第12話
幼い日に紹介された少女は太陽のような笑顔で「ミコトだよっ」と自分の名前をいった。まるで大切な宝物を自慢するみたいだった。それだけで、彼女が家族からどれだけ愛情を注がれているか想像はついた。
テツは、キョウイチの背中をいつも見て育った。生まれも何もかも異なるのに、彼らはウマがあった。それはパズルのピースがカチリ、とはまるような関係だった。
キョウイチは幼い頃から明晰だった。行動力もあった。人を惹きつける何かがあったのだ。それに対して、テツは口数が少なかったし、魅力というものをどこかに置き忘れた少年だった。
光は影があるからこそ際立つというが、まさにそんな関係だったかもしれない。本人たちにその気はなかったとしても、だ。
キョウイチがテツの手を引き、その後ろをスイが追いかける。そんな構図が自然とできあがった。子供の頃は、それで問題がなかった。誰もが優秀ではいられない。グループの中であっても優劣は存在する。その意味でいえば、テツはまだ許容される『欠格』だった。
だが時間を経て、剣という道に足を踏み入れてから状況は一変した。能力をもたないテツは、最低限の資格さえもち得ないとみなされてしまう。
自然と孤立しがちになった彼に声をかけてきたのがミコトだった。それまで、何度か顔を合わせた程度だったが、キョウイチの姉ということで全くの他人ではなかった。
ひとり黙々と剣をふるテツに、彼女は自分の名を告げ、他愛もない話をした。幼い少年であっても、自分に気を使ってくれていることは薄々理解していた。それはありがたいことだった。
集団から奇異の目で見られることには慣れていた。それでも、親しげに話しかけてくれる存在は貴重で、得難いものだった。
彼女と話している間は、なぜだかあたたかい気持ちになった。それは、陽気な雰囲気がうつったのかもしれないし、彼女自体に人を優しくする魅力があったせいかもしれない。
この姉にして弟あり、といったところか。テツは純粋に羨ましいと思った。どうすれば、彼女のようになれるのだろう。人はみな、生まれたときは同じような状態だというのに、成長するにつれて優劣がはっきりしてくる。恵まれた者と、そうでない者が区別される。
剣を振ることは楽しい。心が穏やかになれるからだ。
ミコトと話すことは楽しい。心があたたかくなれるからだ。
才能の申し子であるはずなのに、自分のような人間に別け隔てなく接することができる。いい人だとテツは思った。好ましい人だ、とも。
ミコトはキョウイチの姉であり、テツやスイの姉でもあった。
顔は仏頂面で、能面みたいと揶揄される少年でも恋はする。その初恋の相手が、身近な優しいお姉さんであったのは、なんてことない、順当なことだったといえる。
―――――懐かしい夢を見ていた気がする。
頬についた砂を払って、テツは身を起こした。地面にはぼろ布を引いてあるだけで、クッション性など望むべくもない。固くなった身体をひねると、ボキボキと小気味いい音がした。
周りには同じように横になっている人間がちらほらと見える。まだ早朝で、眠っている者が殆どだ。
空は馬鹿らしいくらい澄み渡っている。この空は、テツが長年見慣れていた空とは、やはり異なって見える。物理的にそうなのか、精神的なものなのか、確かめる術はないのだけど。
二度寝する気にもなれないテツは、眠気覚ましにストレッチと素振りでもしようと思い立った。
かたわらの剣を手に取ると、確かな足取りで歩き出す。このショートソードも修羅場を共にくぐり抜けた相棒といえる。近いうちに返せといわれるだろうが、どうにかして所持させたままにして欲しかった。気は進まないとしても、あの団長に直訴するしかなさそうだ。
女たちが眠る荷馬車の前には、昨夜の見張り番である団員があくびをかみ殺していた。
ひとりは傭兵団の紅一点、クリスティナである。荒れくれの男たちとタイマンはれるだけあって、勝気な性格をしている。それでいてクールな面持ちなのだから、形容しがたい女性である。彼女は戦闘で邪魔にならないようショートヘアにされた髪を指に巻き付けて暇を潰していた。
この女性剣士とはあまり会話をしたことがない。テツに気づいたクリスティナは、眠たげな目を寄越したきり、興味を失ったように視線を外した。
ところどころ見やって、足場の適した場所を見つけると、テツは早速ストレッチを始める。この世界の人間は準備運動という概念がないらしく、身体を動かす前に奇妙な動きをする彼を物珍しがった。動きの理由を話すと、理解したような、していないような曖昧な表情をされた。
