錆びた警笛
煙草の煙の匂いと、始発列車の錆びた警笛の音。それを、俺は今でも時折思い出す。
あれは、8年前の冬の夜だった。凍てついた雨がネオンを滲ませ、路地裏の闇を一層深くしていた。銃声が三発。俺は咄嗟に身を隠した。ドブの臭いと硝煙が混じり合う中、壁に凭れて崩れ落ちる男がいた。黒いロングコートの襟からのぞく首筋が、妙に白く目に焼き付いた。追っ手であろう男たちの足音が近づく。何故かは分からない。ただ、この男を消させるわけにはいかない、そう直感的に思った。俺は空き瓶を奥の暗がりに投げつけた。ガラスの砕ける音に男たちが気を取られた一瞬。俺はコートの男の腕を引き、非常階段の裏まで引きずり込んだ。男は苦しげに息をしながら、震える手でポケットから煙草を取り出し、火をつけた。紫煙が、湿った闇に白く溶けていく。
「……助かった」
掠れた、低い声だった。そして、強く香る煙草の匂い。暗闇で顔は見えない。だが、月明かりに一瞬照らされた瞳が、ギラリと鈍い光を放ったのを俺は見逃さなかった。まるで、飢えた獣のような、それでいて全てを諦めたような光。男は礼を言うでもなく、俺の肩を強く掴んだ。
「借り、だな」
そう言い残し、男は闇へと消えた。後には、微かな硝煙と吸い殻の匂いだけが残った。遠くで、始発列車だろうか、錆びた警笛の音が聞こえた気がした。
それから8年。俺はあの夜の男を追い続けていた。名前も顔も知らない。ただ、あの獣のような瞳と煙草の匂いだけが、俺を過去に縛り付けていた。
「またその話か。いい加減、昔の男の幻影を追いかけるのはやめたらどうだ」
カウンターの向こうで、相沢がグラスを磨きながら退屈そうに言った。相沢は、俺が根城にしているこのバーのマスターだ。無駄口が多く、皮肉屋で、俺の気に障ることばかり言う。正直、好きではないタイプの男だった。
「幻影じゃねえ。確かにいたんだ」
「いたとして、今更どうするんだ?思い出話に花を咲かせるのか?あんたに似合わないな」
相沢はそう言うと、俺の前にバーボンを置いた。琥珀色の液体が、安っぽい照明を反射している。こいつの作る酒は、不思議と美味かった。それだけが、俺がこの店に通い続ける理由だった。相沢とは腐れ縁だ。この街に流れ着いてから、何かと顔を合わせる。情報屋を気取っているのか、裏社会の面倒事に首を突っ込んでは、時折俺に厄介事を持ち込んできた。その度に俺は舌打ちしながらも、結局は手を貸してしまう。
「それより、例のブツの件、少しは進んだのか?」
相沢が声を潜める。今俺が追っているのは、とある組織から盗まれたディスクだ。
「まだだ。尻尾すら掴めん」
「そうか……。まあ、深入りはするなよ。今回の相手は少し厄介だ」
そう言う相沢の目が、一瞬だけ鋭く光った。いつも飄々としているこいつが時折見せる、油断ならない光。俺はその光が、どうしようもなく気に食わなかった。
事態が動いたのは、その三日後の夜だった。ディスクの隠し場所を突き止めた俺は、廃倉庫の埠頭にいた。しかし、それは罠だった。四方から現れる、黒服の男たち。完全に包囲されていた。
「ここまでか……」
銃を構え、自嘲気味に呟いたその時だった。背後で銃声が二つ。俺を狙っていた男たちが、声もなく倒れる。振り返ると、そこに立っていたのは──相沢だった。いつも着ているバーテンダーのベストではなく、黒いレザージャケットを羽織っている。その手には、見慣れない黒光りする拳銃が握られていた。
「言っただろ、今回は厄介だって。少しは俺の忠告を聞くもんだな」
口調はいつもの相沢だ。だが、その佇まいは、俺の知っている男ではなかった。銃の構え方、敵の気配を探る視線の動き。それは、修羅場をくぐり抜けてきた者のそれだった。混乱する俺を庇うように、相沢は正確な射撃で次々と敵を無力化していく。そして、最後のひとりを片付けた後、月明かりが倉庫の窓から差し込んだ。逆光の中に立つ相沢。その瞳が、ギラリと光った。
──あの夜と同じ光だった。
血の気が引いていく。呼吸が浅くなる。嘘だろ。こいつが?俺が8年間、追い求め続けたあの男が、ずっと俺の傍にいた、この気に食わない男だったというのか?
