭い声をあげた。どうしてこの人は女子力を自ら下げるような真似するんだろうな、とテツは引きつった笑みを浮かべた。それでいて道場生からは憧れの眼差しを向けられるのだから、世の中というのはわからない。
テツは目の前のたわわに実った膨らみに目を奪われる。思春期の男子諸兄には劇薬にもなりかねない代物である。シャワーを浴びたあとであるのか、タンクトップ一枚という格好なので余計にたちが悪い。
男所帯である道場の娘であるせいか、そういった部分に疎いところがあるようだ。幼少のときから才能ある剣士として注目されていたこともあって、視線に慣れた彼女は周囲の目に鈍感な性格になったのだった。
「そうだ、テツ。よかったら夕飯食べていかない?」
十年来の顔なじみというだけあって、テツはよく草切家の夕飯に招待される。昔はよくお邪魔したものだが、最近はめっきりそういうこともなくなっていた。
空腹に苛まれる脳みそはすぐにでも了承したいと思ったようだが、根性でそれをねじり伏せる。
色よい返事を期待できないのを悟ったのか、答えを聞く前にミコトはテツの腕をとった。逃がさないといわんばかりにホールドしてくるので、空腹感を彼方に飛ばす柔らかさが彼を襲った。
「まさかこんな美人のお姉さんのお誘いを断るはずがないわよね?」
「いや、ぼくは」
きっと擬音語ならば、むにゅ、とでも表現されているだろう密着攻撃の激しさはさらに増す。男としてはもっとサービスしてほしいところなのだが、文明社会に生きる知的人たるテツの理性はなんとか劣情の腕を振り切った。
「わ、わかりましたよ。わかりましたから、早く離れてください」
「むふー、新鮮でよろしいなあ! やっぱり男はチェリーちゃんがいじりがいがあるよ」
「あなた彼氏持ちでしょうに……」
付き合っている彼氏が聞いたら卒倒しそうなことをのたまうものだから、テツは生ごみにたかるハエを見るような目付きを向ける。
「大丈夫だって。あの人の前ではちゃんと自重しているし」
にしし、と笑ってようやくテツを開放する。ミコトのスキンシップが激しいのも恒例のことだ。小学生のうちは、お姉ちゃんお姉ちゃんと慕っていたものだが、さすがに中学以降は気恥ずかしいものがある。
しかも、現在では付き合っている男性がいるというのに変わらないのだから、まだ見ぬミコトの彼氏には同情を禁じ得ない。自信過剰かもしれないが、テツは自分が間男にでもなったかのような心境だった。
無駄に長い廊下を渡り切ると、人気の多い居間についた。障子を開けて中に入ると、見知った顔が勢揃いしている。数時間前に別れたスイも食卓を囲む一員となっていた。
テツに気がつくと露骨に嫌な顔をしたが、それは一瞬だった。さすがに夕食の場で空気を悪くするような行為は自重するらしい。
彼女の隣には草切家の次期当主である草切キョウイチの姿があった。テツが小学校に通い始めて以来の顔見知りなので、幼なじみといっても過言ではない関係である。もっとも、最近は顔を合わせて遊びに行くということなくなってしまったが。
ちなみに、キョウイチとスイは親公認で付き合っている仲である。こうして家族の団欒に彼女が混ざっているのも様になっている。そこには、信頼する間柄に流れる空気があった。
「父さん父さん、テツが混ざっても大丈夫だよね? いや、今夜はすき焼きだっていったら、どうしても食いたいって駄々こねるもんだからさ」
「いや、それは……なんでもないです、はい」
捏造話に抗議しようにも、ミコト相手ではどうにもならない。ミランダ権利をすっぽかされた被疑者のような心境で諦める。
居間の上座に腰を下ろしている男性は、微笑ましく「構わんよ」と着席を促した。ミコトとキョウイチの父であるこの男性は、現在の草切家当主である。そして当然に道場主でもある。
テツにとっては、幼少の頃から世話になっている頭の上がらない人物だ。修練の最中には厳しく、甘えを許さない。それが身内であってもだ。しかし、ひとたび剣を離せば、気さくでダンディズムあふれる偉丈夫になる。
