第20話
名古屋場所、初日の日は快晴だった。愛知・IGアリーナの前にはすでに大勢の観客が列をなしており、和人はその光景に胸の奥がざわつくのを感じた。
――本当に、自分がここに立っているんだな。
支度部屋の空気は想像以上に張り詰めていた。周囲には力士たちが黙々と準備を進めている。床山さんが手早く髷を整えてくれた後、和人は新調されたまわしを締め、鏡の前でひとつ深呼吸をした。
「落ち着け。やることは教習所でやってきた通りだ」
自分にそう言い聞かせながらふと手元に視線を落とす。指の関節には硬くなった皮があり、胸の奥で毎日の厳しい稽古が思い出される。
「行ってこい。堂々とな」
そう言って背中を軽く叩いたのは、青の海だった。和人は強く頷いた。
土俵に上がると、そこには思っていた以上の静けさがあった。見上げる天井の高さ、まわりの視線、拍手。すべてが現実離れしているようで、どこか夢の中のようだった。
――勝っても、負けても、これが始まりなんだ。
和人の名古屋場所の成績は4勝3敗だった。内容は特筆すべきものではない。真正面からぶつかり、押し、投げ、そして転がされた。それでも堂々と取り切った。それが和人の中では何より誇らしかった。
和人の最後の取組が終わり支度部屋に戻ると、親方が一言だけ和人に声をかけた。
「立派だった」
それだけだったが胸の奥にじわりと熱いものが広がった。和人は深く一礼し、静かに答えた。
「ありがとうございました」
こうして佐藤和人の力士人生が本格的に始まった。勝ちもあれば負けもある。けれど――この一歩は確かに和人の胸に刻まれたのだった。
名古屋場所を終えた翌朝、和人は誰よりも早く稽古場に姿を見せていた。薄暗い稽古場に差し込む朝日が畳の上に長く影を落としている。まだ誰もいない土俵の中央に立ち、和人はゆっくりと四股を踏んだ。
体には本場所の疲労が確かに残っていた。ぶつかり稽古の痣も、取組で作った擦り傷もまだ癒えてはいない。けれどそれ以上に、和人の中には新たな焦燥と覚悟が芽生えていた。
――このままじゃだめだ。番付に名前が載っただけで満足するわけにはいかない。
教習所では「真面目だ」「実直だ」と言われてきたが、土俵の上ではそれだけでは通用しない。勝てなければ誰も評価などしてくれない。
その日から和人は稽古にこれまで以上の熱を注ぎ込んだ。兄弟子にぶつかり稽古を申し出ては何度も何度も突っ込んでいき、息も絶え絶えになるまで土俵を離れようとはしなかった。時には立ち合いで頭がぶつかり目の前が真っ白になることもあったが、それでも構わずに取り組み続けた。
「佐藤、稽古熱心なのはいいが、力任せじゃない。頭を使え」
そう指導された日には風呂場でもノートを取り出し、自分の取り口を反省し、改善点を列挙していた。汗と土の匂いが染みついたそのノートには、誰にも見せない和人の覚悟が詰まっていた。
9月の秋場所も終わり、10月のある日稽古がひと段落した頃、親方が稽古場の隅から腕を組んだまま近づいてきた。
「佐藤」
その一言に、和人は背筋を伸ばし、反射的に頭を下げた。
「はい!」
親方はしばし沈黙したあと、組んだ腕を解きながら言った。
「これまでお前の相撲は確かに堂々としていた。だが通過点だ。勝ち越してこそ力士の名に値する」
和人は黙って頷いた。
「次は――九州場所だ」
その言葉に和人の心が一気に熱を帯びた。いよいよ生まれ育った福岡での本場所だ。
「九州場所で一つでも多く白星を上げろ。勝って自信をつけろ。勝って部屋の名を背負え」
親方の声がずしりと重く腹の底に響いた。
「気合を入れていけ。自分に勝てない奴は誰にも勝てん」
「はいっ!」
和人の返事はいつもより大きく強かった。
額から汗が滴り落ちる。けれどそれはただの汗ではない。和人の中で力士としての自覚が確実に育ち始めていた。
その夜、和人は部屋の電話を借りて実家の両親に電話をかけていた。受話器を握りしめる手には緊張が混じっていた。部屋に入門しておかみさんから週に一回は実家に電話をするようにとアドバイスされて頻繁に電話を入れていたが、今夜の電話はいつもと違う。
電話がつながると和人の母親の声が聞こえてきた。
「もしもし。佐藤です」
「母さん。和人だよ」
「あら、和人!」
「母さん。ちょっと話したいことがあってさ…」
「…どうしたの?何かあった?」
和人は言葉を選びながらも、ゆっくりと切り出した。
「次の九州場所、俺頑張るから」
電話の向こうで母が驚いている様子が感じられた。しばらく沈黙が続いた後、ようやく母の声が返ってきた。
「うん。応援に行くから、頑張ってね」
「ありがとう…これからが本当の勝負だからさ。初めての九州場所…ちょっと緊張するよ」
「そうね…。ちょっと待って、お父さんが和人と話したいって待ってるから、かわるね」
そして父親の声も聞こえてきた。
「和人か?5月の初土俵は行けなかったけど、すごかったじゃないか」
「うん、次は福岡での本場所だから、絶対に負けられないって思ってる」
父は誇らしげに声を張り上げた。
「和人、しっかりと自分を信じて相撲を取れ!お前ならできる。ずっと応援してるからな!」
和人は受話器越しに両親の言葉を聞き、胸が熱くなった。今までずっと支えてくれた家族の存在が自分の原動力、糧になっている。
「ありがとう。頑張るよ。福岡での相撲、しっかり見ていて」
「もちろん、絶対に応援に行くからね!」
父の後ろにいるのか、遠くで母が嬉しそうに答えた。
「和人、体には気をつけろよ。怪我だけはするな」
「うん、気をつけるよ。ありがとう、母さん、父さん。それじゃ、またね」
電話を切った後、和人はしばらくその場で静かに目を閉じ、深呼吸をした。両親の声を聞いたことで気持ちがさらに引き締まった。九州場所が近づいている。




