第34話
もうすぐ17時になろうとしている時、和人と翠、樹の3人はプロヴァンスを後にし、柚は少し緊張しながら時計を見上げた。
「あっ…もうすぐ17時かぁ…」
そう呟いた瞬間、入口のドアのベルがカランコロンと鳴り響いた。
「いらっしゃいませー!」
柚が明るく声をかけると、潮見部屋のおかみさんが静かにお店に入ってきた。
「柚さん、こんにちは」
「おかみさん!いらっしゃいませ!」
柚は緊張しながら頭を下げた。
「和人くんからお話を聞いていました!」
「エスプレッソをいただけるかしら?」
おかみさんは優雅に微笑んで、席に着いた。
「はい、エスプレッソですね!」
柚は急いでオーダーを通し、エスプレッソを準備しながら心を落ち着けた。
「急に二人でお話だなんてごめんなさいね」
とおかみさんは、穏やかな声で言った。
「いえいえ、それで…お話というのは…?」
おかみさんは表情を引き締めながら、話を切り出した。
「佐藤くんのことなんだけど、彼は今幕下で、関取まであと一歩のところにいるの」
「はい…すごく頑張ってますよね!」
「ただ、今、部屋での稽古でも伸び悩んでいるのよ」
「そうだったんですね…」
柚は驚きとともに心配そうにおかみさんを見つめた。
「佐藤くんには今、気分転換が必要だと思うの。ほら、一人で思い詰めちゃうところがあるでしょう?」
「そうですね…和人くん、すごく真面目で努力家ですから…」
おかみさんは深く頷き、少し前に身を乗り出した。
「そこで、柚さん、あなたにお願いしたいの」
「えっ?!私、ですか?!」
「佐藤くんを1日、部屋から連れ出してくれないかしら?」
「はい!それなら…できそうです!」
柚は一瞬驚いたものの、和人のためならと快諾した。おかみさんは微笑みながら話を続けた。
「じつはね、私も今のあなたぐらいの歳の頃、親方とたまにデートに行っていたのよ」
「そ…そうなんですね…」
柚は頬を赤らめながら、照れた様子で返事をする。
「そして親方はその甲斐あって関取になったの。親方にも佐藤くんの気分転換のことは話してあるから大丈夫よ」
「わかりました…どこがいいかなぁ…」
「佐藤くんは中学を出て福岡から入門したでしょ?だから、同年代の力士以外に東京で友だちがあまりいないのよね」
そう言いながら、おかみさんは鞄からなにかを取り出した。
「良かったらこの券を使ってくれない?」
おかみさんが差し出したのは、4枚の「すみだ水族館特別入場券」だった。
「水族館!しかも4枚も…!あっ…ありがとうございます!じゃあ、翠と樹くんと4人で行ってみます!」
「柚さん、ありがとう!よろしくお願いするわね」
おかみさんは、安心したように微笑んだ。
「はい!任せてください!」
「エスプレッソ、美味しかったわ。じゃあ私はこれで…」
おかみさんは会計をしてプロヴァンスを後にした。
「ありがとうございました!」
柚はおかみさんをていねいに見送った。おかみさんが去った後、柚は手にした特別入場券を見つめながら、和人のために何ができるかを考えていた。
その夜、柚は自分の部屋で電話を握りしめていた。おかみさんから頼まれた件が頭に浮かび、緊張しながら和人に電話をかける。
「もしもし、和人くん?柚だけど…」
電話の向こうで緊張した声が返ってくる。
「柚ちゃん、どうしたの?」
「えっとね、今日あの後おかみさんがプロヴァンスに来てお話したんだけど、和人くんを1日連れ出してくれないかって話してたの…」
「えっ、俺を?」
和人の声に驚きが混じる。柚も照れながら話を続ける。
「うん、和人くん、最近すごく頑張ってるからちょっと気分転換をしてほしいって…それで…今度、私と一緒に、すみだ水族館に行かないかなって…」
一瞬の沈黙が流れた後、和人が照れくさそうに笑う声が聞こえた。
「ああ…おかみさんが言っていたような気がするな…水族館か…いいね。俺もリフレッシュしたいと思ってたんだ。柚ちゃんと二人で行くってこと?」
「う、うん…二人でもいいんだけど、今日お店で話した翠と樹くんも一緒に来る予定で…」
「そっか、じゃあ俺、一緒に行ってもいいのかな…?」
和人の声が緊張しているのが伝わってくる。柚も顔が熱くなりながら言った。
「もちろんだよ!その…日程を調整したいんだけど、和人くんはいつが都合いい?」
和人は考え込むような声を出した後、答えた。
「うーん…稽古があるから平日は厳しいかな。でも、日曜日なら行けそうだよ。柚ちゃんはどう?」
「私も日曜日なら大丈夫!じゃあ、次の日曜日でいいかな?」
「うん、次の日曜日なら大丈夫!ありがとう、柚ちゃん」
「ありがとうはこっちだよ、和人くん!おかみさんも言ってたけど、ずっと一生懸命頑張ってるから、リフレッシュしないとね」
和人は照れた様子で笑った。
「いや、照れるなあ。でも、リフレッシュできたらまた頑張れる気がするよ」
「そうだね!じゃあ、次の日曜日、水族館で会おうね!」
「うん、楽しみにしてるよ、柚ちゃん」
二人は照れながらも、楽しいデートの予定を立てて電話を切った。電話を切った後、柚は自分の顔が赤くなっていることに気づいて笑みを浮かべた。柚は受話器をしばらく抱きしめ、水族館のチケットを見つめていた。




