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その聖水、ただの麻薬ですよね? ~断罪された悪役令嬢ですが、前世の『詐欺師』の知識で聖女の化けの皮を剥がしたら、国中がパニックになりました。薬漬けの元婚約者? 一生震えていてください~

作者: 文月ナオ


 シャンパングラスが触れ合う、軽やかな音が響くはずだった。


 けれど、その音はしなかった。


 王城「白亜の間」。 隣国ガルガディア帝国との平和条約調印式。 その最後に執り行われた「友好の乾杯」の席で、第一王子アルフレトは、私が差し出したグラスを床に叩きつけたからだ。


 パリーン、という破砕音が、オーケストラの音を止めた。


 広間が凍りつく。 飛び散った黄金色の液体が、私のドレスの裾を濡らす。


「……飲めるわけがないだろう」


 アルフレト王子の声は震えていた。 怒りではない。 極限の恐怖と、それを誤魔化そうとする虚勢。


「そ、その中には……毒が入っているのだからな」


 彼は縋るように、背後に控える小柄な女性を振り返った。 男爵令嬢であり、教会から認定されたばかりの「聖女」セルマ。


 彼女は、感情の抜け落ちた硝子玉のような瞳で、私を見据えていた。


 その瞬間。 私の脳内に、強烈な既視感デジャヴと共に、前世の記憶が奔流となって流れ込んできた。


(――あ、これ。『聖女と白銀の騎士』の、クレア断罪イベントだ)


 そうか。私は転生していたのか。 しかも、ゲームの終盤、悪役令嬢クレアが処刑される確定ルートの真っ只中に。


 ゲームでのこのシーンは、聖女の奇跡によって王子の命が救われる感動的な場面だったはずだ。 だが、前世で「人を騙す仕事(詐欺師)」をしていた今の私の目には、まったく違う光景に見えていた。


 王子の異常な発汗。 焦点の合わない瞳。 そして、聖女が懐から取り出した、怪しげな紫色の小瓶。


(……なるほど。あれがゲーム内アイテム『聖女の涙』の正体?)


 ゲームでは「万能治療薬」。 だが現実ここでは、どう見ても「依存性の高い薬物」だ。


「クレア・フォン・アムスベルク」


 アルフレト王子が、台本を読むように告げた。 婚約破棄などという言葉は使わない。 もっと事務的で、残酷な通告。


「聖女暗殺未遂および、国家反逆の容疑で、貴様を拘束する」


 周囲の貴族たちが息を飲む。 アムスベルク侯爵家という巨大権力を潰すための、王家のクーデター。 その舞台装置として、このゲームイベントが利用されている。


 普通の令嬢なら、ここで泣き叫ぶ。 「違います」「信じてください」と。 それが、この断罪イベントの正解ルート。


 ――すなわち、処刑への一本道だ。


 でも、残念。 中身が変わってしまったのよ。

 私は扇子を開き、口元を隠して笑った。 優雅に。 不敵に。


「――あら。随分と手の込んだ余興ですこと」


 その一言で、場の空気が変わる。


「よ、余興だと……?」


「ええ。だって殿下。そのグラスに毒が入っている証拠は? まさか、そこにいる聖女様が『神託で見た』とおっしゃっただけではありませんわよね?」


 私は一歩、前へ出る。 私が近づくだけで、アルフレト王子はビクリと肩を跳ねさせ、聖女の背後に隠れようとする。 かつて攻略対象として人気を博した「守ってあげたい系男子」の成れの果てだ。


 聖女セルマが、初めて口を開いた。透き通るような発声、しかし抑揚はない。


「……見えます。貴女の心に巣食う、どす黒い嫉妬が。そのグラスには、殿下を永遠に眠らせる猛毒が入っています」


「へえ。なら、飲んでみせましょうか?」


 私は給仕の盆から、ボトル――先ほど殿下のグラスに注がれたのと同じ瓶を手に取った。

そして、躊躇なくラッパ飲みしてみせる。


「んっ……ぷは。極上のヴィンテージですわね。毒など、どこにも」


「す、すり替えたのだろう! 貴様は魔女だ、何をするかわからない!」


 王子が叫ぶ。 論理も証拠もない。 あるのは「アムスベルク家を排除したい」という王家の意思と、「薬が欲しい」という王子の禁断症状だけ。


 衛兵たちが動き出す。 父である侯爵が動こうとするのを、私は視線だけで制した。


(お父様、ここで動けば思う壺よ。私に任せて)


