第19話
街に近づくにつれて、その堅牢さはテツを圧倒した。要塞といっても過言ではない石壁に囲まれている城壁都市である。一大交易地とはよくいったもので、この守りがあれば、安心して商売を行えるに違いなかった。
街に入るための門も長大で、ここを閉鎖すれば、ある程度の攻城兵器にも耐えきれそうであった。いまは開け放たれている。出入りする馬車を監視する衛兵は、それほど厳しく取り締まってはいないようだった。
団長は壮年の衛兵から挨拶されていた。顔見知りであるようで、対応していた兵士の顔には尊敬の念も感じられるほどだった。団長の外用の顔は、無愛想でもきちんと対応している。集団のリーダーを務めるくらいなのだから、こういった付き合いも重要だと考えているのだろう。
短くないやり取りを終えると、一団は門をくぐって街に入城をはたした。ひっきりなしに馬や馬車が行きかい、辺りは騒然としている。様々な肌の色の人間が一同に集まって商売をしていた。
遠くには周囲より高い土地があって、荘厳な城はそこから城下を見下ろしていた。
活発な商売の様子からも、この街が非常に栄えているのは明白だった。この土地を治める領主はかなりの手練であるようだ。税が重かったり、商売するには不適な要素があったならこうもいくまい。
恐らく、商人にとって有利な環境を整備して、多くの人間を呼び込んでいるのだ。人が集まれば商売が生まれ、商売が繁盛すれば街も潤う。商う人間も、儲かればまたこの場所で仕事をした方がいいと考える。いってみれば簡単なことだが、実際に現実とするには並大抵の努力では済まないはずだ。
「わあ……」
隣では、大口を開けて興味津々ぶりを示している。少女はずらりと並んだ露店を物珍しそうに眺めていた。この通りは装飾類を中心に取扱っているらしく、太陽の光に反射して黄金色が眩しくきらめいていた。
こんな露店で売っているのだから、そこまで高級品ではないのだろう。売られている品々を流し見しながらテツは思った。それでも女性陣には好評そうで、荷馬車からぞくぞくと顔をのぞかせている。シンシアはポールに早くも攻勢をかけ、何か買わせようとしていた。
テツの隣にいるミコトとアリアも例外ではなく、物怖じせず店主に話しかけている。おだてられたのか、ふたりは満更でもない顔をしていた。
手持ち無沙汰になったテツは、人だかりから離れて馬車の影に回った。日差しは弱くなく、大して露店に興味が沸かなかった彼には気になる暑さだった。少しでも涼もうという魂胆だ。
行った先には先客がいて、運悪く、それは団長とガヴァン副団長のツートップだった。顔を合わせたくないランキングの最上位者を占めるふたりに会ったせいで、休憩をとろうとした気分は一気に萎えてしまった。なんとか顔に出さないよう自制する。
これからの方針を話し合っていたらしく、テツに気づいたものの、団長は気にしないで論議を続けた。ガヴァン副団長の不機嫌オーラはいまだ健在である。それでも踵を返して立ち去るのもどうかと思われたので、邪魔にならない位置に腰を下ろした。
雑踏の中にいると元の世界を思い出す。人々の賑やかな話し声は、気力に富んで、生きる力に満ち溢れていた。商魂たくましい商売人が軒を並べている。この力強さが街を活気づけているのは間違いなかった。
人混みは苦手なテツだったが、この類の騒がしさは悪いものではなかった。見ていると元気づけられるようだ。身体から溢れ出しているエネルギーが、彼の身魂まで影響しているかのようだった。
「どうだ、賑やかだろ?」
顔を上げると、太陽を遮るようにして長身があった。ポールの表情は逆光によって確認しづらい。目を細めて「そうだね」と答えると、気分よさげな表情が見えた。