早朝の空気はいつにも増して清々しい。この世界に来てから口にしたうまい物といえば、この朝方の澄んだ空気といえる。
剣の柄に手をかける。それだけで、外界の煩わしい悩み事が音もなく消え去る。世界は、自分と、自分でないものとの、二元的な世界に変貌する。
そこで意味のあるのは遠見テツという存在だけだ。だから、素振りをするのも、仮想敵として思い描くのも全て自分だ。
その空想の敵である自分は、いままで出会った相手の長所をもち寄ったキメラ的なものだ。
元の世界において、能力者たちは絶対値が離れ過ぎていて、テツの相手には相応しくなかった。その結果、必然的に生まれたのが、テツの一歩先を行く存在である。
彼よりも先を行く技量をもつ剣士。現実でテツが見て、聞いて、経験した相手のダウングレード版である。
相手にするのは常に自分より強者。テツの常識からいって、弱者というのは他でもない己なのであって、相手が劣っているという事態は想像さえしなかった。
戦の疲れはほぼ抜けている。安心できる寝場所で眠れるだけで、こんなにも疲労回復度が違うとは驚きだった。現代人気分はまだまだ健在であるようだ。遠征などは、とてもじゃないが耐えられそうにない。
あまりギアを上げずに剣を振り始める。
最近、もっぱら参考にしているのは団長の剣筋だ。あの圧倒的な剣戟は惚れ惚れするほどだが、パワー型でないテツがそのまま丸呑みできる代物ではない。
盗むべきは、有無をいわさない容赦のなさと、精密機械のような剣の扱いだ。防御した剣を叩き折る剛力と、それを軽々と取り回し、死角や急所を狙ってくる剣は、まさに悪夢といえる。
無理はしないで、初めは剣を滑らすように振る。空気を切り裂く際の、耳を抜ける爽快な音が好きだった。
振り下ろしは的確に急所、あるいは防具の隙間をぬって行われる。先の戦を経験して、一番重要だと感じたのが鎧の間を斬りつける技術である。
腕、足の駆動部分。喉元、または顔面。盾の覗き穴も、範囲はせまいが狙いどころだった。
金属でできた鎧ごと斬ることは適わなかった。それに驚いていたのは、キョウイチやスイたち能力者組だった。
彼らの常識からいえば、刀はまさしく必殺の武器であり、厚さ数センチの鉄板であっても斬り裂き、貫くことができた。だが、それは刀に自らの『気』をまとわせた条件下の場合であって、素を晒す刃では実現しない。
危うく、それでキョウイチは死にかけた。鎧ごと真っ二つにするつもりで振り下ろした刀は、無情にも甲高い音を立てて弾かれた。スイの援護がなかったら、一瞬でも呆けてしまった彼は返り討ちにあっていたことだろう。
刀に対する絶対の信頼感が揺らいだ瞬間だった。それ以降、無理な戦いをしなかったが、生き残ったのは、あるいはその恩恵なのかもしれなかった。
大人数が入り乱れる戦場は、一対一の立ち会いとはまるで違う。乱戦はテツの好むところでなかった。考えるよりも反射することを要求されるのだ。無駄な思考は己を殺す。ただ遮二無二殺すためだけの剣を繰り出さなければならない。
剣を操っているのではなく、剣に操られているような気分だった。
テツにとって、剣は身体の一部である。遠見テツを構成する重要な要素である。だからといって、剣がテツなのではない。イコールで結ばれるような関係ではないのだ。
あくまでも、剣は主人の支配下に置かれるべきだ。逆の立場に陥ったら、本末転倒もいいところである。目的も意識も埋没して、血に飢えた快楽殺人者に成り下がってしまう。
ぼくはそんな下品な存在にはなりたくない、とテツは思った。
剣は己のためだけに存在している。それで十分だった。
汗をかきすぎても不快でしかないから、身体が十分あたたまるのを見計らって素振りをやめる。いつもより幾分か高めの心拍を確認しながら、今度はクールダウンしていく。
全ての行程が終わる頃には、丁度いい時間帯になっていた。みなが起き始めて、生活音がBGMよろしく流れ始めていた。
昨夜から何も食事を摂っていないことに気づいたテツは、無意識に自分の腹に手を当てた。
こちらに飛ばされてからというもの、1日2食が当たり前の生活であったし、先の戦では何も口にできない日もざらにあった。人間慣れれば、あらかたのことは順応できる。とはいっても、燃料がなければ満足に動けないのは人間も機械も同様だ。
