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『思記』~「護られの記(き)」より

作者: 天川裕司
掲載日:2026/03/16

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(星のカケラ)

https://www.youtube.com/@%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B1%E3%83%A9-v5x/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782



【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪




あれだけ太宰好きだったが、今手許にあるのは芥川龍之介の本である。『河童・或阿呆の一生』。

      *

俺はスロースターターなのか。でも信仰に歩まされる上、全ての物事は時に適う形で神様に御用意される。

      *

自分の内向へ行くと怖いものがある。プレッシャーや宗教の闇、生きる上での欲望や悪魔…。バーボンストリート(スティングの歌名)などまだ明るく軽いものである。自分でも何が起こるか分からない。まるで一寸先は闇だ。他人から見られて憧れられたり夢見られたりする程、その在り方は容易ではなく、単純でもなく、華やかではない。人の欲望と罪、それ等から織り成される数多の泥沼、絶望、荒み、えげつなさ、苦労、苦しみ、不安や恐怖を思えば良い。人生とは単純で、光か闇か、明暗、正義か悪義か。救いか失望か、浮き上がる事か落胆か。いろいろあるが、複雑に見えるそれ等の事は全て信仰の一つに起因して居る。その信仰の在り方一つで人は変えられる。外から来るものに人の内向の在り方は変えられる。しかしその外から来るものは実は人の内側に在り、人に与えられたその賜物は神様が予め人の為に用意されたもの。人は必ず信仰に生かされ、その様に自分が生かされて居る事を内と外から知り、自分の何足るかを思い知らされる上、神様の御前で跪かねば成らない。自分の罪を思えば必ずそう成る。その上でイエス様が自分の為に十字架に掛かられた事を思い出し、その罪が許される事を信じ、神様が与えられた全ての物事に感謝する事。その時から信仰の道は始まる。ノンクリスチャンの時から信仰は始まって居る。神様に誕生させられた時から信仰の道は始まって居る。無意識の内に人は神様を知って居る。神概念が無ければ人の歴史に「神様」という言葉は生まれて来ない。人の内向には、例えば此処で記した事の全てが存在して居る。人が一生を懸けて思い巡らす事、その影響を受ける事である。その内向を救われるものにする事、神様の御力と聖霊の働きに依りそうされる様に。

      *

洋画は共感を呼ぶのに上手い処があった。密室での共感である。こんな時には必ずそうする、と言う事を見事に踏襲して来る。おそらくそこに魅了されて居たのだろう。

      *

竜が悪魔の象徴として人の間で議論が挙がった時、その竜について「竜とは蛇が昇華したものだ。蛇はエデンの時、エバを唆してアダムも堕落させ、そして木の実を食べさせ、罪の道に人を定めたのだから、その蛇を悪魔の象徴とするなら竜もそう解釈して丁度良い」と言う者達が居た。でも人間の世界ではお決まりとして、それに猛反論する者達が現れる。単純に言って「いや竜には脚が付いて居る。大抵の蛇には付いて居ない。詰り竜の原型は蜥蜴だ。だから蛇を竜の基とするのは間違って居る」と言う。しかし全てを紐解いた時、その竜は蛇と言う解釈で正解だった。これを聞いた時、「竜は蜥蜴だ」派の人達は猛烈に怒り、地団駄踏んだ。そして「竜は蛇だ」派の人達は自分達に反論したその人達を諭すかの様にこう言った。「知識の目と思考で行くからそう成るんだよ。感覚で行けば良いのだ」と。その言葉は聖霊を理解する流れに等しかった。だから全員一致で納得出来る処もあり、だからこそ反論した人達は更に嫉妬で反論を強めようともした。

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クリスチャン同士で他人を責めて居る暇があるのなら、その時間を、自分の悔い改めに当てた方が良い。教会の人からも、少し離れて思った事に在る。

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求道する時・させる時に言う言葉。「先ず神様と向き合う様にして下さい。それから人と向き合う様にして下さい」。

