第31話
そして2年の月日が経った。
和人は、序ノ口、序二段、そして三段目と順調に番付を上げていき、現在は幕下力士として潮見部屋で一層厳しい稽古に励んでいる。力士としての自覚も深まり、土俵での動きはますます力強く、確かな実力となってきた。毎日の稽古は辛く、軽い怪我をすることも少なくなかったが、和人は決して挫けることなくその都度乗り越えてきた。
一方の柚も見事に墨田区役所の試験に合格し、希望通り文化観光課に配属されて今は観光協会で研修中の身だ。
和人の幕下力士としての毎日の生活は以前よりもさらに厳しい。次のステップであり、大目標である関取を目指す緊張感が常に和人の胸に重くのしかかっていた。それに和人の後に入ってきた弟弟子たちに背中を見せるという責任もある。
しかし彼の中には、横綱を目指すという強い意志が揺らぐことなく常に根づいていた。
彼は日々の稽古場で何度もそう自分に言い聞かせながら、汗を流し続けていた。
5月の夏場所が始まり、和人は幕下としての緊張感に包まれながらも全力で取組に挑む日々だ。今の星は2勝2敗。明日は中日の日曜日で大事な取組の日だ。和人は潮見部屋の電話を借りて柚に電話をかけていた。
「もしもし、柚ちゃん?俺だけど、元気にしてる?」
和人の緊張した声が電話の向こうから聞こえた。
「和人くん!元気だよ!明日、国技館に応援に行くからね。頑張ってね!」
柚はいつもの明るい声で返事をした。電話口で和人がふっと笑顔になる。
「ありがとう。明日来てくれるって思うと気合が入るよ。今2勝2敗であと3番。結構プレッシャー感じてるけど…」
「そっか、残り3番かぁ…。でも、和人くんなら絶対大丈夫だよ!いつも全力で頑張ってる姿、知ってるから」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ。最近は幕下の厳しさを実感してるけど、明日は勝ちたい。その…柚ちゃんにいいとこ見せたいしさ」
「ふふ、楽しみにしてる!もちろん勝ってくれたら嬉しいけど、私は頑張る和人くんを見に行くの。最後までちゃんと見届けるからね!」
和人の言葉に柚も照れながら笑って答えた。
しばらくの間二人は他愛のない話を続けた。和人は部屋の稽古の様子や最近新しく入ってきた弟弟子の話をし、柚は観光協会での研修のことやプロヴァンスや家族のできごとを少しだけ話した。
「そういえば最近お店にもいろんなお客さんが来て、おもしろい話が聞けるんだよ。和人くんも本場所が終わったらお店に顔を出してほしいな」
「うん、落ち着いたら顔出すよ。プロヴァンスのコーヒーが恋しいな」
「待ってるね。和人くん、明日は本当に楽しみにしてる。勝ち負けも大事だけど、和人くんが頑張ってる姿を見られたらそれだけで私は嬉しいから」
「ありがとう、柚ちゃん。緊張してたけど、楽になった気がする。明日、全力でやるよ」
「うん!頑張ってね!じゃあ、また明日国技館でね!」
「うん、また明日!」
和人は心から感謝の気持ちを込めて電話を切った。
その夜、和人は柚の励ましのお陰で少しだけ心が軽くなり、明日の取組に向けて静かに闘志を燃やしていた。
翌日、柚は友人の翠と樹と一緒に両国国技館へと向かった。和人の取組が行われる日曜日の会場は多くの観客で賑わっており、独特の熱気が漂っている。柚の心は期待と不安でいっぱいだった。
「和人くん、頑張って…」
柚は胸の中でつぶやきながら、席に座った。
取組が始まると次々と力士たちが土俵に上がり、壮絶な一番一番が繰り広げられた。そしてついに和人の四股名が呼ばれる番がきた。今日の和人の対戦相手は信州山。強力な突き押しが得意な力士だと聞いている。信州山は和人も何度も対戦した相手で、対戦成績もほぼ互角だ。
和人が土俵脇から入場してくる。黒いまわしをつけた和人。緊張した顔をしている。
「頑張れー!」
柚は声が少しでも届くようにと、気恥ずかしさも抜きに応援の声を張り上げた。
和人と信州山が鋭い視線で睨み合う。ピリピリとした緊張感が土俵を埋めつくした。そして両者が仕切り線についた。いよいよだ。
行司が土俵の中央で声を響かせる。
「はっけよーい、のこった!」
その瞬間、和人は低く構え全身に力を込めて突進した。彼の気迫は観客席にも伝わってくる。
「うおおーーっ!」
和人は心で叫びながら全力で信州山にぶつかっていく。両力士が激しくぶつかる音が響き、会場全体がその激しさに一瞬静まり返った。
「頑張れーーー!」
柚はさらに声を張り上げる。心臓は高鳴り、手をぎゅっと固く握った。
和人の立ち合いは良好だった。信州山の体にしっかりと当たり、突っ張りを見せながら前に攻め込んでいく。和人の突きは鋭く、何度も相手の胸に打ち込まれている。しかし、信州山も負けてはいない。彼もがっちりと和人を受け止め、徐々に反撃の体勢を整えつつあった。
「うっ…もう…見てられない…」
柚は手で顔を覆い、指の隙間から和人を見守る。
和人は必死に前へ出ようとする。自分の体重を相手に預け、相手を押し出すことができるか、ほんの数秒が決定的な瞬間になることは分かっていた。彼は信州山を土俵際まで追い詰めようとするが、次の瞬間、信州山が素早く和人をかわして、鋭くはたきこみを繰り出した。
「えっ!?あっ!」
柚は驚きと焦りで思わず声を漏らす。和人の体勢が崩れ、バランスを失った瞬間、彼の手が土俵についた。彼はすぐに立ち上がるが、悔しさが表情ににじみ出ている。
「しんしゅう~やま~」
行司が勝ち名乗りを上げる。
和人は土俵で一礼し、淡々とした表情で相手に向かって頭を下げた。しかしその目には敗戦の悔しさがはっきりと見て取れた。序盤は優勢だった、信州山は勝てた相手だったのに‥
「和人くん…」
柚は小さな声で呟きながら、その姿を見つめていた。
和人にとってこの敗戦は大きな痛手だった。勝ち越しを目指していた矢先の敗北。だが彼は土俵を下りる際、涙や苛立ちを抑え、自分に言い聞かせるように深呼吸をしながら一歩一歩を踏みしめた。力士としての誇りは負けた後こそ示されるべきだと和人は思っていた。
観客席で悔しさに涙を堪えていた柚は、悔しそうに肩を落とす和人の姿を目に焼きつけた。