人間、遠見テツの燃料ランプはレッドシグナルを発していた。頼んでいないのに、腹からは「ぐう」と不可思議な泣き声が聞こえてくる。
彼の鼻孔が香ばしい香りを捉えると、我慢できずに小走りで集団に混じる。
「ようやくお出ましかい、テツ。もうみんな食べ始めてるよ」
そういってシンシアはあたたかいスープをよそってくれた。礼をいって受け取ると、その横からパンが一切れ差し出される。
サツキだった。なんとも堂に入った配膳ぶりである。歴戦のシンシア嬢と並んでいても、なんら遜色ない。
感心した目で見ていると、彼女は誇らしげにCカップの胸を張って、
「給食当番です」
といった。特に意味はない。
傭兵団における女性の役割は、日常雑多的なことに限られる。自ら剣をもって戦うのはクリスティナくらいなもので、あとは団員に囲われている女性である。その意味でいえば、サツキを含めた道場生組の女性諸君はなかなか有用といえた。
普段は雑事に身をやつし、有事の際には武器をもって戦うことができる。さすがに攻勢的な場面では人を傷つけることに抵抗があったとしても、自衛のためなら基準もゆるくなろう。
団長は有用だと考えているからこそ彼女たちを手元に置いているのだ。それは、テツたちにもいえることだった。
各自が満腹とまではいかないものの、満足できる程度に朝食を胃に収めると、タイミングをはかったように団長がみなに呼びかけた。
いつもなら黙々と食してから、定時であがる公務員みたいにさっさと立ち去るのである。テツは、なんだなんだ、とあまり気持ちのよくない気分で耳を傾ける。
話を聞いてみると、危惧された嫌な方の話ではなく、先の戦に参加した者への褒賞だった。
敵の首領を打ち取る前に味方の大将がやられてしまったのだし、褒賞も何もないのではないかと思う。少なくとも、あの戦闘で得たものといえば、敵の血潮と戦闘経験くらいである。
そう思ったのだが、団長はどこからか手に入れたという金銀の装飾具を掲げてみせた。倒した者の中で、なりのいい騎士はこうした「落し物」をもっていることがあるらしい。
さすがは傭兵団の団長だな、とテツは呆れるより感心した。初めての戦闘では、相手の身なりなんて元より、どんな顔をしていたかさえ覚えていない。金目のものをもっていそうな騎士を選んで倒すなんて真似はできなくて当然だった。
よく働いたポールが順位1位で褒賞を受け取る。金のネックレスやら、宝石やらを受け取ってご満悦の様子である。早速シンシアはいつもより二倍増しで彼の機嫌をとっている。なんともたくましい。
意外なことに、テツは団員たちが褒賞を受け取ったあとの順位で最初に名を呼ばれた。彼としては、そんなに働いた覚えはないので、やや困惑気味である。
何かの彫刻が施された指輪に宝石が3つほど。命がけで得た褒賞としては、高いのだか相当なのか判断がつきにくい。
「……どうしようか」
キョウイチとスイは、財宝類はもらえず、食料を代わりに得ていた。宝石よりもそっちの方がいい、とはいい出しにくい。こんな貴金属類よりも食料の方がずっと有用ではないか。
これを換金する手段も場所も知らないテツにとっては、文字通り宝の持ち腐れである。
三者三様に驚喜している中、テツはガヴァン副団長に声をかける。
面倒そうに応じた彼は、「例の一件か。それで、どうしたいのだ」と肩をすくめた。出発前の約束は覚えてくれていたらしい。そうでなければ、セブンス傭兵団の副団長は務まらないだろう。
「剣を常時でも所持する許可が欲しいのですけど」
彼はふむ、とアゴをなでて、
「それならいうまでもなく許されるだろうが。そうだな、団長にはわたしがいっておく」
「差し出がましいのですが、本当に大丈夫なんですか? あとで問題になっても困るのですが」
「くどい」
ギロ、とテツを睨みつける。どうやら大和人特有の慎重さがお気に召さなかったらしい。不機嫌そうな顔をさらに不機嫌にしたガヴァンは立ち去ってしまった。
取り残されたテツは「まいったな」と頭をかく。まあ、少し怒ったくらいで約束が反されることはないだろう。そう判断して歩き出す。
褒賞として受け取ったものを手で転がしながら散策し、誰か世話になった人にあげようと結論する。ただ死蔵されるよりも、喜んで貰ってくれる人に所持された方がこいつらだって本望だろう。
思い立ったらすぐ行動、が信条のテツは、朝食の片付けをしているシンシアの下に向かった。彼が世話になった人と考えて、真っ先に思いつくのがこの人である。