視界からは、ポールが空を独り占めにしている風景が映る。なるほど、これは気持ちのいいはずである。彼は青々とした大海原を自分のものにしているのだ。なんとなく羨ましくなったテツは腰を上げて、空に向かって伸びをしてみせた。
「何してんだ、おまえ」
情緒がわからないのは悲しいことである。ぽかん、とした表情でたずねてくるポールを憐れみの目で見た。彼は訳がわからないと肩をすくめた。
「大きな街だね。入り口の時点でこれなんだから、中心街は想像がつかないよ」
「この街に来れば、揃わない物はないっていうくらいだからな。食料から武器、薬、何でも売っているんだ」
別に自分の所有物でもないだろうに、ポールは街のよさを声高に自慢した。
「その通りだ。何でも売っているぞ―――――奴隷などもな」
話を終えた団長は、腐ったような笑みを浮かべてやって来た。土産よろしく胃に優しくない話題をふってくるのはやめて欲しい。テツは引きつった愛想笑いを返すしかない。
自分たちの処遇を聞いておいた方がいいだろう。他の道場生は、街に訪れたことで浮かれていたが、奴隷を処分できる街に来た以上、彼ら道場生の未来は決まっているはずである。団長のさじ加減ひとつで、テツたちはいくらかの貨幣にされてしまうのである。
テツが懸念を口にすると、売りに出すのは、先の村で捕まえた人間と、略奪に反対した男子だけであることを団長は教えてくれた。かつての仲間には悪いが、ひとまずほっと息をつく。どうやら自分たちには、まだ利用価値があるとみなされているようだ。もうしばらくは、路頭に迷うようなこともないと思いたい。
団長は必要な物資の補給と、戦利品の売り出しに行くと述べた。団員がそれぞれ担当するので、テツたち下働きは、その間自由にしていていいと許可が降りた。
自分たちだけ遊んでいるわけにはいかない、と納得できないテツに、「なら奴隷の売りを見学するか」と団長は冗談とも本気ともとれないことを口にした。もちろん、全力で遠慮したいので辞退する。
集合場所はこの荷馬車のところで、見張りの団員が誰か残っているから問題はない、ということだった。
ポールも仕事があるらしく、気乗りしない調子で団長たちのあとをついていく。3人を見送ったテツは、飽きずに露店を冷やかしている面々に団長の決定と自由時間のことを告げた。彼らは降って湧いた幸運に喜んでいるようだった。
傭兵団の女たちも含め、各々がグループになって早速街に繰り出していく。帰る場所さえ覚えていれば、迷子になるようなこともないはずだった。城門近くは目立つ造りをしているから、遠目からでも大方の位置関係は掴める。
キョウイチとスイも、あのフードのふたりを伴って出かけるようだ。彼らと目が合ったので手を挙げると、返答するように手が挙がった。ふと、フードの暗闇の中から刺すような気配が感じられた。どうにも、気がつかない間にずいぶんと嫌われたものである。全く身に覚えのないテツは、向けられる視線を無言で受け止めた。しばらくすると唐突に気配は消える。見ると、彼らは街の中心街に向かって歩き出すところであった。
むっつりと黙り込んでいると、同じように険しい表情をする少女に気づく。アリアは去っていくキョウイチたちの背中を黙って見送っていた。けれども、その視線には友好的な様子は見受けられない。出会ってまだ長くないというのに、人間とはこんなにも早く好悪がはっきりするのだから興味深い。
ただ、アリアの雰囲気は険悪を通り越して剣呑でさえあったので、テツは好奇心に従ってたずねてみた。彼女は乾いた唇を舐めて、
「あのフードのふたり組。村の人間じゃありません」
「だろうな」
わかっている、とばかりに同意すると、アリアは目を瞬かせた。
「どう見てもただの村人じゃあないさ。雰囲気でわかる。それをいったら、君も同じことがいえるけど」
「ありがとうございますっ」
どう捉えたら褒められたと感じるのだろう。少女の感性は、テツの理解できない領域に到達しているようだった。