 この状況は「詰み」だ。


 だが、詐欺師の鉄則がある。 『相手が大きな嘘をついている時ほど、小さな真実が武器になる』

 私は連行されながら、帝国の使節団が座る席を一瞥した。 そこに、退屈そうに頬杖をつく一人の男がいた。


 黒髪に、氷のような青い瞳。 帝国の宰相、ジェイド・ヴェルン。 ゲームの隠しキャラにして、この国の滅亡に関わる最重要人物。


 彼と目が合う。 私は口パクで、彼にしか読み取れないメッセージを送った。


『(――毒よ)』


 ジェイドの目が、わずかに見開かれる。 彼のグラスには、先ほど聖女が「清めの儀式」として数滴垂らした液体が入っていた。 ゲームでは「祝福」。 現実では――おそらく、帝国の要人を暗殺するための遅効性の毒。


 ジェイドは口元に運んでいたグラスをピタリと止め、ニヤリと笑った。


(……気づいたわね)


 これでいい。 種は撒いた。


「地下牢へ連れて行け!」


 王子のヒステリックな声に見送られ、私は大広間を後にする。


 バッドエンド? 処刑ルート? 上等じゃない。 シナリオライターの性格が悪いこの世界、私が書き換えてあげる。


 心理学とハッタリ、そして「ゲーム知識(予言)」を使って。


◇◆◇


 地下牢の環境は劣悪だったが、私の心は躍っていた。 前世の退屈な日常より、よほど刺激的だ。


 鉄格子の向こう。 カツン、カツンと響く足音。


 現れたのは、予想通りジェイド・ヴェルンだった。 彼は鉄格子の前で足を止め、まるで珍獣を見るような目で私を見下ろした。


「……私のグラスに毒が入っていると、なぜわかった?」


 挨拶もなしか。 私は寝台に座ったまま、ゆっくりと足を組み替えて、微笑んだ。


「こんばんは、宰相閣下。命拾いなさいましたね」


「質問に答えろ。アムスベルク侯爵令嬢」


「簡単なことですわ。あの聖女、私の婚約者(王子)には『依存させる薬』を、邪魔な貴方には『排除する毒』を盛った。……彼女の目的は、この国を乗っ取ることですから」


 ジェイドが目を細める。


「……証拠は?」


「ないわ。でも、貴方は飲まなかった。それが全てでしょう?」


 私は立ち上がり、鉄格子越しに彼と対峙する。


「ジェイド様。貴方はこの国の『攻略法』を探しに来たのでしょう? 王家を潰し、帝国が併合するための」


「……人聞きが悪いな。我々は友好条約を結びにきたのだが」


「白々しい。この世界の……いいえ、この国の行く末は決まっています。王子は薬漬けになり、聖女が裏で操る傀儡政権が誕生する。そして3年後、国力が疲弊したところを帝国が攻め入るも、聖女の『謎の兵器』によって帝国軍は壊滅的な被害を受ける」