食卓を囲む面々は、草切の家の者にスイとテツを加えたものである。中には、道場のヒエラルキー最下層に位置するテツを嫌がる様子もある。とはいっても、当主が許したのだから文句をいえるはずもない。
一方のテツは物怖じしない態度で腰をおろす。勝手知ったる他人の家、とばかりに茶碗を受け取る。ひとりだけ浮いたような席順になってしまったが、致し方ないだろう。
当主の声と共に面々が「いただきます」というや否や、特号サイズの鍋に箸が突っ込まれる。身体を動かすのが仕事という連中ばかりなので、食事の量も並ではない。具材を投入するそばからひっ攫っていこうとする。あれ、まだ煮えてないんじゃないの、というテツの視線を無視してミコトの箸は踊っている。
席の近い者同士で会話に華を咲かせている中、テツは黙々と料理を胃に収める作業に余念が無い。かなりの空腹であったし、このメンツで親しく話をするのはミコトくらいだ。
話がなくて気まずい、なんていうレベルはもう数年前に卒業したので、別に食べるだけ食べてもなんら問題なかった。
それにしても、とテツは感動する。自分の家でやるすき焼きとはかなり違う。そもそも、すき焼き自体滅多に現れない料理だし、これはなんだ、肉が素晴らしいじゃないか。映えるような紅色に適度な霜降り。とてもじゃないが、テツの家の予算ではお目にかかれない代物だ。
「……なんだよ」
スイが今日何度目になるかわからない胡乱な目線を送ってきたので、動かす手をとめる。
「飛び入りで参加したっていうのに、よくもそんな遠慮なしに食べられるわね」
特に内容がある会話でもなかったので、それを無視して食べるのを再開すると、顔を赤くしたスイは声を荒らげて何かを喚いた。隣のキョウイチが「まあまあ」となだめている。
あの口うるさいのと付き合っているんだから、キョウイチはやるなあ、と感心する。テツであれば、何か特典付きであっても彼女とは付き合いたくないと思った。
つつがなく夕食が終了すると、テツは家に電話して帰りが遅くなることを親に告げた。たまにあるようなパターンだったので、彼の親も簡単に返事しただけだった。
さて、とくつろいでいる面々に近寄っていく。居間に残っているのは、同世代のメンツだけである。
「もう少し休んだら手合わせして貰えないかな」
テツは軽い調子で頼み込む。
「あんたも懲りないわね。いつもボコボコにされるくせに。自分が弱いって自覚してる?」
それはもう、と迷いなく同意する。自分がこの三人に勝てないのはわかりきったことである。慢心した馬鹿ならともかく、彼らは油断無くテツの相手をする。隙あれば躊躇なくそこをつくつもりだったが、なかなかそんな状況に巡り合ったことはなかった。
やる気のスイに対して、草切姉弟は気が進まない表情を浮かべている。勝負はわかりきっているから面倒だ、という弟に対して、姉はテツをぶちのめすことに抵抗を感じているようだった。
そこは口八丁で説得して、「本当に軽くでいいから」と参加させる。仮にも道場主の後継者たちだ。手合わせを頼まれて、いつまでも拒否できる立場ではない。
適度に腹もこなれたころを見計らって、居間から望める中庭に顔を並べる。
使うのは竹刀だ。いくら竹刀だといっても、直に打ち込まれれば怪我をすることだってある。特に能力者である人間の一撃は非常に重い。打ちどころが悪ければ、簡単に骨は折れる。
居間には、残っていた少数の草切家の人間が夏風に身を委ねながら観覧していた。よく冷えたスイカの共にはうってつけの余興らしい。
防具は付けない。軽い打ち合いだ。それでも気を扱えないテツにとっては、一撃はそのままダメージとなって打ち据える。逆に能力者にとっては、ダメージの軽減もお手の物である。
キョウイチとの立会いは3分とかからずに終わった。テツが打ち込み、キョウイチは冷静に受け流す。動体視力も強化される能力者はまさに鉄壁を誇る。テツは竹槍を片手にB29を相手にした旧日本兵より相手が悪かった。