「何より、団長がキョウイチに預けたんだ。それだけで、何事もない、なんて思うわけがないな。あの人は、意味のないことをしない人だ。思惑があるからこそ、ふたりを放置している」
「実は、ただの考え過ぎということはないですか?」
少しも思っていないだろうことをアリアは口にした。試されているのだろか。
考え過ぎであるなら望むところだった。あのふたりは、ただの迷い人で、偶然村に居合わせたときに捕まった。それが一番望ましい。
楽天的に考えればそうなるだろう。だが、遠見テツという人間は、考えることに安堵感を見出す人種だった。逆に考えない人間は死んでいるのと変わらない、と考える。直情傾向の人間とは致命的に折り合いが悪い性格だった。
「フードのふたりは気にしておくに越したことはない」
そう閉めると、背後から多数の声が近づいてきた。ミコトをはじめ、シンシアら見知った女性たちだった。彼女たちの相手は補給の仕事で出てしまっているので、先に出かけた者以外が集まっているようだった。
圧倒的少数に部類されるグループに属するテツは、非常に居心地が悪かった。女性の集団の中で、ひとり男性がぽつねん、と取り残されるのを喜べるほど、彼の性格は高機能ではなかった。
「あたしたちは出かけるけど、もちろんテツも来るわよね?」
シンシアは既定事項を確認するようにいった。
「いや、ぼくは」
「来るわよね?」「ね?」「ですね」四方八方から声に取り囲まれる。これでは自由意志も何もあったものではない。民主主義社会を尊重する者としては心苦しい限りだったが、みなに歩調を合わせるのもまた多数決の原則に沿うものだと割り切るしかなさそうだった。
渋々承諾すると、女性陣から歓声が上がった。「女ばかりだと花がないもんね」と誰かが口にする。テツは花だとしても、ハエトリソウやウツボカズラの類に違いなかった。
「金のことなら心配しないで。ポールからいくらか貰っているし。この間の贈り物のお返しもさせて欲しいから」
蛇がイヴを誘惑したときのような目で捕らえられる。シンシアのピンクオーラにやられたテツは、なぜだか背中に寒気が走った。もはや、捕食されるのは確実なのだろうか。
「贈り物って何ですか?」アリアはテツではなく、ミコトにたずねていた。彼では答えてくれないとわかっているからだろう。少しずつ性格を掴んできたようだ。ミコトはつらつらと、初の戦で手に入れた褒賞を気前よくみなにプレゼントしたことを話した。それから嬉しそうに指輪をアリアに見せる。
物欲しそうな表情は隠しようがなかった。この手の話題には疎い唐変木であっても、少女に何か買ってやらねばならない空気は読めていた。それでもあえて反応せずに、黙々と歩みを進める。
視界の端で、少女は心持ち落ち込んだ様子を見せた。周囲の女性陣から、非難めいた感情が向けられたが、そこはぐっと堪えた。少女との関係がはっきりしていないうちに、仲を深め過ぎるのは避けたかった。良心は鈍い疼きを訴えた。それに気づかないふりをして、いつもより背筋を伸ばしながら歩いた。
人通りは俄然増え続け、右へ左へと進む人間と押し合い圧し合いする様相を見せ始める。さすがにこの人混みにはうんざりする。貴金属類をすられないよう、ミコトに注意すると、「価値のあるものなんて、これくらいだしね」と右手の指輪を掲げてみせた。さすがに、指におさまっている指輪をするような神業を仕出かすスリがいるとは思えなかった。
中心街に近づくと、露店の数は減り始め、代わりに店舗を構える店が増えてきた。店頭にはふたり以上の店員が見える。店舗もちの商人は、単独で行っている者が少ないようだった。
ひとつの店舗の面積はそれほど広くなく、中には詰め込めるだけの商品を並べているといった様子だ。店主と客が商談をしている。商品の値段は定額で決まっているのではなく、交渉次第では安くもなるようだった。
