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二度目の聖女召喚――今度の世界では、誰も私を必要としていなかった。

作者: 白昼夢
掲載日:2026/09/02




 ――また、呼ばれた。



 そう思った瞬間、私は目を閉じた。


 眩しい光。

 足元に広がる見覚えのある魔法陣。

 白い石造りの神殿。

 そして、祈るようにこちらを見上げる人々。


「聖女様……!」


 ああ。

 やっぱり。

 私は、二度目の異世界召喚をされたのだ。

 十年前と、まったく同じように。

 ただし。

 今度は誰一人として、私を歓迎しなかった。



     ◇


 十年前。

 高校二年生だった私は、突然異世界に召喚された。


 剣と魔法の国、エルディア。


 魔王によって大地が蝕まれ、王都には飢えた人々があふれ、空は灰色だった。

 召喚された私には、聖女の力があった。

 触れれば傷が治り、祈れば枯れた土地に花が咲き、魔物に襲われた村を救うことができた。


 そして私は、勇者とともに魔王を倒した。

 世界を救った。

 その旅の途中で、私は一人の青年と恋をした。


 王太子レオン。


 金色の髪と青い瞳を持つ、優しい人だった。

 魔王討伐を終えた夜。

 彼は私に言った。


『帰りたいなら、帰ればいい。だが、残ってくれるなら、私は一生君を守る』


 私は残った。

 元の世界に家族も友人もいたけれど。

 私の居場所は、もうここだと思った。

 レオンと結婚し、私は王妃になった。

 世界を救った聖女として、国中の人々から祝福された。



 ――少なくとも。

 私が死ぬ、その日までは。



     ◇



 そして十年後。


 私は再びエルディアにいた。

 けれど、目の前にいたのは、見知らぬ少女だった。

 白い髪。

 青い瞳。

 細い身体を震わせながら、私を見ている。

 その隣には、見覚えのある顔があった。


「……レオン」


 思わず名前を呼んだ。

 青年だった彼は、今では三十代半ば。

 けれど、その青い瞳だけは変わっていなかった。

 王太子だった彼は、今や国王になっている。

 私の夫。

 そして。


「……やはり、あなたでしたか」


 レオンは、ひどく困った顔をした。

 私を見ても、喜ばなかった。

 いや。

 怯えていた。


「どういうこと?」


 私が尋ねると、レオンは答えなかった。

 代わりに、隣の少女が口を開いた。


「お姉様が、前の聖女様なの?」


「……そうよ」


 少女は少し考えてから。

 申し訳なさそうに笑った。


「ごめんなさい」


「何が?」


「私が、今の聖女なの」


 その言葉を聞いて。

 私は笑ってしまった。


「そう」


 それだけだった。

 嫉妬する気にもなれなかった。

 私が救った世界には、もう別の聖女がいる。

 それは、当然なのだろう。

 私が死んでから十年も経っているのだから。



     ◇



「一つ聞かせて」 


 私はレオンを見た。


「私は、どうしてまた召喚されたの?」


 レオンは沈黙した。

 答えたのは、神殿の大神官だった。


「召喚の儀式に、誤作動があったのです」


「誤作動?」


「本来召喚されるはずだったのは、こちらの聖女様だけでした。しかし、なぜかあなたまで呼び寄せられてしまった」


「なるほど」


 つまり私は、事故で呼ばれたらしい。


「では、元の世界に戻して」


 大神官は目を伏せた。


「……それが」 


「何?」


「帰還の術式は、現在失われています」


「……」


「あなたが以前、元の世界へ帰らず、こちらに残った際に、召喚陣の核が破壊されたのです」


 私は眉をひそめた。


「私が?」


「はい」


「そんな記憶はないわ」


「当時の記録にも、そう残っています」


 私はレオンを見た。

 彼は目を逸らした。

 嫌な予感がした。



     ◇


 私は王宮に部屋を与えられた。

 かつて私が暮らしていた部屋ではない。


 離宮の、一番端。

 侍女も一人だけ。

 食事も質素だった。

 別に構わなかった。

 私はもう、王妃ではない。

 死人なのだから。


 それよりも気になったのは、街だった。

 十年前と、あまりにも違っている。