続いてミコトが相手を務める。凛とした中段の構えはまさにお手本のように隙がない。攻めあぐねている間に、電光のような一撃を見舞われる。テツは殆ど視認せずに長年の経験則で竹刀を立てる。
強い衝撃。そのまま持っていかれそうになるのをこらえ、返しの一撃も受けきる。それだけで腕は痺れて使い物になりそうにない。
居間の見物人から感嘆の声がもれた。気を扱えない人間が能力者相手に数合といえども打ち合う光景は、なかなかお目にかかれない。テツを見下した目で見ていた者も、少しはやるようだな、と口を歪める。あくまで無能にしては、というレベルの話だったが。
結局、最後には受けきれず、したたかに右肩を打たれてミコトに敗れる。テツは呻き声をあげてその場にうずくまった。
「だ、大丈夫か、テツ」
慌ててやって来るミコトを手で制しながら、テツは乱れた息を整えた。熱を帯びている肩が徐々に冷える。本気で試合をしていたらこうはいかない。おそらくは、骨まで粉砕されて使い物にならなくなっていただろう。
大丈夫、と事務的に返事すると、彼女は普段浮かべない悲痛な表情を一瞬だけ浮かべた。まばたきした次の瞬間には、踵を返している。テツは首を傾げて、次の相手であるスイを呼んだ。
彼女は不機嫌そうに竹刀を揺らしている。もっとも、テツと顔を合わせていて機嫌のいいことなど皆無に等しい。
彼女は動きやすいように七部のワークパンツを履いている。上はプリントTシャツで涼し気な出で立ちである。手にした竹刀はいささか不恰好に見えた。
「スタミナだけはあるみたいね、あんた」
草切姉弟を相手にして、いまだ余力を見せるテツを皮肉げに褒める。
「基礎練習は嫌というほどやってるんだ」
腕立て、腹筋、背筋、スクワット、走りこみ。地味な基礎トレーニングをテツは好んで行った。すでに10年も前から徐々に回数を増やして現在に至っている。おかげで体つきはがっしりとした筋肉質である。それでも、俊敏性を失わないギリギリの体型を維持していた。
ふたりは竹刀を中段に構えると、どちらともなく静止した。辺りには張り詰めた空気が満ちる。
佐々原スイは、いってみれば炎だった。外見とは裏腹に、その瞳には闘志が見て取れた。溢れんばかりの生気に満ちた面構えである。
ク、と口元を歪める。テツは幻の火炎にでも焼かれた気分になった。少しでも油断すれば、骨まで焼き尽くす火炎だ。じりじりと皮膚を焦がされる錯覚。無様にひん曲がった口元からは、堪えきれない喜悦が漏れた。
それは流星の煌きのようだった。
鋭い踏み込みと同時に繰り出された唐竹割りは、テツの反応速度を超えて襲いかかる。まともに受けたら押し切られる。考えるよりも早く、身体は一歩ぶん後退する。
鼻先をかすめる感覚。手加減のない一撃だった。
それを見ていたミコトは諌めるようにスイの名前を呼んだ。だがそれに答える暇も与えずに、テツは全力で反撃に移る。
―――――それでいい。
下手な情けなど不要だった。こいつらはぼくを一撃でのせる力を持っている。ミコトとキョウイチはとことん手加減していたのだ。気を扱えない相手を前にして、強者は慈悲の心を見せる。だがそれでは足りない。足りないのだ。
テツが求めているのは圧倒的な敗北だ。自身を完膚なきまでに打ち倒す力だ。理不尽なまでに届かぬ力だ。
これこそが己を動かす動力となる。憧れとも憎悪ともとれない複雑な感情。幼いときから感じていた、どうしようもない劣等感。
なのに感じることができない悔しさ。
無残に打ち倒され、力の無さに嘆くことができたら、とっくにテツは剣を捨てていただろう。どうやっても勝てない世界で、どうして剣を握り続けることができるだろうか。
だが不幸なことに、彼は何度地面に叩きつけられようが、悔しさを感じることができなかった。それは当然の事実として受け止めるしかない。自分が能力者に勝てないのは必然なのだ。だから何度敗北しようが、予定調和でしかない。そこに確率は絡まない。築きあげてきた修練の結果さえも意味を成さない。