メインストリートは馬車が一台通れるかどうかの広さではあったが、この世界においては十分に広い方である。とはいっても、この場所以外の街を見たことがなかったので、比較しようにも、ポールの話を参考にするしかなかったが。
やがて先頭にいたシンシアたちが扉を開いて店に入った。蛇のしっぽよろしく続いて入店すると、そこは服を取り扱う店らしく、テツたちがまとっている質素な造りの服から、手の込んだものまで幅広く取り揃えてあった。中には、どうやったら着ることができるのか、想像がつかないベールのような一枚布がある。外国人が和服を初めて見たときも、同じような感想を抱くに違いない。手を触れないように気をつけながら、テツはしみじみとシルクの輝きを眺めた。
店はテツたち一行が入り込んだせいで、少々窮屈になっていた。女性陣は目当ての品を探すのに忙しいらしく、周囲の状況は二の次らしかった。全く気になっていない。
店内は石造りで薄暗く、外に比べると過ごしやすかった。直射日光に晒されていないだけでずいぶんと体感温度は違っていた。石の壁に囲まれていると、それだけで冷たい印象を受ける。テツの生まれ故郷が木造建築主流だったせいかもしれない。石造りの家というのは新鮮な感覚だった。
見ると、アリアも一団に混じって笑顔を浮かべている。テツは満足気に頷いた。彼女なら、もう大丈夫だろう。傭兵団の女たちにも好意的に受け入れられているようだし、最年少ともあって、みなから妹のように可愛がられている。本人も満更でもなさそうである。
テツはどうにかして、少女を自分の下から引き離そうと考えていた。彼女のためという表向きの理由もあるが、自身が人を導くような人間ではない、という自己評価がその根底にあった。むしろ自分の性格は、健全な状態に害を与えるものだと自覚していた。
それをミコトは卑屈だとか自虐的だとか評価したが、テツにいわせれば事実を述べているに過ぎなかった。それは決してネガティブに考えた結果ではなく、己の精神を注意深く観察して解剖した結果である。しかも客観的に捉えたつもりだった。ミコトとの意見の相違は意外だというほかなく、なぜ認識にズレが生じたのか、彼には大いに疑問だった。
着せ替え人形もかくや、という勢いで遊ばれているアリアと目が合った。じっと眺めていると、少女は羞恥に顔を赤くして視界から隠れてしまった。
苦笑してミコトに近づく。「楽しんでいるようで何よりだね」もしも妹がいたら、きっとこのような感じだったのだろう、とテツはあたたかい気持ちになった。
ミコトは意外なものでも見たかのように目を丸くした。なんとも失礼な人だ。口に出さないまでも、へそを曲げた様子が伝わったのか、彼女はわざとらしい咳払いをした。
「なんか驚きだよ。テツは人見知りだから、出会って間もないアリアにそんな顔見せるとは思わなかった」
「そんな顔?」
右手で頬を軽くもんでみる。いつもと変わらない感触しか返してこない。しばらく手を動かして、顔の筋肉も骨格も、普段と変りないことを確認する。生まれてからこの方、自分の顔に大した感想を抱いたことはなかった。今日も今日とて、何ひとつ変わらない、面白みのない自分の顔があった。
暗黒物質を前にした科学者のような顔をするテツをミコトは微笑ましく見守っていた。この姉貴分ともいえる女性は、ときおりこんな顔をするから始末に負えない。全てを包み込む包容力の前では、彼のねじ曲がった根性もかたなしだった。
とっさに剣の柄に伸びそうになる右手を自制する。自分でも情けない限りだったが、動揺するたびに剣を求めるのは異常かもしれなかった。どこか致命的な部分が崩れ落ち始めたのではないか、と漠然とした不安がよぎった。
