第30話
打ち合わせが終わった後もプロヴァンスには和やかな空気が流れていた。柚はほっと一息ついてから春風と和人に近づいて話し始めた。
「すごいね、こんな近くであんな真剣な話が聞けるなんて。いろいろ勉強になるなぁ。私もあんなふうに働けるかな」
春風は微笑みながら、ふと思い出したように話を切り出した。
「そういえばオレのいとこで公務員になったやつがいるんだけど、そいつは高校3年の秋か冬に試験に受かって卒業してすぐに公務員になったんだ」
「そうなんですか!高校を出てすぐに公務員に?すごいなぁ!」
と柚は驚きの声をあげる。
「大学に行くより早く働きたいって言って、いろいろ考えたらしいよ。安定した職業に就きたかったんだってさ」
「なるほど…たしかに、すぐ働けるならそれもいいですよね」
柚は少し考え込むように答えた。
「いろんな人がいるよね」
和人が静かに言う。
「でも和人くんたちも中学校を出てすぐ相撲界に入ったじゃない!それもすごいことだよ!決断力も覚悟も必要だし」
「相撲界はちょっと特殊だけどね」
和人は照れくさそうに言う。
「たしかに、一般の人にはない選択かもな」
春風や他の力士たちも頷いた。
「それでも、ほんとにすごいことだと思うよ!」
柚は真剣に二人を見つめた。その言葉に和人は照れた表情をしながら話した。
「柚ちゃんも将来のことを考えてるんだね。俺たちの世界は特殊だけど、柚ちゃんにはいろいろ選択肢があるからね」
「そうなの…。進学するか、それとも家業を手伝うか、ずっと悩んでてね。でも、今はどっちが自分に合ってるのか分からないままで…和人くん、話を聞いてくれる?」
柚は素直な気持ちを口にした。
「じゃあ、ちょっとこのあとそこの公園で話さない?気分転換にもなるし」
和人は驚きながらも、すぐに頷いた。
「わかった。そこの公園だね。今お店も落ち着いてるし、お姉ちゃんたちに言ってから行くから先に行って待っててくれる?」
「うん。わかった」
数分後柚は公園に着いて、ベンチに座って待っている和人を見つけた。息を整えてから笑顔で声をかけた。
「和人くん!お待たせ!」
「柚ちゃん!お疲れ様!」
柚はベンチに座りながら、恥ずかしそうに言った。
「ごめん、なんか目立っちゃったね…」
「大丈夫だよ」
二人はしばらく静かに景色を見つめていたが、柚は意を決して話し始めた。
「あのね…進路のことで…ちょっと話を聞いてほしくて」
「うん。聞かせて」
柚は深呼吸をしてから、和人に向き直った。
「私、将来はこの街のために役に立ちたいんだ。この両国って町が大好きだから。でも高校を卒業してからどうしようか、ずっと悩んでて…」
和人は真剣な顔で頷きながら聞いていた。
「うん、一生懸命だね」
柚は俯きながら続けた。
「みんな私の周りは大学に進学しようって思ってて、私だけ取り残されてるみたいな気持ちになっちゃうんだ。どうしたらいいのかな…」
「大学に行く人が多いから、迷うよね」
柚は下を向きながら話を続ける。
「うん。お店のために大学で経営学とか学ぶのもいいかなとも思うんだけど…」
「へぇ~、すごいね」
「和人くんは進学するのと相撲界に入るのと迷わなかったの?」
和人は少し考えてから答えた。中学三年の夏に親方が福岡の実家にスカウトに来てくれたことが昨日のように思い出される。
「そうだな。迷ったけど、親方が福岡まで来てくれて、君には相撲の素質があるって言われたんだ。この人についていきたいって思ってね」
柚は驚きながらも笑顔で応じる。
「そうなんだ。もう魂に響いちゃったんだね」
「うん。そうだね」
二人はしばらく笑いあっていたが、柚の表情が真剣に戻る。
「私、やっぱりすぐに働きたい。この街の力になりたい」
和人は静かに頷きながら、優しく言った。
「そうなんだ。でも、選択を急ぐことはないよ。ゆっくり考えればいい」