 魔物はいない。 


 貧しい村もない。


 街道は整備され、農地には豊かな作物が実っている。

 人々は笑っていた。



 私は思った。

 ――平和になったのだ。


 なら、それでいい。


 私のしたことが無駄ではなかったのなら。


 それだけで。



     ◇



 数日後。

 私は市場へ出た。

 そこで、妙な噂を聞いた。


「昔の聖女って、酷い人だったんだって」


「ええ。自分を崇めさせるために、わざと魔物を増やしたとか」


「王様も騙されていたらしいわよ」


「最後には王様を脅して、帰還の魔法まで壊したんでしょう?」


 私は足を止めた。


 ……誰の話?


 聞かなくても分かってしまった。

 私だ。

 店の前にいた女たちが、私に気づいた。


「……あ」


「どうしたの?」


「その人……」


 女の一人が、顔を青くした。


「昔の聖女様に、そっくり……」


 私は笑った。


「関係者よ」


 女たちは凍りついた。

 私はそのまま歩き去った。

 怒りは、不思議なほど湧かなかった。


 私が死んでから十年。

 誰が何を言ったところで、もう関係ない。

 そう思っていた。



     ◇



 その夜。

 レオンが私の部屋を訪れた。


「街で噂を聞いた」


「そう」


「……すまない」


「何が?」


「君について、事実ではない話が広まっている」


「あなたが広めたの?」


 レオンは黙った。

 それだけで十分だった。


「そう」


「違う。私が命じたわけではない」


「でも、止めなかった」


「……」


「どうして?」


 レオンは苦しそうに顔を歪めた。


「君が死んだあと、国は混乱した」


「ええ」


「聖女を失ったことで、人々は不安になった」


「だから?」


「新しい聖女が必要だった」


「それで?」


「……新しい聖女を、皆が受け入れるためには」


 私は静かに続きを待った。


「以前の聖女が悪だったことにする必要があった」


 私は笑った。


「そう」


「君には申し訳ないと思っている」


「謝るの?」


「……ああ」


「なら、訂正して」


「できない」


 即答だった。

 私は少しだけ驚いた。


「なぜ?」


「今さら真実を公表すれば、王家の威信が崩れる。新しい聖女も傷つく」


「つまり」


 私は彼を見つめた。


「私一人を悪者にしたほうが、都合がいいのね」


「……そうだ」


「分かった」


 私は頷いた。


「なら、好きにすればいい」


「君は……怒らないのか?」


「怒っているわ」


「なら――」


「でも」


 私は微笑んだ。


「もう、あなたたちのために怒る必要はないでしょう?」



     ◇



 翌朝。

 王都で、新しい聖女のお披露目が行われた。


 少女の名はエリス。

 十六歳。


 人々から愛されている少女だった。

 私は人混みの後ろから、その様子を見ていた。

 レオンが壇上に立つ。


「我が国は、新たなる聖女を得た」


 歓声が上がった。


「聖女エリスこそ、神に選ばれし乙女である!」


 拍手。

 笑顔。

 祝福。

 私はそれを見ながら、静かに微笑んだ。

 よかった。

 この子が、この世界で幸せになれるなら。

 私は、それでいい。

 そのときだった。


「――違う」


 壇上のエリスが呟いた。

 マイクもないのに。

 その声は、広場全体に響いた。


「私は聖女じゃない」


 歓声が止まった。

 レオンの顔から血の気が引いた。


「エリス?」


 少女は震えていた。

 そして。

 私を指差した。


「本物は、あの人」


 ざわめき。

「十年前の聖女様……」


「まさか……」


 エリスは泣きながら言った。


「私には、最初から聖女の力なんてなかった」


 レオンが叫ぶ。


「やめろ!」


 だが、遅かった。


「神殿の人たちは、私に聖女のふりをさせた」


「……」


「私が聖女になれば、国が安定するからって」


 広場が騒然となる。

 私はエリスを見た。

 少女は、涙をこぼしながら笑った。


「でも、私には見えたの」


「何が?」


「召喚されたときから、ずっと」


 エリスは胸に手を当てた。


「あなたの記憶が」


 ――え?