彼女は予想通り片付けをしていたが、何やらご立腹の様子だった。かたわらのポールが、褒賞の首飾りを見せびらかしているのである。
本当はあげるつもりのくせに何してるんだか、と微笑ましく思う。
ポールはどこか子供っぽいところがある。彼からすれば、ただプレゼントするだけでは面白くないのだろう。だからこうしてからかっているのだ。
日を改めた方がいいかな、と思案するものの、ここまで来たのだから用事は済ませるべきである。
ポールのちょっかいから顔を背けて洗い物をするシンシアに話しかける。
「え、これ、あたしに?」
彼女は、差し出された宝石を驚いた表情で見つめる。
世話になったお礼だというと、水に濡れてる手をそのままに、
「なんて可愛い子なんだいっ」
と感極まった様子でテツをホールドし、有無をいわさず彼の唇を奪った。ちうー、という擬音が丸聞こえである。「ああっ、テツ、てめえ」とまるで彼女を寝取られた亭主みたいな悲鳴も聞こえる。
しつこい口吸いから開放されたテツは呆けている。辛くも17年間守り通した彼の初物は、こうして散らされたのであった。
「やいやい、この糞ガキめ。人の女に手を出すとはやってくれるじゃないか」
微妙に泣きそうな表情でポールはいうが、
「何、馬鹿なこといってんのさ。この子はね、初めて手にした褒賞をだよ、世話になったあたしにくれるっていってんだよ」
「ぐ、ぬぬ」
「なんてできた子なんだいっ」
辛抱ならん、と魂が抜けているテツに再び強襲する。ミサイルを打ち込まれたあと、機銃掃射を受けたかのごとき彼には抵抗する力は残されていなかった。
口づけされるというよりは、生気を吸われていると表現した方がしっくりくる塩梅である。その様子を他の女たちは好意的に面白がっていた。
手に入れた褒賞をその足でプレゼントしにくる団員はそういない。自分の囲っている女に渡すことはあっても、世話になった礼だ、と純粋な感謝から与えることはまずない。
いつの時代であっても、正当に相手を評価する者は、その当人も評価される。テツがとった行動は、女たちの彼への評価を上向きにさせるものだった。
「テツくん、お姉さんたちもお世話しちゃうぞっ」
「そうそう。シンシアには負けてらんないわ」
女性は3人寄れば姦しいというが、姦しいどころじゃなくなってきたので、テツは戦術的撤退をはかることにした。猫なで声が彼の後ろ髪を引く。なんともたくましい女性たちである。セブンス傭兵団は、囲う女も伊達ではないのか。
戦域から離脱した頃には、どっと疲労感が押し寄せてきた。元々こういったコミュニケーションをしない性格だったので、無理をしたせいで精神的な疲労が半端でない。
だが、こうした触れ合いは、のちの財産になっても、負債にはならないだろう。あまりにあからさまな媚は嫌われるとしても、ある程度までなら歓迎されるはずである。道場生組は、新米であり、いまだに立場上は奴隷である。団長や団員だけではなく、構成員にプラスのイメージを持って貰わねばならない。割と死活問題であった。
さて、とホームの区域に向かう。とはいっても、道場生が固まって生活しているだけの場所だが。
テツが顔を見せると、スイは足早に近づいてきて、「あとで相談があるんだけど」と小声でいった。珍しいこともあるものだ、と彼女を見ると、深刻な表情をしている。
断る理由もないので彼は了解した。恋人であるキョウイチという相談相手には相応しい相手がいるのに、わざわざ頼み込んでくるとは、込み入った悩みなのかもしれない。
まあ、それとして、本来の目的を果たそう。
テツは残っている宝石を、サツキを初め、道場生の女子に手渡す。驚いて「こんなの貰えない」という彼女たちに、
「無理にとはいわないよ。でも、プレゼントしたのを拒否されると傷つくかも」
と、暗に促すと、やや困ったように、だが物欲は隠せない様子で受け取ってくれた。宝石が嫌いな女性は少数派であろう。特に、本物の宝石を所持したことがない年齢層の女子である。もて余しつつも、所有欲は満たされているようだった。
もらった青い宝石を陽の光に透かしているサツキは、目を輝かさせて喜んでいた。素直に反応してもらえると、テツも嬉しい。
しかしながら、こう、日に何度も女性にプレゼントしていると、キャバ嬢に貢いでいるような気持ちになる。
悪いことはしていないはずなのに、複雑な心情になりながらも、最後に残った指輪を渡すべく、ミコトに向き直る。
「指輪を選んだのは、別に含みがあるわけじゃないですよ」