「……あんた、だったのか」
声が震えた。相沢は答えなかった。ただ、静かに銃口から立ち上る硝煙を吹き消すと、ゆっくりと俺に向き直った。その顔には、いつもの人を食ったような笑みはなかった。
「忘れちまった方が、あんたのためだと思ったんだがな」
その声は、8年前に聞いた掠れた声と、寸分違わず重なっていた。
その夜、俺たちは相沢の店で、言葉もなく酒を飲んだ。カウンターには俺たち二人だけ。BGMも止まった静寂の中で、氷がグラスの壁に当たる音だけが響いていた。先に口を開いたのは俺の方だった。
「なぜ、黙っていた」
「言ったところで、どうなる?あんたが追っていたのは、硝煙と煙草に塗れた一夜の幻だ。俺じゃない」
相沢はバーボンを呷り、静かに続けた。
「俺はあの夜、全てを捨てて死んだことにした。相沢という男は、その抜け殻だ」
抜け殻、か。だからこいつは、どこか虚ろで、俺を苛立たせたのかもしれない。グラスを置き、俺は相沢の胸ぐらを掴んだ。抵抗はなかった。間近で見るその瞳は、やはりあの夜の光を宿している。俺はこの光に、8年間も焦がれてきた。
「ふざけるな……」
それ以上、言葉は続かなかった。俺は相沢の唇を、乱暴に塞いでいた。それは、甘さなど微塵もない、互いの孤独を確かめ合うようなキスだった。相沢は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがてゆっくりと目を閉じ、俺の背中に腕を回した。
その夜、俺たちは体を重ねた。求め合いながらも、決して心は交わらない。俺が抱いているのは、相沢という男なのか、それとも8年前の幻影なのか。相沢が俺を受け入れているのは、過去への贖罪なのか、それともただの気まgれか。答えなど、どこにもなかった。ただ、互いの肌の温もりだけが、そこにある唯一の真実だった。
それから、奇妙な日々が続いた。昼間は今まで通り、バーテンダーと客。夜になると、俺たちは言葉少なに体を重ねた。相沢の過去を俺は聞かなかったし、相沢も俺に何も語ろうとはしなかった。錆びた月のような、不確かで、欠けたままの関係。だが、不思議と心地よかった。長年俺を苛んでいた渇きが、少しずつ癒えていくのを感じていた。
季節が一つ、巡った。街路樹が色づき始めた、ある晴れた日の朝。隣で眠る相沢の寝顔を、俺は静かに見つめていた。陽の光の中では、彼はただの穏やかな顔をした男にしか見えない。あの獣のような瞳は、今は固く閉じられている。ふと、思った。俺が追いかけていたものは、何だったのだろうか。衝撃的な出会い。煙草と硝煙の匂い。暗闇に光る瞳。それは確かに俺の心を捉えて離さなかった。だが、俺はそれを追いかけることで、前に進むことから逃げていただけなのかもしれない。過去という名の牢獄に、自ら囚われていただけなのかもしれない。相沢と出会い、彼が幻影の男だと知り、そして体を重ねた。渇きは癒えた。だが、それは俺が求めていたものだったのか?
──違う。
俺は、幻影を清算したかっただけだ。そして、その幻影はもう、ここにはない。目の前にいるのは、相沢という一人の男だ。俺が好きではなかった、皮肉屋で、それでいて不器用な男。俺は静かにベッドを抜け出した。床に散らばった自分の服を拾い集め、音を立てずに身に着ける。相沢のジャケットが、椅子に無造作にかけられていた。そのポケットから、くしゃくしゃになった煙草を一本抜き取り、火をつけた。紫煙をゆっくりと吐き出す。あの夜と同じ匂いだ。もう、この街に用はない。
借り、だな──。
8年前の夜、男はそう言った。そして今度は、俺が借りを返す番だ。あんたが俺を過去の幻影から解き放ってくれたように、俺もあんたを俺という執着から解放してやる。一口だけ吸った煙草を灰皿にもみ消し、俺は部屋の鍵をテーブルの上に置いた。振り返りはしない。「さよなら」も言わない。あの夜、あの男が闇に消えていったように。今度は俺が、この男の前から去っていくのだ。ドアを開け、朝の光の中へと一歩踏み出す。背後で、相沢が小さく身じろぎしたような気がしただが、俺は足を止めなかった。始発列車の錆びた警笛が、遠くで鳴り響いていた。あの夜と同じ音だった。