212話 頼朝からの書・弁慶の最期
ブラック企業で過労死寸前だった俺(赤星勇馬)。
通勤途中で猫を助けようとして命を落とした――その結果、神様から授かったのは「スマホが使える」というチート能力。
転生先は、なんと壇ノ浦で入水する直前の安徳天皇!?
優雅な平安貴族の暮らしを味わいつつ、同時に目にするのは、当時の庶民が背負う悲惨な現実。
「二度目の死だけは、絶対に避けたい!」
ブラック企業よりはマシなこの世界で、俺は未来知識と努力を武器に全力で生き抜いてやる――!
1189年(文治5年)
春は、まだ遠かった。
雪解けの雫が軒をつたう頃、奥州平泉の館には、ひとりの使者が現れた。
その顔は凍りついたように硬い。
その手が差し出したものは、見覚えのある筆跡。
間違いなく兄頼朝の書状だった。
「……鎌倉殿よりの御文にございます」
使者の声は震えていた。
泰衡は静かに受け取り、封を切る。
私・義経は国衡と一緒に、その様子を見つめていた。
墨のにおい。
その筆跡は冷たく、刃のようだった。
泰衡は読み上げた。
「義経追討宣旨 —文治五年三月二十八日—」
宣旨曰く。
源義経、叛逆を謀り、勅命を仮りて逆心を起こす。
朕、これを憂い、天下の乱を恐る。
よって、鎌倉殿・源頼朝に命ず。
義経を追捕し、その罪を糾すべし。
これを匿うものは、皆、朝敵と同罪に処す。
奥州の地において、義経およびこれに与する者を討ち、
平安の政を正すべし。
文治五年三月二十八日
右大臣 源頼朝に下す
後白河院御宣
宣下を受けて、藤原泰衡に告ぐ。
義経を捕らえ、鎌倉へ連行せよ 右大臣 源頼朝」
――――――沈黙。
ただ、火鉢の炭がぱちりと弾けた音だけが響いた。
長い沈黙を破ったのは、泰衡の手が激しく震え、手紙を落とした音だった。
泰衡は、尋常ではなかった。ガタガタ震えて、ぶつぶつ独り言を放った。
「……後白河法皇が、……頼朝公に義経を捕らえよと言ってる……
匿う者も同罪にすると言っている……」
国衡が急に高く笑った。乾いた、ひび割れた笑いだった。
「見ろよ、弟! 父上の誓文なんざ、紙切れ一枚だ。
頼朝の筆ひとつで、俺たちは逆賊だとよ! はっはっは。可笑しいや」
私は叫んだ。
「やめろ、国衡!」
「兄、頼朝が何を言おうと、我らは朝敵ではない。
私、義経は法皇様の御勅命を受け、検非違使として務めた身だ!」
「だが、その後白河法皇が義経の追捕を頼朝公に宣下している!」
国衡が私を睨む。
「お前が都で何をしたか、俺たちは知ってる。
鎌倉の侍たちに武功をあげさせず、手柄をひとり占めした。
安徳天皇を殺し、三種の神器の太刀を失くした。
宗盛父子を連れ、法皇の前で勝利を誇った。
鎌倉の頼朝を顧みず、平家に代わって京で奢った。
平家の娘を兄に内緒で妾にした。
数々の不祥事で頼朝が怒ったんだろうが!」
私は一歩踏み出す。
「怒りで人を討つなど、正道ではない!」
「正道? そんなもの、戦の世にあるか!」
国衡が膝をバシッと叩いた。
「いいか義経、ここは奥州だ。
鎌倉に逆らえば、我らは皆、焼かれる。
お前を庇えば、俺たちの家も、民も、滅びるんだ!