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アンドロメダ銀河までは、光の速さで二百五十万年、この時点で次元を超えて居る。でもこのアンドロメダ銀河や他の銀河も含め、地球から結局観測できる運命に在った事が不思議である。


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      *

聖書を読んで、人間が何もかもを決め付け過ぎてしまって居る。そこにも神秘が在ると思え、神様の領域の事に人間が口出すべきではないとやはり思う。だから信じる事になる。聖書の知識がなくても、神様に救われようとするその一途な心、それが大事ではなかろうか。それを否定する事はやはり出来ないと思うのである。神様とその個人との関係が分からないからだ。その時の神様の恵みはその人だけに与えられる。教えられる。そしてその恵みが夫々に在る。これもその様に信じるのである。だから日々悔い改めて、十戒を守る心を常に持つ事。それが守れなくてもまた挑戦してその心を持つ事。繰り返しでも、真摯にその信仰へ向かう事。神様のもとへ辿り着こうとする事。神様に許しを願い祈ること。これが誰にとっても大事に思える。

      *

国際宇宙ステーションがアップしてる動画を見た。宇宙船の中で無重力で人がいろいろ動いて居る。「ドリンキング♫」と言いながら、丸くなった水をゴクリと飲んで居る姿が新鮮だった。どんな感じなんだろう、そんな風に夢見させるものだ。素晴らしい。地球に居ながらにして、この自室に居ながらにして、その宇宙の様子を窺えると言うのが素晴らしいのである。その宇宙船の中のこの自由。しかし一歩外に出れば即座に自由ではなくなる。これが宇宙の怖いところである。およそ宇宙空間は人間のテリトリーではない。まるで神様の領域の様に思え、人が住めない空間、その様にされて居ると単純に思えるのである。この事は又、宇宙だけでなく別の場所にも言える事である。そしてもう一つ思った事。宇宙船の中では、ドラゴンボールごっこが出来るのだ。

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 日本の芸術分野はやっぱり一辺倒である。何かが売れればそれに肖る様にさっと寄って行く。それが売れたからって、絶対それも飽きるって。もっと柔軟に行きたい。

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老いた日々が嫌だと言うが、誰にでもそれが訪れるのだ。

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あれこれあれこれ決め付け過ぎると、本当に創作分野が詰まらなくなる。現代人がよくやる事だ。余りに多くの知識や経験を身に付けた所為で、それによって創作の全てを形作ろうとしてしまう。詰り知識で創作すると言う事に成る。感覚やニュアンスが生きないのである。そう言う場所で出来上がった作品をこれ迄に沢山見て来たが、どれもこれも似た様なもので、本当に詰まらないものが多かったのである。

      *

集中力も大事だが、休憩力も大事である。

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人はどんなに歳を取っても、同世代の中にあれば、その時の少年少女を持ち合わせて居るものなのだろう。

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家具の板の裏面には、埃が付かないものだ。

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初めての気持ちは、その初めてにある。うむ、当り前の事を言った。

      *

良い事を書こうとする時、感動する様な事を書こうとする時、人は大抵、その時の自分の理想を書こうとするものである。

      *

必要な治療は頭の中で既にしたつもりだ。

      *

思った事は、その通りに書くのが一番最適だ。心に浮かんだ事を、その通りに書くべきである。途中で余計な脚色を思い付く事があるが、その時は取り敢えずその脚色を辞めておき、初めに思い感じたその通りを書くべきである。

      *

芥川龍之介のリアルな動画が、二〇二三年現代に於いてもユーチューブで観る事が出来て居る。この動画を太宰治も観たのだろうか。その動画では最後に芥川が木を登り、屋根を伝い、そのまま右向きに何処かへ行ってしまう。詰り活動写真の画面から消えるのである。一体何処へ行ったのか。その体を動かして居た彼自身は何処へ行ったか。これをやはり思う。高校の頃の俺でも思った事であろう。

      *

子供の為の空間造りは誰かがして居る。子供の頃から大人に成って、裏切られた少年の姿に成ったその彼等にこそ行き場所が必要である。その居場所を作りたいと願う。例えば文学サロン。

