第51話
福岡国際センターは九州場所の熱気で包まれていた。今回の番付表には和人の新しい四股名「若潮」が堂々と刻まれ、和人は晴れて新十両としてこの場所に臨むこととなっている。
初日を迎える会場の片隅には和人の両親と姉の美音が姿を見せ、少し緊張した面持ちで息子の初戦を待っていた。彼らの表情には期待と誇りが溢れており、両親はこれから披露される和人の新しい化粧まわしを見るのを心待ちにしていた。
「和人、立派になったわね…」
と母親が小声で呟くと、父親も無言で頷き、まっすぐ土俵を見据えた。今日、和人が締める化粧まわしは地元の伝統である博多織で作られており、細部まで細やかなデザインと色彩が施されていると聞いている。
しかし両親も実物を見るのは今日が初めてだ。息子のために、潮見部屋の後援会や南中学校のOBたち、そして地元の協力者たちが力を合わせて贈ってくれたものであり、和人にとって本当に貴重な贈り物であった。
やがて、和人の化粧まわしの披露の場である十両土俵入りが近づいてきた。支度部屋で深呼吸をしながら土俵入りの準備をする和人は、新しい四股名と新しい化粧まわしの重みを改めて感じ取っていた。潮見部屋でみんなに見守られながらその化粧まわしを初めて締めた時、和人の胸には深い感謝と決意が沸き起こっていた。
「よし、行くぞ…!」
と和人は心の中で静かに気合を入れ、堂々と土俵に向かって歩み出した。
福岡国際センターの館内放送が聞こえた。
「これより、東方十両土俵入りであります」
和人は東方の十両力士たちの列の先頭の、行司の次に並んだ。
「東方、若潮。福岡県出身、潮見部屋」
会場からは拍手と声援が巻き起こる。その声援に包まれながら和人が土俵に上がると、観客、そして両親の目に飛び込んできたのは鮮やかな博多織の化粧まわしだった。深みのある紺色を基調に金糸や銀糸がきらめく力強い柄が施され、故郷の誇りが込められているのが一目で伝わってきた。高潮を意識している、波の刺繍が施されている。
「わぁ…本当に素敵…」
と母親が感激したように小声で呟く。隣で無言のままじっと見守る父親の眼も、少し潤んでいる。
和人は大きく息を吸い込むと、まるでその化粧まわしに応えるかのように雄大さを感じさせて、東方の十両力士たちとともに土俵の上を一回りし、和人の初めての十両土俵入りは終わった。行司と東方の十両力士たちが退場していく。
そしていよいよ取組が始まる。幕下の時とは異なる独特の緊張感に満ちた土俵で、関取としての、若潮としての初めての取組を迎えようとしている。和人の心は揺るぎない決意に満ちていた。
取組がいよいよ始まろうとしていた。対戦相手は和人よりも1歳年上で、同じく新十両に昇進した勢山。勢山は力強い突き押しが得意の力士で、攻めの姿勢を崩さないことで定評がある。互いに新十両という同じ立場で、両者の間には緊張感が漂っていた。
緊張しながら和人は土俵に上がり、ゆっくりと深呼吸をした。相手と顔を合わせ、息を整える。視界に広がる観客席を横目に見ながらも、心の中で静かに自身を奮い立たせた。
「よし…俺はやれる」
そして左手に塩をつかみ、勢いよくまき散らした。その白い塩の一粒一粒が、彼にとって特別な意味を持つものに思える。改めて十両の土俵にいることの重みを感じ、全身が引き締まった。
塩をまき終えると、和人は土俵中央の仕切り線についた。向かい側には勢山が鋭い目つきでこちらをじっと見据えている。お互いに気を緩めることなく、集中し合う時間が流れる。土俵際からは応援の声や拍手が響いてきたが、和人の耳にはほとんど入らなかった。
心の中で親方や仲間、そして支えてくれるみんなの顔を思い浮かべながら、和人は一言、心に決意を刻んだ。
「絶対に勝つ」
彼は拳を強く握り、勢山に対して一歩も引かない決意を表すように目線を合わせた。やがて行司がゆっくりと声を上げた。
「はっけよーぉい…」
「…のこった!」
行司の声とともに、立ち合い和人と勢山は全力でぶつかり合った。大きな音が土俵に響き渡り、観客からおおっというどよめきが起こる。二人は幕下時代に何度も対戦しており、お互いが相手のクセや得意技を熟知していた。
勢山は和人に対して、勢いよく得意の突き押しで先手を取ろうとしてきた。和人は少し体をずらし、勢山の動きをかわすように回り込んで体勢を整えた。
「ここで焦って正面から押し合うと危険だ…」
和人はそう自分に言い聞かせる。勢山の押しには力があるが、立ち合い直後は一瞬体勢が不安定になることがある。和人はその一瞬のスキを狙っていた。
勢山が予想通り体勢を崩した瞬間、和人は機敏に反応し勢山の腕をさばいて右手で前褌を取りに行った。勢山もすぐに和人の動きを察知し、体を捻ってかわそうとするが、和人はしっかりと狙いを定めている。
「くっ…やるな…」
勢山も必死に押し返そうと、体を低くして猛然と攻め込んでくる。土俵際ギリギリまで詰め寄られ、和人は危険な場面に立たされたが、そこで冷静に持ち直し、踏ん張りを効かせた。観客からの歓声が一層大きくなり、土俵は二人の気迫に満ちあふれていた。
和人は瞬時に過去の対戦を思い出した。勢山は突き押しで決めに行く際に必ず左肩に力を入れるクセがあり、その際に重心が少し左に傾くのだ。それを狙い、勢山が突いてきた瞬間、和人は相手の動きに合わせるように一歩後退し、体を半身にした。
「今だ!」
和人は勢山のまわしを取った。右を差した。
そして力を溜めて一気に右からの下手投げを打った。勢山の体勢が崩れ、左足が浮く。土俵際で粘る勢山だったが、和人は勢山をもろ差しで寄り切り、勝ちきった。
行司が軍配を上げ、「若潮~!」と勝利を告げる。和人の心に歓喜が込み上げ、観客席からは大きな拍手と声援が沸き上がった。