「魔王を倒したことも」 


「……」


「王様と恋をしたことも」


「……」


「そして」


 エリスの顔が悲しげに歪む。



「あなたが殺されたことも」



     ◇



 世界が静かになった。

 誰も言葉を発しなかった。

 私はレオンを見る。


「……殺された?」


 レオンは俯いた。

 その顔を見た瞬間。

 私の頭の奥で、何かが弾けた。



     ◇



 十年前。

 魔王城。

 私は魔王を倒した。



 その直後。

 背後から剣で刺された。

 振り返る。

 そこにいたのは。

 レオンだった。


『すまない』 


 彼は泣いていた。


『君を、この世界に残しておくわけにはいかない』


『……どうして?』


『聖女は、世界を救ったあとに必要なくなる』


 剣が抜かれる。

 私は倒れた。


『君が生きている限り、人々は君を神のように崇める』


『それでは、王家が困る』


 血が流れる。


『だから、君には死んでもらう』


 そして。

 私の力を封じるため。

 彼らは禁忌の魔法を使った。



 ――記憶封印。

 死んだ私自身の記憶を、世界から消した。

 だから私は。

 何も知らずに、十年後。

 再び召喚された。



     ◇



「思い出した……」


 私は呟いた。

 レオンは何も言わない。


「私が死んだことも」


「……」


「あなたに殺されたことも」


 彼は目を閉じた。


「そうだ」


 認めた。


「私が殺した」


 誰かが息を呑む。

 広場の人々がざわめく。

 けれど私は、不思議なほど冷静だった。


「だったら、どうして今さら私を召喚したの?」


 レオンは答えない。

 代わりに大神官が膝をついた。


「……召喚は、あなた自身の意思です」


「私の?」


「あなたは死ぬ直前、最後の力で召喚陣を発動させた」


「……」


「十年後に、自分をもう一度呼び戻すために」


 私は目を見開いた。


「そんなことをした記憶は……」


「封印されたのです」


 大神官が震える声で続ける。


「あなたが、この世界の真実を知った状態で戻ってくれば、王家が滅びるから」


 私は黙っていた。

 そして。

 ふと気づいた。

 私が二度目に召喚されたとき。

 なぜ誰も私を歓迎しなかったのか。

 なぜレオンは怯えていたのか。

 なぜ大神官は帰還術がないと言ったのか。

 全部。

 私が思い出すことを、彼らが恐れていたからだ。



     ◇


「レオン」


「……何だ」 


「一つだけ、間違えているわ」


 私は微笑んだ。


「あなたは、私を殺して聖女の力が消滅したと思っている」


 彼が顔を上げる。


「でも」


 私は自分の胸に手を当てた。 


「聖女は、死んでも力を失わない」


 空気が震えた。

 地面に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。


 十年前。

 私が魔王を倒したときよりも。

 ずっと巨大な魔法陣。

 王都全体を覆うほどの光。

 人々が悲鳴を上げる。


「な、何をするつもりだ!」


 レオンが叫ぶ。


「何もしないわ」


「では、この魔法は――」


「ただ、返すだけ」


「何を?」


 私は笑った。


「十年間、あなたたちが私から奪ったものを」


 光が降り注ぐ。

 人々の頭上に、次々と記憶が浮かび上がった。

 魔王を倒した私。

 荒れた土地を癒やす私。

 病人を治す私。

 笑う子供たち。

 レオンと手を繋ぐ私。

 そして。

 血まみれになって倒れる私。

 王家が私を殺す場面。

 すべての記憶が。

 この国の人々へ戻っていく。



     ◇



 歓声は起きなかった。

 誰も怒鳴らなかった。

 ただ。

 静かに。

 一人。

 また一人。

 私の前に膝をついた。


「……聖女様」


 誰かが呟いた。

 それだけだった。

 私はレオンを見た。

 彼もまた、膝をついている。


「……すまなかった」


「ええ」


「許してくれ」


「無理よ」


「……なぜ」


「あなたを許す理由を、あなた自身が十年間かけて全部消したでしょう?」


レオンは何も言えなかった。


「私はあなたを愛していたわ」


私は静かに告げる。


「だからこそ、あなたを許すことだけはできない」


 彼は顔を伏せた。

 私はそれ以上、何も言わなかった。