内心の不安を悟られないように、意識して苦笑いの表情を作る。ミコトはからかってテツの頬をつついた。彼女の指は、記憶にあるものより、少し荒れているようだった。毎日の野宿と、急激に変化した生活の影響かもしれない。それでも、なめらかな指先の感触は彼の奥底にある炎を揺らめかせた。
そのまま彼女の手を握りしめたい衝動に駆られる。それをいつも引き止めるのは、彼女には恋人がいるのだという事実と、遠き日に捨てた恋心の残滓だった。世界間の移動を経験させられ、彼女の恋人はすでに手の届かない場所にいる。激動した状況は忘れようとしていた古傷を疼かせるものだった。
長い間押さえつけていた暗い感情が目を覚ますのを感じた。それはテツがひた隠しにしてきた感情だった。このために鉄仮面が顔面に張り付いたといってもいい。何としてでも、表に出すわけにはいかなかった腐りきった膿だ。正視に耐えないそれは、長いこと彼を苦しめてきた病でもあった。
彼女の側にいたいという感情と、これ以上近づいてはならないという相反した感情に苛まれる。鬱屈した想いを吐き出す術を彼は持ち合わせていなかった。それらは体内に溜まり、腐り落ちて淀んでいった。
我武者羅に剣に打ち込んだのは、その溜まりきった膿を吐き出すためだったのかもしれない。だが不幸なことに、剣はさらなる悪癖を彼にもたらすことになる。剣のきっさきは、彼と彼でないものとを乖離させた。その結果に訪れたのは、異常ともいえる思考形態だった。
自らの内に沈み込みそうになる意識を苦労して引き上げる。目線を戻すと、ミコトと視線がかち合った。そこに不自然さは見当たらない。表面上は何事もなくいられたようだ。テツはほっと安堵の息をつく。
シンシアたちは服を選び、合ったサイズのない者はオーダーメイドで作られることになった。現代のように大量生産品ではないので、サイズを取り揃えることはできないのだ。
寸法を測って貰っている者がいる中で、アリアはちょうどいいサイズがあったらしく、いつの間にかボロ布の服から着替えていた。シンプルながらも似合っている。膝下まであるスカートは彼女の清楚感に合っていたし、金色の髪とコントラストするかのような落ち着いた色調で全体がまとめられている。丈夫そうな生地で作られていたので、少々荒っぽい動きをしても平気そうだった。これならば、この城下の町娘といっても通じるはずだ。
褒めて欲しそうな期待の目を向けてくるアリアを少々煩わしく思い、そんな内心を見透かされたのか、背後からは冷気が漂ってきた。そこにいるであろう女性の制裁は末恐ろしくもあったが、なんとかいい切り抜け方法を考えつく。
「残念だけど、ぼくには持ちあわせがないんだ。君に買ってやりたいのはやまやまなんだけど……」
「それなら問題ないよ。あたしが買ってやるんだからね!」
シンシアは気前のいい声を上げた。
「そんなわけにはいきませんよ。悪いですし」
「ええ、なんだい? あんた、この子の面倒は見たくないとかいってるそうじゃないかい。なら、あたしがこの子に何を買ってあげようが関係ないだろう?」
意地の悪い笑顔を浮かべる彼女に気圧され、テツは声に詰まった。確かにいう通りだった。あまり仲を深めるのはよくないと突っぱねているのは彼の方だ。なのに、あれこれと文句をいうのは筋違いである。
ぐぬぬ、と返答に窮する彼を、アリアは不安げにうかがっている。彼女には不干渉を貫くと決めていたはずなのに、早くも瓦解しかけているのは予想外だった。そもそも、本当に彼女を邪魔に思っていたならば無視するのが遠見テツという人間である。いちいち表情を盗み見たり、機嫌をとったりするのは、気にかけている証拠にほかならない。
テツは己の負けを認めた。何に対して勝負を挑んでいたのか、自身にさえわかっていなかったとしても。
視線をしばらく泳がせたあと、彼は渋々といった表情で、