 これはゲームの続編『聖女と覇道の帝国』のプロローグだ。 この世界がゲーム準拠なら、帝国もまた、聖女セルマというイレギュラーに食い散らかされる運命にある。

 ジェイドの表情から、余裕が消えた。 彼もまた、聖女のきな臭さに勘づいていたのだろう。


「……予言者気取りか?」


「いいえ、ただの『悪役』ですわ。でも、未来を知る悪役」


 私は鉄格子の隙間から手を伸ばした。


「取引をしましょう。私をここから出し、処刑を回避させること。対価として――聖女の『攻略法』と、この国を無傷で貴方に差し上げます」


「……狂っているな」


「ええ。まともな令嬢なら、こんな提案はしません」


 ジェイドは私の目を見る。 嘘か真か。狂気か正気か。 長く冷たい沈黙の後、彼は喉の奥で低く笑った。


「面白い。聖女の正体には興味があったが、まさか悪役令嬢キミの方がよほど『毒』があるとは」


 彼は私の手を取り、その指先に唇を寄せた。 契約の口づけ。


「いいだろう、クレア。その嘘、私が買おう。……明日の正午、処刑台がお前のステージだ。派手に演じてみせろ」


「ええ、お任せを。最高のバッドエンド(ざまぁ)を見せて差し上げます」


 繋いだ手から伝わる体温。 それは、孤独な断罪ルートにおける、唯一の確かな「フラグ」だった。


 ◇◆◇


 地下牢の空気は、夜が更けるにつれて冷たさを増していた。 けれど、鉄格子を挟んで向かい合う私たちの間には、奇妙な熱が漂っていた。


「……なるほど。聖女の使う『聖水』の正体は、高純度の精製魔力水に、幻覚作用のある『夢見草』を混ぜたものか」


 ジェイドは顎に手を当て、私の説明に頷いた。 さすがは帝国の宰相。理解が早い。


「ええ。ゲーム……いえ、古い文献によれば、その配合は一時的な高揚感と万能感を与えますが、効果が切れれば激しい不安と悪寒に襲われます。典型的な『依存形成』の手口ですわ」


 私は前世の記憶――『聖女と白銀の騎士』の設定資料集の知識を動員して解説する。 この世界の人々は「魔法」や「奇跡」を信じすぎている。だからこそ、科学的な薬理作用(ギミック)には無防備だ。


「アルフレト王子は、その禁断症状を『聖女への愛』だと錯覚させられている。そして聖女は、彼が苦しむタイミングを見計らって薬を与えることで、支配を強化している……というわけか」


 ジェイドの瞳が、侮蔑の色に染まる。


「反吐が出るな。王族を操り人形にするとは」


「同感ですわ。でも、これこそが私の勝機」


 私は鉄格子に指を絡め、ニヤリと笑った。


「ジェイド様。明日の処刑台で、貴方には『演出家』になってもらいます」


「演出家?」


「ええ。私が舞台上で合図をしたら、貴方の権限で『鑑定』を行ってほしいのです。……ただし、ただの鑑定ではありません」


 私は懐(ドレスの隠しポケット)から、小さな紙片を取り出した。 そこには、私が即席で書いた「ある薬品」のリストが記されている。


「この薬品を用意できますか? 帝国の錬金術師なら、朝までに精製できるはず」


 ジェイドは紙片を受け取り、片眉を上げた。


「……濃硫酸に、ホルマリン? 何かを溶かす気か?」


「いいえ。これは『奇跡の化けの皮』を剥がすための、ただの『試薬』ですわ」


 聖女セルマの支配力の源泉は「未知への畏怖」だ。 彼女の奇跡が、ただの化学反応だとバレれば、群衆の信仰は一瞬で恐怖へと反転する。 集団心理を誘導する。それが詐欺師の常套手段。


「……面白い。用意しよう」


 ジェイドは紙片を懐にしまい、興味深そうに私を見つめた。


「だが、クレア。一つ疑問がある」


「何でしょう?」


「君の実家、アムスベルク侯爵家だ。君の父親は『怪物』と呼ばれる男だぞ。娘の君が処刑されると知って、黙っていると思うか? 私が手を貸さずとも、彼が私兵を率いて王都を制圧するのではないか?」


 鋭い指摘だ。 確かに、あのお父様ならやりかねない。 だが、それではダメなのだ。


「父が武力で解決すれば、それは『内乱』になります。多くの血が流れ、国は疲弊し、結果としてアムスベルク家も『逆賊』の汚名を着る。……それでは、聖女を利するだけです」


 私はまっすぐにジェイドを見つめ返す。


「私は、血を流さずに勝ちたいのです。言葉と演技だけで、あの偽物の聖女を社会的に抹殺し、王子を目覚めさせたい。……それが、アムスベルクの流儀プライドですわ」


 これは嘘だ。 本当は、ゲームのバッドエンドを回避するために、これ以上「復讐の連鎖」を生まないルートを選びたいだけ。 けれど、この建前の方がジェイドのような男には響く。


