第1話
―――――あのとき、差し出された手を握るべきだったのだろうか。
「なあ、あいつってなんで道場辞めないんだ?」
「さあ。無能は無能なりに頑張ってるのよ」
これみよがしに嫌味をいって、ふたりの道場生は青年の横を通り過ぎていく。その嫌味をいわれた当人は、まるで聞こえていないかのように振り下ろす腕を止めない。
正中線で構え、予め定められていた空気の隙間に沿って下ろされたかのような見事な軌跡。10年近く繰り返されてきた動作だ。そこには寸分の狂いも見出せない。
吐き出される息は常に一定で、機械のように正確な動作だった。
飽きることなく、注がれる粘着質な悪意にも惑わされることもなく、ただひたすらに素振りを続ける姿は鬼気迫っていた。汗が止めどなく流れ落ちる。目付きは虚空に固定されている。口元は緊張で引きつったように笑みの形を浮かべている。
最初は馬鹿にしたように見ていた周囲の者たちも、得体の知れない空気にやられたのか、気味悪そうに離れていく。
季節は夏で、空は嫌味なほどに晴れ渡っているというのに、青年の周りだけは空気が淀んでいるように感じられた。いや、それは錯覚なのだろうが、確実に周囲の空気は腐っていく。
永遠に続くかと思われた時間は唐突に霧散する。
振り下ろした腕を止めた青年は、溜まりきった疲労を吐き出すかのように長い深呼吸をした。
腕には痺れたような疲労感が襲ってくる。酷使された筋肉は新鮮な酸素を脳にねだる。空気から選り好みして酸素だけ取り出した好き嫌いの多い肺臓は、瞬く間に有能な運び屋のヘモグロビンに酸素の宅配を依頼している。
身体の中でそんな修羅場が発生しているとも知れない青年は、ただ与えられる恍惚感に身を委ねていた。それは肉体的快感と精神的快感とを同時に味合わせてくれる甘美な苦痛だった。
武術はマゾっけがないとできるはずがないと彼は常々思う。相手を打ち倒すための技術であると同時に、攻撃に耐えるための技術でもある。そこには必ず耐えなくてはならない苦痛が存在するのだ。好き好んでこの世界に身を置いている以上、押しなべて武を修める者はマゾなのではないか。
他の道場生が聞いたら怒り狂いそうなことを湯だった頭で考える。
流れ落ちる汗は不快だったが、本来の目的である体温調整という役割は真面目にはたしているらしく、皮膚の表面から奪われていく熱をかすかに感じる。この一瞬のために、苦しい鍛錬をしているといってもいい。
青年が行っている日々の鍛錬の目的は、他の道場生と異なるところにあった。彼らが実戦で勝利するために鍛錬を行うとしたら、青年は鍛錬のために鍛錬を行っていた。つまり、はなから「試合で勝つ」といった目標は眼中に存在しなかった。
なんて格好つけたことをいったものの、それは負け惜しみと周囲には捉えられていた。なぜなら彼は試合で負けることが常だったからだ。
10年も剣を振り続けていれば、それなりに古参の部類に入ってくる。それはたとえ成人に達していないような年齢であっても、身体が完成してくる時期を迎えれば、実力もそれに伴ったものとなる。少なくとも、剣を握り始めて間もない新米剣士には、そう簡単に負けることはない。
この世界に『気』と呼ばれる代物が存在しなかったならば、の話であるが。
いつの間にか人類と共にあった気と呼ばれる概念は、科学が発達した今日においても、重要な位置を世界で占めている。それは人々を癒す力であったり、傷つける力でもある。
気を扱える人間は珍しくない。素人であっても、身体の調子を整えたり、美容のために血の巡りをよくしたりなど、様々な行為を行うことができる。むしろまったく気を扱えない人間の方が稀であった。
剣を振るうことが三度の飯より好きである青年も、その稀な人間に属していた。
自分が気を扱えないことを嘆いた経験はない。気を扱える人間は、スポーツや実社会で多くの利点を有するが、扱えなくとも生きていけないわけでもない。