     ◇



 数ヶ月後。

 エルディア王国は変わった。

 レオンは王位を退いた。

 大神官も失脚した。

 王家が隠していた記録がすべて公開され、私についての偽りの歴史も訂正された。


 けれど。

 私は王妃には戻らなかった。

 もう二度と。

 誰かに必要とされるために生きるつもりはなかったから。



 私は王都を出た。

 国境のはずれの小さな村で薬師として暮らしている。

 聖女の力は、まだ残っている。


 けれど。

 誰にも言っていない。

 病気の子供がいれば、こっそり治す。

 枯れかけた畑があれば、少しだけ力を使う。

 それで十分だった。



     ◇



 ある春の日。

 村の教会に、一人の少女が訪れた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 私は笑って挨拶する。

 少女は、私の顔をじっと見た。


「あなたが、昔の聖女様?」


「違うわ」


 私は首を振った。


「ただの薬師よ」


 少女はくすっと笑った。


「じゃあ、私もただの女の子」


「そうね」


「でも、あなたに伝言があるの」


「誰から?」


 少女は懐から一枚の手紙を取り出した。

 封蝋には、見覚えのある紋章。

 レオンのものだった。

 私は開かなかった。


「返して」


「読まないの?」


「もう必要ないもの」


 そう言って。

 私は手紙を火に入れた。

 炎が紙を包む。

 少女は少し寂しそうに、それを見つめた。


「後悔しない?」


「しないわ」


 私は空を見上げた。

 青い空だった。

 十年前にはなかった。

 魔王もいない。

 戦争もない。

 私は世界を救った。

 そして。

 世界を救った聖女は。

 もう必要ない。



     ◇



 その夜。

 私は夢を見た。

 知らない場所。

 知らない街。

 高層ビル。

 走る車。

 眩しいネオン。


 そして。

 鏡に映った、自分の顔。

 私は息を呑んだ。


「……ここは?」


 背後から声がした。


『おかえりなさい』


 振り返る。

 そこには。

 高校生だった頃の私が立っていた。


『あなたが救った世界は、もう大丈夫』


 少女の私は笑う。


『だから、今度は――』


 目が覚めた。

 窓の外が明るくなっている。

 胸元を見る。

 そこには。

 見覚えのない銀色のペンダント。


 十年前。

 召喚されたときに持っていたものと、同じ形。

 私はそれを握りしめた。

 そして気づく。

 ペンダントの裏側に。

 小さな文字が刻まれている。


 ――《第一世界、救済完了》


 その下に。

 もう一行。


 ――《第二世界、救済開始》


 私はしばらく黙っていた。

 そして。


「……まったく」


 笑った。



「私の人生、まだ終わらないのね」













-----------------------



エピローグ① 元国王の自戒



 王座を降りてから、三ヶ月が経った。


 今の私は、王ではない。


 ただの男だ。


 かつて国を統べていた男。

 聖女を妻にした男。

 そして――その女を裏切った男。


 王宮を出てから、私は小さな屋敷で暮らしている。


 朝は静かだ。


 以前なら、目を覚ませば侍従が今日の予定を告げに来た。

 会議があり、謁見があり、決裁すべき書類があり、国王として判断しなければならないことが山ほどあった。


 今は何もない。


 それを寂しいと思う資格は、私にはない。


 最近、よく昔のことを思い出す。


 彼女と出会った日のこと。


 異世界から突然召喚された少女。


 何も分からないはずなのに、不安そうにしながらも前を向いていた。


 魔王討伐の旅で、何度も笑っていた。


 傷ついた者がいれば手を差し伸べた。


 泣いている子供がいれば、しゃがみ込んで目線を合わせた。


 彼女は、私が思っていたよりずっと強かった。


 だから私は、彼女を愛した。


 ……いや。


 愛していた、という言葉だけでは足りない。


 私は彼女に救われていた。


 王太子だった私は、常に国と王家のことを考えなければならなかった。


 けれど彼女の前では、一人の男でいられた。


 彼女は私を王太子としてではなく、レオンという一人の人間として見てくれた。


 だから私は、彼女と生きたいと思った。


 なのに。


 私は、自分でそのすべてを壊した。