 案の定、ジェイドは口元を緩めた。 心底、愉しそうに。


「言葉だけで国をひっくり返す、か。……いいだろう。その矜持、気に入った」


 彼は鉄格子の鍵穴に、何やら細工を施し始めた。 カチリ、と小さな音がする。


「鍵は開けておいた。だが、出るのは明日の正午だ。衛兵が迎えに来るまで、大人しく囚人のふりをしていろ」


「あら、脱獄させてくださるわけではないの?」


「処刑台までエスコートするのが、私の役目だろう? 最高の特等席を用意して待っている」


 ジェイドは背を向け、闇の中へと消えようとする。 その背中に、私は声をかけた。


「ジェイド様」


 彼は足を止める。


「……私を信じてくださって、感謝します」


 これは本心だった。 孤独な牢獄で、唯一の共犯者。 彼がいなければ、私はとっくに心を折られていたかもしれない。

 ジェイドは振り返らず、片手だけを上げて見せた。


「勘違いするな。私は面白い賭けに乗っただけだ。……勝てよ、クレア。私が惚れ込んだ『悪女』ならばな」


 その言葉を残し、彼は去っていった。 「惚れ込んだ」なんて、さらりと言ってのける。 本当に、食えない男だ。


 ◇◆◇


 翌日。正午。

 王都中央広場は、立錐(りっすい)の余地もないほどの人だかりだった。 「稀代の悪女」の最期を一目見ようと、数千の市民が詰めかけている。


 処刑台の上。 私は後ろ手に縄で縛られ(もちろん、緩めに結ばせているけれど)、跪かされていた。


 目の前には、特等席に座るアルフレト王子と聖女セルマ。 そして、その横には帝国の賓客として、涼しい顔をしたジェイドが座っている。


「――罪人、クレア・フォン・アムスベルク!」


 裁判官役の男が、巻物を読み上げる。


「貴様は聖女セルマ様の殺害を企て、国家転覆を画策した! その罪、万死に値する!」


「殺せ!」「魔女め!」 群衆からの罵声が飛ぶ。石礫いしつぶてが投げ込まれる。

 痛い。怖い。 普通の令嬢なら、ここで心が折れて泣き出すだろう。


 けれど、私は前世で修羅場を潜り抜けてきた女。 この程度のブーイング、むしろ「舞台のBGM」として心地いいくらいだ。


(さあ、役者は揃ったわね)