テツの反撃は軽くいなされ、態勢を立て直す間もなく一撃される。布団を叩いたような軽快な音がした。右側面から叩きつけられ、勢いそのままに距離をとる。
「つ……」
もれる苦痛。相手は回復を待ってくれるほどお人好しではない。追撃でさらに打ち込まれる。竹刀は一撃目しか支えきれず、続けざまの連撃は綺麗にテツの身体に吸い込まれた。
木刀のように芯には響かないが、十分に激痛を感じさせる。それでもまだ続けられる。
「ク」
痛みを堪える呻き声なのか、何もできずに防戦一方の己を嘲る声なのかわからない。テツの口元は笑みの形で歪む。彼の治らない癖だ。このせいで、立ち会う相手からは気味悪がられる。治そうとしてもなかなか治らないので、すでに諦めた。いまでは逆に、これが自分らしいと気に入ってさえいる。
相手にしているスイは見慣れているのか、眉を顰めながらも手を緩めることはない。一方的な蹂躙だ。完全に彼女のペースに呑み込まれたテツは、防戦の他に取る道はない。
それでも後ろに下がるだけではなかった。打ち込みの一瞬の間をぬって半歩進む。力で押し切られながらも前へ前へと進もうとする。
「このっ、体力バカ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、スイは大きく竹刀を振り上げる。その好機を見逃すはずもないテツは、この立会いで初めて小手を決める。
空気を裂くような澄んだ音がした。
スイは一瞬呆けたあと、「な……」と驚愕の表情を浮かべる。ダメージ自体はまったくといっていいほどない。しかし自分が一本決められたのは驚愕すべきことだった。相手は無能力者である。道場でも上位の使い手である彼女が小手を取られたのは、完全な失態である。
大勢に見られていることを思い出したスイは、羞恥に顔を赤くした。奥歯を噛み砕く勢いで強く噛み締める。
目の前のテツは自身よりも圧倒的上位者から一本取ったというのに、相変わらず気味の悪い笑みを浮かべている。そこには喜びの感情は見出せない。ギラギラとした視線は小手の一本など興味はない、といっているようだった。
叩く。それも力任せに。スイは手加減を忘れたように竹刀を叩き込む。
慌ててミコトが止めに入った。強かに打たれたテツは地面に伸びてしまっている。いまさらながらに、気を失った相手に剣を振るおうとしていたことに気づく。
「う、ごめん、ミコトさん。頭に血が上っちゃって」
「……まだまだ未熟だってことだよ。それよりも、早くテツの手当してやらなきゃ」
複雑そうな表情を浮かべたミコトは、テツを起こすのを手伝うよう手招きする。彼女たちは気を失ってさらに重さを増した青年の身体を担ぎ上げる。
居間には、救急箱を携えたミコトの父がどっかりと腰を下ろしていた。手早く痣を見て取ると、妻に氷を持ってこさせ、患部を冷やす処置をした。
スイは居心地悪い様子でそれを見ている。
「修行不足だな、スイ」
「そ、それは……はい。面目ありません」
大振りになって小手を打ち込まれたことといい、その後に冷静さを失ってしまったことといい、見逃せない大失態だ。
落ち込む彼女から目を離すと、当主は呆れた様子でテツを流し見た。能力者相手に見事に立ち回った青年を心中で賞賛する。
防戦一方だった中でも、根気強くスイが隙を見せる一瞬を待ち続けていたのだ。キョウイチやミコトが見せることがない隙だ。スイの性格を読んだ上で、わざと大振りになるようにけしかけたのだろう。
精神面では並ぶ者がいないほどの屈強さだ。それだけに惜しいと思う。この青年に気を扱う力を与えなかった運命を恨む。
だがそれと同時に、もしなんらかの形で気を扱う能力が得られる機会を与えられたとしても、この頑固者は絶対に受け取ったりしないだろうことが予想できた。または、何かの手違いで、能力者として誕生した世界があったとしても、テツは凡百の才で終わるに違いなかった。
難儀な男だな、と目を覚ましたら激痛にのたうつだろうテツを見て、当主は嘆息した。