死という一文字の肯定
死というものを肯定すべきか、或いは否定すべきなのか、そんなものは赤は赤であるかを論じるようなものであり、クオリアに従うままに定めれば良い。ただ、一文字の死というものを肯定すべきだという事でしかない。
その表象を嫌悪するあまりに、内側まで到達してはいないのだろうか。問いかける事さえ出来ない程には遠いものとなりつつあるが、依然としてそれは貴方の肩に手を掛けていると言えるのだろう。
直喩の否定は、その重さを忘れゆくものでは無いだろうか。量れぬものを量ろうとすること、量ろうともしない事に、結果として差違は無かったと言えど、少なくともその重さを知る意思は存在するだろう。
文字を綴り、その未来に筆者は生きていると言えるのだろうか。時間の隔たりにより、例え自分自身で在ろうとも、その痕跡は嘗て生きていた自分自身のものでしかない。現代において過去は死者であり、未来において現代は死者であるというだけ。
既に死した自身から本を受け取り、今まさに文字を記しているのだろう。何れ死に行き、未来の自身へと繋ぐために。そして、永くも短い物語を完成に導いている。
死を見たくないのならば、死を甘受する以外に無いだろうな。どれだけ眼を逸らそうと死は依然として貴方に寄り添うだろう。ただ、その理解を遠ざけるのみであり、それは更なる恐れとして立ち塞がるだけだ。
唯一の白など妄言であり、必ずしも生を肯定するものでも無い事は知っている筈だ。それでも尚、理解したくない者は多いのだろう。だからこそ、余りにも無意味な直喩の否定へと至ってしまった。
死というものを肯定すべきか、或いは否定すべきなのか。それを論じている時点で意味は無い。各々に寄り添う死について、それを理解するよう努めることにより、それを受け入れるように成るのではないだろうか。
そして、その始まりこそが、一文字の死というものを肯定すべきだという事でしかない。