 私はゆっくりと顔を上げた。 その表情に、悲壮感は欠片もない。 あるのは、これから始まるショーを心待ちにする、主役の輝きだけ。


 アルフレト王子が、ビクリと震えた。 私の目に宿る光が、死人のそれではないことに気づいたからだ。


「……な、なぜ笑っている?」


 王子が掠れた声で問う。


「笑いますわ、殿下。だって、あまりにも滑稽なんですもの」


 よく通る声で、私は広場全体に響くように告げた。


「無実の罪で婚約者を殺し、得体の知れない女に国を売り渡そうとしている。……そんな道化芝居の主役が、かつて愛した貴方だなんて」


「だ、黙れ! 僕は正常だ! セルマは聖女だ!」


「本当にそうですか?」


 私は視線を、王子の隣に立つセルマへと移した。 彼女は無表情のまま、私を見下ろしている。


「セルマ。貴女が王子に飲ませている『聖水』。……あれ、ただの依存薬でしょう?」


 広場がざわめく。 セルマの眉が、ピクリと動いた。


「……何を根拠に。あれは神の奇跡です」


「奇跡? なら、ここで証明してごらんなさい」


 私は縛られたまま、顎でジェイドの方をしゃくった。 それが合図だった。

 ジェイドが立ち上がり、懐から昨日私が指定した「試薬の瓶」を取り出す。


「おや、それは興味深い。帝国の宰相として、その『奇跡』とやらを拝見したいものですな」


 ジェイドの介入に、セルマの表情が初めて強張る。


 ◇◆◇


 広場の喧騒が、一瞬にして静まり返った。

 処刑台の上。


 ジェイドが優雅な手つきで小瓶を取り出し、聖女セルマに歩み寄る。


「聖女殿。貴女のその奇跡の力『聖水』が本物ならば、異国の試薬ごときで穢れることはありますまい?」


 ジェイドは氷のような笑みを浮かべ、逃げ場のない論理で迫る。


 外交の場で「証明」を求められて断れば、それは「偽物」だと認めるようなものだ。

 セルマの能面のような顔が、微かに歪む。


「……無礼な。神の奇跡を疑うのですか?」


「疑ってなどいませんよ。ただ、帝国の皇帝陛下に報告するために『確認』が必要なだけです」


 ジェイドはセルマの手から、アルフレト王子に飲ませようとしていた聖水の瓶を強引に取り上げた。


 そして、躊躇なく自らの持つ試薬を、その中へと垂らす。


 ポタリ。

 たった一滴。

 その瞬間だった。


 ジュワァァァァッ!!


 耳障りな音と共に、透明だった聖水が瞬く間にドス黒く変色した。


 それだけではない。

 瓶の口からモクモクと立ち昇った紫色の煙が、強烈な腐臭――腐った卵とアンモニアを混ぜたような悪臭を放ち始めたのだ。


「う、うわっ! なんだこの臭いは!」


「くさい! これが聖なる水だって!?」


 最前列にいた群衆が鼻を押さえて後ずさる。

 神聖なはずの広場が、一瞬にしてゴミ溜めのような臭気に包まれる。

 私は勝ち誇った笑みを浮かべ、声を張り上げた。


「ご覧になりまして!? これこそが『聖水』の正体ですわ!」


「なっ……何をしたのです! 貴方たち、神聖な水に呪いをかけましたね!?」


 セルマが金切り声を上げる。

 だが、その焦りこそが答えだ。


「呪い? いいえ、ただの『化学反応』です」


 私は冷然と言い放つ。


「その試薬は、特定の『不純物』――たとえば麻薬や毒物にだけ反応し、腐敗を促進させるものです。」


「嘘よ……そんな、馬鹿な……!」


 セルマが狼狽える。

 彼女は「ゲームの知識(アイテム効果)」には詳しいかもしれないが、この世界の「化学(錬金術)」には無知だったようだ。

 未知の現象を前にして、彼女の「全能感」が崩れ去っていく。


 私は視線を、呆然と立ち尽くすアルフレト王子へと向けた。


「アルフレト様」


 呼びかけに、王子がビクリと肩を震わせる。

 彼は、ドス黒く変色し、悪臭を放つ小瓶を凝視していた。


 あれほど欲していた「救い」の正体が、ただの汚物だったと突きつけられたのだ。


「あ、ああ……」


「見なさい、ご自分の手を。震えているでしょう? 汗が止まらないでしょう?」


 私は畳み掛ける。

 優しさなどない。冷徹な事実だけを突きつける。


「それは『恋の病』でも『聖女への敬愛』でもありません。ただの『禁断症状』です。貴方はそのドブ水のような薬なしでは生きられない、哀れな中毒者にされたのです!」


「ち、違う……僕は、僕は選ばれた王で……セルマは僕を救って……」


 王子が頭を抱えてうずくまる。

 彼のプライドと、現実が激しく衝突している。


 そこで、セルマが動いた。

 彼女はジェイドの手から黒く変色した小瓶を奪い返すと、狂気じみた形相で王子に迫った。


「殿下! 騙されてはいけません! さあ、これを飲むのです! 飲めば楽になります! 全ての不安が消えるのです!」


 それはもはや聖女の慈愛ではない。

 麻薬の売人が、顧客を繋ぎ止めようとする必死の形相だ。


「ひっ……!?」


 王子が悲鳴を上げて後ずさる。

 目の前に突きつけられたのは、腐臭を放つ黒い液体。


 本能が「それを飲むな」と警鐘を鳴らす。


「飲んで! 飲みなさいよ! 私に従えばいいのよ!!」


 セルマが王子の胸倉を掴み、無理やり口に流し込もうとする。

 その瞬間、群衆の「信仰」は完全に「恐怖」へと変わった。


「やめろ……やめろぉぉぉッ!!」


 アルフレト王子が、絶叫と共にセルマを突き飛ばした。


 ドサッ!