「アリア、シンシアさんにちゃんとお礼をいうんだぞ」
「―――――はいっ」
途端にぴょこぴょこ跳ね回る少女を見ていると、自分の葛藤が馬鹿らしくなってくる。どんな懸念があるにせよ、年齢相応の顔を見せてくれることは喜ぶべきだった。
「らしくないね」ミコトはそういいながらも嬉しそうで、「いい変化なんだろうけど」腕を組みながらテツの隣に並んだ。
アリアは女性たちに囲まれてずいぶんと愛でられている。少し豪快なところがある傭兵団の女性たちであるが、可愛いものを好むのは普遍的真理であるらしかった。
離れた位置で見守っていたテツは、ふと隣に佇む姿を確認しながらいった。
「ミコト姉さんは、服の新調しないんですか?」
「わたしは遠慮したよ。道着もまだ着れないことはないし、この服も動きやすいからね」
見た目は、麻袋から首と腕が生えた程度だった。しかしながら、このテツたちが着ている服は、見た目よりも機能性を考慮して考えた場合、そう捨てたものではなかった。彼自身も、いまのままの服装で十分だと思っている。
「見た目よりも実用性重視ですか」
「そうなるかな。あるいは、おしゃれに疎いともいう」
自嘲気味にミコトは笑った。
まだこちらの世界に飛ばされてくる前、テツが覚えている彼女の姿といえば、もっぱら道着の姿だ。練習の際は、みながその格好であるし、練習後はすぐに帰宅の途についていた彼は、大学生であるこの女性の普段着をあまり目にしたことがない。たまに夕食を共にした際は、タンクトップにショートパンツという目のやりどころに困る服装だったのを覚えている。
思春期にしては枯れていると自覚するテツでさえ赤面させるのだから、彼女の魅力はいうまでもない。健康的な美しさは、着飾らない方がかえって彼女の魅力を引き立てていた。しかしながら、花も恥らう大学の輩であるミコトが、女性雑誌に載っているようなコーディネイトで通学している様子を想像できなかった。
「姉さんは服装に頼らなくても、そのままで十二分に勝負できると思いますよ」
テツが慰めるためにお世辞をいっているのではないとわかると、当人は照れ隠しに彼の背中をバシバシ叩いた。
「嬉しいこといってくれるね。お姉ちゃんはいい後輩をもったよ。できればさ、もっと婉曲的じゃない褒め方はない? 恥ずかしがらないでいいからさ、さ」
この人はすぐ調子に乗るんだから、と内心で呆れながら「ミコト姉さんは綺麗ですよ、すごく」と思ったことを素直に述べた。きざったらしい台詞だった。自分でも、なぜこんな言葉がすらすら出てくるのか不思議に思う。きっと、彼女以外にはこうもいかないに違いない。
ミコトは非常に上機嫌だった。顔の表面は、毛細血管が頑張っているのか、ゆでダコのようである。素直に褒められることに慣れていないのだ。道場では、どちらかといえば「格好いい」「凛々しい」部類で、女性からも人気があった彼女である。
一方で、テツには腑に落ちないことがあった。彼女が付き合っている男性のことを思い出す。実際に顔を合わせたことはないものの、悪い噂は聞いたことがなかった。むしろ好青年であると耳にしたことがある。その彼ならば、ミコトを褒めても不思議ではないと思うのだが。
だらしなく破顔する彼女に、その疑問を問うのは憚られた。それは、姿の見えぬ相手に対する幼稚な嫉妬心からであり、己の不甲斐なさを隠そうとする虚栄心からでもあった。それに、咲いた向日葵に影をさすのは、テツの望むところではなかった。
なので、「姉さんはまるでオオサンショウウオみたいに可愛いですよ」と追加して褒めると、一転して憤怒の表情で足を踏まれてしまった。なぜ機嫌を損ねたのかわかっていない彼は、涙目でキルゾーンから脱出したのだった。
「な、なんで……?」
純粋に褒めたつもりなのである。両生類好きの彼からすれば。