輝く金色堂もな!」
泰衡は黙って二人を交互に見つめていた。
その目の下には深いクマ。
眠れぬ夜が続いているという。
泰衡が口を開く。
「……義経殿」
「父上の遺言に背くのは、私も本意ではない。
だが、鎌倉はもう赦さぬだろう。
頼朝の兵は陸奥の関を越えたと聞く。
……このままでは、奥州が炎に包まれる」
私はその言葉を聞き、唇を結んだ。
「……逃げろというのか」
「どうか……都へ戻るか、北へ逃れてくれ」
泰衡の声は震えていた。
「この地でお守りできぬのだ……兄上も、私も……!」
「いやだね」
国衡が吐き捨てるように言う。
「逃げても同じだ。鎌倉の目は逃れられねぇ。いっそここで……討ち取るか?」
国衡は立ち上がり、刀に手をかけた。
私も座ったまま、刀に手をかけた。
「……これが父上の願いか?」
国衡とは、何度も手合わせしている。
ほんの二手で袈裟懸けに斬りこむ自信がある。
国衡の手が震えるのを見て、私は静かに笑った。
「分かっている。斬らないよ。
だが、あんたたちの父上が命を懸けて繋いだ誓いは、ここで終わる。
私はあんたらの主君ではない!」
私は立ち上がった。
鞘鳴りが、冷たく響く。
「頼朝の兵が到着する前に、ここを出る。
泰衡殿、国衡殿。 ……最後の頼みだ。
それまで、妻子とともに衣川館で俺を匿ってくれ」
国衡が上を向いて呟いた。
「……父上。やっぱり俺たちには、同じ空は見えなかったよ」
その夜、再び雪が降った。
奥州の春は遅い。
◆◆◆
1989年 文治5年 4月30日(5月30日頃)
春の雪が、まだ大地を覆っていた。
私、義経の隠れ館――衣川の館。
風が軒を鳴らし、山鳥の声さえ凍りつくような静けさが流れている。
「……来たか」
私は障子の向こうの気配に、目を細めた。
遠くから、太鼓の音が近づいてくる。
――ドン、ドン、ドン……。
「若様、泰衡の軍です」
弁慶は視察の者の言葉を伝える。
泰衡の軍が、ついに我が衣川館を包囲した。
「弁慶、ありがとう。最後の仕事を頼む」
弁慶が微かに笑う。
その頬は紅を失い、手は氷のように冷たい。
「若様……最期まで、弁慶は若様の楯でございまする」
私はうなずいた。
背後には妻の郷と娘の桜子。
外から怒号が上がる。
「門を開けよ! 鎌倉殿の命により、義経を討つ!」
――泰衡の声ではなかった。
叫んでいたのは、兄・国衡だった。
泰衡の軍を国衡が率いている。
予定通りだ。
「義経! 父上の誓文を裏切ったのはお前だ!
お前のせいで、奥州は焼かれる! 出てこい!」
国衡が叫ぶ。
兵士たちも叫ぶ。
「「義経、出てこい! 門を開けよ」」
私は門を静かに見つめた。
弁慶が叫ぶ。
「義経は先ほど妻子を殺した。そして、今まさに館に火をつけて腹を切ろうとしている。侍の最期、誰も邪魔することはできない」
その声は、怒りよりも、悲しみに満ちていた。
私は蝋燭の火で、布団に館に火をつけた。
畳の上に横たわった兵十の衣にも火をつけた。
弁慶が刀を抜く。そして叫ぶ。
「義経さまぁあああ!!! 時は参りましたぁぁぁぁ!!」
門扉が開く。
冷気が一気に流れ込み、白い雪が舞い込んだ。
そこには、千を超える兵が槍を構えていた。
最初の矢が放たれる。
ヒュウッ――!
それを弁慶が叩き落とした。
「無礼者がァァァァ!」
咆哮とともに、巨体が突っ込む。
長刀が唸り、敵の首が舞う。
血と雪が混ざり、地を染めた。
「来るなッ! 来るな、化け物!」
叫びながらも兵たちは……退けない。後ろに兵が詰まっているからだ。
国衡の号令が飛ぶ。
「射よ! 一斉に射よ!」
――ヒュルヒュル
――ヒュルヒュル
弓が鳴り、矢が雨のように降る。
弁慶の体に一本、また一本と突き刺さる。
だが、巨体は倒れない。
まるで大地そのものが立っているかのように。
「若様……まだ、戦えまする……!」
私を振り向いた瞬間、弁慶は微笑んだ。
「先に……参りまする」
そのまま――立ったまま、動かなくなった。
矢に貫かれた巨体は、なおも剣を握りしめたまま。
ーー弁慶の立往生だった。
「弁慶、これまでありがとう」
私は、涙がこぼれないように上を向いた。
まだまだ修行中の さとちゃんペッ! です。
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