 セルマが石畳に無様に転がる。

 小瓶が砕け、黒い液体が彼女の灰色のドレスを汚らしく染め上げた。


「あ……あぁ……」


 セルマは呆然と自分の手を見る。

 王子に拒絶された。

 衆人環視の中で。


 それは、彼女の「支配」が終わったことを意味していた。


「……チェックメイトだ」


 ジェイドの合図と共に、群衆に紛れていた帝国軍の兵士たちが壇上へなだれ込む。

 さらに、事態を静観していた王国の近衛騎士たちも、王子の危機と『聖女の不正』を目の当たりにし、一斉にセルマへと剣を向けた。


「聖女セルマを拘束せよ! 王族への傷害、および違法薬物使用の現行犯だ!」


「いやぁぁぁ! 離して! 私は聖女よ! この国の支配者になるはずだったのよぉぉ!!」


 衛兵に取り押さえられ、セルマが髪を振り乱して絶叫する。

 その醜い姿に、もはや誰も「聖女」の面影を見ることはなかった。


 騒乱の中、ジェイドが私の元へ歩み寄る。

 彼は腰のナイフで、私を縛っていた縄を鮮やかに切り裂いた。


 自由になった両手。

 私は手首をさすりながら、へたり込むアルフレト王子を見下ろした。

 彼はガタガタと震えながら、私を見上げている。

 その目には、涙が溜まっていた。


「ク、クレア……。僕は……何てことを……」


 洗脳が解け、自分がしでかしたことの重大さに気づいたのだろう。

 彼は縋るように私に手を伸ばした。


「許してくれ……。君しかいなかったんだ……。やり直そう、クレア……!」


 都合のいい言葉だ。

 かつて愛した男の、あまりに情けない姿。

 ゲームのクレアなら、ここで彼を抱きしめてハッピーエンドだったかもしれない。


 けれど。


 パシッ。


 私は扇子で、彼の手を冷たく払い落とした。


「――お断りしますわ」


「え……?」


「一度でも私を信じず、あんな女の薬に溺れた男など、願い下げです。……貴方は一生、治療施設サナトリウムで震えてお暮らしなさい」


 突き放す言葉は、氷のように鋭く、重い。

 王子の瞳から光が消え、彼は絶望に崩れ落ちた。


 私はドレスの裾を翻し、彼に背を向ける。

 もう、振り返らない。


「行こう、クレア。……最高に気分のいいショーだった」


 ジェイドが私の腰を抱き寄せ、エスコートする。

 群衆は道を開け、畏怖と称賛の眼差しで「悪役令嬢わたしたち」を見送った。


 王城を背に、私たちは馬車へと乗り込む。

 この国での私の人生は終わった。


 侯爵令嬢クレアは死に、ここからは――ただのクレアとしての、新しいゲームが始まる。


「さて、ジェイド様。約束通り、私の身柄は貴方のものですわ」


 馬車の中で、私は彼に微笑みかける。


「ああ。……覚悟しておけ。私の国では、退屈などさせない」


 ジェイドが眼鏡の奥の瞳を細め、肉食獣のように笑った。

 馬車は走り出す。

 崩壊した王国と、過去の男を置き去りにして。


 私たちの行く手には、どこまでも広がる青空と、まだ見ぬ覇道が待っている。


 ◇◆◇


 あれから、二年が過ぎた。


 ガルガディア帝国、帝都。


 石造りの重厚な街並みを見下ろす、宰相府の執務室。

 私は最高級の革張りのソファに深く腰掛け、淹れたての紅茶の香りを楽しんでいた。


「……また、王国からの『援助要請』ですか?」


 私が呆れたように呟くと、執務机に向かっていたジェイドが、書類から顔を上げずに鼻を鳴らした。


「ああ。どうやら食糧難に加え、地方貴族の反乱が相次いでいるらしい。『かつての盟友として助けてほしい』だとさ。……図々しいにも程がある」


 ジェイドはペンを走らせながら、冷徹に切り捨てる。


「つっぱねる。担保として『北部の鉱山採掘権』を全て譲渡するなら、考えてやらなくもないとな」


「フフッ、相変わらず悪どいですわね」


「誰の入れ知恵だと思っている」


 ジェイドが顔を上げ、眼鏡の奥で楽しげに目を細めた。


 そう。

 あの日、私たちが去った後の王国は、坂を転がり落ちるように崩壊した。