先に釘を刺しておかないといじられそうだったので、予防線を張っておく。
「……え、ああ」
テツは反応を見るよりも早く、先手を封じられてまごついている彼女の手をとって、その薬指にはめてあげた。無論、左手ではない。そこまで鈍感キャラでないことを自負する者としては、仲のいいお姉さんに贈る品物として指輪をあげるのも、やぶさかではないはずだと思った。
はからずも、みなに注目されている中で指輪の贈呈を行ってしまったのが裏目に出た。女性連中は面白いゴシップネタを見つけた団地妻のごとく目を輝かさせている。早まったかな、とテツは早くも後悔し始めていた。
渦中の中にいる当人といえば、右手の薬指にはめられた指輪を真剣な表情で眺めている。迷惑に思われていないことは明らかだった。ひとまずほっとする。
指輪は無駄な装飾のない簡素なものだった。見ようによれば、男性用にも見えなくはない。だが、刻まれた文字のデザインは女性的なイメージを彷彿とさせた。
気に入ってもらえるか心配だったが、シンプルである方がミコトに似合っている。渡そうと思ったのは、間違いではなかったようだ。
「左手にはめてくれたら完璧だったのにね」
冗談めかして彼女はいった。
「左手の薬指は、正直、ぼくには荷が重すぎると思うので」
「なんとも乙女心が理解できてない台詞だわ」
ミコトの台詞に「そうだそうだ」と女子軍が追従する。さっきまでテツの味方だった女子たちまで、いつの間にか敵に回っている。気づかないうちに孤立無援に陥っていた。
こうなる事態を避けるために先手を打ったというのに、策士策に溺れるとは、まさに現在の状況をいった。
「いらないなら返してくれてもいいですよ」
テツだって、やられてやられっぱなしにはいかない。少々気分を害した表情を作ると、案の定慌てて、ミコトは「いるいるっ、いるってば」と、彼から取り返されないよう右手を庇う仕草を見せた。
「ならいいんですよ」
ミコトに喜んでもらえるのは純粋に嬉しい。彼は朗らかに微笑んだ。
言葉や態度で感謝を表すことはできても、贈り物がそれらに劣るわけではない。むしろ形となって表せるのだから、より感謝が伝えやすいといえるだろう。中には貢物として、こういった行為を嫌う者も少なくないだろうが、気持ちを形にすることは、悪くない行為だとテツは考えている。
「じゃあ、ぼくはこれで」
「あれ、もう行っちゃうの? 少しお話しようよ」
引き止めるミコトの声が名残惜しい気もした。
「スイに用事があるんで、行かなきゃならないんですよ」
「あの子が……?」
「先の戦ではいろいろとありましたから。もし、姉さんにも相談を持ちかけたら、相手になってやってください」
当たり前だ、と彼女は頷いた。テツは弟のような存在で、スイはやはり妹も同然の仲である。決して薄情な関係ではない。
相談事の話を聞いて、ミコトは納得できる話だと思った。戦から帰ってきてからというもの、寝付きが悪いようだったし、食欲もいまひとつだった。無理もないことだ、とあえて気遣いを見せなかったのだ。誰だって衝撃的な体験をすればショックで体調もおかしくなる。
そう考えて、テツはどうだったのか、と口に出しかけた。キョウイチでさえやっと調子を戻しかけている状態だ。それに比べて、
「……」
まるでなんてことないように佇むテツは、精神が図太いのか、あるいは人間性に欠けていると非難されるべきなのか。少なくとも、ミコトには喜ばしいと思える。こんなことで根をあげていては、これから先、生き残ることはできない。
一方で、強すぎるのも、時には考えものであった。彼のエマージェンシーが捉えられない以上、彼女が注意深く気をつけるほかない。
薬指の指輪をなでながら、その役割も悪くない、と口元を緩めた。
「テツ、これはお礼だよ。他意はないんだからね」
ちゅ、と頬に不意打ちで口付けると、テツは憮然として手をそこに当て、
「ミコト姉さんは、まだ可愛らしい方ですね」
と微笑ましいものでも見るようにいった。
「ちょ、それってどういう意味!?」
「いえ別に」
テツは尻尾を巻いて逃げ出した。さすがにミコトは追いすがってくるつもりはないようで、ほっと一息をつく。
今日はキスされやすい日だな、とテツは内心狼狽していた。それを顔に出さないのはお手の物である。こういうときは、自分の野暮ったい顔に感謝してやってもいい。ぼくを地味顔に産んでくれてありがとう、と文字通り遠くにいるであろう母親に感謝したのだった。