      *

分からない事に対し模索する事は生きる事に等しいのである。人が分かって居る範囲は、限られて居る。おそらく神様がその限りを付けて与えられて居るのか。そうとも思う。その人間の常識の範囲理解の範囲を大きく取り巻く形で、神秘の範囲が広がって居る。どこまで広がって居るか分からない。生まれて来る前、なぜ生まれたのか、死後の世界、今目の前に在る総ての自然、認知できて居る事、その根底が人間には解らない。根底と言うのは無から創られたその経過の事、原点の事。人は誰も、無から物を創れない。命を創れない。だから初めから、人は分からないものについて模索して、それを分かったと信じ、人の常識の範囲だけで生きて居る。しかし神秘がその人間の範囲を取り巻いて居るから、人は皆、神様に生かされて居る。この辺の説明が付かない。だから聖書に書かれてある事を信じるしか無いとなる。これは俺の場合であり、クリスチャンの場合である。そして俺に言わせれば、総ての人間にとってそう言えるのだ。

      *

 『真田丸』の最初の方が好きだった。朗らかで、旅人の自由なあの空気があったからである。

      *

勉強とは、青春である。

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作品などは何でも良い訳である。書きたいものを書けばよろしい、なのだ。

      *

ひとりの作家の本を、何度も繰り返して読む。一冊を繰り返し。他へは余り行かない。昔はインターネットが無かったから、手頃に作品も買えなかった。だからかも。その一冊を繰り返し読む。そして自分の思う処をとにかく書く。これも繰り返しで、その軌跡が神様の祝福と恵みの内に在る。詰り今でも読み返す事が出来るのだ。安部公房なら、『壁』と『他人の顔』と『笑う月』を繰り返し読んだ。太宰なら『もの思う葦』と『晩年』と『きりぎりす』と『新樹の言葉』等を繰り返し読んだ(も少しあったかも知れぬ)。芥川なら『西方の人』と『或る阿呆の一生(河童)』を繰り返し読んだ(あと『トロッコ』も中学の時に読んで居り、これが芥川に入る切っ掛けだった)。ドストエフスキーなら『白夜』(でもこれは最後まで読んで居ない)、漱石なら『虞美人草』、だいぶ後年になって川端康成は『掌の小説』、谷崎潤一郎なら『痴人の愛』と『春琴抄』(『春琴抄』は良いが『痴人の愛』は詰まらなくて嫌い。でも『春琴抄』にしても最後までは読んでない)、とにかく太宰が多かったか。三島由紀夫は(以前にも書いたが)『卵』が良く、他の『金閣寺』や『豊穣の海』等は余りにらしくて殆どちゃんと読まなかった(読む気になれないのである)。しかし総じて俺は読書嫌いだ。本当はそれほど読みたくない。テスト勉強をする前の心身の姿勢と似て居り、それをする前は「さぁ〜どこから手を付けてやろうか?(笑)きっと素敵な財産が転がり込んで、興味深い面白い時間になるぞ」など音符付きで思ったりするが、いざ机に向かい、本を拡げてみれば、何の事はない、いつもの倦怠と退屈とやりきれなさが滲み出て来て、数分保たぬ内に先ず集中力がれ、そのうち読まなくなる。これも繰り返しだった。そんな中で残ったのが上記した物達であり、中でもやはり太宰と芥川、少し安部公房、そして漱石のリズムの良い、小難しい書き方の物だけが何となく残ったのである。しかし、これ等の人の本を総て上回る形で残るのは、俺にとってはやはり聖書だった。いや、これは今でもそうである。聖書の書き方、その内容。これは他の本には絶対に無い感動と奥行きが在る。父母を始め、総ての信仰に於ける先輩方も共に読んで来て居る。読み続けて居る。牧師も教会に集う者達も。その感動と奥行きは恵みに変わり、真実と成る。詰り、一番身近に感じられるのが聖書だったのであり、やはりその一生を救うものが聖書だった。これが他の本には無い訳である。在るとすれば、唯一、自分の記録。

      *

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サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬

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