けれども、古くから気という力と共に生きてきた人類は、それを当たり前のものとして受け入れているから、オリンピックや数々の試合では、気の扱いの熟練度が勝負を決めるといっていい。それらの恩恵を受けられない人間では、そもそも同じ土俵にすら上がれないのだ。
本来ならば、青年は剣の道に進むべきではなかった、ということになる。あくまで世間一般でいう価値観に従って判断されれば。
しかしながら、そんなことは関係ない、とばかりにこの歳まで剣を振るってきた当人からすれば、文字通り剣を振るうのは己のためだけだ。誰に勝ちたいとか、誰には負けたくないとか、そういった競争の精神はすっぽりと彼から抜け落ちてしまっていた。
それをいままで生きてきて不便に思ったことはなかったし、異常だとも思えなかった。ただ、普通の人とは少し違った考えをするのを自覚していただけだ。
夢中になって剣を振るっているときが一番幸せだった。この行為が誰かに迷惑をかけているのでもないのだから、文句をいわれる筋合いはないだろう。
心地良い疲労感に身を委ねていると、不機嫌なオーラを隠しもしないで佐々原スイはやって来た。
女性としては平均的な身長に健康的なプロポーションを保っている。ロングとまではいかないものの、水に濡れたように艶やかな髪は、見ていて気持ちのいいまでにさらりとしている。道場でも一目置かれているこの少女は、青年―――――遠見テツの幼なじみだった。
もっとも、そんな肩書きはすでに用をなさなくなって久しいし、ふたりの仲が険悪なのも周知の事実だった。
「まだ残ってたの? もうみんな帰り支度始めてるわよ」
腕を組みながら、「わたしは怒っています」と身体全体でアピールしながらスイはいう。
「そうやってるとまた掃除押し付けられることになるでしょうね、テツ」
「うん、そうかも」
テツはいつも最後まで練習をしていることが多い。掃除の当番は本来決まっているものなのだが、彼が残っているために、体よく押し付けられていた。今日もまたそのパターンなのだろう。
掃除自体は嫌いではないので、テツは仕方ないな、とばかりに頭をかいた。みなが敬遠する掃除だが、彼は綺麗好きな性格もあってそれほど苦ではない。
彼がのほほんと返事をすると、呆れたようにスイはため息をついた。
「あんたは何にも思わないわけ? 陰口いわれたり、掃除押し付けられたり」
「掃除はぼくが遅くまで練習していたのが悪いんだよ。陰口は仕方ないよ、本当のことだし」
あっけらかんという彼をスイは心底軽蔑した眼差しで見た。ポールが上がったのに走り出そうとしない競走馬を睨みつけるように。
「呆れた。どうしようもないわね。そんななら、さっさと剣術なんて辞めちゃいなさいよ」
いうや否や、道着の裾をひるがえしてスイは去っていく。力強い足取りだ。その後姿を見るだけでも、彼女がかなりの使い手だとわかる。
テツは彼女にコテンパンにやられたときのことを思い出す。昔はなんとか優勢を保てていたのだが、最近ではまったく勝ち目がなくなっていた。気を巡らせた一撃は重く、身体能力も底上げされた彼女はテツの遥か先を走っていた。
現在、この草切道場でテツが勝てる相手は数えるほどもいない。まともに気を操る剣士にとっては、身体能力のブーストができない彼をいなすことなど朝飯前だ。軽く見られている理由も、実力主義であるこの世界においては当然のことといえた。
佐々原スイは、数少ないテツの友人である。昔はもう少し良好な関係だったのにな、と彼は嘆息した。やはり、彼女のような優秀な能力者にとっては、自分のような無能力者は気に食わないと感じるのだろうか。
「まあ、そんなことより掃除だ掃除」
夏とはいえもう少しで日が落ちるだろう。暗くなるまでには掃除を終わらせたいところである。空腹感も覚えているし、のどもカラカラだった。
竹刀を手に取ると、テツは掃除をするために人気のなくなった道場へ向かった。