 聖女セルマによる薬物汚染は、王都の騎士団や高官にまで蔓延しており、その解毒と治療だけで国庫は空になった。


 求心力を失った王家に対し、周辺諸国はここぞとばかりに不平等条約を押し付け、今や王国は帝国の「属国」も同然の状態だ。


「アルフレト殿下は、どうなさっていますの?」


「廃嫡され、離宮の塔に幽閉されているよ。……未だに『クレアはどこだ、彼女なら僕を許してくれる』と譫言うわごとを呟いているそうだ」


「まあ。一生、過去の夢に縋っていればよろしいわ」


 私は冷淡に言い放つ。

 同情などない。彼が選んだ道だ。


「そして、元聖女セルマだが……」


「ええ」


「地下牢で禁断症状に苦しみながら、それでも『私はヒロインなのよ』と壁に爪を立てているそうだ。……君が開発した『解毒プログラム』のおかげで、死ぬことすら許されない体になってな」


 ジェイドがニヤリと笑う。


 そう、私は彼女に慈悲としての「死」など与えなかった。

 彼女がばら撒いた毒の苦しみを、彼女自身が一番長く味わうべきだからだ。

 それが、元詐欺師なりの「因果応報シナリオ」の書き方。


「……退屈な末路だな。ゲームのバッドエンドの方が、まだ華があったかもしれない」


 ジェイドが席を立ち、私の隣に腰を下ろす。

 自然な動作で私の腰に手を回し、距離を詰めてくる。

 この二年間で、私たちの関係は「共犯者」から、もう少し深いものへと変わっていた。


 私は帝国の「影の顧問」として、諜報解析や心理戦の指南を行っている。

 ジェイドの右腕であり、時には彼の手綱を握るパートナー。


「クレア。君のおかげで、帝国の版図は広がる一方だ。……本当に、君という『劇薬』を手に入れて正解だったよ」


 ジェイドが私の首筋に顔を埋め、甘く囁く。

 冷徹宰相と呼ばれる彼が、私にだけ見せる執着と独占欲。


「買い被りですわ。私はただ、自分の居場所を快適にしているだけ」


「素直じゃないな。……だが、そこがいい」


 彼は顔を上げ、私の唇を塞いだ。

 契約の時の冷たいキスとは違う。

 熱く、深く、そして甘い口づけ。


 唇が離れた瞬間、彼がわずかに眉を寄せ、不満げに呟いた。


「……それにしても、最近君を狙う輩が増えて困る」


「あら、私の魅力のせいですわね」


「ああ、全くだ。……だから、そろそろ身を固めないか?」


「え?」


「『影の顧問』もいいが、そろそろ『宰相夫人』という肩書きも悪くないだろう? ……君以外の女を隣に置く気はない」


 それは、帝国一の策士にしては、随分とストレートで不器用なプロポーズだった。

 私は目を丸くし、それから吹き出した。


「ふふっ……あははは! ジェイド様、それは脅し文句ですか?」


「求婚だと言っているんだが」


 ジェイドが憮然とする。

 私は笑い涙を拭い、彼のネクタイを指で弄んだ。


「いいですわよ。……ただし、覚悟してくださいね?」


「何をだ?」


「私は『稀代の悪女』ですもの。貴方が少しでも浮気をしたり、私を退屈させたりしたら……この帝国ごと、乗っ取って差し上げますから」


 私の挑発に、ジェイドは今日一番の深い笑みを浮かべた。


「望むところだ。……一生かけて、私を騙し続けてくれ、愛しい共犯者殿」


 再び唇が重なる。

 窓の外には、かつての王国よりも遥かに広大で、活気に満ちた帝都の風景が広がっていた。


『聖女と白銀の騎士』?

 そんな古いゲームのシナリオなんて、もうどうでもいい。

 ここにあるのは、私が選び、私が勝ち取った、最高にスリリングで甘美な現実リアル


 さあ、次のゲームを始めましょうか。

 私の「ハッピーエンド」は、まだ始まったばかりなのだから。


最後までお読みいただきありがとうございました!


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今回はスカッとする「辛口」なお話でしたが、その反動で、糖度を限界まで高めた「極甘」な溺愛甘々ストーリーを書きました。


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