「和人くん、ありがとう。話してよかった。心が軽くなった気がする」
「それは良かった。俺もこの街好きだよ」
柚はふと思い出しながら言葉を続けた。
「今日、お店に来てたお客さんたちの話を聞いてて、私もあんなふうにこの街のために働きたいって思ったんだ」
「うんうん。たしかに、なんか輝いていたよね。相撲と街のために何をしたらいいか…何をしようかって一生懸命で」
「そう。すごく真剣に相撲や両国のために話し合ってたでしょ?なんだか、かっこよかった」
「そうだね。きっと多くの人に喜んでもらえるように頑張ってるんだよ」
「うん!和人くんも、もちろん横綱を目指すんだよね?」
「もちろん。もっとたくさん稽古しなきゃ」
柚はふと笑みを浮かべながら、少し照れた表情で言った。
「和人くん、強くなったらつき合ってって言った約束、覚えてる?」
和人も照れくさそうに笑った。
「もちろん、忘れてないよ」
柚は顔を赤らめながら言った。
「私、ずっと待ってるから」
「柚ちゃん…!!俺、もっと頑張るからね!」
「うん、一緒に頑張ろう!和人くんと一緒だったら私も頑張れる!」
和人も顔を赤くしながら返す。
「そっか、俺とだったら…柚ちゃんも頑張れるんだね」
「ん?あっ…いやっ、その…」
二人とも顔が赤くなり、お互いに気まずそうに見つめあった後、柚が急いで話題を変えた。
「そ、そろそろお店に戻らないと!お客さんが待ってるかも!」
「そ、そうだよね。柚ちゃん、お店の方に戻らなきゃ」
二人は立ち上がり、軽く手を振って別れた。
「和人くん、またね!」
「うん。柚ちゃん、またね」
その日の出来事は柚にとって大きな転機となった。お店での浜田さんと伊藤さんの打ち合わせの会話や、和人との公園での話と時間が心に響き、彼女は自分の進むべき道についてようやく一つの方向性を見出すことができたのだ。
夜、柚は親友の翠に電話をかけた。いつものように元気な声で翠が電話に出た。
「もしもし、翠?」
「柚ちゃん、なんか声が弾んでるね。何かあったの?」
「うん、実は家族と進路のことについて話せたんだ」
「そう!それは良かったねぇ!」
柚は電話越しに笑いながら続ける。
「ありがとう。すごくほっとしたよ。それで、夏期講習のことなんだけど…今回はやめとこうと思ってさ」
「えっ、そうなんだ。なにかあったの?」
「うん。高3の秋か冬かな?墨田区役所の試験を受けてみようかなって思ってるんだ。やっぱりすぐに両国に関わりたくて」
「おお、すぐ働くんだ!それもいいね。でも、公務員試験って難しいんじゃない?」
「うん。だから勉強はしっかりしなきゃと思ってるんだけどね」
翠は少し考えた後に尋ねる。
「面接とか作文とかもあるんじゃない?大丈夫そう?」
「どうだろう…まだ詳しくは調べてないんだけど、どんな試験でも頑張るよ!」
柚の決意が電話越しにも伝わってきて、翠も力強く応援する。
「そうだね、私たちも頑張らないと!一生懸命やれば、きっと道は開けるよ」
「うん、ありがとう!一緒に頑張ろう!」
柚は漠然とした夢が、少しずつ形を帯びてきたことを感じていた。
これまでは、将来についてはっきりとしたビジョンがなく、家業を手伝うのか、それとも違う道を歩むのか迷ってばかりだった。しかしこの夏、家族との話し合い、和人との会話、そしてプロヴァンスで出会った人々とのふれ合いが、彼女に新しい道を示してくれた。
「両国の街のために役立ちたい」という想い。それはもう曖昧な夢ではなく、具体的な目標へと変わりつつあった。区役所の試験を受け、公務員としてこの町に貢献する。それが柚の選んだ道だ。
星の光で輝く両国の街を見ながら、柚は決意を新たにした。
「この両国で私も何かを築いていける。夢に向かって一歩ずつ進んでいこう」
漠然としていた夢はしっかりとした目標に変わり、柚の心は希望で満たされていた。