 国のため。


 王家のため。


 新しい聖女のため。


 私はいくつもの理由を並べた。


 だが、どれも言い訳だった。


 本当は、恐れていたのだ。


 世界を救った彼女が、私よりも人々に愛されることを。


 王である私より、聖女である彼女の言葉のほうが人々の心を動かすことを。


 そして何より。


 そんな彼女を、私は失いたくなかった。


 矛盾している。


 失いたくなかったからこそ、私は彼女を奪った。


 彼女が再び目の前に現れたとき。


 私は喜ぶべきだった。


 生きていた。


 また会えた。


 それだけで十分だったはずだ。


 なのに私は、恐れた。


 彼女がすべてを思い出すことを。


 私の罪が明らかになることを。


 そして――彼女に、もう一度見捨てられることを。


 けれど、あの日。


 彼女は私を責め立てなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 ただ、静かに言った。


『あなたを許す理由を、あなた自身が十年間かけて全部消したでしょう?』


 あの言葉を、私は何度も思い返している。


 その通りだった。


 私は十年という時間を使って、彼女の功績を消した。


 彼女の名前を汚した。


 彼女が救った人々に、彼女を悪人だと思わせた。


 彼女が愛した国に、彼女自身を憎ませた。


 そして、最後に残ったものまで。


 彼女は私から取り上げた。


 いや。


 違う。


 彼女が取り上げたのではない。


 私が、自分で失ったのだ。


 先日、彼女に渡した手紙のことを聞いた。


 彼女は封を開けなかったらしい。


 読まずに、燃やした。


 その報告を聞いたとき。


 胸の奥が、ひどく痛んだ。


 けれど。


 それでいいと思った。


 私が何を書いたところで、彼女の十年間は戻らない。


 どれほど謝罪を重ねても、奪った命も、汚した名誉も、消えた時間も取り戻せない。


 ならば、彼女が私の言葉を拒絶する権利くらい、当然ある。


 炎に包まれたのは、一枚の手紙だけではない。


 きっと。


 彼女の中に残っていた、私への最後の未練も。


 そう思うと、苦しかった。


 けれど同時に。


 それでいいとも思った。


 彼女はもう、私を必要としていない。


 それが、私が望んでいたことだった。


 ……本当は、ずっと。


 彼女には幸せになってほしかった。


 私の隣でなくてもいい。


 私を愛していなくてもいい。


 ただ、生きていてほしかった。


 その願いを。


 私は自分の手で踏みにじった。


 愚かな話だ。


 窓の外を見る。


 春の風が吹いている。


 王都では今も、彼女の名が語られている。


 救国の聖女。


 魔王を倒した英雄。


 そして、私が歴史から消そうとした人。


 今ではもう、誰も彼女を悪女とは呼ばない。


 子供たちは彼女の功績を学び、老人たちは彼女に救われた日のことを語る。


 街には彼女の像が建てられた。


 私は、その像を遠くから見たことがある。


 像の顔は、穏やかに微笑んでいた。


 あの日。


 私に向けた、最後の笑顔と同じだった。


 私はもう、彼女に会いに行かない。


 探しもしない。


 手紙も送らない。


 彼女がどこで暮らしているのか。


 幸せなのか。


 誰と笑っているのか。


 知る必要はない。


 知ってしまえば、私はまた彼女の人生に入り込もうとするかもしれない。


 だから私は、知らないままでいる。


 彼女が私を忘れてもいい。


 私を憎んでもいい。


 いや。


 できることなら――


 私のことなど、すべて忘れてほしい。


 それが、私にできる唯一の償いなのだから。


 王座を失ったことなど、どうでもいい。


 名誉を失ったことも。


 国民から憎まれることも。


 私が本当に失ったものは、最初から一つだけだった。


 私を信じてくれた、あの人だ。


 もう二度と戻らない。


 だから私は、この先も忘れない。


 彼女を愛していたことを。


 彼女を裏切ったことを。


 そして――


 愛していたからこそ、許されない罪を犯したことを。


 それを忘れないことだけが。


 私に残された、最後の罰なのだから。




-----------------------


エピローグ② 新たな聖女



 あの人が王都を去ってから、三ヶ月が経った。


 私は今でも、ときどき思う。


 もし、あの日。

 私が何も言わなかったら。


 もし、あの広場で「本物の聖女は、あの人です」と言わなかったら。


 この国は、どうなっていたのだろう。


 きっと。


 何も変わらなかった。


 王家は真実を隠し続けた。


 人々は偽りの歴史を信じ続けた。


 そして私は、聖女として笑い続けていた。


 それが怖かった。


 私は最初から、聖女になりたかったわけではない。


 神殿に連れてこられたときも。


 白い服を着せられたときも。


 大勢の人の前で「聖女様」と呼ばれたときも。


 ずっと怖かった。


 だって私は知っていた。


 私の中にあるものが、私のものではないことを。


 召喚されたあの日から。


 私は、あの人の記憶を見ていた。


 魔王に立ち向かう姿。


 傷ついた人々を癒やす姿。


 子供たちと笑う姿。


 そして。


 愛する人を見つめる、幸せそうな顔。


 私は何度も思った。


 ――この人の代わりになんて、なれない。


 なりたくもなかった。


 だから、あの日。


 私は真実を話した。


 怖かった。


 神殿の人たちが怒ることも。


 国王陛下が私を止めようとすることも。


 その先に、自分の居場所がなくなることも。


 それでも。


 あの人が十年間奪われていたものを、これ以上奪いたくなかった。


 だから私は、言った。


 「本物の聖女は、あの人です」と。


 あの瞬間。


 私は初めて、自分の意思で立った気がした。


 それから三ヶ月。


 王家も神殿も、大きく変わった。


 隠されていた記録は公開され、あの人の功績は正しく伝えられるようになった。


 王都の広場には、今もたくさんの人が集まっている。


 以前とは違う。


 人々は、彼女を恐れていない。


 崇めるだけでもない。


 ただ。


 感謝している。


 私は、それが一番嬉しかった。


 ある日。


 教会に小さな男の子がやってきた。


「聖女様」


「どうしたの?」


「あの聖女様は、どこにいるの?」


 私は少しだけ笑った。


「どの聖女様?」


「昔の聖女様!」


 男の子は目を輝かせて言った。


「あの人が魔王を倒したんでしょう?」


「そうよ」


「じゃあ、今どこにいるの?」


「分からないわ」


「会いたいな」


 私は窓の外を見る。


 青い空。


 穏やかな風。


 あの人が救った世界。


「私も、会いたいわ」


 それは、本心だった。


 もう一度会えたなら。


 伝えたいことがある。


 ありがとう、と。


 私に勇気をくれて、ありがとう。


 あなたの代わりではなく、自分自身として生きることを教えてくれて、ありがとう。


 そして。


 この世界を救ってくれて、ありがとう。


 私は祭壇の前に立つ。


 以前なら、ここで祈りを捧げていた。


 神に選ばれた聖女として。


 けれど今は違う。


 私は、神に選ばれたからここにいるのではない。


 自分でここにいる。


 この世界を守りたいと思ったから。


 あの人が命を懸けて救ったものを、今度は私たちが守りたいと思ったから。


 だから私は、今日も人々の傷を癒やす。


 病に苦しむ人がいれば手を差し伸べる。


 困っている人がいれば助ける。


 誰かが泣いていたら、隣に座る。


 それはきっと。


 あの人がしていたことと同じだ。


 けれど。


 私は、あの人にはならない。


 私はエリスとして、この世界を生きていく。


 それが、あの人が私に残してくれたものだから。


 夕暮れ。


 礼拝を終えて外へ出る。


 空が赤く染まっていた。


 私は、遠い空の向こうを見る。


「……聖女様」


 誰に聞かせるでもなく、呟く。


「どうか、元気でいてください」


 返事はない。


 けれど。


 なぜだろう。


 風が、優しく頬を撫でた。


 私は微笑む。


「この世界は、もう大丈夫です」


 そう言って。


 私は歩き出した。


 いつかまた。


 あの人がこの世界を訪れることがあるのなら。


 そのとき私は、胸を張って言いたい。


 ――おかえりなさい。


 あなたが救った世界は。


 今も、ちゃんと生きています。



 


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